Chapter: 第二章 第62話 名前のない手「事故の三日後だ」 アウルが机へ置いた紹介状の控えには、見覚えのない商会の印影まで写し取られていた。 窓から差し込む冬の光は弱く、書斎の奥までは届いていない。机の上だけが燭台に照らされ、紙に残された署名と印の輪郭がはっきり見えた。 アウルは、使用人を周旋する者の帳面と紹介状の控えを辿っていた。伯爵家へ入った新しい従者は、伯爵が階段から落ちた三日後、「先代の頃からヴェルネ家と縁があった商会」の紹介を受けて雇われていた。「怪我をした当主の家なら、人手が増えても不自然じゃない」 アウルは紹介状の名義を指先で示した。「家令の補佐を任せられる者だと書いてある。ただし、この商会は八年前に畳まれていた」 私は控えへ目を落とした。 署名は整い、印影も一見しただけでは偽物と分からない。けれど、名義に使われた商会はすでになく、署名したはずの人物へ辿り着く手がかりも残っていなかった。 当主が倒れ、屋敷中が混乱していた時期だった。人手を必要としていた伯爵家に、古い縁を名乗る紹介状が届けば、細部まで確かめる余裕はなかったのかもしれない。 怪我人を抱えた家へ、もっともらしい書類と共に人を送り込む。辿ろうとしても、使われた名義から先へは進めないようにしてある。 脅迫状や毒の絵の指示書と、よく似た手配だった。 あの男は事故の三日後に偽の紹介状で入り、伯爵の居室へ続く廊下を見張っていた。 私は紙から顔を上げた。「偶然とは考えにくいわ。監視のために送り込まれた可能性が高いと思う」「俺も同じ考えだ」 アウルは紹介状を畳まなかった。「けど、今ここで捕らえるのは早い」 伯爵家の中には、父君の手紙を樫のうろへ運んだ者がいる。その人物が今も伯爵を守ろうとしているなら、監視役を突然消すことで疑いが向くかもしれない。 従者が戻らなければ、送り込んだ側に異変を悟られるおそれもある。最初に危険にさらされるのは、伯爵だった。 調べるべきなのは、あの従者の名ではない。誰から指示を受け、どこへ報告しているのかだった。 扉が静かに叩かれた。 入ってきたエレーヌの外套から、冷たい空気が流れ込む。裾には市場近くの泥が薄くついていた。「数日、出入りを確認しました」 日ごとに服と立つ場所を変え、伯爵家へ出入りする商人や使用人に紛れて見張ったという。 あの従者は、三日から四日おきに屋敷
آخر تحديث: 2026-07-24
Chapter: 第二章 第61話 同じ手 ファロー子爵家の門前で馬車が止まると、セシル様は父君の手紙を胸元へ引き寄せた。 泣いたあとの目元は赤く、手紙を押さえる指にも、まだ強く力が入っていた。それでも、伯爵家を出た時のように俯いてはいなかった。「今夜から、目立たない者を屋敷の周囲に置く」 アウルが窓の外へ目を向ける。道中、一定の距離を保って馬車についてきた男が、門脇の暗がりで小さく頭を下げた。「子爵家の暮らしは変えなくていい。ただ、しばらく一人では出歩かないで」「分かりました」 セシル様は頷いた。 父君を脅した者たちは、次は娘だと言った。恐怖を与えるためだけの言葉だったとしても、無視はできない。伯爵を階段から落とした者が、今も屋敷の内外を自由に動けるのなら、セシル様の居場所も知られていると考えるべきだった。 扉が開き、子爵家の従者が足台を置いた。 降りる前に、セシル様は私たちを振り返った。「父は、生きて、私に伝えてくれました」 手紙を押さえる指がわずかに震えた。「もう、何も知らないふりはできません。どうか、お父様を助けてください」 私は彼女の手を取った。冷えた手が、私の手を強く握り返す。「お父様を助けるために、私たちも止まりません」 すぐに伯爵家へ踏み込むことはできない。監視している者も、手紙を樫へ運んだ者も、まだ分かっていなかった。焦って動けば、伯爵をさらに危険な場所へ追い込むかもしれない。 セシル様も、それを分かっているのだろう。唇を一度引き結んでから、彼女は頷いた。 門の内側へ歩いていく背中を見送り、扉が閉まるまで、私たちはその場を離れなかった。 離宮へ戻った頃には、夜も深くなっていた。 書斎には火が残されていたが、広い室内を暖めるには足りず、窓辺には白い曇りが張りついている。エレーヌが新しい薪を足す。その手の甲には、樫のうろへ腕を差し入れた時についた細い擦り傷が残っていた。「エレーヌ、その手は大丈夫?」「この程度なら何ともありません」 いつもと変わらない返事だったが、袖口を引き下ろす動きはいつもより少し慎重だった。 外套を脱いでも、私の指先はまだ冷えたままだった。椅子へ向かおうとすると、アウルが私の手を取る。 冷え切っているのを確かめるように指を包み、そのまま暖炉に近い席へ導いた。「先に温まって」「あなたも冷えているでしょう」「俺は君ほどじゃ
آخر تحديث: 2026-07-21
Chapter: 第二章 第60話 二度と来るな 膝の上の包みに指をかけたまま、セシル様は動けずにいた。 アウルが低く言った。「ここで確かめた方がいい。筆跡が分かるのは、あなただ」 セシル様は頷き、油紙の折り目をほどいた。冷えて固くなった紙が小さく鳴る。中から出てきたのは、一通の手紙と、さらに別に折り畳まれた紙が一枚だった。 セシル様の目が、手紙の宛名で止まった。「……お父様の字です」 声の終わりがかすかに震えた。「間違いありません。月に一度、ずっと見てきた字です。少し震えていますけれど……」 彼女はそこで言葉を切り、封を開いた。手紙の紙は、伯爵家で普段使うような厚い便箋ではなかった。急いで用意したものなのか、折り目も少し歪んでいる。 私は手紙を覗き込まなかった。セシル様が読み進める間、彼女の指と顔色を見ていた。「日付が……」 セシル様が最初に口にしたのは、文面ではなく日付だった。「事故のあとです。お怪我をされた、あとの……」 私は、屋敷で見た伯爵の姿を思い返した。杖に体重を預け、片足をかばい、家令の腕を借りてようやく向きを変えた人。あの体で、冬の庭の奥にある樫まで、一人で行けたはずがない。 つまり、この手紙を樫まで運んだ誰かが、屋敷の中にいる。伯爵の手足になれる者が、少なくとも一人。 私は、玄関で深く頭を下げた家令の姿を思い浮かべた。確かめようはない。けれど、あの屋敷はまだ、伯爵が一人で閉じ込められただけの箱ではないのかもしれなかった。 セシル様の視線が、文字を追って動く。途中で一度止まり、同じところを読み返した。「名を明かさぬ者が、幾度もこの家を訪れた。私に、中立の席を降りろと言った」 セシル様は震える声で、数行だけを声にした。「私は断った。ヴェルネの名を、そのために使うつもりはなかった」 馬車の中で、誰も動かなかった。 手紙には、伯爵が何度も圧力を受けていたこと
آخر تحديث: 2026-07-17
Chapter: 第二章 第59話 油紙の包み 伯爵家の裏手から少し離れた道に馬車を止めた頃には、夜はいっそう冷え込んでいた。 御者台の灯りは布で覆い、車内の小さなランプも芯を絞っている。窓の端には薄く霜がつき、吐いた息が白くなって、すぐに消えた。正面から訪ねる口実は、昼のうちに失っていた。今夜ここにいることを、伯爵家の誰かに知られるわけにはいかなかった。 セシル様は私の向かいに座り、膝の上の書き板を両手で押さえていた。そこには、昼間の馬車の中で描いた庭の間取りが残っている。屋敷の裏手、低い生垣、古い温室跡、庭の奥の大きな樫。揺れる馬車の中で描かれた線はところどころ歪んでいたが、樫だけははっきり丸で囲まれていた。 エレーヌは外套を羽織り、侍女服の白い襟元を隠していた。髪もいつもより低くまとめ、夜の中で目立つものをできるだけ減らしている。彼女は書き板を一度だけ見て、すぐにセシル様へ返した。「覚えました」 二度目は求めなかった。 アウルは窓の外を確かめてから、声を落とした。「戻る場所はここだ。道の向こうに見張りを一人置いている。異変の合図がない限り、俺たちはここで待つ。約束の時刻を過ぎても戻らなければ、こちらから動く。——戻る時は、小枝を二度、間を置いてもう一度。それが合図だ」 それ以上は説明しなかった。セシル様が聞けば余計に不安になると判断したのだろう。アウルは、いつもの冗談を一つも挟まなかった。 エレーヌが扉に手をかける前に、私は思わず呼び止めた。「エレーヌ」 彼女が振り返る。「無理はしないで」「はい、お嬢様」 返事は短かった。けれど、彼女は一度だけ、私へまっすぐ目を向けた。「必ず戻ります」 扉が細く開き、冷たい空気が車内へ入り込んだ。エレーヌは音を立てずに外へ出ると、すぐに闇の中へ紛れていった。黒い外套の裾が一度だけ見え、それも屋敷へ続く木立の影に消えた。 扉が閉まると、馬車の中に残った灯りがひどく小さく見えた。 待っている間は、かすかな物音ばかりが大きく聞こえた。 遠くで教会の鐘
آخر تحديث: 2026-07-16
Chapter: 第二章 第58話 二人だけの郵便箱 馬車に戻ると、しばらく誰も話さなかった。 車輪が動き出し、屋敷の重い門が後ろへ遠ざかっていく。窓の外では、冬の庭がすぐに石壁に隠れた。セシル様は背筋を伸ばして座っていたが、膝の上の手が震えている。必死に止めようとしているのが、手袋の縫い目の動きで分かった。「申し訳ありません。せっかくお力添えいただいたのに、何も……」「何も、ではありません」 私がそう言うと、セシル様は顔を上げた。泣いてはいなかった。けれど、屋敷へ向かう時よりも、ずっとこらえているように見えた。「父に、あんなふうに言われたのは初めてです」 彼女の声は細くなった。背筋を伸ばしたまま言うので、かえって膝の上の手の震えが目立った。「嫁いだ身だから、この家のことは忘れろと……父は、本当に私を遠ざけたいのでしょうか」 すぐに否定したかった。けれど、私は見ていないことを断言できない。伯爵の心を知っているわけではない。ただ、見たものはいくつかある。 私は膝の上で指をそろえ、言葉を選んだ。「伯爵は、『帰りなさい』と言う前に、廊下の奥を見ました」 セシル様が瞬きをした。「廊下の奥……?」「見慣れない従者がいた場所です。セシル様が家にいらした頃には、いなかった方ですね」「はい。あの者は、私は知りません」 アウルは黙って聞いていた。私が話すのを遮らない。けれど、こちらの言葉を量るように、窓の外から一度だけ私へ視線を戻した。「それから、伯爵の最後の言葉です。『この家のことは忘れなさい』だけなら、突き放す言葉として分かります。けれど、そのあとに庭の樫のことを言いました」 セシル様の手が止まった。「庭の樫……」「お父様は、手紙に庭の木のことをよく書かれていましたか」「ええ。いつもです。庭の木や、季節の菓子のことばかりで……」 そこまで言って、セシル様は口
آخر تحديث: 2026-07-15
Chapter: 第二章 第57話 忘れなさい「帰りなさい」 ヴェルネ伯爵の言葉に、客間はしんと静まり返った。 大きな声ではなかった。けれど、セシル様の足はその場で止まった。伸ばしかけた手は宙で行き場を失い、父の名を呼ぼうとした唇だけが、かすかに開いたままだった。 伯爵は杖に体重を預け、扉の前に立っていた。顔色は悪く、片足をかばう姿勢には痛みが残っている。それでも、こちらを見る目ははっきりしていた。少なくとも、意識が曖昧な人の目ではない。「お父様……せめて、お加減だけでも。お手紙もなく、家令からのお返事ばかりで、私は」「帰りなさいと言った」 伯爵の声は先ほどより硬かった。セシル様が息を詰める。家令は伯爵のそばで手を差し出しかけたが、触れてよいのか迷うように指を止めた。 私は伯爵の顔だけでなく、視線の動きも見ていた。 言葉は娘へ向いている。けれど、伯爵は時折、廊下の奥を気にしていた。あの見慣れない従者が立っていた方角だ。従者は近づいてこない。ただ、廊下の奥にいて、こちらを見ているのか、伯爵の背を見ているのか、薄暗がりでははっきりしなかった。 あの従者は、伯爵家のお仕着せを着ていた。けれど、袖の丈が合っていない。仕立て直す間もなく着せられた服に見えた。そして、この家の使用人は、誰一人として彼に目を向けない。目を向けないように動いている、と言った方が近い。あの従者の周りだけ、人の動きが避けて流れていた。 セシル様がもう一歩だけ前へ出ようとした。「お父様、私はただ、お顔を見たかっただけです。どうして……」 最後まで言えなかった。どうして会ってくださらないのか。どうして手紙が途絶えたのか。訊きたいことが多すぎて、どれから口にしても届かない気がしているのだと思う。 伯爵は答えなかった。杖の向きを変え、家令の腕を借りるようにして身体を少し横へ向ける。その動きだけでも痛むのか、口元がわずかにこわばった。 そのまま奥へ戻るのだと思った時、伯爵は振り返らずに言った。「……嫁いだ身だ。この家のことは、もう忘れなさい」 セシル様の肩が小さく震えた。 伯爵は少し間を置いた。廊下に立つ従者の影が、ほんのわずか動いたように見えた。暖炉の火が弱く鳴り、客間の中の誰も言葉を挟まない。「庭の樫のことも、手紙に書くことはない」 その最後の一言だけ、硬さが少し薄れた。娘を突き放すための言葉としては、妙に具体的だ
آخر تحديث: 2026-07-14
Chapter: 第一章 30話 ローディア公爵家②「……お会いしたかったのです、セレネ様」 その声は、水面へ落ちる雫みたいに静かだった。 ルシアンは小さく目を細める。初対面の相手へ向ける声にしては、あまりに深い。まるで長い間、胸の奥で大切にしていた名前を、ようやく口にしたみたいだった。「私に、ですか?」 セレネが少し戸惑ったように尋ねる。その瞬間、エレノアの瞳がぱっと明るくなった。「はい……!」 思わず熱が零れたような声だった。「ずっと、お会いしてみたかったんです。学院でのお話も少しだけ聞いていましたし、その……」 エレノアはそこで言葉を詰まらせる。頬が薄く赤い。細い指が落ち着かなさそうに杖を握り直した。「とても、お綺麗な方だと……」 セレネが少し困ったように瞬きをする。「ありがとうございます」「い、いえ。こちらこそありがとうございます」 何に対して礼を言っているのか分からない。フェリクスが堪えきれないように小さく笑った。 ルシアンは黙ってエレノアを見る。先ほどまでの儚げな雰囲気が、セレネを前にした途端に崩れている。分かりやすすぎた。「本当は……」 エレノアは小さく息を吸った。「お姉さまとお呼びしたいくらいで……」 部屋の空気が止まった。 セレネが固まる。フェリクスが吹き出しそうになるのを堪えるように口元を押さえた。ルシアンは無言でエレノアを見る。 エレノアは、自分が口にした言葉に遅れて気づいたらしい。みるみる顔を赤くした。「あ、いえ、その……申し訳ありません。初対面でこんなことを」「いえ……驚きましたが」 セレネが少しだけ柔らかく笑う。「嫌ではありません」 エレノアの瞳が、またぱっと明るくなった。「本当ですか?」「はい」「では、いつか本当に――」 そこまで言って、エレノアははっと口を閉じた。 ルシアンは眉を寄せる。この令嬢は、思っていたよりずっと感情が顔へ出る。少なくとも、セレネに対してだけは。 エレノアはようやくルシアンへ視線を向け、姿勢を正した。「失礼いたしました、ルシアン殿下。フェリクス殿下も、ようこそお越しくださいました」 今度の声は落ち着いていた。先ほどまでの熱は綺麗に消えている。「足の具合は?」 フェリクスが穏やかに尋ねる。「だいぶ良くなりました。まだ長く歩くのは難しいのですが」 エレノアは儚げに微笑んだ。さっきまでセレネへ向
آخر تحديث: 2026-06-19
Chapter: 第一章 29話 ローディア公爵家① ローディア公爵家へ向かう馬車には、ルシアン、セレネ、フェリクスの三人だけが乗っていた。 エドガーは王城へ残してある。レイモンド・グラディス伯爵の交友関係、学院事件当日の記録、ローディア家主催の夜会名簿。調べるべき資料は、まだ山ほどあった。 馬車が石畳を踏むたび、小さく揺れる。向かい側では、セレネが静かに窓の外を見ていた。 今日は珍しく髪を上げている。後ろで編み込まれた黒髪の隙間から、白い首筋が覗いていた。窓から差し込む昼の光が、淡い青銀色のドレスへ落ちるたび、水面みたいに柔らかく光る。 ルシアンは無意識に視線を止めた。 その瞬間、昨夜、指先へ触れた黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかかった。思い出した瞬間、自分で少し眉を寄せる。「……顔が怖いよ、ルシアン」 隣でフェリクスが笑った。「別に」「いや絶対、今セレネ嬢見てたでしょ」「兄上」 フェリクスは楽しそうに肩を竦める。セレネは聞こえていないふりをして窓の外を見続けていたが、耳が少しだけ赤い。 ルシアンは気づいていない。「そういえば」 フェリクスがふと思い出したように口を開いた。「ローディア家が、昔から学院へ深く関わっているのは知ってるかな?」 セレネが静かに視線を向ける。「図書塔を管理するための支援も、代々ローディア家が行っていますね」「そうそう」 フェリクスは軽く頷いた。「僕も研究者として図書塔はよく使うからね。王城にはない古い写本や地方記録も、学院側には残ってたりする」「王城にないものが?」 ルシアンが眉を寄せる。「王城は、残すべきものを管理する場所だからね。でも学院は少し違う」 フェリクスは窓の外を眺めながら笑った。「捨てきれなかったものまで抱えてる」 ルシアンは小さく目を細める。 地下礼拝堂。削られた壁画。顔を壊された女神像。黒き髪は、ノクシアの器。あれもまた、誰かが捨てきれなかったものなのかもしれない。「ローディア家は、古い知識に近い家だ」 フェリクスが続ける。「歴史、宗教、禁書、地方信仰……そういうものを代々集めてきた」「だからアルバート教師とも繋がりがあった可能性があるのか」「十分あり得るね」 セレネが静かに呟く。「知識を集める家、ですか」 ローディア公爵家は、五大公爵家の中でも特別な立場にある。 一方で、北方防衛を担うヴァルフォード
آخر تحديث: 2026-06-19
Chapter: 第一章 28話 編み込まれた黒髪 昼を少し過ぎた頃。王族区画の執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。 ルシアンは机へ肘をつきながら、エドガーが整理した資料へ視線を落としている。向かい側では、フェリクスが紅茶を片手に書類を眺めていた。そしてエドガーはというと、几帳面な性格そのままに、机の端で資料を分類している。「アストレア公爵家の令嬢が足を怪我したのは三日前です」 エドガーが静かに口を開いた。「階段から落ちたと記録されています」「偶然にしては出来すぎてるな」 ルシアンは眉を寄せる。 地下礼拝堂。杖の跡。そして公爵家の紋章入りのハンカチ。疑うには十分すぎた。だが同時に、どこか噛み合わない感覚も残っている。「本人へ直接確認するしかないだろ」「今日、公爵家へ行くの?」 フェリクスが紅茶を置きながら尋ねた。「ああ。話を聞く」「王族特務隊として?」「表向きはな」 ルシアンがそう答えた時だった。コンコン、と扉がノックされる。「失礼します。遅くなりました」 静かな声と共に扉が開いた。 セレネだった。淡い青銀色のドレス。昼の光を受けると柔らかく色が変わる、落ち着いた明るい色合いだ。装飾は控えめだが、上質な生地なのがすぐ分かる。 そして何より目を引いたのは髪だった。いつもは下ろしている長い黒髪を、今日は後ろで丁寧に編み込み、すっきりとまとめている。白い首筋が見えていた。 入室したセレネが軽く一礼する。その姿を見た瞬間、昨夜、指先へ滑った黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかくて、驚くほど軽かった。ルシアンの視線が自然と止まった。「……髪」 ぽつりと漏れた声に、セレネがきょとんと目を瞬く。「え?」「今日は上げてるんだな」 セレネが明らかに驚いた顔をする。まさかそこを指摘されると思っていなかったのだろう。「……よく気づきましたね」「いや、普通に分かるだろ」「ルシアンが女性の髪型に気づくなんて珍しいねぇ」 フェリクスが面白そうに笑う。ルシアンは露骨に眉を寄せた。「うるせぇ」「いやだって、本当に興味ないタイプじゃん?」「兄上」「昨日何かあった?」「何もねぇよ」 即答だった。だが、少しだけ返答が早すぎた。 フェリクスが楽しそうに目を細める。セレネはというと、ほんの少しだけ視線を逸らしている。白い頬が、僅かに赤い。 だがルシアンは気づいていない。「そ
آخر تحديث: 2026-06-19
Chapter: 第一章 27話 微睡みの声 地下水路を出た頃には、空が白み始めていた。 夜明け前の王城は静かだった。昼間の喧騒が嘘みたいに、人の気配が少ない。地下の湿った空気から戻ってきたせいか、石造りの回廊を流れる朝の冷気が妙に心地よく感じた。ルシアンは軽く息を吐く。 身体が重い。 王都の噴水で遺体が見つかってから、まともに眠れていない。学院での事件。王城で倒れた女官。禁書区域で見つけた古い記録。そして地下水路。気づけば、夜は明けかけていた。 隣を歩くセレネも、さすがに疲れているらしい。濡れた黒髪がまだ完全には乾いていない。地下水路の湿気をまとったまま、静かな顔で歩いている。フェリクスが小さく肩を竦めた。「今日はここまでにしようか。さすがに頭が働かない」「兄上でもそんなこと言うんだな」「失礼だなぁ。僕だって疲れるよ」そう言いながらも、フェリクスの表情はどこか楽しそうだった。「地下礼拝堂、面白かったしね」「面白いで済ませるな」「でも久々だろ? ルシアンがこんなに夢中になってるの」 ルシアンは小さく眉を寄せる。否定しようとしたが、言葉が出なかった。確かに気になっていた。王城の地下に、あんな場所が残っていたことも。誰かが今も使っている形跡があることも。全部が妙に引っかかっていた。「じゃ、僕は一度部屋へ戻るよ。また昼頃に」フェリクスは軽く手を振ると、そのまま別の回廊へ消えていった。 静けさが残る。ルシアンは隣のセレネを見る。「お前も休め」「殿下こそ」「俺はまだ執務が残ってる」セレネは少しだけ呆れたような顔をした。「少しはお休みください」「努力はする」 絶対休まない返答だった。セレネも分かっているのか、小さく息を吐いた。「……無理はなさらないでください」「お前もな」 短いやり取りの後、二人はそれぞれ別の回廊へ向かう。 婚約者であるセレネには、王城内に専用の居室が与えられていた。正式な婚姻前とはいえ、王族教育や公務補佐のため、半ば王族扱いに近い立場なのだ。ルシアンはそのまま執務室へ戻った。部屋へ入った瞬間、ようやく肩の力が抜ける。 机の上には、エドガーが整理したらしい資料が既に積み上がっていた。几帳面すぎるほど整っている。「……仕事早ぇな」ルシアンは適当に一枚手に取る。だが文字が頭へ入ってこない。視界が霞む。 限界だった。 ルシアンは低く息を吐くと、
آخر تحديث: 2026-06-11
Chapter: 第一章 26話 地下礼拝堂 地下礼拝堂は、想像していた以上に広かった。 地下水路の先に突然現れたとは思えないほど、空間が整っている。ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が石壁を照らし、古びた礼拝堂の全貌がゆっくり浮かび上がっていく。 天井は半円状になっていた。地下とは思えないほど高い。水路部分の圧迫感とは違い、この空間だけ妙に広く感じる。 壁面には古い彫刻が刻まれていた。だが、その多くは不自然に削られている。まるで、何かを隠すように。 床には薄く水が溜まり、歩くたび小さな波紋が広がった。地下特有の湿気が濃い。それなのに、この空間には別の匂いも混じっていた。 香だ。 甘いような、少し苦いような独特の香り。最近焚かれたものだと分かる。フェリクスも周囲を見回しながら、小さく息を吐いた。「……思ったより保存状態がいいね」「放置されてたにしては綺麗すぎる」ルシアンは祭壇へ近づく。石造りの祭壇は古いが、埃が少ない。最近誰かが触れた跡がある。灯りを近づけると、表面には細かな傷が無数に刻まれていた。古い文字だ。だが一部は、何かで削り取られている。風化というより、意図的に消されたように見えた。その時だった。後ろで、水を踏む小さな音がした。 振り返ると、セレネが壁際へ近づいていた。海色の瞳が、削られた石壁を静かに見上げている。「……どうした」「削られています」セレネは壁へ触れず、目だけで痕跡を追っていた。「かなり後の時代に、意図的に」ルシアンも灯りを向ける。確かに不自然だった。一部分だけ、深く削り取られている。普通の風化ではこうならない。フェリクスが興味深そうに近づいた。「分かるの?」「削り方が違います。元々の彫刻と年代が合っていません」セレネは静かな声で続ける。「古い礼拝堂を、後の時代に誰かが修正したのだと思います」「つまり、残したくない何かがあった?」「可能性はあります」 地下礼拝堂。消された紋章。ノクシア。全部が少しずつ繋がり始めていた。ルシアンは祭壇の奥へ灯りを向ける。そこには、大人三人分ほどの高さがある巨大な女神像が残されていた。 天井近くまで届きそうな石像は、長い年月を地下で過ごしていたせいか、表面の一部が黒ずんでいる。だが、それでも異様な存在感があった。 長い髪。細い指。胸元で抱える大きな水瓶。その水瓶からは、今も地下水が流れているよ
آخر تحديث: 2026-06-11
Chapter: 第一章 25話 地下水路 石階段は思った以上に長かった。 降りるほど空気が重くなる。湿った匂いが肺へまとわりつき、ルシアンの手にした灯りの炎も、不安定に揺れていた。コツ、コツ、と足音だけが暗闇へ響く。狭い石壁にぶつかった音が、少し遅れて返ってくる。まるで、後ろから別の誰かが歩いているみたいだった。ルシアンは小さく眉を寄せる。「……気味悪いな」「音が反響してるんだよ」 後ろからフェリクスが静かに答えた。「地下水路特有の構造だね。壁が石造りだから余計響く」その時だった。フェリクスが思い出したように口を開く。「そういえば、新しい補佐官君は?」「ああ、エドガーなら執務室へ戻した」ルシアンは前を向いたまま答える。「事件関連の資料整理を頼んである」「なるほど。さすがに地下探索までは連れて来なかったか」「剣も使えねぇしな」エドガーは頭は回る。だが、こういう場所向きではない。むしろ今頃、山積みになった記録書類と格闘している方があいつらしかった。さらに数段降りたところで、ふっと空間が開けた。階段が終わる。ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が暗闇を押し退け、地下空間をぼんやり照らし出す。そこに広がっていたのは、古い地下水路だった。 天井は低い。背の高いルシアンだと、少し圧迫感を覚えるほどには狭い。両脇の石壁には、長い年月をかけて染み込んだ黒い水跡が浮かび、床の端には浅く水が溜まっている。 灯りがなければ、数歩先すら見えない暗さだった。炎が揺れるたび、石壁の影が歪む。まるで誰かが動いたように見えて、一瞬、視線がそちらへ引っ張られた。どこかで、水が流れていた。ちゃぷん。 遠くで小さな水音が響く。だが、その音は地下通路の反響によって妙に広がり、位置が分からなくなる。前から聞こえたと思えば、次は後ろから聞こえた気がする。ルシアンは小さく舌打ちした。「方向が分かりづれぇ……」「だから歌声に聞こえるんだろうね」フェリクスが周囲を見回しながら言う。「人の声って、反響すると妙に伸びるから」ルシアンはゆっくり周囲を観察した。地下水路と言っても、ただの下水ではない。古い石造りの通路が幾つも枝分かれしている。王城建設初期の設備なのだろう。アルヴェリア暦726年。 王城は何度も増築されている。古い設備が地下へ埋もれていても不思議ではなかった。その時だった。灯りの
آخر تحديث: 2026-06-11