Chapter: 第37話 「全てを、絶望の月」「我が呪いの秘術をよくぞ打ち破った。さすがだぞルーテ」 魔導師は誇らしげに言った。「……わたしの名前はセーラよ。お父さん…」「父と呼ぶか」「名前を知らないですもの」「ハッハッハ…」 魔導師は表情を変えず続けた。「我らに名前などは無い」「……本当は貴方と戦いたくない、けど、わたしは貴方を……倒さなくちゃならない」「そうだ、お前の秘めた真の力を我に見せてみよ」「行きます!」 セーラは四枚の翼を羽ばたかせ超スピードで魔導師に突っ込んだ。 セーラの輝く身体の周りには光虫が飛び回っている。 魔導師は暗黒魔法を唱えた。«フォビドゥン» ドロドロとした瘴気の塊がセーラを襲う。 しかし光虫の展開する結界で無効化される。 セーラは魔導師の身体へ天使の鉞を打ち下ろした。 黒球の中の魔導師のマントを切り裂く。「お前は我の一部から生まれた、そのお前が我を滅ぼせばどうなるか、わかるか?」 魔導師の黒球がぼやけ崩れ出す。「お前も共に滅びるのだ」「……」「例えそうだとしても」 セーラは再び鉞による打撃を魔導師に加える。「わたしは貴方を討つわ!」 セーラの攻撃に魔導師の干からびた片腕が吹き飛ぶ。 光の追加効果が魔導師の再生能力を奪う。 魔導師は、セーラの素早い打撃を躱せず、両脚、あばら骨、内蔵と次々にその身体を失ってゆく。 顔だけになっても空中に浮かびながら語りかけをやめない魔導師。 その様を見て嘔吐するセーラ。「オェぇぇ…気持ち悪い。死なない、どういうこと……」「そのような…方法では、滅びはせぬ」「くっ…どうすれば」「ルーテよ、共に、我が創り上げた…神と同化、するのだ…」「冗談じゃないわ!」 魔導師の頭部は神と呼ばれた異形の巨大生物と融合しかかっていた。「オレ達だってサポートはできる!」 カイは攻撃力上昇の魔法をセーラに唱えた。「私もよ」 マリアはヒールをセーラにかけまくる。「駄目、引っ張られる…!」 セーラの身体も魔導師と共に異形の神に取り込まれてゆく。「セーラ!!」 マリアが叫ぶ。「吸収されちまった…セーラが」 カイが呆然と見つめる。 セーラの身体は、魔導師の纏う黒球と共に歪みぼやけ、やがて完全に溶けて消えた。 異形のお父様の体内。「ここが、本体ね……」 吸収された他の天使や魔物の亡骸を次々
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 第36話 「我々の世界」「リセット?」 カイが怪訝そうに繰り返した。「簡単に言えば、修正すべき事象が起きる"前"まで時間が戻るということだ。 その間に生まれたものは存在しなくなり、無くなったものは復活する」「アレフが生き返るってこと!?」 楽観的なマリアは手を叩いて喜ぶ。「どこまで戻るかは神のみぞ知る…必ずしも我々にとって都合が良い結果になるとは限らない。 それにアレフが死んだ事実も無くなるのだ」「あぁ~頭がこんがらがってきた」「全てをリセットしたくなること、あるよな」「それが神様の御業……?」「つまりやり直しってことや」「横暴やな」(……セーラ)「誰かがセーラを呼んでる……」「そうだわ、わたしには成すべきことがあったんだ」「セーラ?」「ごめんねマリア。わたし行ってくるね」「えっ…どこに? 帰ってきたばかりなのに」「まだ魔族は生きてる。倒さなくちゃ」「いやいやっ! もうどこにも行かないで。どうしてセーラが戦わなくちゃいけないの」 駄々を捏ねるマリア。「絶対戻ってくるから。約束」 優しく声をかけるセーラ。「やだ! あたしも行くから!」 マリアは涙に鼻水を垂らしながらセーラの服の裾を掴んだ。「オレも行くぜ」 カイが臆せずに続く。「オルドさんは?」「行かない」「チキン天使長…」「私にはここを護る責任があるのだ!」「だから、守れてないやないか」「もうっ。みんなしょうがないなぁ」 セーラは根負けして四枚の翼を羽ばたかせる。 マリアとカイがセーラの身体に抱きつき、バヒュンと音を立て空高く飛んでいく。 見上げるオルドは、眩しい陽光に目を細めながら心の中で呟いた。「さらば、神に翻弄されたる心優しき天使よ」◆ ヘルキャッスル跡地には小さな空洞ができていた。 空洞は異次元空間になっており、中の壁は臓物のように蠢いていた。 奥で待っていたのは、横たわる異形の魔生物とその上に座る魔導師だけであった。 「遅かったな、ルーテ…」「……」「魔導師…」「一人か?」 ─── セーラたちが訪れる数時間前。 魔導師はお父様の回復と、更なるパワーアップのために騎士たちを使おうと考えた。 今なら二匹とも手負い。抑え込むのはそう難くない。「この前の恨みか?」 騎士は薄笑いを浮かべて言った。「ガル……貴様、乱心したのか」
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 第35話 「帰還」 二つの浮遊大陸における天使の軍団と闇の魔導師たちの戦いは熾烈を極めた。 しかし、無限に増殖する魔物に押され、天使たちの勢力は少しずつ減っていった。 最後に残った能天使パワーは天を仰いだ。「先の大戦と同じか。しかし蘇生を行える天使はもういない」 そして最後の天使パワーは獅子の魔物と対峙した。 獅子の四つ腕の爪が大きく変形し、縦横に延びて次々と地面に刺さり、獲物を逃がさないよう囲った。 パワーはその身に残っている全聖光気を解放した。«ディスピアード・レイ» 凄まじい質量を持った光の槍が、獅子の形成した爪の檻を突き破ってその腕二本を貫き、もぎ取った。 その間隙を縫って黄金の騎士が、光速の斬撃でパワーの身体をズタズタに斬り裂いた。 獅子と相打ちの形で最後の天使パワーは息絶えた。「手こずったな」「グルル……なぁに、これくらいの傷」 異形の魔生物は身体が変形し、崩壊しかかっていた。 魔導師が必死で回復を試みているが、天使の何体かは身体から分離して消滅してしまっていた。「やはり早かったな……作り直しだ」 魔導師は負傷した獅子たちのほうを振り返った。◆ セーラは悪の尖兵として、天使たちと戦いながらも、分裂した天の魂は夢を見ていた。 天使の鉞、アイギスの鎧、天空竜の兜、エデンの盾……天界の装備に身を包んだ勇ましい自分の姿。 そしていつも隣に有った碧い珠、今は暗い灰色となった珠を握りしめた。 珠は輝きを取り戻しセーラを三度、目覚めさせる。 視界に広がった場所は遥か天空の頂上付近であった。 セーラは夢で見ていたその二対四枚の翼で宙を羽ばたき飛んでいた。 地上を見下ろすとどこもかしこも戦争をしていた。 カイやマリア、それにオルドも、魔物たちと戦っている。「わたしだって天使だ! 加勢に行かなくちゃ」 そうセーラが意気込むと、どこからか声が聞こえてきた。「君にはやることがある」 声の主は姿を見せず、小さな羽虫がセーラの周囲を飛んでいた。「セーラね」「誰ですか? 虫さん?」「君を呪いから解き放ち再生したもの」「再生? じゃあわたし一度死んだの? あなたは…神様ですか?」「私は神ではないよ。君は死してなお、新しい命を持てる器だったんだ」 よく分からない話よりも、セーラは早くマリアたちのところへ飛んで行きたかった。「君がいま
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 第34話 「神のシステム」 私たちは用意された舞台で踊ることしか出来ない。 いわゆる箱庭ゲームをプレイする存在があるとするならば、それはつまり神である。 その存在はゲームに登場するキャラクターを操作し、パラメータや行動を決め、その人生を創る。 生かすも殺すも自由に、全ての運命は移ろいゆく。(オルドの記述を鑑みて考察するに、厳重な管理体制の下でプレイされている、と仮定する) オルドが異常に気付いたのは、およそ300年ほど前、目の前に起こった事象に端を発している。 突如、自分以外のデータが全てリセットされ、世界がそれまでとどこか違ったものに変わっていた。 オルドはその微細な変化を見逃さなかった。 彼はその変化を神の御業と結論づけた、彼にとっての神は、何者かであり、別次元の、偉大でもなんでもない存在、その所業が行なわれる直前にあった事、それは、深淵なる異物が神のシステムに干渉を試みた、いわば本の登場人物が読み手に何らかの物理的な干渉を成功させた、変化はその結果である。 いま、光り輝く天使の装備に身を包み、二対四枚の翼を持った霊体が、その使命を果たさんとしている。 魔と天は互いに殺し合い、人はその争いに巻き込まれ、地上から消滅してゆく。 二対四枚の翼を持った天使はこの世界の理の全てを超越した場所にいた……。
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 第33話 「箱庭」(ゴォォォォォォ) 無造作に生えた羽でも、それぞれがめちゃくちゃに羽ばたけば、巨人でさえ天空を自在に飛び回ることができる。 お父様に乗った魔導師たちは、いくつかの浮遊大陸、エルフの里、天使の住む塔といった、強者や天の者が集うめぼしい地を次々と滅ぼしていった。 お父様の見てくれがグロテスクなせいか「神はお怒りだ」「天罰だ」と人々は恐れ慄いた。 そして、世界の人口は実に半分にまで減った。「それいつまで封じ込めてんの? 名は確か、セーラといったな」 兜を脇に抱えた騎士が訊ねる。「ルーテだ。出しても構わぬが」「ガル…ガルガル…出てきた途端、また襲いかかってくるんじゃねぇか?」「ルーテは我が呪いの秘術をその身に受けた」「どうなるんだ?」「天使や人間に与することで、乳首の色が青から紫、そして赤へと変わっていき、やがて深紅に染まりきると、全身が遺伝子レベルで分解され、バンデッドウデムシに再構成されるのだ」「愛しき娘、じゃなかったのか?」「もちろん醜いウデムシなどに変わる前に、我の手で解呪するさ…それに」 そこで魔導師は言葉を区切った。「この呪術の解除方法はいたって簡単だ」(キュエアアァアァッ) 実験台にされた天使の悲喜交々な顔面は、強風を受けてウネウネと別の方向に動き、その首をちぎれんばかりに伸ばして荒々しく叫んでいた。「それは愛する者の心臓を抉り出し喰らうことだ」「ガル~……お前の話し聞いてると気分が落ちるわ…」「出してやればいい。死んだか逃げたスライムの代わりになるだろ」「強い魔族は多いに越したことはない…グルガルッ」 魔導師たちの次の目的地は『シャイニング・バインド』『グローリアス・ヘイロー』と呼ばれる、天使の総本山とでも言うべき、強大な聖光気で包まれた双子の浮遊大陸であった。 倒れたモンスターの補充は、魂を削る老いた魔導師の代わりに、お父様がその羽根一枚一枚からノーリスクで生み出していた。「天使の属性を合わせ持つ魔族を量産できるならば、我々の勝利は揺るがぬであろう……」 魔導師はセーラを封じ込めた黒いビー玉をコロコロと手の中で遊ばせながら呟いた。◆ 空が茜色に彩られた早朝、カイは浅い眠りから目を覚ました。 隣で蓑虫のように寝袋にくるまっているマリアは、まだスヤスヤと寝息を立てていた。 カイは一晩かけてある決意を固
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 第32話 「やさぐれマリア」 マリアとカイはアレフの亡骸が入った棺を引きずりながら、レムリアの城下町へ戻ってきた。 そして教会の庭にアレフを埋めて墓を作った。 セーラとアレフを同時に失って落胆したマリアはやさぐれていた。 酒をかっ喰らい、高価なアクセサリーを買いまくり、暴飲暴食をして持ち金を全て使ってしまった。 自暴自棄と自堕落を絵に書いたような生活。 ヤケになりすぎてカイを夜のお供に誘って性行為をしてしまう程であった。 「どうせ世界は終わるんだから、もうどうだっていいわ」 ─── 今までの苦労はなんやったんや やってられるか マリアは段々と口汚きガラの悪さが増していった。 ノースリーブの脇から見えるマリアの巨乳が、ぷるんと揺れてカイを悩殺する。 カイはマリアとの二度目の性行為を試みたが、叶うことは決してなかった。 そうして数日が経った。 オルドのいる塔が瓦解したとの噂を聞き、二人は塔へ向かう。何となく向かう。 「あいつらにかかればオルドだって一溜りもないだろう」とマリアは思った。 オルドの真の力は見たことがないが、天使長というくらいだから、ヒラ天使のセーラより少し強いのかもしれない。 ໒꒱· ゜ 塔に辿り着くと、中はズタボロで、複数の魔物と天使が倒れていた。 マリアはぺたんとアヒル座りになり、声もなくそれを見つめた。 カイはショックの余り貧血を起こして倒れた。 オルドの姿は見当たらず、倒れた天使の一人が血のついた指でダイイングメッセージを残していた。 開け 天の聖櫃 主の名において その力に満ちよ タナトス・サネントゥール かつて、魔と天が争った大戦において、劣勢に立たされた戦局をくつがえす為に、熾天使セラフィムが使用したとされる究極の蘇生呪文があった。 呪文の触媒は術者の命。 天使の軍勢のために命を投げ売つ覚悟が、生と死の極限たる呪文の成就を可能にした。 だが、あまりにも危険であるが故にその詠唱はごく一部の高位の天使にしか伝えられなかったと言う。「床に書かれたその血文字こそが、究極の蘇生呪文の詠唱である」 倒れていた天使の一人が、むくりと立ち上がった。 「オルド様!」 「ご無事だったのですね」 カイとマリアが手を合わせて
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 付録文書②「HKOと箱庭の関係」付録文書②「HKOと箱庭の関係」文書識別番号:HKO-REF-02分類:内部参考資料/極秘閲覧権限:Σ7以上改竄検知:有備考:本資料は「箱庭(HKシリーズ)」の運用理念および管理構造を理解するための補足文書である。■ 概要HKO(Humanity Keeper Organization)は、人類文明および知的生命圏の長期存続を目的として設立された観測・管理組織である。HKOが管理・観測する「箱庭(HK-***)」とは、文明の発生・成長・衰退・再構築を、外部から観測可能な形で内包した閉鎖型世界モデルを指す。HK-015《箱庭リジェネシス》は、その中でも極めて高い再現性と自律性を持つ実験区画である。■ 箱庭(HKシリーズ)の定義箱庭とは、以下の条件を満たす世界である。1.外部世界と因果的に切断されている2.内部において自律的な文明進化が発生する3.観測者(HKO)は原則として直接介入しない4.一定条件下でのみ、周期的リセットまたは修正が可能箱庭は「シミュレーション」ではない。内部に存在する生命、意識、文明はすべて実在である。HKOは、それらを創造したが、支配する権利を持たない。■ 周期(サイクル)という概念HK-015では、文明は「周期」と呼ばれる単位で管理されている。•文明の発生•社会構造の形成•技術・神話・信仰体系の発展•崩壊、または停滞•リセット(再生成)これら一連を一周期と定義する。第十五周期は、過去十四回と比較して、以下の点で異常が確認されている。•観測耐性個体の出現•因果干渉率の恒常的上昇•外部由来と推定される未知影の侵入•管理者権限・神性存在の不在にも関わらず、文明が継続している点■ HKOの立場と制限HKOは「管理者」ではあるが、「神」ではない。原則として:•文明への直接介入は禁止•個体の生死・選択への強制的修正は禁止•周期リセットはΣ7評議会の全体承認が必要HKOが行えるのは、観測・記録・最小限の因果補正のみである。それ以上の介入は、文明そのものの「意味」を破壊すると判断されている。■ Σ7評議会の役割Σ7評議会は、HKO内部における最高意思決定機関である。彼らは以下を決定する権限を持つ。•観測強度の変更•異常存在の危険度評価•局所的封鎖の承認
Last Updated: 2026-01-25
Chapter: 付録文書①「HKOにおけるΣ7評議会とは」付録文書①「HKOにおけるΣ7評議会とは何か」文書識別番号:HKO-REF-01文書名:Σ7評議会とは分類:内部参考資料/極秘閲覧権限:Σ7以上改竄検知:有■出席委員一覧(簡易)• Σ7-1:議長。冷静沈着、合理性重視• Σ7-2:リスク管理担当。慎重派• Σ7-3:技術・観測担当。データ重視• Σ7-4:戦略・防衛担当。先制策推奨• Σ7-5:倫理・規範担当。人道重視• Σ7-6:情報分析担当。観測ログ読み取りに長ける• Σ7-7:外部干渉担当。異常存在の影響評価• Σ7-8:歴史・文献担当。過去周期の比較担当• Σ7-9:社会構造担当。文明進化予測• Σ7-10:予算・資源担当。運用効率管理• Σ7-11:危機対応担当。異常事態即応• Σ7-12:心理・群衆担当。民意と集団心理• Σ7-13:最終承認・投票担当。決定権保持■ 概要Σ7評議会とは、HKO(人類観測機構)における最高意思決定機関であり、各管理世界・各文明周期に対する「観測」「介入」「放置」「破棄」の判断権限を持つ。HK-015──通称《箱庭》は、Σ7メンバーが長期にわたり観測対象として指定してきた世界群の一つである。本会議記録は、第十五周期文明が発生した直後に行われたものであり、後に「分岐点」として再評価されることになる。■ 会議ログ(再構成・正式版)会議名:Σ7常任評議会議題:HK-015/第十五周期生命文化の発生と監視方針記録区分:非公開・高度機密出席:Σ7-1 ~ Σ7-13(全員)冷たい空調音だけが、会議室を満たしていた。円卓の中央に投影されたのは、HK-015第十五周期文明の初期観測データ。都市、人口増加曲線、因果安定率。だが、いくつかの数値だけが、明らかに歪んでいる。Σ7-1(議長)「……確認する。HK-015において、第十五回目の文明周期が正式に開始された」誰も驚かない。この世界は、十四回、同じ結末を辿ってきた。Σ7-3(技術・観測)「異常値を報告する。観測耐性を示す個体が、複数確認された」スクリーンが切り替わる。少年、少女、そして冥界系と分類された存在。Σ7-6(情報分析)「ログの欠落も確認されています。物理破壊ではなく、因果の縫合が外れた痕跡です」Σ7-2(リスク管理)「
Last Updated: 2026-01-24
Chapter: 第九十七話「名前のない記憶」 同じ頃。 都市の外縁、立ち入り制限区域。 崩れた高架の縁に、一人の少女が腰掛けていた。 少女の名はパトラ。 国境、廃墟、地下。 彼女は一人、世界を歩いている。 誰にも知られず、誰にも告げず。 高架の下を、貨物列車の残骸が風に鳴らしている。 警告灯はすでに役目を終え、赤い光だけが惰性で点滅していた。「……面白くなってきたじゃない」 夜気に溶けるような小さな笑み。 眼下には、静かに広がる都市の灯。 それらは人の営みでありながら、 どこか作られた光景のようにも見える。 箱庭は、確実に外へと滲み始めていた。「観測者が、いち、にぃ、三人。介入者が二人……」 指を折りながら数え、首を傾げる。「うん。賑やか」 誰かが仕組んだわけではない。 だが、偶然にしては配置が良すぎる。 それでも、彼女の胸には満たされない感覚が残っていた。 視線の先。 見えない境界の、さらに向こう側。「神様気取りが、まだ動いてない」 その名を、彼女は口にしない。 呼べば、こちらを向いてしまうから。 パトラは軽く伸びをすると、高架から跳び降りた。「じゃあ、私は下から行こうかな」 重力を無視するような着地。 次の瞬間、少女の姿は闇に溶けた。◆ 孤児院の午後は、穏やかであった。 風に揺れる洗濯物。 子どもたちの笑い声。 どこにでもある光景のはずなのに、 カイは玄関先で足を止めていた。 理由は分からない。 ただ、この場所に踏み込んでしまえば、 何かが戻らなくなる気がした。 扉の前に立つ女性。 驚くほど普通の佇まい。「こんにちは」 ただそれだけの言葉が、胸の奥を揺らした。「……どうかしました?」 マリアが、不思議そうに首を傾げる。 整った顔立ち。 派手さはないが、柔らかな母性を感じさせる雰囲気。 年齢は、カイより少し上だろう。 だが、それ以上に、 声の高さや、立ち方、瞬きの間に、 説明できない懐かしさが混じっていた。 視線を逸らそうとして、なぜか一瞬、遅れた。「いえ……」 言いかけて、言葉が詰まる。「ただ……」 理由が分からない。 カイの胸の奥が、静かにざわついている。「マリアさん。変な意味じゃないんですけど……」 自分でも、なぜこんなことを聞くのか分からなかった。「以前、どこかで会ったこと、ありま
Last Updated: 2026-01-23
Chapter: 第九十六話「介入者」 オルドことソロは、モニター越しに『箱庭』を見下ろしていた。 都市座標HK-015。 異形の集合体は、既に終わるはずの存在だ。 複数の観測ウィンドウが重なり合い、現実と仮想の境界が曖昧になっている。 その中央で、カイ達の住む街を侵食していた異形の集合体が、まだ蠢いていた。「……遅いな」 独り言のように呟いた瞬間、通信が割り込む。『ソロ、見えてるか』 ジュリアンの声であった。 彼もまた、別の場所から箱庭を観測していたはずだ。「見えている。最悪のタイミングでな」 観測値は正常。 因果修正も完了している。 それなのに。『ライナスが転移している』 一瞬、空気が張り詰めた。「……確定か?」『ああ。挙動が内部の人間じゃない。 しかも、完全に干渉している』 ソロは舌打ちした。 別の場所で、ジュリアンもまた、同一の異常ログを見ていた。「よりにもよって、あいつが……」『目的が分からない。どこから入ったのかも分からない。 だが、このまま放置すれば──』「危険だな、世界は無茶苦茶に掻き回されるぞ」『箱庭は、壊れる』 沈黙。 箱庭への転移は、単なるログインではない。 “存在を世界に縫い付ける”行為だ。 しばしの後、ジュリアンが低く言う。『どうする? 我々も転移して、ライナスを監視するか。 住人、NPCを守るために』 ソロは迷った。 箱庭への直接転移。 それは本来、開発者である彼ら自身が、一番避けてきた行為だ。(旧周期のオルドは別) 「……そのリスクを一番懸念していたのは、ライナス自身だったはずだ」 転移を最小限に抑えていた彼が、今は戻ることなく箱庭内でずっと過ごしている。(何があった? 何を考えている? ライナス……)『だが、現実だ』 ソロは目を閉じ、短く息を吐いた。「……俺が行く」『ソロ!?』「お前は待機しろ。 サポートとログ保持を頼む」 そう言って、ソロは接続を切った。⸻ 転移は、一瞬であった。 次の瞬間、彼は箱庭の空に立っていた。 名も無き熾天使。 六枚の白銀の翼と、光を編んだ弓。 その姿は、かつて彼が好んだ理想そのものであった。 地上では、異形の集合体が街を飲み込もうとしている。「……派手にやる必要はない」 ソロは弓を引いた。 狙いは、中心部。 淡く脈動する“コア”。
Last Updated: 2026-01-22
Chapter: 第九十五話「デッドメモリー」 夕暮れの街は、深紅と紫のグラデーションに染まり、 その美しさとは裏腹に、瓦礫の山が痛々しい光景を際立たせていた。 崩壊したビル群の隙間に、青黒い影が溜まっていく。 空気は重く、呼吸をするたび、胸の奥に微かな違和感が引っかかった。 カイとイリスは、倒れた高架の陰に身を寄せていた。 異形の集合体は、少し距離を置いた街路で蠢いている。 追ってこない。 だが、去りもしない。「……様子がおかしい」 カイが低く呟く。 あの怪物は、獲物を追い詰める捕食者の動きをしていない。 ただ──観察している。 イリスは答えず、胸元を押さえていた。 鼓動が、速い。 さっきから、頭の奥で“何か”が軋んでいる。 思い出そうとしてはいけない記憶が、内側から叩いてくる感覚。「……イリス?」「……ごめん。ちょっと、気分が……」 言いかけて、言葉が途切れた。 視界が、一瞬だけ歪む。 ──羽音。 ──腐臭。 ──空を覆う、巨大な影。 ◆ 燃える空。 焼け焦げた大地。 仲間の叫びが、爆風にかき消される。 目の前に浮いていたのは、蝿の羽音をブゥゥンと響かせる魔神ベルゼブブ。 夥しい数の蝿が集合した巨躯。 無数の複眼が、嘲笑うかのように夕焼けを反射している。 その中心にある“核”が、不気味な律動を刻んでいる。「……ああ」 意志とは関係なく、悲痛な呻き声が、イリスの口から漏れ出した。 それは、過去の悪夢が蘇る予兆であった。 イリスの喉が、悲鳴を上げそうになるのを必死で押し殺した。 ひくりと、痙攣するように鳴ったのは、恐怖だけではない。 もっと深い、絶望的な感情が渦巻いていた。 逃げ場はなかった。 勝ち目も、なかった。 彼女は理解する。 この街は、 私を“もう一度爆死させる”つもりだ。 過去のトラウマを糧に、私を、そしてこの世界を、 再び地獄の炎で焼き尽くそうとしているのだ。『下がって!』 自分の声が、確かに聞こえた。 魔力が、限界を越えて集束していく。 身体の内側が、壊れていく感覚。 それでも止めなかった。 ──黒核自爆地獄(フェビュラス・ダスター) 核爆発。 世界が、黒に塗り潰された。 ベルゼブブの絶叫。 砕け散る肉体の再生が、間に合わない。 そして、 イリス自身が、消えていく感覚。 ◆「……ッ!
Last Updated: 2026-01-21
Chapter: 第九十四話「認識不能領域」 Σ7が異常を認識したのは、 それが“こちらを見返した”直後であった。 その瞬間、地上では、まだ誰も、 この異変の名を知らなかった。 逃走ログは、そこで途切れている。 因果の流れは断絶し、演算はすべて無効化された。 そして、Σ7は理解した。 これは「異常」ではない。 ──HK-015/Σ7統合管理室。 膨大な演算処理音だけが、規則正しく響く空間。 ここは絶対的な静寂と秩序に支配されているはずであった。 だが、今は違う。 静寂を切り裂くようなノイズが、張り詰めた空気を震わせている。 会議室の中央ホログラムは、あり得ないノイズを吐き続けていた。 光の粒子が激しく明滅し、規則性のないパターンを描いている。 それは、未知の存在を必死に捉えようとしているかのようであった。「……再確認する」 Σ7-01が、重く、しかし確固たる声音で告げた。 彼の声は、部屋全体に張り巡らされた神経回路を通じて、他のメンバーの意識に直接響く。「この座標に存在する黒色天体、物理量ゼロ、質量不定、因果干渉率∞、その存在を、我々は観測できているのか?」 誰も即答できなかった。 数百万のシミュレーションを瞬時に実行し、ありとあらゆる可能性を検討しているはずの彼らでさえ、この異常事態に言葉を失っていた。 通常、観測できるという事実そのものが、対象を管理下に置いた証拠だ。 データは解析され、予測され、制御される。 Σ7にとって、世界は認識可能な情報の集合体であり、すべては彼らの掌中にあった。 だが、表示されている黒球は違う。 それは、彼らの理解を拒絶する、異質な存在であった。 画面には、存在を示す数値だけが並び、映像は成立していない。 ノイズの海に浮かぶ、不安定な数値の羅列。 それは、世界の法則を嘲笑うかのように、そこに在り続けていた。 Σ7-03(技術)「……観測できていません。正確には、“観測されたというログだけが存在”しています」 Σ7-02(リスク)「意味が分からない」 Σ7-06(情報解析)「ログは存在する。しかし、その瞬間の観測データが丸ごと欠落している。まるで…」 言葉を探すように一拍置き、続けた。 彼の声は、わずかに震えているようにも聞こえた。「対象が、観測という行為そのものを後から消去したかのようだ。我々の観測装置
Last Updated: 2026-01-20