Chapter: *エピローグ“――おねむりよい子 あまいミルクに つつまれて おねむりよい子 あったか毛布に くるまれて よいゆめを よいあすを おねむり おねむり――” 陽だまりのにおいのするブランケットに包まれた小さなぬくもりが曇りのない瞳で唄う姿を見つめている。いつか見たかもしれない記憶のどこかに眠る景色に俺は目を細めて眺めてしまう。 やさしい歌声が繰り返し口ずさむ子守唄に、小さな瞳は無邪気な笑みを返してくる。「もーう、ご機嫌なのはわかるけど、お昼寝してくれよ、カナデぇ」 かれこれ一時間近く子守唄を唄ったり寝たふりで誘導したりしても、ちっとも眠る気配のない小さなカナデと呼びかけられた赤ん坊に、朋拓がとうとう|音《ね》を上げた。当のカナデはケタケタと機嫌よく笑っている。 すっかり我が子におちょくられている朋拓の姿がおかしくて思わず俺が笑うと、子どものように拗ねた顔をした朋拓か助けを求められた。「唯人ぉ、笑ってないで助けてよ~。カナデ、俺が唄うと笑って寝ないんだもん」「朋拓の声は寝かしつけるって言うより元気になる歌声だから」 俺がそう言いながらベビーベッドを覗き込むように立っている朋拓の隣に立って中を覗き込むと、カナデは嬉しそうに声をあげる。手を差し出すとしっかりと力強く小さな手で握りしめてくる。そのぬくもりと力強さに、俺はいつも胸がきゅっとしてしまう。 ほんの半年前、カナデは俺がこの世に産み出した正真正銘の血を分けた俺と朋拓の娘だ。目許は俺にそっくりで、口元は朋拓によく似ている。笑うとますます朋拓に似ていて、寝ている姿は俺にそっくりだと朋拓は言う。 長く決して平坦と言えなかったコウノトリプロジェクトの治療とそれによる妊娠期間を経て授かったカナデは、生誕時こそ小さめであったけれど、いまはすくすくとミルクを飲み、そろそろ離乳食を始めようかという頃だ。 朋拓に
Last Updated: 2025-07-10
Chapter: *32 それから俺は朦朧とした意識のまま酸素マスクを宛がわれて手術室へと運ばれていった。「独島さーん、わかりますか? いまから麻酔して、赤ちゃん誕生させますからねぇ」「唯人! 唯人!! 先生、唯人をお願いします!!」 病院と思われるところに到着してからはただ目許に明るいものと冷たい感覚がある事しかわからず、朋拓の顔も有本さんの顔もわからないままだ。ただずっと、手術室に入りきってしまうまでずっと誰かが手を握っていてくれたのが嬉しくてホッとしていた。「唯人、大丈夫、俺、待ってるからね」 意識が途切れていく直前、耳元に届いた声に俺は小さくうなずけた気がしたけれど、本当のところはわからない。ひとつ、ふたつ、みっつ……ゆっくりとまぶたに移る光の数を数えていたらゆっくりと意識が深いところへ落ちていく感覚がして、やがて何も見えなくなった。 それから俺は、気付けばやわらかであたたかなところを小さな手に繋がれてどこまでも歩いていた。(これは夢? 現実……にしては、俺の姿は妊娠前の姿なんだけれど……?) あたりは薄っすら明るいけれどぼやけていて、あたたかいけれど少し蒸し暑い。知らない場所のはずなのに、どこか懐かしく思える。 遠く、潮のにおいとさざ波の音が聞こえる……そう、感じた時には俺はあたたかな砂浜の上を歩いていた。降り注ぐ陽射しは熱いくらいに眩しく、俺は目をこらす。 隣には、俺の手を牽く小さな光の塊のような誰かがいる。『こっち、こっち』 俺の手を牽く小さな手のそれはそう言って俺を引っ張っていく。熱いほど温かなその手は、小さいのにしっかりと俺の手を握りしめている。まるで、手術室に入るまで俺の手を
Last Updated: 2025-07-09
Chapter: *31 それから朋拓が窓口になって例のメールの相手の連絡先を探り、コンタクトを取ってくれた。 相手は四十代の女性で、俺の父親にあたる人はいまは傍にいないと言う。「シングルマザーだったんだ……だから捨てられたのかな」「そうだったとしても、もう少し早く会いに来るべきじゃなかったのかな」 朋拓を介して数回やり取りをし、今日いまからふたりで会いに行くことになっている。 蒼介から借りた車に乗り、待ち合わせの指定場所――それはあの江の島の海のそばの公園だった――を目指す。「指定された場所もなんだかなぁ……もっと人目があるとこならわかるんだけど」 俺の母親と言う人に会うことが決まってから、朋拓はずっと機嫌が悪い。普段が機嫌が好すぎるくらいなのでかえって不機嫌さのすごみが増す。 だからなのか、俺は余計なことばかりひとりで喋ってしまう。俺の好きな海のそばだなんてすごい偶然だな、海が好きな人なのかな、とか、これからも会えたりするかな、とかはしゃいで喋る一方で、俺が子ども産むことを嫌がったりしないかな、と不安になる気持ちも同じくらい胸によぎる。「唯人、落ち着いて。お腹の子に響くよ」「……ごめん」 いつになく静かな朋拓の口調に、冷や水をかけられたように気持ちがしぼんでいく。朋拓はそんな俺の様子を居た堪れない様子で横目で見ているのだけれど、いつものように慰めてくれない。それが、ちょっとショックだった。 確かに、俺が捨てられたことを許せるかと言われると、わからない。でも、パートナーもいない経済的に苦しい状況だったとしたら、もっと何か事情があるのなら……俺は、棄てられたことを責めるべきなんだろうか?「……ねえ、朋拓。俺、ママを責めた方がいいのかな?」
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: *30 帝王切開での出産を迎える俺の予定日は十月二十四日。偶然にもその日は俺と朋拓が初めてメタバースのSUGAR内で出会った日だった。 きちんと俺が憶えていたわけではなく、朋拓に予定日を告げたらそう教えてくれたのだ。「え、そうだったっけ?」「そうだよー。まあ、唯人はそういうのこだわらないのは知ってるけどさ。俺はすっげぇテンション上がったんだよ、運命だー! って」「でもそう言われると確かに運命的な気がしてくるね」 俺が大きく丸くなったお腹をさすりながら言うと、その手に朋拓も重ねてくる。お腹の中の子はこの八カ月ちょっとの間、大きなトラブルに見舞われることなく順調に育ってきているらしく、とても元気がいい。現にいまも俺らに存在を誇示するように胎動している。「っはは、元気だなぁ。自分が話題の中心だからかな」「主張が激しい子みたいだね」「いいじゃん、自己主張は大事だよ、唯人」 苦笑する俺に朋拓が嬉しそうに笑い、俺もそうだねとうなずく。 手術にあたっては、数日前から準備のために俺は入院して、朋拓は前日の今日から付き添いで明日の手術まで泊まり込んでくれることになっている。 大きな手術はコウノトリプロジェクトを含めて全くの初めてで、手術は万一に備えて全身麻酔で行われることになっているんだけれど、不安が全くないと言えば嘘になる。 いまこうして朋拓と笑い合っているけれど、あと一ヶ月ほどあともそうしていられるかわからなくて、ふとした時に考え込んで口をつぐんでしまう。「唯人?」「あ、ごめ……なんだっけ?」「疲れた? もう休もうか」 朋拓が心配そうに優しく顔を覗き込んでくる。それに微笑んで返そうとしたけれど、なんだかうまく笑えない。震えそうになる指先を、朋拓がそっと握りしめてくれる。「唯人、怖い?」
Last Updated: 2025-07-07
Chapter: *29 ボーナストラックのレコーディングの三日後に俺は病院からの連絡を受け、無事受精で来た卵子を腹腔に入れてもらった。 通常体外受精をしたあとは特に行動に規制なく日常生活を送れるというのだけれど、俺の場合は無事着床が確認できるまでは絶対安静を言い渡されているので、そのまま入院して様子見となる。 今回は絶対安静なので部屋の中であっても動き回ることは制限されていて、基本ベッドに寝ているしかない。勿論歌うなんてとんでもないので絶対禁止だ。「大声で笑うのも禁止だって言うからさぁ、お笑い番組も見るのためらっちゃうよ」『そっかぁ、それは退屈すぎるね』 ホログラム表示のおかげで寝ころんだままでも難なく対面しているように通話はできるけれど、着床が確認できるまでは家族であっても面会ができない。それくらいの安静なのだ。『起き上がるのってご飯の時くらい?』「うん、そう。あとはずーっと寝てる」『本とか読む?』「飽きちゃったよ。面白くても笑っていいかわかんないし」『少しくらいならいいんじゃない?』「そうかなぁ……なんかさ、物心ついてからずーっと唄ってたから、こうやって唄えない毎日ってすごく変な感じ。まるで自分の一部が使えなくなってるみたい」 唄うことは俺にとって生きていく|術《すべ》でありながら表現であり、意思表示でもあったから、それを制限されるとどうしていいのかわからなくなる。物足りないというよりも何かが欠けている気がしてしまう。 そして同時に、こんな日々が永遠に続いたらどうしようという不安も漠然とある。「俺、またディーヴァになれるのかな。唄い方とか忘れないかな」 自嘲するようにそう呟くと、朋拓が『忘れないよ、絶対』と強い口調で返してきた。 問うように見つめると、朋拓は真剣な顔をしてこう続ける。「唯人は
Last Updated: 2025-07-06
Chapter: *28 妊娠前最後になるだろうという事からかなりいつもより激しめにセックスをしたことで俺は意識を飛ばしてしまい、病院からの連絡に気付くのが遅れてしまった。 病院からの連絡とは昼間採取して提出した精子の状態の報告であり、更に先日先に作成していた俺の卵子と受精するかどうかという話だ。「病院、何だって?」 伝言メモの音声を聞き終えた俺に朋拓がそわそわした様子で訊ねてくる。コウノトリプロジェクトで妊娠を希望していても、相手の精子が弱かったりなかったりして、不妊であることが発覚するケースが少なくはないと病院で聞いているので、朋拓がそわそわして病院からの話を気にするのも当然だろう。「精子、良好だって。だからすぐにでも受精させるって」 俺がそう言って朋拓の方を見ると、朋拓は心底ほっとしたように息を吐いてくたっとしなだれかかるように俺の隣に寝ころんだ。「良かった~……ちゃんとした精子なんだ~」「精子の健康状態なんてこういう機会でもないと知ることもないだろうしねぇ。卵子も良好みたいだから、たぶん大丈夫だよ」「うん、そうだね……唯人、今度いつ病院行くの?」「んー、病院から連絡きてからなんだけど、たぶん一週間以内に来てくれって言われると思う」「そっか……そしたらいよいよ、なんだね」 卵子に精を受精させるのはその日のうちに行われるらしいけれど、胎内(俺の場合は腹腔だけど)に戻すまでには数日程を要するらしく、着床させるのは更にその後になるという。 着床して、さらに胎児の心音が確認できれば無事妊娠したと認められるのだけれど、そこまでの道のりは険しいし、そのあとも妊娠を維持させる努力をしなくてはいけない。「んまあ、そうだけど、それまでにあれをやっちゃわないと」 受精卵を入れ
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: *十一 湯あみでの気付き 町を散策した日を境に、三人の距離は一段と近くなった気がする。特に顕著なのが入浴時だ。「さて、楓さま。御手をあげてくんな。垢すりをしてやるよ」 普段通り、体を洗うのは松葉の役割なのだが、そのやり方がこの頃少し変化してきている。以前であれば、石けんを泡立てて手ぬぐいにこすりつけ、それで身体を洗ってくれていた。 しかしこの頃は、手ぬぐいを用いない。松葉が泡を手に取り、それで楓の体を擦ってくるのだ。 泡をまとった松葉の大きくな手のひらと長い指先が、楓の肌を滑っていく。その感触が、くすぐったくてつい、楓は笑いをこぼしてしまう。「っふふ、くすぐったいよ、松葉」「ほれ、そんな動かねえでくれよ楓さま。擦れないだろう」「っふ、ン、ッあ」 不意に抱き寄せられ腕の中に納まり、その指先が胸元や腹のあたりに触れる。性的な意味合いはないはずなのに、不用意に触れられて声が漏れてしまう。 楓は慌てて唇を噛み、声を漏らさぬように堪えるのだが、松葉はそんな様を知って掠らずか、構わず抱きすくめたまま肌を擦ってくる。「今日は表に出ただろう? よぅく洗っておかねえとな……」「ン、ンぅ……ッは、ンぅ……」 本当に、楓が漏らす声に気付いていないのだろうか、と思うほどに、松葉の手は楓の体の隅々に触れてくる。それも丁寧に執拗なほどに。 いやらしい意味はないはず、これはただ体を洗っているだけ……そう、楓は自分に言い聞かせはしつつも、頭のどこかでは、「でも、この共同生活はやがて参院でセックスをするためのものでしょう?」と、問いただしてくる考えもちらつく。そうしてそれはやがて、楓の花芯をゆるく|勃《た》ち上がらせていくのだ。「っふ、ンぅ……ッは、ン……」 堪えているはずの口元がほどけ、つい、声が漏れてしまう。ギュッとそのたびに身体を硬くすると、ほぐすように松葉の指が肌に触れてくる。それが一層、楓を甘くとろかせていくのに。 ぎりぎりと耐えながらうつむく楓の耳元で、松葉が濡れた声で囁く。「どうした、楓さま……体がどこもかしこも真っ赤に熟れてるぜ?」
Last Updated: 2025-09-14
Chapter: *十ノ二「へぇ、凝ってるねぇ。お前さんの手作りかぃ?」 的屋の娘に松葉が問うと、娘は違うと首を振り、寂し気に苦笑して答える。「いいや、おっかさんの手慰みさ。禍の病のせいで仕事ができないから、気持ちがくさくさしちまうって言うから、千代紙でなんか作んなよって言ったらこれをこさえてくれたんだよ」「……へぇ、そうかぃ。上手いもんだ」「そう言ってくれると、おっかさんも喜ぶよ。先月からはおっとさんも病にかかっちまってるもんだから、娘のあたしに世話掛けるって、二人してふさぎ込んじまってるからね」 禍の病により、仕事を失う者もいれば、生活が立ち行かなくなる者もいる。病が進めば先祖返りの恐れもある。そのため、それまで自活できていたのに、罹患したせいで暮らしがままならなくなり、家族に扶養されなくてはならなくなる。それを、後ろめたく思う者も少なくはないという話なのだろう。 楓は話を聞きながら手許の簪を握りしめ、うつむく。自分がもしこちらに来てすぐに神事を行えていれば、彼女の両親はそう思わずに済んだかもしれない……「もしも」の想像の域を出ない話ではあるが、申し訳なさを覚えてしまう。「……ごめんなさい」 つい口をついて出た言葉に、娘はきょとんとし、「うん? 何で兄さんが謝るんだぃ?」と首を傾げる。 楓が神子様であることは関係者以外に知られては、治療をして欲しいなどと持ち掛けられて騒ぎになりかねないため、伏せておかねばならない。それでも罪悪感に耐えかねて口をついて出た言葉に、楓は慌てて口を塞ぎ、弱く笑って言い訳する。「あ、えっと……当たり、出しちゃったから……勿体無いなぁって思って……」「っははは。いいんだよぉ、もらってくんなよ。ウチの店で当たったらこんないいもんもらえるよって触れ回ってくんな」 娘が明るくそう笑ってくれたので、楓は改めて礼を言って店をあとにした。手許に握られた簪には小さな鈴もついていて、歩みに合わせてささやかな音を奏でる。それはまるで、自分の不甲斐なさに沈む楓の心を慰めているかのようだ。「禍の病にかかっている人って、仕事が出来なくなっちゃったりして、大変なんだね……」
Last Updated: 2025-09-13
Chapter: *十 的屋で遊ぶ 朝倉堂の店内を見学した後、楓は松葉と常盤に連れられて通りを歩いてみることにした。 病が早いっていると聞いていたので、暗い雰囲気が漂っているのかと想像していたが、道行く人々の表情は特段暗く沈むことはない。獣の耳や尻尾が生えていて和装である点を除けば、楓が住んでいた町のにぎやかさと変わりはないように見える。 朝倉堂は、通りの中でも人通りが多い一角にあるようで、往来が激しい。人だけでなく大八車も荷台を牽く馬も行きかっている。「手始めにどこ行くかなぁ……流行りの的屋にでも行くかぃ?」「まとや?」 道を歩きながら、聞き慣れない言葉を返すと、常盤が答えてくれた。「三文銭ほどで五回、弓矢で射的を行う遊技場です。当たりが出れば何かがもらえるんだそうですよ」「まあ、駄菓子とか酒のつまみとかそんなもんだけどな、元が三文だから、あたりゃ儲けものってところだ」「おもしろそう! 行ってみたい!」 そうして早速、歩いて数分の店に入り、松葉の手ほどきを受けつつ弓矢を構える。弓道なんてたしなんだことがないので、楓にとってこれが初めてだ。 的は大人の手のひら大の素焼きの皿で、それを射落とすか割れば当たりだという。 まずは松葉が弓矢を構え、ささっと三回連続で的を射ることができ、景品の一つであるスルメイカの干物をもらっていた。「上手いねぇ。常盤はできる?」「え、ええ、まあ……」 いつもであれば何事もそつなくこなすイメージのある常盤なのに、なんだか煮え切らない態度である。その様子を、松葉がニヤニヤと、イカの足を咥えながら見ている。「座り仕事の多い医師様にゃあ、弓矢なんて難しいんじゃねえのか?」「戦場でもあるまいし……これくらい、造作ありません」「へぇ。じゃあ、当ててみろよ」 挑発するような目を向けてくる松葉に対し、常盤は珍しくあからさまにムッとし、弓矢を構える。心なしか矢じりが震えて見え、狙いもブレているようだ。 そうして射られた矢は、案の定大きく的を外し、松葉が腹を抱えて笑う。「い
Last Updated: 2025-09-12
Chapter: *九ノ二「こちらが、当店自慢の商品棚でございます。ざっと、二百、いや、三百の薬湯や薬を扱っております」「わあ……すごい数の引き出し……」 店内の最奥の壁には一面の木製の引き出しが作りつけられていて、そのすべてに小さな品目の紙が貼られている。人間界で言うなら、薬局の棚と同じだろうか、と楓は考える。「右から咳止め、痰きり、熱さまし……あとは腹下しの薬なんかが良く出ますね」 よく使うものほど下段にあり、滅多に出ないものは上段に置かれているという。喜助はその中でも特に珍しいというものを見せてくれた。「……これは?」 それは和紙で丁寧にくるまれた、一見高麗人参にも見える長細い植物の根のようなものだ。枯れた草のようなものを生やし、根のような部分が黒ずんでいる。「|冬虫夏草《とうちゅうかそう》、と申します。土の中の虫やクモなどに寄生し、キノコを生やすものでございます。これはセミタケになります」 そうやって見せられた冬虫夏草はなかなかにグロテスクな姿で、楓は思わず小さく悲鳴を上げそうになったが、辛うじて堪える。「こいつはな、滋養の付く効能がある。特にウチで扱うのは物がいいからな、評判ではあるんだぜ」「こ、これをそのまま飲むの?」「まさか。乳鉢で潰して粉にして、煎じて飲む。もちろん飲みやすいように他の薬草とも合わせてな」「その行程は私もやったことはありますが……まさか現物がこんなものだとは……」 常盤も、診療所では薬になっている姿で扱うからか、原材料の姿で目にすることは滅多にないようで、若干顔を背けていた。尻尾も垂れた様子を、松葉が面白そうに見ている。「夜伽の薬はまあだいたいこういう見てくれのものが多いかな。なにせ、精をつけるんだからな」 そんな話をしながら、松葉はまた次々に新たな薬を出してきては説明してくれる。座学は苦手だと言って、常盤の講釈には顔を出さないが、それでも薬に関することになるとちょっとした講座が開かれたようになる。「こっちはもっと珍しい。舶来ものだ。金貨百枚出しても欲しいって御仁がいるくらいだ」 そんな
Last Updated: 2025-09-11
Chapter: *九 松葉の店・朝倉堂 神子が内に秘めている治癒力を覚醒させるためには、半獣の中でも妖力の高いものと交わることが条件とされている。神子の体内に妖力に満ちた精を注ぐことで、それが可能になるためだ。「神子様の体内、|胎《はら》……下腹部にあたる辺りに、慈愛の源になるものが眠っているとされております。その多くは、命を宿すことができる人間の女性の胎なのですが、極稀に、楓さまのように男性でもそれを持つ方がいらっしゃるのです」「男のそれは、精を生み出す場所にも近いからか、女よりも治癒力が高いとも言われている。だから皆、楓さまに多く期待してるんだろうな」 座学を始めて半月余り。そして同時に住処を共にするようになって同じくらいの日が経ち、知識の蓄積も、三人の物理的な距離も当初に比べれば幾分近くなっていると言える。楓も二人に世話されることにだいぶ戸惑わなくなり、身を任せるようになってきたのも大きいのだろう。「なあ、楓さまよ。俺の店に来るかい?」 座学を終えてお茶とか詩を楽しんでいる時、ふと、松葉がそう提案してきた。 松葉は、常盤が診療を行っている診療所に卸す薬を扱っている、薬問屋の旦那だという。店の経営は有能な番頭に任せているというが、それでも店を不在にするわけにはいかないのか、日中の多くは店に滞在している。「お店に? いいの、僕が行っても」「俺ぁ昼間ほとんど店にいて、楓さまと話も出来ねえんだ。たまにはいいだろ、常盤」 毎日、|朝餉《あさげ》を終えてすぐに屋敷を出て店に向かい、日中のほとんどを店で過ごしているため、松葉なりに触れ合いのなさを気にしているのかもしれない。 ただ神事のために共同生活をしているだけで、そこに何か愛着などないはず……と、楓は思っているのだが、それでも、相手から相手の領域に招かれるのは心を許されている気がする。しかも、場所はこちらではまだ行ったことがない場所ならなおさら魅力的だ。「そうですね、楓さまにもこちらの町の様子などを知って頂くには、いい機会でしょうから、そうしましょうか」「じゃあ決まりだな」 話が決まると、すぐに支度が始まる。初めての外出らしい外出とあって、二人は真
Last Updated: 2025-09-10
Chapter: *八ノ二 楓が心配そうに常盤の顔を窺うと、弱く微笑む彼が目を細める。「楓さまは、お優しいですね。あなた様が神子様で、本当に良かった」 常盤は、普段のつんと澄ましたようにも見える、涼しげな表情をほどかせて、楓をよく褒めてくれる。それがなんだかくすぐったく、微笑みかけてくる表情に懐かしさを覚えるのが不思議だ。 他にも常盤の座学では、文献を紐解いて|性技《せいぎ》の講釈も行われたり、二人とセックスをすることで、楓が得られる治癒力にどのような効能があるのかなど、内容は多岐にわたる。 そうしている内に日が暮れ|夕餉《ゆうげ》の時間となり、三人で食膳を囲み、風呂も眠るのも三人一緒なのだ。ただそこに、性的なふれあいはまだない。 松葉は座学は苦手らしく、その代わりに楓の風呂の世話やマッサージなどを請け負ってくれる。いまも楓の背後に座り、優しく髪を洗ってくれている。「洗い足りねえところはねえか、楓さま」「うん、だいじょうぶだよ」 まるで幼子に戻ったような扱いだけれど、触れ合いつつ互いに慣れていくことを思えば、必然な関わり方だろう。 体まで松葉は丁寧に洗ってくれ、お湯で洗い流すのも丁寧でやさしい。それは、正直少し意外だったし、実際、松葉が自身の体を洗い流すときは楓の時よりも随分荒々しい。常盤に顔をしかめられるのだが、それはそれで彼らしい振る舞いと言える。「どうれ、楓さま。頭を使って疲れただろう。ほぐしてやるよ」 そう言いながら、楓の肩や首をほぐしてくれるのは松葉のも役割だ。たくましい体躯で、力も常盤より強いというのに、その触り方はやさしく繊細さすら感じる。大きく太い指に肩や首を揉みしだかれると、自然と吐息を漏らしてしまう。「あー……すごく気持ちがいい……ありがとう、松葉」 マッサージもされて体の芯からホカホカしたままで湯につかる。大きなヒノキの湯船は、高級な温泉宿でもお目に掛かれないほどに立派なものだろう。 風呂だけでなく、閨の布団も当然ふかふかな立派なもので、寝間着もまた上等な仕立てだ。「しあわせすぎて、怖いくらいだな……」 人間界で
Last Updated: 2025-09-09