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朝の空白

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-30 17:53:08

朝の気配は、カーテンの隙間からわずかに漏れる白みに変わっていた。夜が終わったことを、部屋の温度が静かに知らせてくる。けれど、そこには眠気も、安堵も、残されてはいなかった。河内はベッドの端に横たわり、隣に背を向けて眠る小阪の肩越しに、明け方の空を見つめていた。

まだ薄暗さの残る室内で、小阪の背中だけが妙に輪郭を持って浮かんでいる。肌に残る薄い汗の痕、乱れた髪、ベッドにくっきりとついた身体の形。何も言わず、何も聞かずに交わされた時間の余韻が、肌にまとわりつくように漂っていた。

河内は、何度か目を閉じようとした。けれど、眠ることはできなかった。体内のどこかが冷えたままで、指先に残る小阪の感触だけが、じわじわと熱を持ち続けている。抱いたはずなのに、近づいたはずなのに、届かなかったという実感だけが、時間と共に重くのしかかってくる。

そのとき、小阪がゆっくりと身を起こした。河内は反射的に目を閉じるふりをしたが、わずかに開いた瞼の隙間から、彼の動きを追ってしまう。小阪は無言のままベッドを離れ、椅子の背にかけてあったシャツを手に取った。皺だらけの布を一切気にせず、淡々と腕を通す。鏡の前には立つが、視線は合わせない。髪を直すことも、肌の状態を確かめることもない。ただ、着るべきものを着て、立ち去る準備をしている。

パンツを穿き、ベルトを締める小阪の指は、やけに落ち着いていた。昨夜、シーツを握りしめたあの指先と、まったく同じものとは思えないほど冷静で、無感情だった。彼の背中には、もう河内の存在は映っていないようだった。

河内は言葉を探した。なにか、なにかひとことでも。けれど、昨夜の涙の理由を聞く勇気も、別れの言葉を受け入れる覚悟も、どちらも持ち合わせていなかった。声にならない声が、喉の奥でくぐもったまま消えていく。

小阪は、振り返らなかった。扉へ向かうその背中は、まるで最初からここに来る予定などなかったかのように、確固たる足取りで進んでいく。河内が見ているのを知っていて、なおも背を向けたまま。

ドアの前に立ち、ノブに手をかける。その一瞬、時間が引き延ばされたように感じた。開け放たれるまでの数秒が、何かを期待させ、同時に絶望させる。河内の口元が、ようやくわずかに開いた。

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