Chapter: 絆石 思った通り。 笹塚さんは俺を見るなり固まった。 その視線は、俺の首元に釘付けだ。 そこにあるのは、数量限定で作られたヒュディとシェリア姫の絆石。これは原作でも登場するキーアイテムで、不器用なヒュディがシェリア姫へ贈る、想いの詰まった石だ。 告知されてすぐ、笹塚さんなら購入するだろうと思って、俺も注文した。ペアセット販売だから、俺の元にも、今笹塚さんの胸元に輝くペンダントがある。「な、なんで……それ」 笹塚さんはもちろん意味を知っているから、俺の赤い石に戸惑っていた。「なんでって……黒薔薇が好きなら買うでしょ」 俺はさも当然という顔をして、笹塚さんの様子を探った。 黒薔薇とは、ヒュディ×シェリア姫のカップル名だ。2人のイメージカラーから作られたらしい。 ヒュディは黒い髪と軍服、シェリア姫は赤、そして薔薇を模したドレスを身にまとっている。黒薔薇は、まさに2人を表すのに相応しいものと言えるだろう。 笹塚さんも、当然知っている。同人誌まで作るくらい熱心なファンなんだから。 まだ状況が飲み込めないのか、口をパクパクさせる笹塚さんに、俺は更に追い込みをかける。「笹塚さん、シェリア姫の石も持ってるよね?」 セット販売だから当たり前だけど、わざと強調しながら問いかける。笹塚さんはコクりと頷くけど、その表情は疑問符だらけだ。「悪いんだけど、ちょっと見せてくれる?」 そう聞くと、少し戸惑いながらも自室へと戻って行った。 数分もしないうちに再び降りてきた笹塚さんは、赤い箱に入った石を見せてくれる。俺はすかさずそれを奪い取り、代わりに黒い箱を柔らかそうな掌に乗せた。「え、は?」 自分の手と俺を交互に見る笹塚さんは、とても可愛い。このまま持って帰りたい気持ちを押さえつけて、俺は口を開いた。「絆石の交換。もちろん、意味、分かるよね?」 ヒュディが石を渡すのは、プロポーズのシーンだ。 主人公に負け続けるヒュディは、とうとう追い詰められ、命の危機に晒される。『シェリア、お前は逃げろ。お前さえ生きていれば、俺達の勝ちだ』 ヒュディは、自国のために戦っていた。魔族だと迫害を受け、簡単に狩られる同胞達。シェリア姫は王の一人娘であり、自国の希望だった。 劣勢に陥ったヒュディは、王女であるシェリアだけでも逃がそうとしたんだ。『いいえ、私は貴方と共に生きま
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: アニメじゃない 悔しい。 昨日から岬くんに振り回されっぱなしだ。 今日なんていきなり家まで来て、結婚!? 私達まだ高校生でしょ!? お母さん達までまきこんで、一体何を考えてえんだろう。 私はこの年まで、恋愛の経験がない。告白されたこともないし、告白したこともないのに。 憧れはある。少女漫画のように、熱烈に好意を寄せられ、強引だけど甘く求められるような……あれ? 今、まさにその状態なのでは?「なってくれるよね? 岬 美希に」 髪にするりと指を絡め、囁く岬くんの声に、胸がキュッと鳴る。横で奇声を上げるお母さんのお陰で、流されずに済んだのは不幸中の幸いかもしれない。「あ、あのねぇ!」 私がなんとかこの状況を抜け出そうと試みると、さっきまでの色気はどこへやら。岬くんがにこりと年相応の笑顔で言う。「そろそろ準備した方がいいんじゃない? もう8時過ぎたよ。参戦服なら時間かかるでしょ?」 ハッとして時計に目をやると、もう8時10分を回ろうとしている。会場は家からバスで20分ほどかかるから、8時30分には出ないと、本当に時間がない。 サークル入場は一般開場から余裕があるけど、スペースの設営には意外と時間がかかる。お隣さんへの挨拶もるし、仲のいいサークルに差し入れもしたい。 でも、この場に岬くんだけ置いていくのは危険なのでは!? 時計と岬くんを交互に見ながら若干パニックに陥っていると、岬くんが更に急かしてきた。「ほらほら早く。僕も設営手伝うし、売り子もするか
Last Updated: 2025-06-20
Chapter: 妻問い 叫び声を上げながら固まったお義父さんと、頬を染めキャーキャー騒ぐお義母さん。 どっちも笹塚さんに似ていて面白い。俺にとっては笹塚さんが最優先であり、物事の基準だ。笹塚さんがご両親に似ているという感情は湧かない。 それを眺めていたら、ドタバタと音を立てて笹塚さんがリビングに飛び込んできた。その姿を見て、俺は目を細める。(はい、アウト) その姿は、さっきのキャミソールとホットパンツの上からロンTを被っただけのもので、まるでそれしか着ていないような錯覚を起こす。普段はデフォルトの制服で隠されている素足は程よく肉付き、劣情を抱かせるには十分だ。「ねぇねぇ、美希。今から式場押さえちゃう? 和装もいいけど、やっぱりドレスよね~、岬くんはどうかしら?」 疼く下腹部から意識を逸らし、お義母さんに相槌を打つ。「そうですね、美希さんならどちらも似合うと思います。素敵な式にしたいですね」 実の所、既に貯金を始めている。中学の時に笹塚さんを知ってから、毎年のお年玉は全額貯金。高校に入ってからはバイトも始めた。それも全ては笹塚さんを手に入れるため。 笹塚さんが望む式を挙げたいし、家も準備したい。そして創作を楽しめる時間を作れるよう、専業主婦にしてあげたい。家事なんてそれなりでいいし、なんなら俺が全部やる。 俺は笹塚さんと生涯を共にできれば、それだけで満足だ。 それにはまだまだ足りないんだから、もっと頑張らねば。大学も、もう決めている。ゆくゆくは起業も考えているから、経済学部を選んだ。起業すれば、笹塚さんとの時間も捻出しやすくなるし、何より楽をさせてあげられる。 そのためには、成功できるだけの実力が必要だ。笹塚さんとの生活をより良くするため、俺はどんな努力も厭わなかった。 お母さんから結婚の話しを聞いた笹塚さんは、赤くなったり青くなったり、表情をクルクルと変えている。そういう所も可愛いと思えるのだから、本当に厄介だ。「ちょ、ちょっと岬くん!? お母さん達に何に言って……け、結婚て、気が早すぎるでしょ!?」 俺に文句を投げつけるその表情も、可愛くて、愛おしくて、そして美味そうだ。「え~、俺、昨日言ったよ? 幸せなお嫁さんにするって。聞いてなかったの?」 少しむくれて言えば、笹塚さんは面白いように慌てている。「なってくれるよね? 岬 美希に」 長い黒髪
Last Updated: 2025-05-21
Chapter: 先ず馬を射よ 階下から聞こえてきた叫び声に、びくりと肩が跳ねた。(な、なに!?) お父さんの怒号にも似た叫びと、お母さんの黄色い声に困惑しながらも、手近にあったロンTを被りリビングに向かう。(まさか、岬くん変な事言ってないよね!?) 同人誌即売会での奇行は、私に危機感を持たせるのに十分だった。たぶん、私や家族に危害を加える事はしないと思う。でも、どういった行動に出るのかが読めない。 昨日はオタク全開の服装だったのに、今日はしっかりキメて来ているし、それにあの言葉。 ――それとも、誘ってる? 思い出すだけで顔が熱くなる。 もしそんな事をお父さん達に言っていたら、恥ずかしくて死ねる。その点については、岬くんの信用はゼロに近かった。 学校ではそんな素振りした事もないのに、あの公開告白の後からは攻めの姿勢を崩さない。実を言えば、ブースに居座った岬くんはずっと私の手を握っていたのだ。机の下で指を絡め、お客さんが途切れたらじっと見つめてくる。 そして何度も呟くのだ。「はぁ……笹塚さん、可愛い。もう1回キスしいい?」 私はその度に冷や汗を流していた。陰キャのカースト底辺として生きてきたのに、そんな経験ある訳ないじゃい。なのに岬くんは手を緩めない。 帰り際にバス停で別れた時も、隙をついて額にキスされてしまった。真っ赤になって怒る私にも、岬くんは喜ぶ始末。 だからこそ、今両親に対して何を事を口走っているのか、考えるだけでも恐ろしくなってしまう。 バタバタと階段を下りて、リビングのドアを開く。 そこには立ち上がった姿勢のまま固まるお父さんと、頬を染めキャーキャーとはしゃぐお母さんがいた。その正面には岬くんが笑顔をたたえ、静かに座っている。「何、どうしたの!? さっきの叫び声って何!?」 そこでやっと私に気付いたお母さんが、こちらを見ながらにこやかに言った。「あ、美希ったら、こんなにカッコいい彼氏がいるなんて聞いてないわよ~? こんな子が息子になってくれるなんて、お母さん嬉しい!」 今、なんて言った……? 彼氏は分かる。だって実際に岬くんに告白されて、流されるようにではあるけど、彼氏彼女になったから。 でも、息子って? ゆっくり視線を向けると、岬くんはにんまりと笑う。「そういう事だから、今後ともよろしくね。美希さん」 その一言でハッとした。(外堀
Last Updated: 2025-05-06
Chapter: 将を射んと欲すれば バタバタと階段を駆けあがる笹塚さんの後姿は可愛らしく、緩む頬を何とか押しとどめて冷静を装った。『白い何か』がチラリと見えたからだ。「美希? どうしたの、うるさいよ~」 そう言って顔を出したのは、笹塚さんのお母さん。まだ若く、姉妹と言われても納得できそうだ。玄関に立つ俺に気付くと、少しびっくりして口を押さえる。「あ、あら、お客さんだったのね。えっと……」 口籠るお母さんに、俺は優等生ぶって頭を下げた。「早朝からお騒がせしてしまって申し訳ありません。昨日から美希さんとお付き合いさせていただいています、岬涼です。今日も一緒に出掛ける約束をしていたので、迎えに来ました。ついでと言ってはなんですが、ご両親にもご挨拶させていただければと」 お義母さんは聞かされていなかったのか、更に驚いていた。慌てて引っ込むと、今度はお義父さんを連れて現れる。「き、君が……美希と……? なんと言うか、随分とカッコいい子だね……」 今日はヒュディ仕様だから、タイプの違いに猜疑的なのかもしれない。笹塚さんは真面目な委員長タイプだ。俺は警戒を解くように、柔らかく微笑みながら落としにかかる。「はじめましてお義父さん、岬涼です。急な事で驚かせてしまったかもしれませんが、僕は美希さんをずっと好きだったんです。やっと昨日告白して、受け入れてもらえました。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」 深く頭を下げると、2人が慌てる様子が伝わってくる。いささか高校生にしては丁寧すぎる言葉使いも、隙を生むには好都合。両親と良好な関係が築けるに越した事は無いが、俺にとっては将を射るための馬に過ぎない。 笹塚さんは一見大人しいから、俺みたいなのが来たのも意外だったのだろう。俺が知る限り、笹塚さんは今まで彼氏がいなかった。正真正銘、俺が初カレだ。素のままで来てもよかったけど、第一印象は大事だからね。身なりには気を付けないと。 顔を上げると、2人はぎこちない笑みを浮かべながらも、俺を室内に案内してくれた。リビングのソファに座ると、お義母さんがお茶を出してくれる。「ごめんなさいね。そうとは知らずに、あんなだらしない恰好で出させてしまって。美希ったら水臭いわ。こんなイケメンが彼氏なんて、教えてくれてもいいのに。ね、お父さん」 話を振られたお義父さんは、しかめっ面で俺を値踏みしている。これも想定
Last Updated: 2025-04-23
Chapter: 奇襲 あの公開告白から、一夜明けた日曜日。即売会は今日も開催される。私もブースが取れたから行かなきゃなんだけど……。「おはよう、笹塚さん。あ、パジャマだ、可愛い」 なんでいるかな!? 早朝から鳴ったインターホンに出てみると、そこには岬くんの姿があった。いつもより少しだけ気崩した格好で、髪はヒュディ様のように整えられている。(ぐ、かっこいいなもう!!) 壁に寄りかかる私を見ながら、岬くんはニッと笑った。「気に入ってくれたみたいだね。早起きした甲斐があるよ」 これは確実に落としに来ている。公開告白だけでも心臓が止まるかと思ったのに、時間を空けずに奇襲するとは。昨日も、あの後ちゃっかりブースに居座って、売り子をやっていたのだ。しかも男性には牽制するおまけつき。女性にもわざわざ自分が彼氏だって吹聴していた。公開告白が既に広まっていて、ブースにまで確認に来る方もどうかと思うけど。それにしても。「こんなに早く、どうしたの? まだ7時だよ?」 そう、即売会の開場は9時だ。昨日の帰り際に、今日も売り子をすると言っていたのは覚えている。だから家まで来たのは分かるけど、それにしても早すぎじゃないだろうか。 っていうか!「なんで家知ってるの!?」 昨日はバスの方向が違うから、開場で別れた。それに昨今はプライバシー保護が重要視されて、電話の連絡網も廃止されている。そもそも固定電話が無い家も増えているみたいだから、妥当ではあるけど。だからもちろん、保護者間で家の場所も共有されていない。先生に聞けば分かるとは思うけど、言うはずないし。 困惑する私を他所に、岬くんはいい笑顔で答えた。「ああ、先生に聞いた。忘れ物を届けたいって言ったら、すんなり教えてくれたよ? やっぱり日頃の行いは大事だね」 こんの腹黒が! 先生も先生だ。簡単に個人情報を漏らさないでほしいんですが!? 肩で息をする私に、岬くんがそっと近付き耳打ちをした。「ところで……着替えなくていいの? それとも、誘ってる?」 その一言で、私はブラトップのキャミソールに、太ももギリギリの短いショートパンツという夏用ルームウェアだった事を思い出した。まだ残暑が厳しくて、上着も着ていない。 つまり、体の線が丸見えという事で……。 私は慌てて自室に逃げ込むのであった。
Last Updated: 2025-04-18
Chapter: 第26話 封じられた記憶 目が覚めると、保健室は夕暮れ色に染まっていた。ぼーっと天井を見つめたまま動けずにいたら、横から母親が顔を出す。「夕貴、目ぇ覚めた? いくら小さくても抱えるのは無理だから、起きるの待ってたんだよ。もう下校時間過ぎてるっていうのに、先生にご迷惑かけて!」 その声を聞きつけたのか、榊がカーテンを開け入ってくる。「うん、顔色もだいぶマシになったね。お母さん、念のため、明日にでも病院で診てもらってください。運んでくれた伊吹くんが、頭痛が酷いみたいだって言っていましたから」 それだけ言うと、榊は会議があるとかで保健室から出ていった。母親は礼をしながら見送り、俺に問いかける。「いったいどうしたの? こんなこと、最近なかったのに」 その言葉に、俺は引っ掛かりを覚えた。「……最近……?」 母親はしまったと口を閉ざすが、俺は更に聞く。「なぁ、俺の嫁さんって、誰だっけ」 それを聞いた途端、分かりやすくビクリと肩が跳ねた。やっぱり、知っているんだ。「母さん、教えてよ。思い出したいんだ」 ためらう母親に、俺は可愛らしく瞳を潤ませてダメ押しする。「まだ……好きなんだよ……」 俺のよくない噂が広がるのと一緒に、母親の態度も変わっていた。『昔は可愛かったのに』が口癖で、ことあるごとにアルバムを開いていたから、効果はあるはずだ。 その目論見は見事に当たった。「……
Last Updated: 2025-08-01
Chapter: 第25話 失くした約束いきなり叫んだ俺に、伊吹は驚き、ぽかんとしている。「……いや、ごめん。え……っと、新堂さん、でいい?」 それでも、俺に合わせようと、言い直してくれた。 なのに、俺は自分の言葉が理解できていない。(なんで……俺は怒ったんだ? 伊吹が『凜ちゃん』って言ったから……?) ズキズキと痛む頭を押さえ、俺は壁に寄りかかった。変な汗が噴き出て、シャツが張り付いて気持ち悪い。 別に、アイツは俺のものじゃないし、そんな感情もない。アイツはただの標的で、俺の、俺の……。「なんだよこれ……頭痛ぇし、訳分かんねぇよ……」 うずくまる俺に伊吹が駆け寄り、心配そうに覗き込んでくる。「おい、マジで顔色ヤバいぞ。保健室に戻ろう。まだ榊いんだろ」 徐々に遠くなっていく声に応えることもできず、俺は意識を手放した。☆ 気が付くと、周囲は真っ白な霧に覆われている。少し歩くと、小さな遊び場に出た。周りにはスモックを着た子供が大勢いる。その中でひとりだけ、輝いている子が俺の袖を引っ張っていた。「ゆうちゃん、あそぼ」 舌っ足らずな声で呼ぶ名前は、ひどく甘い響きを持っていて、脳が痺れるような感覚に陥る。あまりに眩しくて、顔はよく見えないが笑っていることだけは何故か分かった。 その手を取ると
Last Updated: 2025-07-29
Chapter: 第24話 記憶の棘 保健室を後にした俺は、イライラを隠しもせず廊下を歩いていた。すれ違った奴らが自然と道を譲り、まるでモーゼみたいで笑える。 だけど、俺の内心は荒れに荒れていた。何故か、別れ際にアイツが見せた表情が、頭から離れない。 アイツは笑っていたけど、どこか寂し気で、別れを惜しんでいるような、そんな顔だった。(なんで、こんなに気になるんだ?) アイツなんて、つい最近知ったばかりの胡散臭い『オウジサマ』でしかないのに。 俺はその仮面を剥がして、見た目で判断する奴らがいかに馬鹿か、思い知らせてやる。それだけだったはずだ。 なのに――! 自分を自分で押さえきれず、思いっきり壁に額を叩きつけた。パラパラと落ちる埃さえ腹立たしい。 傍に居合わせた女子が、小さな悲鳴を上げる。 イラ立ちに任せて睨みつけると、足早に去っていった。 そうだ、これが俺なんだ。 アイツのお人好しに当てられて、らしくない罪悪感を抱いてしまった。 大きく息を吐き出し、目を閉じる。 そこには何故か微笑むアイツがいて、思わず自分を殴りつけた。(なんなんだよ……!) やっぱり、何かがおかしい。あれだ、アイツが寝言でもらした言葉。 「……ゆうちゃん……」 何か、大事なことを忘れている気がする。 あいつとは、昨日が初対面であってるよな? そのはずだ、そうでなきゃいけない。
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 第23話 先輩と私 先生が授業を始めても、みんな集中できないでいるようだった。先生もそれを感じているのか、どうでもいい雑学ばかり話している。 噂を信じるなら、リスクを背負う覚悟も必要。 きっと、みんなそれぞれに考えるところがあったんじゃないだろうか。 それは嘘でも、本当でも、間違いだった時に『裏切られた』なんて言わないことだと、私は思った。 先輩の噂には何か理由がある。 それが私の考えであって、もし噂が真実だったとしても、それは信じた私の責任だ。先輩を責める権利なんてないし、先輩が私に応える義務もない。 まだ先輩に会ってから2日しか経っていない。なのに、信じるだなんていう方がおかしい。自分でもそう思うのだから、前から先輩を知っている人から見ればバカみたいなのかもしれない。 だけど、私は信じたい。 何がそうさせるのか、その理由を探すことが、私の存在意義に繋がる気さえしている。 今まで他人に口答えをしたことも無い私が、何故、先輩の悪口に過剰に反応したのか。『王子様』を求められ、素直に従ってきた私が。 窓の外に見える広場を眺めながら、想うのは先輩のことばかり。(そういえば、お昼一緒にって言ってたのに、ダメになっちゃったな……) ちらりと机にかけた鞄に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚える。まだ涼しいとはいえ、陽射しは徐々に強くなってきた。半日常温で置かれていたお弁当は、さすがに食べられないだろう。お母さんにも悪い事をしてしまった。 教壇に視線を戻すと、先生が思いっきり趣味に走った話を、楽し気に語っている。先生が理科教諭を目指した、そのきっかけだそうだ。「DNAというのは
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 第22話 信じるという選択 私の演説じみた話が終わると、先生がひょっこり顔を出す。それは担任でもあり、理科の担当教諭でもある江崎先生だった。 そこでハッとして時計を見ると、既に5時間目の時間に突入している。「す、すみません! 私、無我夢中で……」 慌てて席へ戻ろうとすると、先生は手で制して優しく微笑んでくれた。「いや、聞き惚れたよ。私もこの年になるまで、いろんな噂に翻弄されてきた。オイルショックはみんな知っているよね?」 先生は周囲にも目を向け、話を続ける。「最近も、米不足や増税なんかが連日テレビで報道されている。それに紛れて芸能人のスキャンダル、政治家の汚職、いろんな噂を耳にするだろう。それが悪いとは言わない。僕はただ、自分の考えを持って、自分自身で判断してほしいと思っているんだ。いい噂も、悪い噂もね」 みんなの視線が集中する中で、先生は淡々と語る。「それは学校でも同じだよ。眞鍋さんや瀬戸くんの噂は、職員室でもよく耳にするんだ。だけど、僕の知っている眞鍋さんは、少なくとも噂とは違う。新堂さんを追いかけるのは、ほどほどがいいとは思うけどね」 冗談めかして笑う先生は、いつもより頼もしく見えた。「瀬戸くんについても、僕個人としては新堂さんに賛成かな。もちろん、それを強要するつもりもないし、もしかしたら噂の方が本当なのかもしれない。だけどね、噂を信じるのなら、それ相応のリスクも覚悟が必要だよ」 それを聞く生徒の態度は様々だ。 俯く人、憤慨する人、聞き入る人。 私はじっと先生を見つめていた。眞鍋さんも同様だ。「人の噂も七十五日というだろう? 結局、その程度のものなんだよ。それでも、ただの
Last Updated: 2025-07-18
Chapter: 第21話 見えない距離 視線を周囲に向けたまま、私は更に続ける。「眞鍋さんも、先輩の噂が本当だって、自信を持って言える? 現場を見たりしたの?」 それは眞鍋さんだけに対する問いじゃない。勝手気ままに、無責任に噂を広げる人に対しての問いだ。 眞鍋さんの噂には、多分嫉妬や被害妄想が含まれている。1年の頃はどうか知らないけど、少なくとも2年になってからは私にずっとくっついていたんだから。それでも噂がやむことはなかった。 そして、噂は女子だけじゃなく、男子からのものも多い。これって相手にされなかった憂さ晴らしなんじゃないだろうか。そう感じていた。 だから正直に言う。「私思うんだ。もし眞鍋さんの噂が本当だったとしても、それって男子側にも責任があるんじゃないかって。例えアプローチされたとしても、本当に彼女が大事なら、他に目は移らないんじゃないかな。私、浮気する奴って大っ嫌いなんだよね」 剣道で鍛えた声量は、廊下にも十分届いているはずだ。「女子も、自分が振られた腹いせに言ってるとしか思えない人もいるよ。どれが事実かなんて、私には分からない。ただ無責任に他人を陥れようとするのに腹が立ったんだ。眞鍋さんが私を思って言ってくれているのは分かってる。だから、先輩のことも少し思いやってくれると嬉しいな」 そっと眞鍋さんの手を取り、瞳を見つめる。「噂ってさ、結局は関係ない人が流すものなんだよ。私は『王子様』なんて呼ばれてるけど、そんなんじゃない。ただの女子高生だよ。眞鍋さんが慕ってくれるのは嬉しい。だけど、クラスメイトとして接してくれると、もっと嬉しい」 そう言うと、眞鍋さんは瞳を潤ませ、遂には泣き出してしまった。その頭を撫でながら、ふとした疑問を投げかける。「それにしても……私、先輩の噂
Last Updated: 2025-07-15
Chapter: 3-1 責務と呵責 お昼を過ぎて、午後一番に王宮からの迎えの馬車が到着した。汚れひとつ無い真っ白な車体は、金の縁どりが施され、国旗の御印である双頭の獅子が燦然と輝いている。二頭立ての馬も、毛並みが艶やかで、馬具も細かな部品ひとつまで洗練されていた。 |馭者《ぎょしゃ》の衣装も、うちの執事より上等だ。深緑のテールコートに揃いのベスト。ブラウスにはフリルがあしらわれている。ともすれば可愛くなってしまう装いも、壮年の男性なのに落ち着いた雰囲気でとても似合っていた。「お迎えに参りました。どうぞお手を」 屋敷の門の前に馬車を停めると、ひらりと降り立ち扉を開けて、恭しく私の手を取りエスコートしてくれる。その所作も美しく、さすが王宮勤め。馭者でさえこれだけ訓練の行き届いた人員がいるとは。 ネフィと共に馬車に乗り込むと、扉が閉じられる。椅子に腰かければ、その柔らかさに驚いた。我が家の最高級品であるサロンのソファより座り心地が良い。これなら屋敷から王宮までの道中も、お尻が痛くなる事は無いだろう。 ネフィも向かいに座り、落ち着くと馬車が走り出す。ここから王宮までは数十分の道のりだ。 我がフェリット家の王都での住居は、貴族街の片隅のある。今は伯爵家を名乗っているけれど、元子爵家。宛てがわれた区画が、市井の居住区に近かったのだ。|陞爵《しょうしゃく》された時に新居を構える事も提案されたらしいけれど、|曽祖父《そうそふ》や祖父は新しく屋敷を建てる事はしなかった。ここには思い出が詰まっているからと言って。領地にも屋敷はあるけれど、そちらは後継ぎである従兄弟が使っている。 貴族街は円形に王宮を取り囲み、中心部に近付くほど高位貴族の屋敷が連なっていた。我が家のその外周は男爵家が多く、屋敷も伯爵家には少し見劣りする佇まいだ。それでも私は気に入っていた。 遠ざかっていく屋敷を、ぼんやり見ながら馬車に揺られる。向かうはカイザークが誇る白亜の王宮。その美しさは世界でも指折りの荘厳さで、かつてはこの城を欲して、戦争を仕掛けてきた国もあった程だと言う。 それが曽祖父が戦功を上げたデウアスタ戦役。約七十年前に起こったこの戦争は五年に及んだ。 隣国ゲンジェードの当代国王ハミュット三世が進軍し、国境のデウアスタ草原での睨み合いが続いたのだ。 しかし、先に音を上げたのは戦争を吹っかけてきたゲンジェード。曽祖父が
Last Updated: 2025-08-04
Chapter: 2-3 伯爵令嬢の憂鬱 一通り試着が済んで、一度部屋着に着替える。お茶会は午後からだから、ドレスで過ごす訳にもいかない。時間までは読書をして過ごした。 その間に考えるのは、やはり殿下の事。 普通なら、王子様からの求婚なんて夢物語だろう。でもそれだって、運命の出会いがあってこそ成り立つものだ。顔を合わせた事も無いはずの、五つも年上の私に何故殿下が求婚するのか、さっぱり分からない。それに万が一、私をご存知だとしても、王妃となるにはそれ相応の知性が求められる。私は一般以上の学問を修めているという自負はあるけれど、王妃ともなればそれだけでは足りない。大勢いる貴族の|為人《ひととなり》、各領地の経営状態、国庫の把握。それら全てに精通し、的確に采配しなければならないのだから。国王が中心の国家とはいえ、ただ着飾って座っていればいいというものでは無いのだ。 王が男性貴族の頂点とするならば、王妃は女性貴族の頂点。女の世界は醜い。少しでも他の女性より優位に立とうと画策し、王妃の座さえ虎視眈々と狙う。私はただでさえ地味なのだから、そう考える令嬢は多いだろう。それを思えば気が重い。筋違いにも、殿下を恨んでしまいそうだ。 でも殿下はまだ幼い。そこまで気が回っていないのかも。もう立太子されるのだから、帝王学も学ばれているはず。それでも、実際の女の修羅場はご存知ないと思う。殿下は三人兄妹のご長男だ。下に二人の姫君がいらっしゃる。男児はお一人だから、跡目争いも無く、ご兄妹の仲も良い。国王陛下も、たったお一人の王妃様を大事になされて、他国で聞くような側室との|諍《いさか》いも無く、このカイザークは王室が誠実なのが売りだった。 でも、ここ最近は宰相が代替わりして、少々きな臭い。宰相は陛下の重鎮を、自分の配下で埋めようとしていた。それを易々と許す陛下ではないけれど、相手は宰相。それなりの発言力を持っている。大臣達も力になってくれるけれど、陛下だけで抑え込むのは難しい。 そこで台頭するのが王太子殿下だ。殿下の後ろ盾は、隣国の王女だった王妃様。もし宰相が謀反を企てても、隣国の助力が得られる。宰相は公爵だ。一国の主にも成れる財力があった。領地を独立して、建国する事も可能なのだ。 そんな拮抗した勢力図に、伯爵家の娘を嫁になんて無謀が過ぎる。せめて侯爵家の令嬢、もっと|磐石《ばんじゃく》にするなら他国の姫君を迎えるのが
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 2-2 伯爵令嬢の憂鬱 幻瞳迦。それは、太古に世界を満たしていた魔法の名残りだ。かつて魔石と呼ばれたそれは、この世界に当たり前にあった。普段の生活にも利用されていたその石も、現在では遺跡でごく稀に出土する物しか入手経路は無い。希少価値が高く、目が飛び出でるような値が着く幻とも言われる宝石。 競売に出されるさえも稀で、幼い頃に外商の宝飾屋が一度だけ、持ち込んだ事があった。それも小指の先程の小さな粒で、金貨百枚は下らない。その外商も商品としてではなく、客引きの道具にしているようだった。それでも、一目見た美しさは脳裏にこびりついている。間違えようもない。 それは国宝にも劣らない代物。周りを縁取るダイヤだって、粒が大きく透明度が高い。一体幾らするのか、想像するだけで頭が痛くなる。殿下には申し訳ないけれど、こんな高級なもの身につけるなんて怖くてできない。でも、贈られた物をつけて行かないのも失礼になってしまう。 そしてもうひとつ、大きな問題が。それはどの指に嵌めるのが正しいのかという事。 婚約を打診されているのだから、左の薬指にするべきなのか。でもそれは図々しい気もする。父の言葉では既に婚約は結ばれているようだけれど、まだお会いした事さえ無いのだから。 私は悩んだ挙句、指輪を右手の薬指に嵌める事にした。なんと言っても国宝級の指輪なのだもの。すんなり嵌った宝石を見ると手が震えてしまう。 その間にも準備は着々と進む。 髪を編み込み、シニョンに纏めると頂いた髪飾りを刺す。これもクルクマの花の意匠にアメトリンが散りばめられていた。耳飾りも揃いの意匠。 姿見の前に立つと、全身殿下色に染まった私がいた。この国では、特に瞳の色を重要視する。それは家系によって色濃く現れるから。紫は王家の色。我がフェリット家は暗褐色が多い。父も赤みを帯びた褐色の瞳だ。 煌びやかなドレスには、私の地味な容姿は釣り合っていない。せっかく用意してくださったのに、申し訳なさが込み上げてくる。もっとこのドレスに見合う姿なら良かったのに。殿下も衣装に負けている私を見れば、婚約を破棄するかもしれない。ただでさえ歳が離れているのだから、それも覚悟しなければならないだろう。 王族に見限られれば、私の人生は暗い物になる。最悪一人で生きていかなければならない。実家である伯爵家は従兄弟が継ぐ事になっているから、両親にいつまでも世話にな
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 2-1 伯爵令嬢の憂鬱 その日は早めに就寝して、翌日のお茶会に備えた。お茶会は殿下と私の二人だけらしい。勿論メイドや、侍従が傍に控えるけれど、それはいないものとして扱われる。未婚の男女が密室に二人きりになる事は避けるべき事で、それは婚約者の場合でも例外では無い。 私と殿下は発表こそまだだけれど、事実上の婚約者同士。しかも、知らされたのは今日で、お茶会はすぐ明日なのだ。あまりに急すぎる展開に、私の頭は混乱していた。婚約発表だって五日後だなんて、何をそんなに急いでいるのか。 そんな状況とはいえ、初めてのお茶会が二人だけという事は滅多に無い。普通なら、他の子息令嬢や介添人が同行するのが通例だ。それなのに、いきなり二人きりだなんて。 緊張もあったのか、早い時間に目が覚めてしまった私は朝食を済ませると、早速ネフィに捕まり、昨日と同じように浴室に連れ込まれ、丁寧に磨きあげられる。爪の先まで整えられて、コルセットを縛り上げられた。それから鏡の前に座らされると、お化粧を施される。今回はお茶会だから、うっすらと派手にならないように。 そして運ばれてきたドレスを見て、私は驚きを隠せなかった。淡い紫の艶のある生地は、手触りも滑らかで一見して極上品だと分かる。プリンセスラインのドレス全体に、金の糸で細やかな刺繍がふんだんに使われていて、首周りは大きく開いているけれど、上品さを損なわずシンプルに仕立てられていた。袖は七分丈で、肘から先にたっぷりとレースがあしらわれている。このレース一枚で、どれだけの値がつくのか想像もできない。 単なるお茶会に、こんなドレスを殿下が用意するなんて思ってもいなかった。 それに合わせて贈られた装飾品も、どれも素晴らしい物ばかり。チョーカーには銀で象られたクルクマの花が咲き乱れ、その中心に大きなアメトリンが埋め込まれている。この花は確か殿下の花紋だったはず。アメトリンだって希少な石だ。アメシストとシトリンが混ざり合い、独特な美しさを放っている。それを婚約もまだ正式に発表されていない私に贈るなんて、少し軽率ではないかしら。そう言うと、ネフィは呆れたように零した。「それだけ殿下はリージュ様にご執心なのです。これほど見事なドレスをお贈りになられるのですもの。夜会用のドレスも拝見しましたがもっと凄いですよ。それにこの色も。殿下は既にリージュ様を王族としてお考えなのです」 紫は王
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 1-3 求婚者 ネフィは有言実行とばかりに私をひん剥くと、お湯をかけ、普段使わないような高級な石鹸で体の隅々まで磨き上げていく。それは薔薇の香りが素晴らしく、泡立ちも滑らかだ。こんな物が我が家にあったなんて。「こんな石鹸、どうしたの」 不思議に思ってそう聞くと、ネフィは誇らしげに胸を張った。「リージュ様のここ一番に使うためにと、旦那様がご用意してくださったのです。今こそその時! 香油も一級品ですからね。王太子殿下も惚れ直す事請け合いです」 惚れ直すなんて、お会いした事も無いのに何を言っているのか。 でも、本当に何故私に求婚なんてされたのだろう。考えれば考えるほど分からない。父は王宮に上がっているから面識があるかもしれないけれど、私が王宮に行った事なんて両の指で事足りる。新年のお祝いや、十三歳の時、同じ歳の子息令嬢のお披露目で登城した程度だ。 そう考えた時、何かが引っかかった。なんだっけ。確かあのお披露目パーティーの時に何かあった気がするけれど、思い出せない。もう五年も前の事だし、幼かったから記憶が曖昧だ。初めて参加した夜会に舞い上がってもいた。脳裏に浮かぶのは小さな影。あれは誰だったか……。 頭を捻っている間にもメイド達の手は止まらない。髪を丁寧に洗われ、なされるがままに全身を揉み解される。仕上げに香油を念入りに揉みこまれ、髪はサラサラ、肌はツヤツヤと光を放っていた。ネフィ達も満足気にしている。 部屋着に袖を通しやっと開放される。そう思ったら。「明日また総仕上げを致します。お迎えは午後のお茶の時間でしたね。それまでに私共が最善を尽くして、リージュ様を三国一の美姫にしてみせます。ああ、楽しみですわ」 恍惚とした表情で身をよじるネフィは、どこから見ても危ない人だ。この子は昔から何かにつけて私を褒め称える。私自身は凡人だと自覚しているのに。やれ髪が美しいだの、瞳が綺麗だの、こちらの方が居た堪れない。 苦笑いで聞き流すと、ネフィは鼻息も荒く言い聞かせるように口を尖らせた。「リージュ様、貴女様はご自分を過小評価なされておいでです。髪の色も茶色だなんて、素晴らしい亜麻色ではありませんか。瞳もまるで澄んだ宝石のよう。何故そんなに自信が無いのか、私には分かりません」 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、今まで誰にも求婚された事が無いのだから、自信も失うというものでしょう
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 1-2 求婚者「急な話で、お前も困惑している事だろう。私も訳が分からんが、これは王家からの申し出だ。断る事はできん。お前も聞き分けてくれるな? ︎︎これは名誉な事なんだ」 言葉とは裏腹に、父の顔色は芳しくない。行き遅れの娘が王太子妃になんて、社交界では恰好のネタだろう。それを父も分かっているのだ。伯爵家と王家では身分も釣り合わない。しかも王太子が御相手なのだから、末は国母となる事を求められる。父の昇格も有り得た。それをよく思わない諸侯もいるはず。 現に宰相であられるハイウェング公爵には、御歳11歳のご令嬢、ユシアン様がいらっしゃる。このユシアン様が、王太子妃の最有力候補だったのだから、公爵にとって、降って湧いた私の存在は面白くないだろう。 私の生家であるフェリット伯爵家は、王都カイザークから東に位置する山岳地帯を領土としている。平坦な土地が少ないために畑作には向かないけれど、特産品である紅茶や、林業で財を成し、武官としても王家に尽くしてきた。父は騎士団の分隊長だ。領地経営も順調で、父の誠実なひととなりも評判が良い。 そんな伯爵家の娘が王太子妃になろうものなら、宰相の地位も危ういと感じるかもしれなかった。実際、宰相の評判は良くない。国王陛下のお言葉にも否定的で、政権を握ろうと暗躍していると、まことしやかに噂されていた。 宰相は先代から世襲で受け継いだ地位なのだから、それも頷けた。俗に言う親の七光りだ。 5代目である現宰相オードネン閣下は、先代が築いた富も食い潰しているという。それはユシアン様も例外では無く、いつも煌びやかなドレスを纏っていらっしゃるらしい。まだ11歳のため社交界にはお出でにならないから、私はお目にかかった事が無いのでなんとも言えないけれど。 そんな宰相を敵に回すかもしれない今回の求婚。アイフェルト殿下は聡明なお方だというから、その辺りもご存知のはずなのに。 困り顔で思案していると、父からまた突飛な言葉が飛び出した。「そこでなリージュ。明日殿下がお前に会いたいそうだ。夜会前に仲を深めたいと。迎えを寄越してくださるそうだから、準備をしておいてほしい。ネフィには伝えているから、お前もそのつもりで」 それにはさすがに私も声を荒らげた。「そんな……! 明日だなんて、しかも王宮にでしょう? ドレスも準備が間に合いません!」 けれど父は苦笑いを浮かべ、言
Last Updated: 2025-07-25