朝会、書類のズレ

朝九時を過ぎたころ、営業部の定例朝会が始まった。会議室には六人ほどの社員が集まり、手元の資料をパラパラと確認している。壁際にはプロジェクター、中央には長机。毎週同じように繰り返される風景に、誰も特別な緊張感は抱いていなかった。

鶴橋は部屋の隅で資料を受け取りながら、ふと隣に立つ今里に視線を向けた。昨日入ってきたばかりの中途社員。年齢は自分よりもずいぶん上、物腰は柔らかいが、どこか所在がない。服の皺や身振りひとつとっても、何かが少しだけずれているように見えた。

その今里が、紙の束を机の上に配っていく。順番に並べられたはずの資料を、社員たちが手に取り、めくり始めた瞬間だった。

「ん？…あれ、これ順番おかしない？」

最初に声を上げたのは村瀬だった。彼は若手の営業で、まだ二年目。口調は軽く、やや挑発的だが、数字を出すことに関しては非の打ち所がない。その村瀬が、紙の山を手にして首をかしげた。

「ほんまやな…議題一が三枚目に来てるし、日付も前後してるわ」

奥村も小声でつぶやく。会議室の空気が一瞬だけ波立つようにざわついた。

「これ、昨日の分と混ざってへん？」

誰かが言い、紙を机の上に出して整理し始める。資料は一見してきちんと綴じられているように見えたが、順番がばらばらになっている箇所が複数あった。整った形式の中に、目立たないほころび。気づく者だけが気づく小さな違和感。

安住課長が苦笑しながら言った。

「あ〜ごめんごめん。これ、今里くんの準備やったよな」

軽い調子だった。声の調子も、手のひらをひらひらと振る仕草も、まるで「たいしたことじゃない」と言わんばかりに、場を収めようとしていた。

今里は、その声に応じて静かに立ち上がった。

「申し訳ありません」

その一言は、会議室の空気を再び静かにさせた。が、その声にはどこか、不自然なほど波がなかった。低く、はっきりとした発音。だが、謝罪の言葉に伴うような感情の起伏は、微塵も感じられなかった。

まるで、その台詞を百回以上繰り返してきたかのような、慣れきった抑揚のなさ。

「いや、やばくないっすか？新入りでこれ……」

村瀬が椅子に浅く腰掛けながら、横目で鶴橋に小さく囁いた。声は低く抑えられていたが、その嘲笑の響きは、妙に耳に残った。

鶴橋はそれには答えず、ただ今里のほうを見ていた。

彼は再びゆっくりと座り、手元の資料を整え直していた。薄い指先が紙をなぞる。その動きに、焦りはなかった。動揺も、苛立ちも。たんたんと、整え、直し、指を揃えて膝の上に置く。

（怒られてるのに、何も感じてへんみたいや）

鶴橋はふと、自分でも意外な言葉が胸の奥に浮かんでくるのを感じた。それは批判でも、軽蔑でもなかった。もっと違う、もう少し形のわからないもの。たとえば、透明な布が空気のなかでふわりと舞っているのを見つけたような、そんな手触りだった。

会議は予定通りに進んだ。話題は案件の進捗、売上の見通し、クレーム対応など、いつもの内容だった。だが、資料をめくるたびに、鶴橋の指先には、どこか居心地の悪いざらつきが残っていた。

その資料は、明らかに時間をかけて作られていた。文字は読みやすく、表も正確だった。誤字もなければ、注釈も丁寧だった。順番だけが、歪んでいた。

それが一層、胸に引っかかる。

（この人、手ぇ抜いたんちゃう。…それでも、ずれたんや）

そう思ったとき、初めて今里の横顔に、ほんの僅かな疲労の色がにじんでいるように見えた。

細い眉の下に影を落とすような目。その瞳は常に伏し、まるで誰とも視線を交わさずにいようとしているかのようだった。だが、その沈黙の奥で、何かが積もっているような気がした。

会議が終わり、椅子が引かれる音が部屋に満ちるなか、鶴橋は一度も言葉を発さなかった。今里も同様に、無言で資料を重ね、立ち上がった。

その背中に、肩を落としたスーツのシルエットが、妙に印象に残った。鶴橋は、立ち去っていくその姿をしばらく見つめてから、視線を手元に落とした。

机の上に残された一枚の紙。その端を、誰かの指が静かに押さえた痕跡。少しだけへこんだ跡が、そこにあった。

それが何よりも雄弁に、その人間の疲れを語っているように思えた。