Home / 恋愛 / ゆりかごの中の愛憎 / マンションでの逢瀬

Share

マンションでの逢瀬

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-07-09 09:07:09

多摩さんが洗濯物を干し終え縁側から戻ると、菜月が困り顔でダイニングチェアーに座っていた。腰を半分上げては下に戻す、大きな溜め息が漏れた。

「菜月さん、どうなさったんですか」

「忘れたの」

「忘れた?なにを忘れたんですか?」

 菜月は目の前で小さな長方形を作って見せた。

「なんですか、それ?」

「マイナンバーカードを忘れて来たの」

「忘れて来た?」

「御影のマンションに、忘れて来たの」

 菜月はもう一度、大きな溜め息を吐いた。

「取りに行けば宜しいじゃないですか」

「なんとなく、気が重いの」

「それなら、多摩が着いて行きましょうか?」

「いいの?」

「勿論ですとも」

 あの陰鬱で、辛い思い出しかないマンションに戻るには二の足を踏んでいた。そこで、多摩が付き添ってくれるというので重い腰が上がった。

「車は、冬馬に出させましょうね」

「え、佐々木さんに?忙しいんじゃないの?」

「湊さんから、いつも側に居るようにと頼まれたそうですよ」

「湊が」

「はいはい」

 湊は、如月倫子の異常な雰囲気を鋭く感じ取り、菜月の安全を確保するため、綾野の家から外出する際は可能な限り佐々木が側に付き添うよう指示を出した。倫子の行動にはどこか不穏な影があり、湊はその危険性を見過ごすことはできなかった。そこで今回は、菜月が御影のマンションへ向かう際、佐々木に加えて多摩さんも同行することになった。

 佐々木は冷静沈着な性格で、どんな状況でも的確に対応できる信頼の置ける存在だった。一方、多摩さんは温和な物腰ながら、鋭い観察力を持ち、細かな異変を見逃さない。菜月自身は、二人に守られていることに少し気恥ずかしさを感じつつも、どこか安心していた。御影のマンションに近づくにつれ、街の喧騒が静まり、緊張感が漂い始めた。

「いいお天気ですねぇ」

「うん」

「久しぶりのご自宅ですから、ゆっくりなさって下さいね」

「う、うん」

 菜月は返答に困った。多摩さんは、菜月が賢治から受けたドメスティックバイオレンスの数々を知らない。ルームミラーには菜月の痛々しい姿を慮った佐々木が映ったが、車窓を眺める多摩さんの横顔は和やかで、眩しい太陽に目を細めていた。

(多摩さん、びっくりするだろうな)

 菜月の胸は痛んだ。ところが、503号室の駐車場には賢治の黒いアルファードが駐車していた。多摩さんは首を傾げた。

「あらあらあら、賢治
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • ゆりかごの中の愛憎   任意同行③

    竹村は賢治を見据えた。鋭い眼光が、まるで刃物のように賢治の心を切りつけるようだった。

  • ゆりかごの中の愛憎   任意同行②

    縁側の廊下を蹴り上げるような重い足取りで、警察官が整然と列を成して歩いて来た。その姿は、まるで黒い壁が迫ってくるかのようだった。四方を囲まれた賢治と四島忠信は、息を呑み、顔色を青ざめさせた。空気は一瞬にして凍りつき、縁側の木の軋む音だけが響いた。「綾野さん、こ・・・これはどういうことですか!」綾野住宅への横領の罪を自覚する四島忠信は、膝が震え、声が上ずった。公証役場で事を穏

  • ゆりかごの中の愛憎   任意同行

     郷士の顔色が変わり、腕を組んで一考すると、意を決したように立ち上がった。衣擦れの音が静かな屋敷に響き、白足袋が畳を滑るように玄関へと向かった。土間には、黒いスーツに身を包んだ厳つい顔の男たちが大勢、まるで影のように立ち並んでいた。雨上がりの外の空気は冷たく、遠くで犬の遠吠えが聞こえた。郷士の背筋に、かすかな緊張が走る。「なんの騒ぎだね?」 郷士が怪訝そうな顔で問いかけた。声には威厳があったが、わずかに震えていた。列の先頭に立つ若い男が一歩前に出た。黒縁眼鏡の奥の目は鋭く、胸ポケットから焦茶色の革の手帳を取り出した。手帳を開くと、水色の背景に紺色の制服を着た写真が現れた。神経質そうな面立ち、への字に結ばれた薄い唇。名は竹村誠一、階級は警部補。警察官の制服のエンブレムを模した記章が、手帳に重々しく輝いていた。「刑事さんが・・・どのような用件で?」 郷士の声には、警戒と好奇心が混じっていた。そこへ、奥から湊が姿を現した。湊の顔を見た瞬間、竹村誠一の硬い表情がふっと緩んだ。「湊、来たぞ。約束の一週間だ」 「ありがとう、入って」  竹村誠一は湊の大学時代からの友人だった。二人は学生時代、夜通し語り合った酒の席や、試験前の徹夜勉強の記憶を共有していた。しかし、今、竹村は友ではなく、刑事としての顔でここにいた。先日、湊は賢治の傷害事件に関する任意同行を一週間待ってほしいと竹村に懇願した。賢治は湊の義兄であり、菜月の夫でもあった。事件は複雑で、賢治の不倫が発端だった。賢治は不倫相手に唆されて湊の車に細工をし、交通事故を起こした。湊は、賢治が逃亡する恐れはないと説得し、竹村は一週間の猶予を与えることに同意したのだ。  その一週間、湊と菜月は綿密な計画を立てていた。賢治の不倫の証拠を掴むため、逢い引きを繰り返したホテルのロビーでカメラを構えた。金曜日のあの夜、ホテルの部屋から出てくる賢治と如月倫子の姿を、シャッター音とともに収めた。写真は鮮明で、言い逃れのできない証拠だった。菜月の手は震えていたが、目は決意に満ちていた。彼女は賢治の裏切りを水(みず)に流したかったわけではなかった。すべては計画通りだった。  竹村は土間に上がると、湊に小さく頷いた。「不倫とやらの証拠は揃ったか?」 「ああ、ありがとう無事手に入れたよ」 「そうか、よかったな。待った甲斐が

  • ゆりかごの中の愛憎   断罪④

     離婚届に印が捺され、菜月の手にそっと渡された。そこには確かに賢治の名前と印鑑が刻まれていた。自由を噛み締める菜月の頬を、未来への期待を込めた涙が静かに伝った。多摩さんが差し出したハンカチで、菜月はそっと涙を拭い、穏やかな笑みを浮かべた。佐々木がアタッシュケースに書類を丁寧に仕舞うと、郷士は重い視線を四島忠信と賢治に向けた。「四島さん、これでもシラをきるおつもりですか?」 賢治は、菜月との結婚以来、綾野住宅の副社長という地位を悪用し、密かに横領に手を染めていた。会社の帳簿を巧みに操作し、被害額は1,300万円を超えていた。湊の部下の鋭い機転により、ついにその不正が明るみに。だが、四島忠信と賢治は、証拠を突きつけられても頑なに認めず、うつむいたまま震えていた。郷士の鋭い視線が賢治を射抜き、菜月の解放された姿がその背後に浮かぶ。座敷の重い空気の中、賢治たちの罪はさらに重くのしかかった。「そ、それは」「親父!なんでそれがここにあるんだよ!」机の上には、金額欄が空白の請求書が無造作に置かれていた。その横には、賢治の筆跡が一目で分かる改竄された書類が、ずっしりと重いバインダーに綴られ、綾野住宅への裏切りを物語っていた。1,300万円を超える横領の証拠が、冷たく並ぶ。湊の部下が暴いた真実を前に、賢治は言葉を失い、ただ青ざめた。郷士の鋭い視線が賢治を貫いた。「賢治様、これは賢治様の筆跡で間違いありませんね?」 顧問弁護士の佐々木が、賢治の横領を暴く数字をトレースした書類を、座敷のテーブルに静かに並べていった。一枚一枚が綾野住宅の裏切りを物語り、1,300万円を超える不正の証拠が冷たく積み上がる。賢治の顔色は青ざめ、膝の上で握った拳がガタガタと震えた。四島忠信は、肩を落とし、視線を逃がすようにうつむいた。「間違い・・・ありません」「親父!」「証拠はそろっとる、認めるし

  • ゆりかごの中の愛憎   断罪③

     ボイスレコーダーが、菜月が耐えてきたドメスティックバイオレンスの数々を冷酷に暴き出した。過去の傷が鮮明に蘇り、菜月の肩は小さく震え、スカートの上で固く握られた拳がわずかに揺れた。恐怖と痛みが心を締め付ける中、ふと湊がそっとその手に温かな手を重ね、優しく微笑んだ。湊の穏やかな眼差しに触れ、菜月の心は少しずつ解け、握り拳がゆっくりと開いた。二人は静かに手を握り合い、互いの温もりで過去の影をそっと包み込んだ。「この、あほんだらが!」「ヒッ!」 娘・菜月が受けた数々の暴力をボイスレコーダーが暴き、郷士の心は激しく揺さぶられた。普段の温厚な気性は影を潜め、鬼の形相で立ち上がった彼は、怒りに燃える目で娘婿を睨みつけた。次の瞬間、抑えきれぬ憤りが爆発し、力強く足を振り上げ、愚かな娘婿の身体を容赦なく蹴り飛ばした。娘婿は床に崩れ落ち、郷士の怒りはなお収まらず、娘を守る決意がその瞳に宿った。菜月の震える肩を見つめ、郷士は静かに拳を握りしめた。「うぐっ!」賢 治はヒキガエルが潰れたような情けない声を上げ、縁側まで転がり落ちた。腹を抱え、苦しげに蹲るその姿に、郷士の怒りは一層燃え上がった。妻の制止の手を荒々しく払いのけ、郷士は倒れ込んだ賢治の襟元を力強く掴んだ。娘・菜月の受けた暴力の記憶が脳裏をよぎり、抑えきれぬ憤りが拳に宿る。握り拳を振り下ろすと、鈍い音が響き、賢治は顔を歪めてその場にしゃがみ込んだ。痛みに喘ぐ賢治を前に、郷士の目はなお冷たく光り、「申し訳ございません!申し訳ございません!」 賢治の父・四島忠信は、両手を突いて額を畳に擦り付けた。「も、もうし訳ございません!」 四島忠信は郷士の怒りに満ちた気迫に圧され、這いつくばりながら必死にその脚にしがみついた。「許してくください!許してやって下さい!」と震える声で赦しを乞うが、郷士の目は冷たく、娘・菜月の受けた暴力への憤りが収まることはなかった。賢治は這ったまま、悲痛な叫びで父親に訴えた。「お、親父。暴力だ、暴力だ!」 賢治は、涙と恐怖で顔を歪め、必死に言葉を紡ぐ。「お、親父、暴力だ!暴力!」「なにがだ!」「傷害罪で訴えてくれよ!」 賢治は郷士を睨みつけるとその姿を指さした。「なにを言ってるんだ!」「いてぇ、痛ぇんだよ」 情けない愚息を見下ろした忠信は一喝した。「虫でも止まってたんだ!」「

  • ゆりかごの中の愛憎   断罪②

     金曜の晩、賢治と倫子がニューグランドホテルの薄暗い廊下で密会していた。親密な雰囲気を漂わせ、囁き合いながらホテルの一室へと向かう。二人は腕を組み、部屋の扉を開ける瞬間、そのシルエットが仄かな光に浮かんだ。菜月と湊は息を潜め、部屋の扉の隙間からカメラを構えた。フラッシュの光もなく、シャッター音だけが静かに響く。不倫の証拠を捉えたその写真は、冷たくも鮮明に二人の秘密を切り取った。菜月は唇を噛み、湊は無言でデータを確認した。「これは、いつの間に」「賢治さまでお間違いようですね」「誰が撮った!」 自分の愚行が白日の下に晒され、賢治は憤慨の表情を浮かべ、湊を鋭く睨み付けた。握り潰した拳が震え、半ば立ち上がる勢いでテーブルに手をつく。部屋に漂う重苦しい空気の中、菜月は沈黙を保った。湊は冷ややかな視線を返すのみで、動じず証拠の写真を机に置いた。その場にいる者たちが皆、賢治の次の行動を見守る中、部屋の時計の針だけが無情に時を刻んだ。「賢治!よさんか!」「湊か、お前か!お前が撮ったんだろう!」 写真の中の、賢治と如月倫子は腕を組み、愉しげな笑顔で廊下を歩いている。「あら?」 ゆきは震える手で写真を手に取り、食い入るように目を凝らした。撮影日時は先週の金曜日、賢治と倫子の密会を捉えた瞬間だった。ゆきの瞳に疑念が宿り、閃いたとばかりに菜月と湊の顔を交互に見つめた。その晩、菜月と湊は朝帰りをしていたのだ。薄暗い部屋に沈黙が流れ、ゆきの呼吸だけがわずかに聞こえた。菜月は視線を逸らし、湊は硬い表情で床を見つめた。二人の頬はどこか赤らんで見える。写真の裏に記された時刻が、それを証明した。「あぁ、あなたたち、この夜にホテルに泊まったのね!」「あっ!」「母さん!」 郷士は三人の顔を見て首を傾げた。「なんだ、ホテルに泊まった?誰がだ?」「あらあらあら、ほほほほ」「母さん!」「あらあら、ほほほほ」 ゆき は明後日の方向を見て誤魔化した。一瞬場が和んだ。「それではこちらをご覧下さい」けれど佐々木は淡々とパソコンを立ち上げ、画面に映る動画ファイルをクリックした。そこには、賢治が若い女に覆い被さり、情事に耽る姿が映し出されていた。アルファードの車載カメラが捉えた映像は、13:50の時刻を刻む。スーツ姿の賢治が後部座席でスラックスのベルトを外し、女の髪に手を絡める瞬間

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status