LOGIN土曜日、灯は書庫の階段を降りた。
いつもの棚へ向かう。三段目、右から二冊目。そこにあるはずの本が、なかった。 棚を上から下まで見る。隣の棚も見る。珍しいことだった。この家の本の並びは、灯の頭の中の地図と完全に一致している。狂うことなど、これまでなかった。 少しの間、灯はその場に立ったままだった。眉間に軽く皺が寄る。記憶をたどる。貸したか。動かしたか。思い出せない。 この家の本は、灯が自分で決めた順番に従って並んでいる。出版社別、年代順、版ごと。月曜日、いつもより早く目が覚めた。カーテンの隙間から差す光がまだ弱く、部屋の輪郭がぼんやりしている。瑠衣はしばらく天井を見つめてから、体を起こした。 支度をして家を出る。駅までの道はいつもと同じだった。信号待ちの人の数も、コンビニの前に立てられた幟の色も、何ひとつ変わっていない。それなのに、電車に乗る足取りが、どこか重かった。 オフィスに着くと、朝のミーティングがすでに始まろうとしていた。席につくと、周囲の社員がそれぞれの前に資料を置いていく。瑠衣の前だけ、何も置かれなかった。 配布が一巡したところで、隣の席の社員が自分の手元を見て、はっとした顔をした。「あ、ごめん。瑠衣さんの分……」 立ち上がり、自分の資料を半分に折って差し出してくる。「余分がなくて。あとでコピーしてくるね」「大丈夫です。ありがとうございます」 瑠衣は受け取りながら、相手の顔を見た。申し訳なさそうな表情に、悪意らしいものは何もなかった。単純な数え間違いだろう。それだけのことだった。 だが、こういうことが最近続いている。会議の予定が直前で変わり、案内が来ないままだったこと。共有フォルダから自分だけ外れていたこと。チャットで送ったメッセージに、返事が来るまでの時間が、以前より少しずつ長くなっていること。ひとつひとつは些細で、指摘するほどのことでもない。誰かに聞かれれば、気のせいだと答えるしかないような小ささだった。 折られた紙を開き、皺を伸ばす。会議はもう始まっていた。 午後、企画の振り返り会議が招集された。会議室に集まった顔ぶれは、いつもと同じだった。上司が持ってきた資料をテーブルに置き、開かないままそこに手を乗せている。「今回の件は、チーム全体として情報共有に課題がありました」 静かな声だった。誰も反論しない。空調の音だけが、会議室に響いていた。 上司は資料の表紙を軽く指で叩いてから、続けた。「途中で違和感を持った人はいませんでしたか」 部屋の中をゆっくり見回す視線が、一人ずつの顔の上を通り過ぎていく。誰も口を開かない。瑠衣も黙ったままだった。喉の奥に何かが引っかかっているような感覚があったが、それを言葉にする方法がわからなかった。 沈黙が続く中、正木が小さく手を上げた。「違和感はありました」 全員の視線が正木に集まる。「ただ——」 そこで言葉が止まっ
土曜日、いつもの時間にインターホンが鳴った。玄関を開けると、灯が革靴を脱ぎ、いつもの位置に揃える。「こんにちは」「こんにちは」 灯は鞄を持ったまま、そのまま書庫へ向かった。階段を上る足音が、二階の奥へ消えていく。瑠衣はその足音を数えるように聞いてから、台所へ引き返した。 シンクの前に立ち、蛇口をひねる。水音が響く中、棚から急須を取り出した。棚には似たような缶が二つ並んでいる。ひとつは普段使っているもの、もうひとつは先週買い足したばかりのものだった。買い足したときは、まったく違う場所にしまうつもりだった。忙しさにまぎれて、結局隣同士に並べてしまっていた。 蓋を開け、茶葉をすくう。急須に入れ、湯を注ぐ。手順はいつもと変わらなかった。頭の中では、朝のメールのやり取りが繰り返し流れていた。返信の来ないチャットの画面。空欄のままだったスケジュール表。それらが順番に浮かんでは、また同じところに戻ってくる。窓の外で鳥の声がしたが、それすら遠く感じた。 湯気が立ちのぼる。瑠衣はふと、自分の手元に目を落とした。手にしている茶筒の柄が、いつも使っているものと違っていた。「あっ」 声が漏れたときには、もう湯を注ぎ終えていた。急須の中で、見慣れない色の茶葉が開き始めている。瑠衣は茶筒を持ち直し、蓋に書かれた文字を確かめた。棚の二つの缶を見比べる。よく似た形をしていて、朝の忙しさの中では取り違えても不思議はなかった。急須の蓋を開け、中を覗き込む。今さら茶葉を取り出すこともできず、瑠衣はそのまま蓋を戻した。茶葉の香りだけが、いつもと違う立ち方をしていた。 湯飲みに注ぐ。いつもより色が少し濃かった。盆に乗せ、書庫へ向かう階段を上る。一段ごとに、湯飲みの中で茶がわずかに揺れた。踊り場の窓から差す光に、湯気が一瞬白く光った。 書庫の扉を開けると、灯はいつもの椅子に座り、本を開いていた。棚に並んだ本の背表紙が、午後の光を受けて淡く並んでいる。湯飲みを机に置くと、灯はページから顔を上げ、口をつけた。 一口飲んで、動きが止まる。「今日は、少しだけ味が違いますね」 責める響きはなかった。ただ事実を確かめるだけの声だった。瑠衣は湯飲みを見つめ、頭を下げた。「すみません。別のものを入れてしまいました」「大丈夫です」 それだけだった。灯はもう一口飲んでから、本に視線を戻した。ペ
企画は修正案のまま正式に進むことが決まった。会議の終わりに部長がそう告げると、会議室の空気が少しだけ緩んだ。誰かが小さく息を吐く音がする。正木は資料を閉じ、椅子の背にもたれかかった。ペン先でテーブルを軽く叩き、天井を見上げる。 その安堵の中で、梨香子だけが違った。ノートパソコンを閉じる音が、他の誰よりも大きく響いた。ファイルを乱暴に鞄へ押し込み、聞こえよがしに言った。 「結局、地味な企画になっちゃいましたよね」 誰も反応しない。 「絶対あっちの方が話題になったのに」 部長は書類をまとめている。正木はパソコンの画面を見たままだった。瑠衣も自分の資料をファイルに戻す手を止めなかった。誰の返事もない会議室に、梨香子の声だけが浮いたまま消えていった。梨香子は誰かが振り向くのを待つように、しばらくその場に立っていた。誰も振り向かなかった。 鞄を肩にかけ直し、先に会議室を出ていく。扉が閉まる音が、少し強かった。残された社員たちの間に、気まずさとも安堵ともつかない沈黙が漂う。誰かが小さく咳払いをして、それを合図に皆それぞれの席へ戻っていった。正木だけは、閉まった扉をしばらく見ていた。資料の束を、もう一度揃え直していた。 昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、背後で足音が止まった。振り返ると梨香子が立っていた。腕を組み、湯気の向こうから瑠衣を見ている。 「先輩、部長に何か言いました?」 瑠衣は蛇口を止め、首を振った。 「言っていません」 「でも正木さんには何か言いましたよね?」 責める口調ではなかった。本気で確かめているだけの声だった。目には疑いも敵意もなく、ただ確認したいという色だけが浮かんでいる。だからこそ、瑠衣は答えに詰まった。マグカップを両手で持ったまま、湯気の行方を目で追うようにして間を置いた。 「企画について聞かれたので、思ったことを話しただけです」 「思ったこと、ですか」 梨香子はその言葉を繰り返した。責めているわけではない。ただ、自分の中の何かを確かめるように、口の中で転がしている様子だった。 「私、あの企画に結構自信あったんです。俳優さんの伝手も
緊急会議の翌日、正木は自分のデスクで企画書を開いたまま動けずにいた。 表紙をめくる。目次を眺める。三ページ目で止まる。ページを戻す。また同じ場所で止まる。手元のペンはキャップを外したまま、何も書かれていない紙の上で待ち続けている。俳優を起用する案が消えた瞬間、企画そのものの骨格までなくなってしまったようだった。 朝からずっとこの調子だった。コーヒーは冷めたまま机の端に置かれている。誰かに話しかけられても、正木は上の空で頷くだけだった。何を軸にすればいいのか、正木自身にもわからなくなっているのが、隣の席からでも見て取れた。 午前中、正木は何度か違う書き出しを試していた。市場調査の数字を並べてみる。競合他社の事例を書き出してみる。どれも途中で手が止まり、消しゴムで消す音だけが響いた。何度目かの消しゴムの音のあと、正木は破いた紙をくしゃりと丸め、ゴミ箱の縁で跳ねさせた。 瑠衣は自分の仕事を進めながら、その様子をしばらく気にしないふりをしていた。だが正木が三度目のため息をついてペンを机に置いたところで、思わず声をかけた。 「何を届けたい企画でしたか」 正木が顔を上げる。しばらく黙ったまま、瑠衣を見返した。答えが出てこない。視線が企画書の表紙に落ち、また黙る。指先が表紙の角を、意味もなくなぞっていた。 「……それが、わからなくなってしまって」 正木がようやく口にしたのは、それだけだった。椅子の背にもたれ、天井を見上げる。「最初は、はっきりしてたはずなんですけどね。バズらせなきゃ、話題にならなきゃって考えてるうちに、何が言いたかったのか見失って」 瑠衣は少し言葉を選びながら、椅子を正木のほうへ向けた。 「私は詳しくありません」 まず、そう前置きした。専門的なことは何もわからない、ただの営業事務だという自覚がある。それでも、続けた。 「でも、本より俳優が目立ってしまったら……読書支援システムって、誰にも届かない気がします」 正木はペンを持ち直した。手はまだ
午前十時、会議室のモニターに灯火書房の担当者が映し出された。 マイクの音量を確認し、簡単な挨拶が済むと、オルビット側の説明が始まる。梨香子が画面共有をしながら、資料を順に送っていった。 起用予定の俳優のプロフィール。SNSでの投稿計画。都内でのイベント案。インフルエンサーを三十名招く先行体験会。 「投稿は公開の一週間前から段階的に出していきます。ハッシュタグはこちらで統一して、トレンド入りを狙います」 スライドが切り替わるたびに、数字が並ぶ。想定リーチ数、拡散率、想定インプレッション。 モニターの中の担当者は、口を挟まずに最後まで聞いていた。目立った表情の変化もない。ただ、時折手元に視線を落として何かを書き留めている。 一通りの説明が終わり、梨香子が「以上になります」と締めくくった。 短い間の後、担当者が口を開いた。 「ありがとうございます。ひとつだけ、確認させてください」 穏やかな声だった。 「読書支援システムのご説明は、どちらで行われる予定でしょうか」 会議室の空気が、少し止まった。 梨香子は気づいていないようだった。資料の次のページを開こうとしていた。瑠衣は手元のメモを見たまま、視線を上げられなかった。担当者の質問は責めていなかった。ただ確認していた。その静けさの方が、怒声より重かった。 梨香子が次のスライドに移った。俳優のプロフィール写真が映し出された。担当者は画面を見た。何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、梨香子には届いていなかった。 誰かの椅子が小さく軋む音がした。梨香子はすぐには答えず、資料を戻すようにマウスを動かした。 それから、明るい声で切り出した。 「そちらは、後半のフェーズで考えています。まず俳優さんに興味を持ってもらって、その流れで自然にシステムを紹介すれば十分かと」 自信のある口ぶりだった。良い順序を組み立てたと信じている声だった。 「認知が広がってからの方が、届く人数も増えますので」 担当者は少し頷き、それからゆっくりと言葉を選んだ。 「なるほ
火曜の午前、企画チームの打ち合わせが始まった。 配られた資料が、机の上を滑るように回ってくる。瑠衣は一枚目に目を落とした。 灯火書房とのタイアップ企画が正式に動き出す。表紙にはそう書かれている。ページをめくると、二枚目の上半分に大きく人名が印刷されていた。人気若手俳優、起用予定。名前の下には出演作の一覧が続いている。 その下、余白を挟んだ小さな活字で、読書支援システムの概要が三行だけ添えられていた。 瑠衣の視線が上下に往復する。読書機会の平等という言葉と、俳優の名前。同じ紙の上に並んでいるのに、文字の大きさがまるで違った。 資料の端を持つ指に、少し力が入る。 斜め向かいの席で、正木も黙ったまま同じページを見ていた。 会議室はいつも通りの空気だった。プロジェクターが立ち上がり、担当者が資料の説明を始める。視覚障害者の読書支援、電子書籍と紙の書籍の両対応、AI読み上げシステムの概要。その説明が続く間、梨香子はスマホを見ていた。資料ではなく、スマホを。 担当者の説明が終わった。梨香子がスマホを置いた。「じゃあ私から補足します」と立ち上がった。資料には目を向けなかった。 梨香子が立ち上がり、ホワイトボードの前に出た。「この俳優さん、私の知り合いなんです」 明るい声だった。手元の資料を見ずに話し始める。「事務所も乗り気で、SNSも回してもらえます。フォロワー、二百万超えてるんですよ」 誰かが感嘆の声を上げる。若手の男性社員が身を乗り出した。「それ、めちゃくちゃ強いですね」「でしょう? 絶対バズります」 梨香子は嬉しそうに頷いた。自分の企画を信じている顔だった。誰かを出し抜こうとしているのでも、手を抜こうとしているのでもない。これが一番良い形だと、本気で思っている。 男性社員たちの間で、拡散数の話が続く。ハッシュタグをどうするか、投稿のタイミングをいつにするか。 瑠衣は資料の三行を、もう一度読んだ。「本末転倒じゃないか」 斜め向かいから、小さな声がした。正木だった。誰にも届かないような音量だったが、瑠衣の耳には届いた。 顔を上げると、正木は資料を裏返して机に伏せていた。 梨香子の説明は続く。フォロワー数、拡散力、タイアップ実績。数字は並んでいたが、読書支援という言葉は一度も出てこなかった。男性社員の声が重なるたびに、梨香子の声は少
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで
金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ







