港都のいい子ちゃん、やめました
私は水瀬静香(みなせ しずか)。この港都市で、誰もが知る「従順な妻」だった。
夫の桐生彰人(きりゅう あきと)が「離婚届なんて、愛人を喜ばせるための小道具にすぎない」と言い放てば、私は八回判を押させられたが、結局は引き止められた。
就寝前のホットミルクにピルが仕込まれていると知りながら、私はそれを一滴残らず飲み干した。
社交界の噂好きたちは、口元を隠してこう囁き合う。「桐生夫人は、玉の輿に乗る前、悟りでも開いたのかしら。まるで聖女のような忍耐力ね」と。
けれど、彼らは知らない。
あの日、最初の復縁を決めた瞬間から、私の瞳には「金」という文字しか映っていないことを。
港都市のマダムたちが集う夜会。
私の座るべき場所には、彰人の新しいお気に入り――奨学金で大学に通う苦学生、佐藤梨花(さとう りか)が座っていた。彼女は主賓席に収まり、得意げに微笑んでいる。
対する私は、使用人たちと同じテーブルにつき、気配を消すように静かに座っていた。
彰人は、嘲りを隠そうともせず私を見据えた。
「今夜は帰らない。田舎から、梨花の従兄がボロい軽自動車で迎えに来てるそうだ。お前も一緒に田舎へ帰ったらどうだ?」
周囲の人々が、私とその薄汚れた男はお似合いだと嘲笑する中――
私はただ、従順に頷いた。
けれど、私が軽自動車のドアに手をかけた、その瞬間だった。
彰人の車が、アクセル全開でこちらへ突っ込んできたのだ。