幾つかの名作を読み返すと、自惚れはたんに悪役の性格付けだけでなく、物語の推進力や倫理的問いかけとして巧妙に描かれているのがよく分かる。僕は特に登場人物の内面描写に注目するタイプで、そこから作者が自惚れをどう扱っているかが見えてくる気がする。たとえば古典では、主人公や反英雄の“自分は特別だ”という確信が破滅へとつながる典型が目につく。ロシア文学の代表作『罪と罰』における理論と行動のギャップや、『
白鯨』のエイハブ船長が示す自然に対する過剰な挑戦心は、傲慢さが倫理的・物理的な代償を招くという古典的なテーマを雄弁に語っている。
一方で一部の作品では、自惚れが共感や悲哀を生むこともある。『
高慢と偏見』ではプライドと偏見が恋愛と誤解を生む源になり、登場人物たちが互いに成長するための障害ともなる。ここでは自惚れそのものが単純な悪ではなく、人間関係を動かす力として機能している。僕はこうした描写が好きで、作者がいかにしてキャラクターの誤った自己認識を段階的に暴いていくかを見るのが面白いと感じる。
マンガや現代の物語表現では、視覚表現と物語構成が相まって自惚れをよりダイナミックに見せる傾向がある。『デスノート』のライトは自らを“新世界の神”と位置づけることで次第に孤立し、精神の崩壊へと向かう。コマ割りや表情の誇張、モノローグで内面の膨張と締め付けが同時に提示される点が効果的だ。『ベルセルク』のグリフィスは野心と自尊心が物語の転換点になり、倫理的選択の重さが読者に突きつけられる。視覚的な変化(外見やシンボルの描写)がキャラクターの内的変容を直感的に示すのもマンガ独特の力量だ。
結局のところ、自惚れの描写はその作品が問いかける価値観やジャンルによって変わる。悲劇的・警鐘的に扱うか、成長や和解のドラマに転化するか、あるいは滑稽さやブラックユーモアに落とし込むか。僕が作品を楽しむ理由の一つは、同じ“自惚れ”というテーマでも表現の幅が広く、登場人物を通して人間の弱さや矛盾を多角的に見せてくれるところだ。