気づかせないまま離婚届に署名させる
私は九条航介(くじょう こうすけ)と結婚して三年になる。
彼はフォーブス世界長者番付のトップ十に名を連ねる大富豪でありながら、私は誰にも知られることのない、彼の「隠された妻」である同時に、大学を卒業間近の、ただの女子大生だ。
「九条家の妻」という肩書きなど重要ではない、と私は自分に言い聞かせてきた。
彼が私を愛してくれるのなら、世間に公表されようがされまいが構わないのだと。
けれど――彼の幼なじみが帰国したそのとき、私はようやく気づいてしまった。
私たちの婚姻を繋ぎとめているのは、ただ一枚の戸籍謄本だけ。
情と呼べるものは、もしかすると私の一方的な思い込みだったのかもしれない。
だから私は、離婚届を用意した。
それを学校の提出書類に見せかけ、彼は何も知らずに署名をさせた。
彼が無造作にペンを走らせたその瞬間、私たちの婚姻関係は終わりを告げたのだ。
書類に対して彼が払った無関心――それはそのまま、私たちの三年間の結婚生活を映し出していた。
心がこもらない、形だけの関係。
愛がないのなら、私は自分の自由を取り戻す。
離婚届が受理されたそのとき、私は解き放たれた。
ただの自由だけではない。私の中には、まだ生まれていない命――航介の子どもが宿っていたのだ。
しかし、私がすべてを置いて、彼の手が届かない場所へと消え去ったあとで、ようやく彼は気づく。
自分が失ったものの大きさに――愛する人と、自らの血を継ぐ後継者を。
そして再び私を見つけ出した彼は、復縁を懇願する。
けれどそのときの私は、もうかつての私ではなかった。
恋だけを生きる未熟な少女ではなく、自分自身の仕事を持つ自立した女性へと生まれ変わっていたのだから。
彼は願う。私の愛を、私の振り向きを――祈るように。