午前八時三十五分。四月の空は薄曇りで、ビルの谷間にわずかな春の光が沈んでいた。中之島の古びた雑居ビル八階にある〈東陽クリエイト〉のフロアでは、始業前の空気が少しだけざわついていた。紙の擦れる音、コピー機の起動音、インスタントコーヒーの香り。それぞれが慣れ親しんだ職場の日常を織りなすなか、応接スペースのガラス戸の向こうだけが、不自然に静かだった。
鶴橋蓮は営業部のデスクにカバンを置くと、同期の奥村佳奈に軽く会釈しながら、小走りで応接へ向かった。課長に呼ばれたのは、五分前。新しく中途で入ってくる人間の紹介だという。
「来た来た、鶴橋くん。ほな、紹介しとくわ」
応接のドアが開いた瞬間、微かに空気が変わった気がした。いや、正確には…そこに“何か”が立っていた。それが人なのか、それとも影なのか、一瞬判断がつかなかった。窓際に立つ男。白いブラインド越しの朝の光に照らされて、輪郭が淡くぼやけていた。
「今日から入ることになった今里くんや。営業部配属。ちょっと年いってるけど、よろしく頼むな」
安住課長がラフに紹介する。その横で、件の男が一歩だけ前に出た。スーツは紺のシャドーストライプ。だが、サイズがわずかに合っていない。肩のラインが下がり、袖も微かに長い。そのせいか、立ち姿は妙に影のようだった。
「今里です。営業部、よろしくお願いします」
声は驚くほど低く、滑らかではあったが抑揚がなかった。沈んだ声色が、空間の温度をほんのわずかに下げたような錯覚を鶴橋は覚えた。
「奥村です、事務全般担当してます。よろしくお願いしますね」
佳奈がにこやかに挨拶し、次いで鶴橋が頭を下げた。
「営業の鶴橋です。なんか分からんことあったら、言うてください」
今里は小さく会釈し、差し出された名刺を両手で受け取った。指の動きがやけに丁寧で、機械的にすら見えた。名刺を受け取るその手には、かすかな皺があり、指の節が細く長かった。表情は終始穏やかで…いや、穏やかというより、何も浮かんでいなかった。
目が合った。いや、正確には「合った」と気づいたときには、すでに逸らされていた。だがその一瞬、まつ毛の長さと、眼差しの奥に沈んだ影だけが、くっきりと目に焼きついた。
まるで、何かを見たと思った瞬間に、その“何か”のほうから目を閉じたような…そんな感覚だった。
(喋ってるのに、音だけが通ってく感じや。実在感が……ない)
鶴橋は心の中で、思わずそう呟いていた。
安住課長は「ま、困ったら鶴橋くんに聞いて」と軽く言い残し、先にデスクへ戻っていった。佳奈も「じゃ、あとで総務に連れていきますね」と明るく笑ってその場を離れる。応接室には鶴橋と今里だけが残った。
「とりあえず、これコピーしといたらいいと思います」と、今里が差し出したのは、手書きの社員連絡表の写しだった。そこにはすでに部署ごとの名前がきれいに書かれていた。字が、丁寧で整っていた。少し丸みを帯びたフォントのような字だった。
「ありがとうございます、助かります」
受け取った鶴橋は一礼し、今里の隣をすり抜けてドアに手をかけた。その瞬間、微かに感じた。衣擦れの音の向こう、わずかな香り…整髪料でも香水でもない、どこか懐かしいような、無臭に近い洗剤の匂い。男の生活感が、ぎりぎりまで希薄になった末に残ったような匂い。
(…この人、何歳やろ)
そう思ったときにはもう、今里は背を向けて、静かにカバンを下ろしていた。
数分後、デスクに戻った鶴橋は、自分の椅子に腰を下ろしながら、ふと応接の方へ目をやった。ブラインド越しに、今里の背中が、まだそこにあった。
じっと立ったまま、窓の外を見ている。何を見ているのか、何を思っているのか、それは分からなかった。ただ一つ確かなのは…彼の姿が、どうしようもなく“そこに在る”ということだった。
まるで、誰にも気づかれないまま部屋に紛れ込んだ薄い影のように。
だが、その影だけが、妙に目についた。消えかけのペンの線のように…しかし確かに、そこに引かれていた。朝七時四十五分、東陽クリエイトの通用口前にはまだ人影がまばらだった。空は一面の雲に覆われているものの、雨の気配はなく、少し肌寒い風がビルの隙間をすり抜けていく。自動ドアの前で立ち止まり、セキュリティカードを探して鞄の中をまさぐっていた鶴橋は、ふと気配を感じて顔を上げた。今里だった。黒いスーツの裾が風に揺れ、肩には小さな紙袋がかかっている。まっすぐ通用口へと歩いてくるその姿は、周囲の景色に溶け込むように自然で、けれどなぜか目を引いた。歩幅は一定で、視線は足元に落ちていたが、こちらに気づくと静かに立ち止まる。「おはようございます」鶴橋が軽く頭を下げて声をかけると、一拍の間のあと、今里もわずかに会釈しながら言葉を返した。「…おはようございます」落ち着いた低音。それはいつも通りの音調だったが、語尾が少しだけ丸く、どこか柔らかく響いた。挨拶として必要最低限のやり取りのはずだったのに、鶴橋はなぜかその言い方が耳に残って離れなかった。今里はふと顔を上げ、曇った空を一瞬だけ見上げた。重たい雲の層の下、微かに朝の光がにじむ。その光を受けた横顔は白く、肌は薄く透けるような質感を帯びていて、どこか遠くの風景を見ているようなまなざしをしていた。無造作に流された前髪が風で揺れ、額にかかったかと思えば、また元の位置に戻る。その一瞬、鶴橋は目を逸らせなかった。何を考えているのか、どこを見ているのか、それすら分からないほど静かなその表情に、強く心を引かれる自分を感じていた。声をかけた理由すら忘れかけて、言葉の残響だけが胸に残っていた。今里はそのままカードをかざし、自動ドアの奥へと消えていった。背中はすぐに人混みに紛れるのに、不思議なことに、どこにいても見つけられるような気がする。そんな感覚が胸の奥にじんわりと広がっていく。ビルに入るため、鶴橋も同じようにカードをかざした。ドアが開く音が響く中で、思わず口の中で呟いた。「……なんやねん、今の」自分でも意味がわからなかった。ただ、いつもの朝より空気が少し違って感じられた。冷たいはずの風も、肌に触れる感覚だけが妙に残っていた。
鶴橋は梅田行きの電車に揺られていた。ちょうど帰宅ラッシュの一歩手前、車内はそれほど混んでおらず、吊り革をつかんだ彼の前には、制服の高校生が座ってイヤホンをつけていた。窓の外はすでに暮れて、ガラスに映る自分の顔が少し疲れて見える。日報も提出したし、残業もなく済んだはずなのに、頭の中はずっと落ち着かない。視界の端にちらつくのは、さっきの“目”だった。今里が振り返ったあの瞬間──目が合ったあのときのこと。鶴橋は無意識にもう片方の手でコートのポケットを探り、スマートフォンに触れたまま指を止めた。何を見るでもなく、そのまま指を動かさずに視線を落とす。目に浮かんでいるのは、光の中に立つ今里の姿だった。何度思い出しても、表情がはっきりしない。ただ、あの横顔の静けさだけが、妙に記憶に残っている。声もなければ、感情の起伏もない。それなのに、なぜこんなに気になっているのか、自分でもよくわからなかった。ミスが多くて、声が小さくて、浮いていて。けれど、それでもどこか“仕事ができる”匂いを持っていて、誰にも見せない芯を持っていた。鶴橋は、まるで見えない糸をなぞるように、今里の一つひとつの仕草を思い返していく。ファイルに添えられた付箋の順番。紙を揃えるときの、空気を抜くような手の動き。誰にも言われていないのに、資料を修正して封筒にして渡してきたこと。会議で放たれた、たった一言の重み。そのどれもが、表立つことはない。誰も気づかない。だけど、確かに“届く”ように置かれていた。必要とされる前に、既に差し出されていた誠実さ。それが、自分だけのためでないことも、分かっている。今里は、誰に対しても、きっとそうしてきたのだろう。だとすれば、あの疲れた肩や、沈んだ瞳の奥に、いったいどれほどの時間が沈んでいるのか。鶴橋は目を閉じた。「この人、ほんまに……誰なんやろ」静かに、心の中でその言葉が浮かぶ。好奇心、尊敬、そして少しの戸惑い。すべてが混ざり合って、形にならない感情の塊になっていた。ただ
午後五時を過ぎた頃、フロアの空気は、少しだけ緩んでいた。各々がその日の締めの業務に追われつつも、どこか手を抜く空気が漂い始めるこの時間帯、日報を書きながら、鶴橋はふと顔を上げた。窓際に、今里が立っていた。西側のブラインド越しに差し込む陽の光が、彼の輪郭を淡く縁取っている。まるで背景の光だけが先に春になったかのようだった。今里はスマートフォンを耳に当て、何かを話していた。声はここまで届かない。だが、口の動き、頷きの深さ、指先の落ち着いた所作──そのすべてが、妙に丁寧で、崩れていなかった。鶴橋はその様子を、無意識のうちに目で追っていた。なぜ視線を逸らさないのか、自分でもわからなかった。ただ、その横顔に含まれる“余白”のようなものから、目を離すことができなかった。陽の光が少し傾き、今里の髪に触れる。それは決して艶やかではない。むしろ乾いた質感で、年相応の疲れもある。けれど、その疲れすら、どこか品のように映るのだった。電話の相手は、クライアントだろうか。口元は緩まず、けれど拒絶の影も見えない。声に抑揚はないはずなのに、受け答えの端々に込められた“意図”だけが透けて見えるようで、鶴橋はその静かな交信に目を奪われた。指先が、ほんの少し書類の端をなぞるように動いた。癖なのか、無意識なのか。その仕草が、なぜか胸に触れた。(…やっぱり、変や)そう思った。この人は、誰よりも地味で、無口で、派手さがない。なのに、なぜこれほど目に焼きつくのか。なぜ、こんなにも“気配”が残るのか。電話を終えた今里が、ゆっくりとスマートフォンをポケットに戻す。そして、ふとこちらを振り返った。その目と、鶴橋の目が合った。一瞬。ほんの、ほんの一瞬だった。だが、その視線の奥にある何かが、胸の奥を不意に射抜いた。冷たくはなかった。むしろ、どこか戸惑いのような、探るような光を孕んでいた。けれどそれは、他人行儀の
午後の会議室は、エアコンの微かな唸りと、書類をめくる音だけが響いていた。窓の外は薄く曇っていて、陽の光も強くはなかった。壁掛け時計の針が三時を指し、営業部の定例ミーティングが始まってから、すでに二十分ほどが経っていた。長机を囲んで、課長の安住、鶴橋、村瀬、奥村、そして今里が着席している。パワーポイントのスライドが進むたび、安住の声が抑揚なく部屋に流れていく。淡々とした資料説明のあと、やや和やかな空気の中で、安住がふと笑いを交えて口を開いた。「いやぁ、このクライアントさ、無茶ばっか言うてくるけど…ま、適当にいなしといたらええねん。どうせ向こうも本気ちゃうしな」村瀬がくくっと笑う。奥村は視線を落としたまま口元だけを歪めた。緊張感が薄れ、空気が緩んでいくそのときだった。「…それでは、信頼関係は築けないと思います」低く、けれどはっきりとした声が、会議室の中央に落ちた。静けさが、一瞬だけ凍りついたように場を包む。今里の声だった。誰も笑わなかったし、返す言葉もなかった。ただ、その一言が、空気にまっすぐ突き刺さった。言い方には棘がなかった。淡々と、感情を殺したようにさえ見える口調だった。だが、その分だけ言葉の意味が研ぎ澄まされていた。表面に笑いの皮をかぶせておくことが許されないような、そんな真っ直ぐな声だった。鶴橋は、その瞬間、視線をそっと今里へ向けた。彼は前かがみになった姿勢のまま、資料に視線を落としていた。発言をしたあとも顔を上げず、周囲の反応には無関心を装うように、沈黙のなかに体を埋めている。だが、その横顔には、言葉の責任を自分で引き受けるような、揺らぎのなさがあった。安住課長がやや照れたように咳払いをし、「ま、もちろん、ちゃんと対応はするけどな」と場を取り繕った。村瀬は少し表情を引き締め、奥村は何も言わずに資料を繰った。会議はそのまま続いたが、さっきまでの雑談交じりの雰囲気は完全に消えていた。鶴橋は手元のメモに目を落としたふりをしながら、頭の中で、今の言葉の余韻を繰り返していた。“それでは、信頼関係は築けないと思います&r
昼休みの始まりを告げるチャイムが、社内にゆるく響いた。午前中の書類整理に一区切りをつけ、鶴橋は背筋を軽く伸ばして立ち上がる。自席の隣に置かれたマグカップを手に取り、給湯室へと向かう廊下を歩く。人の気配はまばらで、いくつかの席にはもう昼食に出かけた社員たちの姿がなくなっていた。給湯室前で角を曲がると、ちょうど出てきた奥村佳奈とばったり目が合った。彼女は両手に缶コーヒーと紙パックのジュースを持っていた。たぶん自分と誰かのぶんだろう。「あ、鶴ちゃん」「ああ、佳奈さん。休憩っすか」軽く会釈し合って、通り過ぎるかと思ったそのとき、佳奈が小さく足を止めた。「ねえ、ちょっと聞いてええ?」「ん?」「今里さんって、前職すごかったらしいで?」何気ない調子だった。口調に悪意はなかったが、興味本位の軽い噂話というよりも、どこか“探る”ような響きが含まれていた。鶴橋はマグカップを湯沸かし器の下に置きながら、一瞬だけ手を止めた。返事をしようとして、うまく言葉が浮かばなかった。「……まあ、そうらしいっすね」答えながらも、微妙に自分の声が低くなったことに気づく。抑揚を削ったその声は、無意識に感情を抑えていたのかもしれなかった。佳奈はジュースの紙パックをくるくると回しながら、もう一度だけ尋ねた。「鶴ちゃんは、どう思ってる?あの人のこと」まっすぐな問いだった。立ち話の延長にしては、少しだけ重さを含んだその質問に、鶴橋は湯が注がれていく音を聞きながら、視線をカップの中に落とした。「……いや、ミスはあるけど……なんかこう、“やろうとしてる”って感じはあるな」それは、数日前までは出てこなかった言葉だった。自分がそう思っていると気づいたのは、口にしてからだった。佳奈は少し驚いた顔をして、けれどすぐに笑った。「見てるんやね。鶴ちゃん」「いや、そんな……」
営業フロアには、朝のざわめきが落ち着きはじめる頃だった。九時半を過ぎ、各席でキーボードの音やマウスのクリック、電話の受話器を取る気配が混じり合いながら、それぞれの仕事がいつものように進み始めていた。鶴橋は自分の席でパソコンに向かい、クライアントからのメールに目を通していた。納期確認、見積修正、次回の商談の確認依頼。手は動いていたが、頭のどこかで、別のことが浮かんでは消えていた。視線をスクリーンから外し、無意識のうちに斜め向かいの席へと向けた。今里のデスクは、相変わらず整然としていた。派手な文具や小物は置かれていない。ボールペンと付箋と、書類の束。それらすべてが、きっちりと位置を保っていた。乱れもなければ、無駄もない。まるで“見られることを前提とせずに整えられた”ような空間だった。今里は、資料に目を落としたまま、淡々と作業を進めていた。ペラリと一枚めくる。その指が、紙の縁に触れた瞬間、わずかに紙の表面をなぞるような動きがあった。まるで、指で空気を払うように、紙を落ち着かせる仕草。以前もどこかで見たことがある。そうだ、ホチキス留めを直していた時も、同じような指の動きをしていた。(……また、それやってる)そう思った瞬間、自分が彼を“観察している”ことに気がついた。別に意識していたつもりはない。ただ、自然と目が向く。手の動き、顔の向き、書類をめくるときのまつ毛の影。どれも派手でも鮮やかでもないのに、なぜか目を引く。電話のコールが鳴り、別の社員が「今里さん、これ、お願い」と声をかける。今里は軽く振り返り、手を止める。口元だけを使って「はい」と答え、軽く頷いた。その頷きの角度が、微妙に浅い。感情を乗せない肯定。だが、拒絶でもない。そのバランスが、なんとも言えず気になる。仮に誰かがその仕草を再現しようとしたとしても、きっとその“温度”までは真似できないだろうと思った。自分のモニターに目を戻してみるものの、文字が頭に入ってこない。再び視線がずれていく。気づけばまた、今里のほうを見ている。(あかん、俺、なん