Chapter: 第一部 第16話 緞帳の奥 夜会は、西区の古い邸で開かれていた。 表向きは詩と音楽を楽しむ小さな集まり。門前に掲げられた灯りも控えめで、迎えの者の礼も静かだった。けれど馬車を降りた瞬間、私はこの場所の空気が通常の夜会とは違うことを悟った。招待客は皆、仮面で目元を隠している。名乗る声は低く、笑い声は甘く、香水と酒と燭蝋の匂いが廊下の奥から重なって流れてくる。 広間の灯りは薄く落とされていた。壁際には音楽家が控え、弦の音が会話を隠すように流れている。奥へ続く廊下には厚い緞帳が下がり、その向こうに小部屋がいくつもあるのだろう。男女が二人ずつ、あるいは三人で、その影の中へ消えていく。 私は仮面の下で視線を動かした。 誰が誰を見ているか。どの男が退屈しているか。どの女がわざと目を逸らし、誘う隙を作っているか。場の空気に飲まれず、証拠を見る時と同じように観察すればいい。 それでも、広間へ入った瞬間、いくつもの視線が肌へ触れるのが分かった。胸元、肩、仮面、脚の切れ目。見る場所があまりにも正直で、私は心の中で冷静に数を数えた。こちらを見る男が三人。近づこうとしているのが一人。 その男が杯を持って半歩こちらへ寄った時、アウルが自然な動きで私の前に立った。邪魔をしているようには見えない。けれど男の視線は、アウルの琥珀色の瞳に触れた途端、わずかに泳いだ。「今の人、こちらへ来ようとしていたわ」「だから止めた」「情報を拾えたかもしれないのに」「セドを探す前に、君が余計な男に捕まる方が面倒だよ」 軽い声だったが、アウルは広間から目を離していなかった。男が離れていくまで私の前から退かなかったあと、ようやく半歩ずれて、腰には触れないまま、広間の奥を示した。「先にセドだ。寄ってくる男の相手は、必要になってからでいい」 セドリックは、ほどなく見つかった。 茶色の髪を丁寧に整え、灰色の瞳を柔らかく細めている。仮面はつけていたが、歩き方も、首を傾ける時の癖も、私がよく知るものだった。彼は窓際で、淡い金髪の女に何か囁いていた。女は扇で口元を隠しながら笑い、セドリックの袖口へ指を添える。 宝石
Last Updated: 2026-06-08
Chapter: 第一部 第15話 仮面の夜 ステラート侯爵邸の衣装室で、私は最後に仮面の紐を結んだ。 侍女たちを下がらせたあとの部屋には、燭台の火が布地のひだを照らす淡い揺らめきと、髪に触れた香油の匂いだけが残っていた。磨かれた鏡の中に立っているのは、侯爵令嬢として社交場へ出る私ではない。紫と金の仮面は目元を覆い、銀の髪も今夜はいつものように清楚にまとめず、片側へ流して背中の線を見せるように整えてある。 名も家も持たない、濃紫の女。 今夜の私は、その顔でセドリックの本性を見に行く。 私は鏡の前で、ゆっくりと片足を引いた。濃紫の裾が割れ、透ける薄布の奥から白い脚の線が覗く。歩幅を戻せば、何事もなかったように隠れる。胸元は鎖骨の下から大胆に開き、普段の夜会服なら決して見せない肌の白さと胸の膨らみの上端を、紫の宝石と細い金鎖が危ういほど華やかに縁取っていた。息をするたび、胸元へ渡した飾り鎖がかすかに揺れ、その小さな動きまで視線を誘うように計算されている。 見せすぎず、隠しすぎない。相手が勝手に続きを想像する余地を残す。そういう装いだった。 私はレースの手袋を指先まで引き上げ、鏡の中の自分を見た。どこへ視線を集め、どこで警戒を緩めさせるか。そのために選んだ衣装だ。美しさも、肌も、髪も、今夜は私を守る鎧ではなく、相手を油断させるための刃になる。 恥じる必要はない。これは捜査だった。証拠を取りに行くための装いにすぎない。 扉の外で、控えめな足音が止まった。迎えの馬車が邸の裏口に回されていることは、先に侍女から聞いていた。表玄関を使わないのは、今夜の行き先にステラート侯爵家の名を結びつけないためだ。「アス、入っていい?」 アウルの声だった。「どうぞ」 扉が開き、アウルが衣装室へ入ってきた。 彼もまた、今夜の場に合わせて装いを変えていた。黒絹の上衣は身体の線に沿って仕立てられ、襟元だけが礼装よりわずかに緩められている。肩から袖口へ走る金糸の刺繍は細く、派手ではないのに、燭台の光を拾うたび鋭く浮かぶ。首元には細い飾り鎖が落ち、黒い手袋に包まれた指先が、手にした仮面の金の縁を軽く押さえていた。 黒と金
Last Updated: 2026-06-08
Chapter: 第一部 第14話 私の手で終わらせるために 婚約を破棄する。胸の中でそう繰り返していた時だった。「顔が怖いよ、アス」 窓辺から声がした。アウルは窓枠に軽く肩を預け、いつもの調子で私を見ていた。琥珀色の瞳には笑みの気配があるのに、私の手元へ視線を落とした時だけ、その奥が少し細くなる。「改めてセドリックのことを考えていたら、腹が立ってしまって」「だろうね。紙がかわいそうなくらい握られてる」 言われて見ると、覚書の端に浅い皺が寄っていた。私は少しだけ力を抜いたが、胸の奥の熱までは消えなかった。「あんな人と、早く別れたいの。もう、婚約者として隣に立つのも嫌だわ」 口にすると、その言葉は思っていたよりまっすぐだった。アウルは茶化さず、机のそばへ歩いてくる。衣擦れの音が近づき、彼の指先が蝋燭の光を受けて淡く浮かんだ。「婚約破棄か。今のままだと、相手有責で綺麗に切るには少し弱いね」「そうなのよね」 私は覚書を開いた。宝飾商の記録、花屋の届け先、香油商の請求書、貸し馬車屋の控え。どれもセドリックの不誠実さを疑わせるものではある。けれど、疑いだけで婚約を壊せば、傷を負うのは女の側だ。「贈り物は友人への礼だと言える。貸し馬車は家名を伏せたい所用だったと言える。女の影も、噂だと笑って流せる」「分かっているわ。だから腹が立つの」 私が低く返すと、アウルは机の上の控えを一枚、指で押さえた。「不貞の現場を押さえる?」「現場?」「会っているところだけじゃ弱い。人目を避けて部屋に入るだけなら、あいつはいくらでも言い訳する。だから、言い逃れできないところまで見る」 私は思わずアウルを見た。「……そこまで?」「婚約破棄を相手有責で通すなら、そのくらい必要だよ。出会いを目的にした夜会なら、あいつも油断する。女を部屋に連れ込んで、何をしようとしていたのかまで見えれば、宝石や馬車の記録とは重みが違う」 出会いを目的にした夜会。その言葉が、控え室の空気を少し変えた気がした。表向きの礼儀や家名を薄い仮面で覆い、その奥で男女が互いを選
Last Updated: 2026-06-08
Chapter: 第13話 あの男の番 ロザリー夫人は、最後まで背筋を崩さなかった。 協力します、と告げたあと、夫人は閉じた扇を胸元に添え、ゆっくりと立ち上がった。控え室の扉を開けるために控えていた侍女ではなく、アウルが先に動いた。彼が扉の取っ手に手をかけると、古い金具が小さく鳴り、廊下の冷えた空気が室内へ流れ込む。燭台の火が一度だけ細く揺れ、机の上に広げた紙の端が、風を受けてかすかに震えた。「夜会まで、どうかいつも通りに」 アウルがそう言うと、夫人は一度だけ頷いた。顔色はまだ白かったが、目は逸らされていなかった。「ええ。悟らせないようにいたします」 夫人の声は、震えてはいなかった。ただ、扇を握る指にはまだ白さが残っていた。私はその手元を見て、胸の奥に小さな痛みを覚える。命を狙われているかもしれないと告げられ、それでも夜会で倒れる役を引き受ける。貴族の夫人としての誇りだけではない。あの人は、自分の命を自分で守るために、恐怖を飲み込んだのだと思った。 廊下へ出る前、ロザリー夫人は私を見た。「アストレア様」「はい」「香油の替えの品は、あなたにお任せしますわ」 その短い言葉の重さに、私は深く礼を返した。夫人の命を預かるということは、証拠を扱うこととは違う重みを持っている。前世でどれほど死者の身体や遺留品を見てきても、生きている人を罠の中へ立たせる恐ろしさには、まだ慣れなかった。「必ず、間に合わせます」 私が答えると、ロザリー夫人はそれ以上何も言わず、控え室を出ていった。衣擦れの音と付き添いの足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。扉が閉じる直前、夫人の横顔が細い光の中に一瞬だけ見えた。白い頬、扇を握る指、乱れのない歩み。そのすべてが扉の向こうへ消え、金具の鳴る音とともに、控え室は急に狭くなったように感じられた。 机の上には、香油の受け取り記録と、夫人の私用金の控え、そしてリディアの名が記された紙だけが残った。さっきまで夫人の声があった場所に、蝋燭の燃える音だけが残っている。私はしばらく、その紙の上へ落ちる影を見つめていた。 ロザリー夫人を守る手筈は整った。 完全に安心できるわ
Last Updated: 2026-06-07
Chapter: 第12話 倒れる覚悟 控え室の扉が開くと、ロザリー・モンフォール伯爵夫人が立っていた。淡い灰青のドレスに身を包み、いつも夜会で見る華やかな微笑みはない。代わりに、こちらを見据える目には、何かを聞く覚悟を決めてきた人の硬さがあった。 夫人はまず、深くはないが礼を尽くした所作で膝を折った。「アウレル王子殿下。お目にかかれて光栄に存じます」 その呼び名に、私はほんのわずかに指先を止めた。アウルは慣れた様子で微笑んだが、すぐに片手を上げて制した。「夫人。今の俺に、その呼び方は少し危うい」 ロザリー夫人は一瞬だけ目を伏せた。貴婦人らしい所作で、言葉を選び直す間が生まれる。「……では、アウレル様」「その方が助かる」 アウルはそう言ってから、私へ視線を移した。促されたのだと分かり、私は椅子から立ち上がって礼を取る。これから口にする言葉が、彼女の信じている日常を壊すのだと思うと、喉の奥がかすかに強張った。「ロザリー夫人。あなたの身近に、あなたを害そうとしている者がいるかもしれません」 夫人の指が、扇の柄をわずかに握り直した。「……私の身近に?」「はい。まだ物証はありません。けれど、あなたの身支度品に触れられる者の中に、不審な金の動きと、外での密会の記録が重なる者がいます」 リディアの名を出すと、夫人の表情が初めて揺れた。驚きというより、信じたくないものを聞いた時の硬さだった。無理もない。髪を任せ、香油を任せ、夜ごと背後に立つことを許していた相手を疑えと言われているのだ。 アウルは静かに紙を差し出した。「横領の疑いがあります。まだ断定はできませんが、彼女があなたに知られたくないものを抱えているのは確かです。それと、あなたが最近使っている香油の出入りを調べたい」 夫人の手が、扇を握ったまま、わずかに止まった。「香油……」 その声は、先ほどよりも低かった。ロザリー夫人は机の上の控えに視線を落とし、それから自分の手首へ目を向けた。香油は、
Last Updated: 2026-06-07
Chapter: 第11話 香油に触れる手 翌々日の午後、アウルが差し出した一枚の控えに、私はしばらく指を置いたまま動けなかった。 場所は、旧館の書庫に近い小さな控え室だった。厚い扉の向こうでは人の気配が遠く、窓から差し込む光は斜めに床を渡って、机の上に置かれた紙片の端を白く照らしている。そこには、花屋の控えから写された名と、貸し邸へ出入りした者の特徴、それからモンフォール伯爵家へ納められた香油の受け取り記録が並んでいた。「この名……リディア」 声に出した途端、胸の奥が冷えた。 その女の名は、セドリックが人目を避けて会っていた相手の一人として、すでに私たちの手元にあった。けれど、その時点ではただの断片にすぎなかった。宝飾商の控えに残っていた頭文字。花屋の帳面に伏せられていた受取人。深夜に貸し邸へ届けられた花束の行き先。それらを、アウルがさらに辿ったのだろう。紙には、私の知らない筆跡で補われた名前があった。「モンフォール伯爵家の侍女だ」 アウルの声は低かった。 私は息を止めた。窓の外で馬車の車輪が遠く軋んだが、その音すらすぐに遠のいた。セドリックが人目を避けて会っていた女の一人。その名が、ロザリー夫人に仕える侍女の名として紙の上に現れている。 今まで別々に見えていたものが、リディアという名の上で近づいていく。セドリックの不実。貸し邸へ届けられた花束。夫人の身支度に触れられる手。そして、前の人生で夫人が倒れた夜の記憶。「夫人の身支度を、その侍女が?」「任されているらしい。髪を梳くのも、夜の香油も、彼女の役目だ」 アウルが短く答えた。私は机の上の紙片を見つめたまま、指先に力を込める。まだ物証はない。リディアが香油に何かを混ぜたところを見た者もいない。けれど、セドリックの女の影と、ロザリー夫人の死へ届き得る手が、同じ場所に重なりかけている。 アウルは、別の紙を一枚だけ脇へ滑らせた。最初からそれを出すつもりでいたのか、それとも私がそこへ辿り着くのを待っていたのかは分からない。紙には、モンフォール家の支払い控えの写しが細かい文字で並んでいた。「動機になりそうなものならある」「何?」
Last Updated: 2026-06-06