冷たい壁の向こうに
原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。
苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。
囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。
娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。
手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。
「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか?
あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」
一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。
彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。
その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。
私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。
……