夫の野崎安彦(のざき やすひこ)が家に戻ってきたのは、もう深夜の2時を回った頃だった。私はソファの上で、ただただぼんやりと座り込んでいた。
テーブルの上のご馳走は、何度も温め直し、もはや形をとどめていなかった。
だけど彼は、私の異変には気づく様子もない。ただ、不思議そうに「今日はいつもみたいに抱きついてこないな」と不満げだった。
玄関で靴を脱ぐ彼に、私は静かに問いかけた。「安彦、私に何か言うことはない?」
私の声があまりに冷たかったせいか、それとも彼がやましいことをしているからか。安彦の顔に、ひび割れたような表情が浮かび、そしてすぐに怒りに変わった。
「文恵(ふみえ)!お前何を騒いでるんだ!会社で一晩中残業して、やっと家に帰ってきたのに、またおかしいこと言ってるのか!」
あぁ、清栄(きよえ)とウェディングフォトを撮るのが、残業だったのね。
私はどんどん顔色が悪くなっていった。それを見てか、彼はポケットから小さなダイヤの指輪を取り出して私の前に放り投げた。
「バレンタインに一緒に過ごせなかったくらいで、そんな怒ることか?プレゼントはちゃんと用意してるんだから、もういいだろ!」
可哀想なくらい小さなその指輪を見て、私は胸の奥からじわじわと悲しみが湧き上がってくるのを感じた。
私はこれを、もっと上手くやり過ごせると思っていた。でも、いざ安彦を目の前にすると、どうしても涙をこらえきれなかった。
私と安彦は、学生時代からの付き合いだ。制服からウェディングドレスまで、一緒に歩んできた。
けれど、それはいつも私一人の片想いだった。
安彦の心の中は、ずっと清栄でいっぱいなのを、私は知っていた。二人の青春は、まるで小説みたいに輝いていた。
私には、ただただ溢れる片想いと、どうしようもない劣等感しかなかった。
清栄が海外へ行ってから、私は少しだけほっとした。安彦がただ結婚のために私を選んだと知っていても、私は彼の心に別の人がいることさえ、受け入れようとしていた。
氷のような心も、いつか私が溶かせると――そう信じていた。
自分に「私たちは相思相愛だ」と、嘘をついてきた。
私さえ気づかなければ、何だって我慢できると思っていた。
でも、私が心を込めて用意したバレンタインの夜に、彼は他の女の子とウェディングフォトを撮っていた。
友人が送ってくれたのは、私がブロックされていた安彦のSNSの投稿だった。
しかもその友人は、ふざけて「お義姉さん、安彦といつまでもラブラブだね、またウェディングフォト?」なんてからかってきた。
すぐにそのメッセージは削除されたけど、私はしっかりと保存した。
安彦のSNS投稿、「巡り巡って、やっと十八の頃からずっと、ずっと結ばれたかった彼女と結婚できた」
写真の中の清栄は、甘く微笑み、指には安彦が投げてよこしたバレンタインのプレゼントの指輪が光っていた。
別に、私は贅沢を言ってるわけじゃない。安彦が何をくれても、私は宝物のように大切にした。だけど、これは清栄がいらないと言ったから、私に投げ与えられたもの。
彼女がいらないから、私にくれた。
じゃあ、私は一体何なの?
泣きたくなんてなかったのに、どうしようもなく涙が溢れてきた。
安彦は、私が泣く姿なんて見たことがなかったから、動揺していた。
「文恵、泣くなよ。別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ、残業で疲れてるだけだ」そう言って私の涙を拭こうとしたけれど、私はそっと身を引いた。
前は、彼が夢の中でえっちゃんと呼ぶのを聞くだけで、私は幸せだった。でも今は、ただ聞きたい。
「ねえ、安彦が夢で呼ぶえっちゃんは、文恵ちゃんなの?それとも清栄ちゃん?」
彼は頭が早い人だから、私の言いたいことはすぐに伝わったはず。
私はもう、何も知らないフリなんてできない。あまりにも、バカバカしいから。
思った通り、私が清栄の名前を出した瞬間、安彦の顔は一気に曇った。
口調もどこか嘲るような響きになった。「今日のこの茶番、誰に見せたいんだよ。俺は何度も言っただろ、清栄とはもう終わったって。昔からの友達なのに、お前はどうしても受け入れられないんだな。何かにつけて彼女のせいにしやがって、お前って本当に面倒だな」
自分が私を裏切ったくせに、まるで私が悪いみたいに責めてくる。
またしても、正義の味方ぶって私を断罪するのだ。
長年愛してきた男の、その偽善ぶりに、私はただただ嫌悪感しかなかった。滑稽に思えた。
以前の私なら、きっと安彦を気遣って、何もかも飲み込んでいた。でも、今はもう違う。むしろ、このテーブルの料理を全部彼の顔にぶちまけてやりたかった。
私が黙っていると、彼はまた私が折れると思ったのか、ふっと勝ち誇ったように笑った。
「この前、清栄を家まで送っただけだろ?そのあとちゃんと会社に戻ったし。いつまでそのこと引きずるんだよ。いちいち過去のことで騒いでさ。お前、大学時代の頃より本当つまんなくなったな……」
そう。あの夜、清栄を送り届けた後、会社に戻って残業した。外は大雪で、ビルの灯りがすべて消えていも、彼は帰らなかった。
違うよね。私が都合よく扱える存在だったから、彼は私を選んだ。言うことを聞いて、家のことも全部やってくれる妻が必要だったから、私と結婚しただけ。八年経っても、彼はまだ清栄を忘れられない。
なぜだろう、突然、心も体もひどく疲れ切ってしまった。長い間押し殺してきた感情が、ついに限界に達したのだと思う。私は堪らず、指先で眉間をぎゅっと押さえた。
でも、安彦はまだ止まらず、延々と喋り続けている。まるでこの何年も、私がしてきたことは全部間違いで、褒められるところなんて一つもないと責め立てるように。
ついに私は、ぱっとテーブルをひっくり返してしまった。料理も皿も、すべて床に散らばって、粉々に砕けた。
鬱憤を晴らすかのように、部屋の中の瓶や壺、壊せるものは全部床に投げつけた。大事にしていた唯一のツーショット写真さえも――そう、私と安彦は結婚して八年、結婚写真すら撮っていない。昔は撮り直したいって言ったこともあったけど、彼はいつも忙しいと言い訳して、結局うやむやになった。
大きな音に、小さなコーギーは怯えて吠えまくる。
安彦は呆然として、ただその場に突っ立ったまま、逃げようともしない。割れた陶器の破片が顔をかすめて、ようやく痛みで我に返ったのか、私を止めようとした。
「お前、頭でもおかしくなったのか!」安彦はもう私をこれ以上刺激する勇気もないのか、冷たい言葉で不満をぶつけるだけだった。
私が大事に育ててきたこの家、全てを注いできたこの家は、今や見る影もない。まるで安彦との関係そのもののように。
だけど、私は不思議と、かつてないほど清々しかった。八年かけて初めて得た解放感。
怯えるコーギーを撫でながら、私は冷たく言い放った。「犬が喋らないのはなぜか知ってる?忠誠心は、口先じゃなくて行動で示すものだからよ」
そう、安彦は犬以下、どれだけ飼っても懐かない。
私は彼が激怒するかと思った。だって、今の私はとても酷いことを言ったのだから。でも、彼はただ、粉々になったツーショット写真をじっと見つめるばかりだった。
安彦と私が膠着状態に陥っているとき、突然清栄が私の息子の手を引いて家に入ってきた。
彼女はわざとらしく驚いたふりをして、「あら、どうしたの?また文恵を怒らせちゃったの?昨日も言ったよね、早く帰って文恵と一緒にいなよって。もう……」なんて言う。
そして、視線を私に向けると、あからさまな挑戦的な目。「ごめんね、文恵。昨夜ちょっと用事があって、安彦を呼んじゃったの」
それは謝罪ではなく、勝利宣言だった。彼女なら、どんな時でも、どこにいても安彦を呼び出せるって見せつけるように。
男って本当に愚かだ。手に入らないものこそ、特別に思える。だから、「高嶺の花」なんて言葉が生まれるのだろう。
もし、十日前、半月前の私なら、今の清栄の言葉に、すぐさま安彦と大喧嘩していたに違いない。眠れぬ夜を過ごしてでも、言い争っていただろう。
でも今、私が気になるのは――なぜ清栄が私の息子を迎えに行ったのか、それだけだった。
考えなくてもわかる、安彦が理由をつけて、また清栄に会いたかっただけ。
清栄も、私が彼女の手を握る息子を見ていることに気づいたのだろう。彼女は少し恥ずかしそうに髪を耳にかけ、笑って言った。「安彦が今日は会社の用事があるからって、代わりに安人(やすと)を迎えに行ってって頼まれたの」
私は、気まずそうな安彦を冷ややかに一瞥する。
皮肉な話だ。子どもを迎えに行く時間もない夫が、真っ先に頼るのは妻じゃなくて、彼の「高嶺の花」だ。
私はもう彼らを無視して、深く息を吐き、できるだけ優しく息子の名前を呼んだ。「安人、こっちにおいで。ママのところに」
八年の結婚生活、この家で私が唯一惜しいのは、息子だけだ。
だから、もし出ていくなら、息子だけは絶対に連れて行く。だらしない父親はいなくても、母親は必要だから。
なのに、次の瞬間、安人は清栄の背中に隠れた。
「ママなんかいらない、清栄おばさんがいい!昨日いっぱい美味しいもの食べさせてくれたもん。
ママは悪い人。パパと清栄おばさんを引き離したんだ!」
その瞬間、世界がぐらりと傾いた。
安人、命懸けで産んだ私の息子。その子が今、私を指さして「悪い人」と責める。
もう痛みを感じることすら忘れてしまったのか、唇を噛みすぎて血が滲んでいるのにも気づかない。ただ、口の中に鉄の味が広がる。
子どもだから、善悪の区別もつかず、残酷な言葉を悪気なく口にする。
でも、誰かが教えなければ、こんなこと言えるはずがない。
安彦も、顔色が変わり、指先まで震えていた。
「安人!お母さんにそんな口のきき方して、いいと思ってるのか!」と、怒鳴りつける。
怯えた安人は、わっと泣き出した。
清栄はすぐに彼を抱きしめ、「安彦、安人はまだ小さいんだから、わかるはずないよ。つい言っちゃっただけよ」と庇う。
三人がまるで本当の家族のように見えて、私の息子が清栄に懐いているのを見ていると、私はその場に縫い付けられたみたいだった。
心の奥底で小さな悪魔が暴れ出す。
安彦は安人を連れて部屋に戻り、残ったのは私と清栄だけ。
彼の視線が離れた途端、清栄はもうさっきの優しい顔をかなぐり捨てていた。
彼女は、散らかった部屋を踏み越えて、家の奥様気取りで綺麗なソファに腰を下ろす。
私を見上げるその目には、意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「あんたさ、なんで私と男を取り合うわけ?学生のときの教訓、もう忘れたの?
そうだ、あんたの息子、ちょっとケンタッキー食べさせてあげただけで、もう私の方がいいって。あんた、母親失格じゃん」
そう、清栄は普段は清楚ぶってるけど、裏ではタバコも酒もたしなむし、仲間を連れてクラスメートをいじめていた。私もその被害者の一人だった。
あの頃の私は、目立たない地味な子だった。それでも成績が良かったから先生に可愛がられて、清栄の逆鱗に触れた。
彼女は私を体育用具室に騙して閉じ込めた。あの時、たまたま先生が通りかからなかったら、私はどれだけ閉じ込められていたかわからない。
私はすぐに先生に報告したけど、清栄は職員室で涙をポロポロ流して「私は無実です」って芝居を打った。
その裏で、誰にも見えないところで、私に意地悪そうな笑みを向けてくる。
彼女が自信満々だったのは、体育用具室の監視カメラが壊れていると知っていたから。彼女はそこで何度もクラスメートをいじめていた。
でも、彼女が知らなかったのは、あの日の前日にカメラが修理されていたこと。
彼女の親は学校に頭を下げ、教育委員会に泣きついて、やっと処分を軽くしてもらった。
それが、清栄が海外に出ることになった本当の理由。学校にはもう居場所がなかった。
思えば、彼女はずっと私を恨んでいたのだろう。でも、なぜ?被害者は私なのに。悪いことをしたなら、当然罰を受けるべきなのに。
彼女はすでにすべてから逃げ切ったはずなのに、なぜまだ満足できないのか。
十数年という歳月が流れ、清栄の目尻には細かな皺がいくつか増えていた。それでも、学生時代よりもどこか大人びた色香を纏っている。私は、彼女も多少は変わっただろうと思っていた。
そんな考えは、やはり私の甘さだったのだろう。なにせ、昔から「善人は早死にし、悪人は千年生きる」と言うものだ。
ぼんやりしている間に、清栄は床に落ちていた陶器の破片を拾い上げていた。
彼女は相変わらず微笑んでいたが、その手つきは冷酷だった。ためらいもなく、破片を自分の頬の輪郭に沿って滑らせる。
たった一度、それだけで鮮やかな血が溢れ出し、彼女のクリーム色のセーターにぽたぽたと落ちていった。
「賭けをしない?安彦が本当に大事に思うのは、果たして誰か」彼女がそう囁き終わるや否や、突然恐怖に満ちた叫び声を上げた。
「文恵、やめて!私と安彦は、そんな関係じゃないって。安彦、助けて!」
彼女は叫びながら、ふらふらと安彦のいる部屋へと駆け込んでいく。
安彦は、清栄の初めての悲鳴を聞いた瞬間、すでに飛び出してきていた。
彼は一切の躊躇なく、恐怖に顔を歪めた清栄を強く抱きしめ、彼女の頬の血に触れた瞬間、その瞳は憤怒に燃えていた。
私に対して、彼は一言の確認すらしなかった。この傷が本当に私の仕業かどうかも聞かずに。
ただ、私の頬に、容赦ない一撃が飛んだ。体ごと吹き飛ばされるほどの力だった。
床一面に散らばる破片が、私の腕にいくつもの傷を刻み、細長い破片は手のひらにまで食い込んだ。
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