「お前、なんて酷い女なんだ!不満があるなら俺にぶつけろよ。俺たちの問題だろう。なんで清栄を巻き込むんだ、お前、どうかしてる!」安人も駆けつけ、幼い拳で私を何度も叩いた。「悪い女、ママなんかじゃない!」まだ幼いその拳に力はない。それでも痛かった。安彦の平手より、何倍も、胸に刺さる痛みだった。安彦は私に目もくれず、清栄を抱きかかえて外へと急いだ。安人もその後に続く。清栄は安彦の腕の中で、満足気に微笑んでいた。声に出さずとも、彼女の唇の動きで分かった。「裏切られ、見放される気分はどう?」ついさっきまでの騒動が、まるで茶番のように思えて、私は呆然とその場に座り込んでいた。どれほど経っただろう。コーギーが不安げに吠えて、ようやく我に返った。その時になって、手のひらの痛みがじわじわと広がってきたが、もうどうでもよかった。ふいに、この家が息苦しく感じられて、もう一秒たりともいたくないと思った。コートすら着ず、まるで抜け殻のように、私は家を出た。時刻はすでに午前四時過ぎ。空にはうっすらと朝焼けの白みが滲んでいる。初秋の風は涼しくて、指先から胸の奥まで冷え切っていく。どれだけ歩いたのかも分からなかった。ただ足の向くまま、心のままにさまよっていた。ふと顔を上げると、そこに立っていたのは――大学時代の先輩、小林朝陽(こばやし あさひ)だった。久しぶりに見るその姿に、彼の目に浮かぶ複雑な色が胸に刺さった。今の私の、見るも無残な姿のせいだろうか。「どこまで行く気なんだ?」後になって知ったことだけど、朝陽は朝から用事があって外に出ていたらしい。そんなとき、私が魂が抜けたような顔で歩いているのを見かけ、心配になってずっと後をつけてくれていたそうだ。私は申し訳なさそうに微笑みを返したつもりだった。けれど、涙は勝手に溢れてきた。朝陽はため息をつき、黙って自分の上着を私の肩にかけると、近くの24時間営業の薬局へ行き、消毒液とガーゼを買ってきてくれた。彼は手際よく私の手の傷やガラス片の処理をしながら、私がここ数年のことをぽつぽつと語るのを、静かに聞いてくれていた。長年心の奥に沈めていたものをこうして口にできて、なんだか心が驚くほど軽くなった。たくさんのことが、やっと腑に落ちた気がした。朝陽は私の顔色が少し良くなっ
夫の野崎安彦(のざき やすひこ)が家に戻ってきたのは、もう深夜の2時を回った頃だった。私はソファの上で、ただただぼんやりと座り込んでいた。テーブルの上のご馳走は、何度も温め直し、もはや形をとどめていなかった。だけど彼は、私の異変には気づく様子もない。ただ、不思議そうに「今日はいつもみたいに抱きついてこないな」と不満げだった。玄関で靴を脱ぐ彼に、私は静かに問いかけた。「安彦、私に何か言うことはない?」私の声があまりに冷たかったせいか、それとも彼がやましいことをしているからか。安彦の顔に、ひび割れたような表情が浮かび、そしてすぐに怒りに変わった。「文恵(ふみえ)!お前何を騒いでるんだ!会社で一晩中残業して、やっと家に帰ってきたのに、またおかしいこと言ってるのか!」あぁ、清栄(きよえ)とウェディングフォトを撮るのが、残業だったのね。私はどんどん顔色が悪くなっていった。それを見てか、彼はポケットから小さなダイヤの指輪を取り出して私の前に放り投げた。「バレンタインに一緒に過ごせなかったくらいで、そんな怒ることか?プレゼントはちゃんと用意してるんだから、もういいだろ!」可哀想なくらい小さなその指輪を見て、私は胸の奥からじわじわと悲しみが湧き上がってくるのを感じた。私はこれを、もっと上手くやり過ごせると思っていた。でも、いざ安彦を目の前にすると、どうしても涙をこらえきれなかった。私と安彦は、学生時代からの付き合いだ。制服からウェディングドレスまで、一緒に歩んできた。けれど、それはいつも私一人の片想いだった。安彦の心の中は、ずっと清栄でいっぱいなのを、私は知っていた。二人の青春は、まるで小説みたいに輝いていた。私には、ただただ溢れる片想いと、どうしようもない劣等感しかなかった。清栄が海外へ行ってから、私は少しだけほっとした。安彦がただ結婚のために私を選んだと知っていても、私は彼の心に別の人がいることさえ、受け入れようとしていた。氷のような心も、いつか私が溶かせると――そう信じていた。自分に「私たちは相思相愛だ」と、嘘をついてきた。私さえ気づかなければ、何だって我慢できると思っていた。でも、私が心を込めて用意したバレンタインの夜に、彼は他の女の子とウェディングフォトを撮っていた。友人が送ってくれたのは、私