「⃞侑⃞さ⃞ん⃞が⃞全⃞部⃞、⃞失⃞く⃞し⃞て⃞く⃞れ⃞て⃞よ⃞か⃞っ⃞た⃞。⃞」⃞
「⃞じ⃞ゃ⃞な⃞け⃞れ⃞ば⃞手⃞に⃞入⃞ら⃞な⃞い⃞と⃞こ⃞ろ⃞だ⃞っ⃞た⃞。⃞」⃞
例えるなら私は一本の煙草《シガレット》。
火を点ければ中心温度は約800℃にもなる。
真っ赤に燃え広がり、5,300種類以上もの化学物質を含んだ煙を排出して、後は静かに灰になっていく。
まるで落ち目女優の人生そのもの。
「侑《ユウ》さんがもう駄目だと思うなら、残りの人生俺に下さいよ。」
事務所が同じで、後輩でもある綿貫昂生《わたぬきこうせい》は、今飛ぶ鳥をも落とす勢いで売れている人気俳優である。
去年主演を務めた映画で、アカデミー賞の優秀主演男優賞を受賞。 そこから人気が一気に爆発して、今年はドラマの主演だけでも既に3作品目を更新中。 新たに映画の主演も決まっている。 加えてCM起用に、テレビ、バラエティ番組への出演依頼も殺到しているんだとか。まさに今、誰よりも多忙を極めている男だ。
年齢は私より二つ下の32歳。かみは黒で、瞳は焦茶色。鼻筋が通り、全体的に色気がある。
容姿も雰囲気もどこか日本人離れしていて、欠点など見つからないくらい完璧だ。 声は澄んだ低音で、私服はいつもモノトーンにまとめ上げたコーデ。 香水は爽やかなマリン系を漂わせている。基本的に誰にでも優しい。そんな彼がこんな落ち目女優の私に。
「一体………何の冗談?」
その言葉を私の口から自然と発生させる程に。おかしな提案だった。
*15歳で朝ドラデビューした私、常磐侑《ときわ ゆう》は一躍時の人となった。
———飾らない素朴さの中にも煌めく才能。
独特な台詞の言い回しや、間の空け方の絶妙さ。滲み出る情熱感。 彼女の演技は見る人の心を揺さぶる。これぞまさに天性の女優と言えるだろう———その時、一緒に映画の仕事をした監督の言葉は当時の雑誌の誌面を飾った。
そうやって一度人気になると、CMに、テレビ番組のゲストに、ドラマ出演など次々と仕事が舞い込んできた。だけど——人気というものはそう長くは続かないものだ。
「ねえ、この人名前なんだっけ?」
「えどれ?どの人?
あー…それ常磐侑だよ。」「あ、そうだった!すっかり忘れてたあ」
「確かに。テレビでも全然見ないからね。」
立ち寄ったカフェで、スマホの動画を見てる若いOL風の2人組。
そんな彼女達のすぐそばに当人が座っていても気づかれない程、薄れた存在。 それが現在《いま》の私————。今日で撮影がクランクアップする。 昴生演じる主役の刑事の真の敵は、浅井まりかが演じるヒロインだったというオチ。 撮影はいよいよ終盤を迎えていた。 「……どうして、君がっ………」 ヒロインを追い詰める刑事。昴生がまりかに銃を向けながら、驚愕を隠しきれないひょうじをする。 「ふふ、あはははは! 世の中、貴方みたい綺麗事ばかりの人間じゃないのよ!」 「そうか。 何もかも君がやった事だったんだな……… 信じていたのに。」 躙り寄る、昴生。狭い路地裏に追い込まれ後退するまりか。 やがて壁にたどり着き逃げ場を失う。 確実に急所を狙い、銃口を向ける昴生。 「あなたに私は殺せないわ……!」 「どうかな……俺は………」 迫真の演技が続く中、誰もが騒ついた。 脚本にない動きを昴生がしたからだ。 昴生が壁際のまりかに詰め寄り、額に銃口を向けながら、耳朶近くで何かを囁いた。 それは……マイクでも拾えないほど小さな声で。 その瞬間まりかが腰を抜かし、恐れたように昴生を見上げた。 「……え?」 「そうだ。俺は綺麗事しか知らない刑事だ。 だから……綺麗じゃないアンタは要らない。 さようなら。」 美しい笑みを浮かべる昴生。 悪役はまりかの筈なのに、まるで立場が逆転したように、悪意にあふれた表情をしている。 そこに仲間が止めに入って…… まりかが捕まり、事件は無事に解決。ハッピーエンドを迎え、全ての撮影が終了した。 * 「おいー、昴生
とにかく二人で良く話し合ってみてくれ。 そう言って八重樫は、ニヤニヤしながら応接室を後にした。 明らかな互いの売名行為を、両方の事務所が進めている。 浅井まりかは、清楚系の人気女優として売っている。 なのに今日はいつもよりも気合いの入った服を着て、じっくり時間をかけた濃いめのメイクをしている。 そんなまりかが昴生を見つめる眼差しは、どこか熱い。 「浅井さんは本当に優しいんだね。 勇気もあるし。」 「いえ…!そんなっ、単純に人助けですから! 綿貫さんは本当に、気にしないで下さいね。」 この前の冷たい態度が嘘のように、昴生がニコリと笑いかければ、まりかは初心な女のように顔を真っ赤に染めた。 「あ……そうだ。浅井さん。 この前SNSで見かけた、あの写真なんだけど。 あれ、どこで撮ったの? すごく綺麗だったから気になってて…良かったら花の名前を教えてくれないかな。」 「え?どれですか?」 「あー…えっと。説明し辛いなあ。 もし良かったら、スマホの写真見せてもらえたら嬉しいんだけど。」 「あ、いいですよ!」 誘われるようにスマホを取り出し、まりかは昴生の隣に喜んで座った。 ふわりと香るマリン系の香水に、少し長めの黒髪が揺れる。 その昴生の色っぽさに、まりかはまた頬を染めた。 「あ、これだ。…それと、これも。 いいね。浅井さんは花が好きなの? 花の写真が多いね。 綺麗な心の、浅井さんみたいだね。」 「そ、そんな……」 「ねえ。良かったらこれ全部、俺にも送ってくれない?駄目かな?」 昴生が上目遣いでそう頼めば、まりかはますます顔を真っ赤にして、躊躇いもなく小さく頷いていた。 まるで、綺麗な花の蜜に吸い寄せられる虫のように。 侑さんに対して————— 攻撃的なアカウ
情報開示請求しても、あの悪意のあるアカウントの個人情報が開示されるまでには時間がかかる。 せっかく手に入れたのに、あれのせいで侑さんと引き離された。 あの後侑さんは告白の返事もせずに…自分のマンションに戻ってしまった。 やっと手が触れる距離にいたのに。 やっと心を開きかけてくれてたのに。 二人の邪魔をする奴は、徹底的に捻り潰さなければいけない。 そんな時に、社長と他事務所の浅井まりかから、こんな話が持ち上がった。 [人気俳優の綿貫昴生と、人気女優の浅井まりかが熱愛中]という事にしろと。 わざわざ事務所に来てまで、浅井まりかかが頬を染め、そう言う理由は何となく分かっていた。 「綿貫さんと私が熱愛中という事にすれば、今ある常磐さんとのスキャンダルを消す事ができますよ。 それに、ドラマで共演してる二人が熱愛って流れは自然ですし、今二人とも人気絶頂じゃないですか。 これは双方にとって、かなりメリットになりますよね。 事務所も後押ししてくれてます。 もちろん世間には内緒ですけど…」 「だそうだ、昴生。 こんな有難い申し出を、断るわけにはいかないよな?」 応接室のテーブルを囲むソファに、社長が目を輝かせて座り、浅井まりかもまた同じような瞳をして座っている。 「……俺にヤラセをしろと?」 「な…!違う!お前を、みっともないスキャンダルから守るために言ってるんだぞ!」 どこかヤクザのような雰囲気のある八重樫は、やや興奮気味に言った。 ……みっともないのはどっちだよ。 昴生は呆れたように笑みを浮かべた。 「綿貫さん……!私、綿貫さんの事を心から助けたいんです!」 手を握り、まりかはキラキラと目を輝かせて訴える。 今撮影中の刑事ドラマで、ヒロイン役の共演者だ。 「そうなんだ…?でも本当にいいの? こんな俺が、人気女優の浅井さんとの噂になっても。 ファンが怖そうだね。」 「そんな…私の方こそ、綿貫さんのファンに睨まれちゃいますけど…憧れの綿貫さんを守るためですから!」 「ほらなー。昴生、まりかちゃん本当にいい子だろ? 侑には悪いが、彼女との悪い噂が出回れば今のドラマにも絶対悪い影響になる。 だけどまりかちゃんとの噂なら…二人の知名度もドラマの視聴率もグンとアップするさ! な?悪い
昴生は、強く握っていた手を、絡まった糸を解くようにそっと離した。 その仕草に、なぜか私の胸はチクリと痛んだ。 「……この写真、マンションの内廊下から撮られたものですね。 ここの住人はルールに厳格だから、こんなことはしないはずです。 佐久間さん、この写真を投稿したアカウント、特定できていますか?」 手を離した昴生は、スマホを手に取り、ふとそう呟いた。 「それが…発信源のアカウントは投稿してすぐ消されたみたいで… 巧妙なファンの嫌がらせだよ、きっと。」 「なら情報開示請求しましょう。 俺はともかく、侑さんの名誉を傷つけた悪意は許せない。だから。」 「…まさか昴生、訴訟を起こすつもりか?」 「はい。勿論ですよ。 ……俺の大好きな人を苦しめた人は、当然苦しむべきですから。」 俺はこの件を許すつもりはない。 穏やかな口調とは裏腹に、昴生の微笑みはどこか冷たく見えた。 その場にいた誰もが息を呑み、動けなくなった。 これまで誰も見たことのない、静かな怒りを滲ませた、綿貫昴生の姿がそこにあったから。 昴生のこの熱量に居た堪れなくなる。 「っ、とにかく私は自分の家に帰るから。」 それが今、浅はかな行動でしてしまった彼への罪滅ぼし。 少なくとも、自分の行動は自分で責任を取らなければ。 佐久間さんと鳥飼さんが「二人でよく話し合うように」と伝言を残して去った後、私は昴生に素直に自分の気持ちを打ち明けた。 「だから、何で侑さんが謝るんですか。 悪いのは俺なのに。」 「ううん、そうじゃない。 あの時———電話をしたのは私だし、心が弱っててズルズル甘えてたのは私だった。」 「だから、違いますよ……!」 昴生の声はなぜか苦しげで、突然私の肩を強く引いた。次の瞬間、彼はそこに顔を埋めた。 まるで主人に甘える子犬のように。 「……綿貫……くん?」 「違うし。 ……電話した時にはすでに、あのホテル街に俺は居たじゃないですか。 ……侑さんが。あなたがあの番組プロデューサーの…クソ野郎の車に乗り込んだのを見て、後を尾けたんです。 嫌だった。侑さんが俺以外の男の車に乗るのが。 あれだけ誘惑したのに俺に助けを求めないのが。 …そして嬉しかった。 あの時侑さんが、最後の最後に俺を思い出してくれ
「いやだ。駄目だ。」 昴生は、子供のように拗ねた声を出す。 「それは社長や事務所にとってのマイナスですよね? 俺は発表してもいいですよ。 [ストーカーは誤りで、実際は俺と侑さんが熱愛中]って事なら。 記者会見でも何でもしますよ。 それ、俺にとってのプラスにしかならないんで。」 「……昴生…!」 「何で2人が一緒にいるかって? 今言ったばかりなのに分からないんですか。 侑さんのストーカーは俺で、俺が侑さんを大好きだから一緒にいるんですよ。 侑さんにとっては迷惑かも知れないけど、俺には最高の事なんです。 大好きだから。」 混乱がさらに混乱を招く。 それは昴生に手を握られた、他でもない私が誰よりも。 大好きだから……? 彼が……私を好き………? その言葉をこのタイミングで、今初めて聞いた。 「はあ……くそっ。 昴生、お前は自分の立場ってヤツがよく分かってないみたいだな。 お前は事務所と契約してる以上、自分勝手な行動は慎むべきだ。 誰が…お前を日本一の俳優にしてくれたのか、その恩を忘れたらいけない。 …とにかく、一緒にいるのは駄目だ。 今がいちばん大事な時期なのに。」 顳顬を抑え、佐久間さんは疲労感を滲ませる。 いちばん大事な時期。そう。 綿貫昴生にとって今最も不必要なのは、マイナスにしかならない私とのスキャンダル。 「佐久間さん………… 俺にとって大事なのは侑さんであって、他のはぶっちゃけどうでもいいんです。 そのくらい俺が侑さんを好きだって事を、少しでも理解してくれたら嬉しいですけど。
それなのに私は黙っていた。 昴生と過ごす居心地の良さと、謎の優しさに、いつの間にか我を忘れ浸ってしまったのだ。 以前は私のマネージャーだった事もある佐久間さんが、どれだけ昴生を大切にしているかは知っている。 人気俳優の彼を盛り上げ、あらゆる波風から防波堤のように守ってきたのだ。 彼は自分が担当したタレントに対していつも誠実だった。 静かに私は立ち上がり、佐久間さんと鳥飼さんに頭を下げた。 「すみませんでした。今回の事は私が——」 「侑さんが頭を下げる必要なんかどこにもない。 悪いのは俺だから。」 立ち上がった私の左手を握り、昴生はその謝罪を止める。 「綿貫…くん?」 「侑さんがストーカーだって? そんなの大きな間違いだ。 佐久間さん。侑さんをストーカーしたのはこの俺ですよ。」 「なっ……!?」「!!」 「……?」 一同が絶句した。 何の躊躇いもなく昴生がそう宣言したからだ。 今人気絶頂の俳優が人気低迷女優をストーカーしたと。 「綿貫くん、変な事言わないで…… あなたは単に人助けのような優しさで……」 「何?侑さん。俺何も間違ってませんよね。 初めから侑さんに付き纏っていたのは俺だし、そんな侑さんに同居を持ち掛けたのも俺。 だから侑さんは何も悪くない。 でしょ?」 今言ったのが全て真実だ、とでも言いたげに。 そんな風に真顔で、真剣な目で見つめないで。 力を込められ、握り締められた手が熱い。 勘違いしてしまいそうになる。 彼が本当は体目的じゃなく、実は私の事を想ってくれてるんじゃないかって。 こんな私の事を本当は好きなんじゃないかって……何の根拠もないのに。 「はあ……侑がストーカーじゃないのは俺だって分かってる。 それに…昴生がストーカーとか… 万が一それが事実だとしても、そんな事は今重要じゃない。いや、まあ…それはそれで問題だとしても、だ。」 佐久間さんは困ったように溜息を吐いた。 もちろん私も、昴生がストーカーだとは思っていない。 しかし現状は深刻だそうだ。 なんせマンション周辺にはマスコミが殺到しているという。 「とにかく、侑はマスコミの目を盗みながら、一度自分のマンションに戻ってくれ。 何で2人が一緒に居るのかは知らないが…