空いている健全なアトラクションに少しだけ乗った後、フードコートでお昼ご飯を食べた。 なんだかダブルデートをしているような気分を味わえて、私は結構満喫している。皆、律ともすっかり仲よくなれているし、今日のこの計画はとりあえず成功かも。 その後もぶらぶらと園の中を歩いていると、なにやらひっそりとたたずむ古びたお屋敷のような建物を発見。……これは、まさか。「あ! あったよ~。遊園地といえばコレだよね、お化け屋敷!」 ありさは意気揚々と言うけど、お化け屋敷が大の苦手な私はギクリとした。「恭哉さ、前お化け屋敷の話した時、『俺のほうからオバケを脅かしてやる』とか言ってたよね」「あー、そういえば。だって作り物だと思えば全然怖くないじゃん」「そんなこと言って、本当はちょっとビビってんじゃないのー?」 顔を引きつらせて固まる私に気づかず、ありさとキョウは話しながらそちらに向かっていく。 うそ~私、絶対無理!「あたしも決して得意ではないんだけど、なんか挑戦したくなっちゃうんだよね。キョウの反応も気になるし」「俺も、ありさにキャー!って泣きつくくらいの女らしさがあるのか気になるわ」「ちょ、ちょっと待って……!」 なんでそんなに余裕で入れるの!? チャレンジャーなふたりの勢いを止めようと、ひとりあたふたする。その時、「小夜ちゃん」と後ろから呼ばれ、さらに手首を掴まれた。 驚いて振り返ると、律は先を行くふたりに声をかける。「ねえ、少し別行動しよっか」「別行動?」 突然どうしたのだろう。ようやく立ち止まって私たちを振り返ったふたりも、ハテナマークを浮かべているのがわかる。 しかし、すぐにありさがはっとして、私に向かって両手を合わせた。「あっそうだ、ごめん! 小夜お化け屋敷ダメだったっけ」「あ、うん……いや、こっちこそごめんね! 盛り上がってたのに」 ちょっぴり申し訳なく思いながら言うと、律が微笑んでこんな提案をする。「俺、小夜ちゃんと待ってるから、ありさちゃんたち行ってきなよ」 とくんと胸が波打ち、掴まれたままの手首が熱を持つ。 律、私に気を遣ってくれたんだ……。視線を私に向けた彼と目が合うと、さらに胸が高鳴り始める。 すると、キョウが「いや、いいよ」と言い、こちらに戻ってこようとする。「そんなすげぇ入りたいわけじゃないし、別んとこ……」「行こう、恭哉!」 あっさり諦めようとした彼の言葉を遮
彼が抱えている事情が気になって仕方ないけれど、それを問いただすわけにもいかず、私は下唇を噛んだ。 悶々と考えていると、律は「ごめん、トイレ行ってくるね」と言って腰を上げる。 私の手からコーンを包んでいた紙を取ると、途中でそのゴミを捨てて、アイスクリーム屋の裏手にあるトイレへと向かっていった。 些細な気遣いをしてくれる彼にほっこりしつつ、残りのアイスを口に放り込むと、ふぅと息を吐いた。 目の前をカップルが通り過ぎていくと、無意識に目で追ってしまう。皆、幸せそうだな……。 ひとりでぼんやり眺めていると、見慣れない服を着た人に突然視界が遮られた。 驚いてぱっと見上げたそこには、見知らぬ大学生くらいの男の人がふたり立っている。「ねぇ、君ひとり?」 私を見下ろして、そう尋ねた男のひとりが、にやりと怪しく口角を上げた。 ぞくりとしつつ、ぶんぶんと首を横に振る。「い、いえ、友達と来てます……」「友達って男? 女?」「女の子だったらさ、俺らと一緒に遊ぼうよ」 えぇ……これって、もしかしなくてもナンパ? まさか自分が声をかけられるとは! 当然断ろうとするものの、唖然としてしまってうまく言葉が出てこない。「あ、あの……!」「高校生くらいだよね?」「なんかめっちゃ怯えてる。可愛い~」 やだやだ、どっか行ってよ! 律、早く戻ってきて……! ひたすら話しかけてくる男たちに、肩をすくめてただ押し黙っていた、その時。「小夜!」 お化け屋敷があるほうから、そんな声とともに走ってくる足音が聞こえてきた。 キョウとありさ……! ふたりが戻ってきてくれて、心底ほっとする。「こいつになにか用っすか?」 キョウは普段あまり見ない険しい表情で、ギロリと睨みつけた。私まで萎縮してしまいそうなほど凄みがある。 男ふたり組は、へらっと笑って私たちから離れていく。「ちょっと話してただけだよ」「そーそー。じゃ、またね」 軽く手を振ってあっさりと去っていくふたりを、私は座ったまま呆然と見送る。「〝また〟はねぇっつーの」と、苦虫を潰したような顔をするキョウが吐き捨てた。「小夜、大丈夫!?」「あ、うん、全然! 本当に話しかけられただけ。ありがと」 心配そうに私の肩に触れるありさに笑い返した。まあ、びっくりはしたけれど。 よかった~と安堵の笑みを浮かべるありさの横で、キョウは辺りを見回して言う。「律はどこ行ってんの?」「トイ
──ところが、それから五分ほど待っても彼は来ない。さらに五分が経ち、さすがに心配になってきた。「どうしたんだろうね?」「俺、様子見てくるわ」 そう言ってキョウが一歩を踏み出したものの、すぐに足を止めてポケットからスマホを取り出した。どうやらなにかメッセージが来たらしく、画面をタップしている。「あ、律だ」 その名前が出されて、ひとまずほっとする。 今日の約束をした後、都合がいいだろうとキョウだけは律と連絡先を交換していた。それもキョウが半ば強引に聞き出して。 彼からの連絡は何なのか、私とありさも注目していると、キョウの表情がみるみる強張っていく。「どうしたの?」「……先、帰るって」 キョウの口から重々しく出された言葉に、私たちは「「えっ!?」」と戸惑いの声を上げた。 先に帰るって、どうして? さっき、楽しいって言っていたばかりなのに……!「なんで!?」「知らねーよ!」 眉根を寄せるありさに、キョウは怒ったように荒々しくスマホを渡した。私も一緒にその画面を覗き込む。【用事を思い出したから先に帰るわ。本当にごめん。でも、今日は楽しかったよ。ありがとう】 映し出されたのは、どこまでが本心かわからないメッセージ。「なにそれ……? あたしたちになにも言わず帰るってどういうこと!?」 ありさも憤りを露わにする。 本当にどうして……用事があるなんてきっと嘘だよね。漠然とそう感じた。「……あいつ、本当に変わっちまったな」 落胆してぽつりとこぼれたキョウの声が、胸にチクリと刺さる。「律……」 最後に彼が向かって行ったほうを見ながら、ぐっと手を握った。 私も疑問だらけだし、ものすごく悲しいけれど、なんだかそれ以上に胸がざわざわする。 いくら昔と変わったといっても、律はこんなに私たちの気持ちを考えないような、勝手な人ではないはず。きっと、なにか理由があるに違いない。
もうすぐ七夕だね。律はなにを願うのかな。 保育園の頃は、七夕になると毎年短冊にお願い事を書いていたよね。あの頃の律の願い事は、〝サッカーが上手になりますように〟だった。 きっと、その願い事は叶ったんじゃないかな。 キョウは確か、〝お腹いっぱい肉が食べたい〟だったっけ。あいつらしくて笑える。 私の願い事は、あの頃から変わってないんだよ。恥ずかしいから、今は簡単に言えないけど。 いつか、叶う時が来るといいな。 * * * 月曜日、ありさと一緒に登校すると、早々と朝練を終わりにしたらしいキョウが四組の前にいた。 彼が呼び出しているのは、やっぱり律だ。ありさと目配せして、私たちも彼らのもとに駆け寄る。「なんでこの間急に帰ったわけ? ちゃんとした理由があるなら言えよ」 怒っているというより、心配しているような口調で尋ねている。律は私たちと視線を合わそうとしないまま、覇気のない笑みを見せる。「ただの気まぐれだよ」「お前、そんなことする奴じゃなかっただろが」 いぶかしげに眉をひそめるキョウも、やっぱり私と同じことを思っているらしい。律があんなことをしたのには、きっとちゃんとした理由があるって。だから今、こうして聞いているのだろう。 本当のことを教えてほしい。そう強く思いながら律を見つめると、彼は目を伏せて力無く呟く。「……よくわかったんだよ。やっぱり俺は、君らとは一緒にいられないって」 ドクン、と重い音が身体の奥で響いた。〝一緒にいられない〟って、どういうこと? やっぱり律は、なにか大きな問題を抱えているんじゃ……。「律──!」「逢坂くーん」 たまらず彼に歩み寄ろうとすると、四組の教室の中から女子の呼ぶ声に遮られた。それに反応した彼は、一度彼女たちのほうを振り向いてにこりと笑みを向けると、またこちらに顔を戻す。「悪いけど、もう俺に関わらないで」 その時の表情は、地中深くにある洞窟みたいに暗く、冷たくて。私もキョウも、言葉をなくしてしまうほどだった。 教室に入っていく律を、私たちは黙って見ているしかない。「どういうことだよ……」「逢坂くん、あたしたちが想像もしてないような事情を抱えてるのかもね」 眉根を寄せるキョウと、深刻そうな顔をするありさ。私も同様に、ざわついて苦しい胸元のシャツをぎゅっと掴んだ。 教室に戻った律はいつも通りで、笑って女子と話している。きっとあれは上辺の笑
律の謎は深まるばかり。けれど、どうにもできない日々が続く。 いつの間にか期末試験も迫っていて、彼のことばかり考えてもいられなくなっていた。 そんな六月下旬、教室でミキマキコンビとお弁当を食べていると、海姫ちゃんが突然核心を突いてくる。「ところでさぁ、ふたりは逢坂くんとその後どうなったの?」 私とありさは目をぱちくりさせる。先に口を開いたのはありさだ。「へ……なんで?」「前から真木にいろいろ調べてもらってたじゃん。皆で遊びにも行ったみたいだし。どっちかが彼のこと好きなんだとしか思えないでしょ」 そうだった、海姫ちゃんたちには打ち明けていなかった。そりゃあ気づくよね……内緒にしていたわけじゃなく、あえて自分からは言わなかっただけなのだけど。「そろそろ教えてよ〜」と口を尖らせる彼女に、ありさが意味ありげに口角を上げて言う。「あたしが彼のこと好きなように見える?」「見えない。つか、恋してるオーラがない」「自分から聞いといてちょっとヘコむけど、その通り」 カクリとうなだれるありさに構わず、海姫ちゃんは目を輝かせて机に身を乗り出す。「じゃあ小夜ちゃんなんだ!」「旦那様……かわいそうに」「旦那じゃないっつーの!」 淡々と箸をすすめる真木ちゃん、まだそれを言うか。 一方、海姫ちゃんはニンマリとしながら見てくるから恥ずかしくなって、大口を開けて卵焼きを放り込んだ。「でも逢坂くんと遊べたなんて、貴重な体験をしましたね」「貴重?」 真木ちゃんの言葉を聞いて、ありさが首をかしげた。私もごくりと卵焼きを飲み込んで、彼女の話に耳を傾ける。「彼、女子の誘いは全部断ってるらしいですよ。放課後もまっすぐ家に帰っちゃって、本当に仲のいい男子とごくたまにしか遊ばないって話です」 そうなの? あんなに女子と楽しそうにしているのに……。男子とだって昔はしょっちゅう遊んでいたのに、そんなに消極的になってしまったのか。「意外と人見知りなのかな。そうは見えないけど」 海姫ちゃんに同意して、私とありさも頷いた。 意外な事実を知って眉根を寄せていると、真木ちゃんが思い出したように言う。「あ、あと腰痛持ちらしくて、整体に通ってるんだとか。部活をしていなかったり、すぐ帰っちゃうのはそのせいですかね」 その話も初めて聞いた。そして、ただ漠然と思う。もしかして律が隠している事情には、そのことも絡んでいたりして……と。 皆は
お昼休みの後、美術の授業でスケッチをしに中庭に出ることになった。 梅雨の中休みで爽やかな青空が広がっている今日は、その分蒸し暑さが肌にまとわりつく。 ありさと一緒に日陰に座り、目の前の花壇を眺めるだけで、筆はあまり進まない。「そういえば、律のお母さんは花が好きだったなー……」 そよ風に揺れるマリーゴールドを見つめて呟いた。 あの頃、律はマンションに住んでいて、ベランダにはいろいろな花のプランターが置かれていたのを思い出す。 スケッチブックにさらさらと鉛筆を走らせながら、ありさがなにげなく問いかけてくる。「逢坂くんって、家族全員で引っ越してきたんだよね?」「そう……だと思うけど」 そういえば、どうなんだろう。勝手に皆で引っ越してきたものと思っていて、はっきり聞いていないことに気づいた。 ありさは質問を続ける。「お兄ちゃんいるんだっけ?」「うん。でも社会人のはずだから、もう家は出てるかも」 えっちゃんにも会いたいな。さすが兄弟、当時から律に負けず劣らず綺麗な顔立ちをしていて、きっとモテモテなんだろうなぁと思っていた。 えっちゃんは、私のことを覚えてくれているのかな。もし会ったら、昔と同じように接してくれるんだろうか……。「まーた律の話か」 ふいに頭上から声がしたかと思うと、キョウが私の隣にどかっと腰を下ろしてきた。 いつもの無愛想な顔で、私の真っ白なスケッチブックを覗き込む。「全然描けてねーじゃん」「そう言うキョウはもう終わったの?」「俺の芸術センスがあれば十分で終わる」「あ、そう」 なにしに来たんだ。と思いつつ、のっそりとマリーゴールドの線を描き始める私。 キョウはけだるげに膝の上で頬杖をつき、おもむろに口を開く。「もうさ……いいんじゃねーの? あいつに固執しなくても」 せっかく動き出した手が、またぴたりと止まってしまった。そして、えっちゃんの声に変換されたあの文章が頭の中に流れる。 〝律のことは、忘れてほしいんだ〟というひと言が。 昔のことにこだわっているのは私だけ。私だけ、なんだよなぁ……。 考え込んで黙る私に、ありさが優しく微笑みかける。「男は逢坂くんだけじゃないしね。ほら、ここにもいるじゃん、アホな男が」「アホは余計だろ、アホ」 私を挟んで言い合いを始めるふたりを止めもせず、ぼんやりしたまま考えを巡らせる。 キョウもありさも軽い調子だけれど、きっと私にすごく
七月に入り、期末試験をなんとかこなした後、私はすぐに四組に向かった。 ドアから中を覗こうとすると、ちょうど廊下に出ようとしていた女子ふたりと鉢合わせしてしまい、お互いに息を呑む。 このふたり……前、私の悪口を言っていた子たちだ。「……なにか用?」 怪訝な顔で聞いてくる、メイクが濃いめの女子に一瞬ひるむ。が、逃げないでちゃんと用件を伝えないと! 息を吸い込み、彼女をまっすぐ見据えて口を開く。「律を呼んでほしいんですけど」 それを聞いた彼女たちは、半ば予想していたように驚きもせず、呆れた笑いをこぼした。「懲りないねぇ」「相手にされてないっていうのに、まだめげないんだ。メンタル強すぎ」 バカにしたような言い方も笑いも、むくむくと怒りが湧いてくるものの、ぐっと堪える。「逢坂くんはあなたのこと興味ないでしょ。帰ったほうがいいんじゃない?」 むっかつくー。私はあなたたちと話しに来たわけじゃないのよ。「いいから、律を──!」「呼んだ? 小夜ちゃん」 ムカムカしながら言おうとした言葉は、私と女子たちの間に入ってきた律によって遮られた。 律のほうから来てくれるとは……。驚いた私は微笑む彼を見上げ、口を開けたまま固まる。「ちゃんと取り次いでくれないと困るな」 優しい口調だけれど少々圧を感じる律に、女子たちはバツが悪そうに目を逸らして肩をすくめた。 彼女たちを見下ろす彼は、「あと」と話を続ける。「俺がこの子に興味ないって、勝手に決めつけないでくれる?」 そんな言葉と共に、ぽんと肩に手を置かれ、心臓が軽く跳ねた。 裏を返せば、興味を持ってくれているということだと解釈していいのかな……。 ときめいている間に、律は「行こう」と言って、私の手を引く。この展開は予想と違っていたのか、女子ふたりは唖然としている。 彼女たちを置いて、私は律に手を引かれるがまま、ドキドキしながら階段のほうへと向かった。「律、どこまで行くの?」 三階のさらに上まで上る彼に声をかけると、立入禁止の屋上に繋がる階段の踊り場で足を止めた。「ここなら人来ないし静かだろ」 そう言って私と向き合う律は、腕を組んでひとつ息を吐き出す。「あんなに突き放したのにまだ俺に構うなんて、小夜ちゃんってM?」 意地悪な笑みを浮かべて言われ、私はかぁっと顔を熱くする。「んなっ! ちがっ……や、違わない気もするけど!」「ははっ、正直」 律はおかしそ
七月七日、七夕の今日、律とふたりで会う。約束の時間は午後なのに、朝起きた瞬間から緊張してしまって、ご飯もあまり喉を通らない。 ダイニングテーブルの上の、私のお皿に残った料理を、お母さんが不思議そうに見る。「どうしたの? 珍しく少食じゃない」「たまには食欲ない時だってあるよ。残しちゃってごめん。ごちそうさま」 腰を上げようとすると、お母さんがなにかを思いついたように、「あっ」と声を発する。「わーかった。デートなんでしょ!?」「ぶほっ!」 デートという単語に反応したらしく、私の向かい側でお茶をすすっていたお父さんが噴き出して咳き込んだ。 お母さん、余計なこと言わないでよ!「デデデデート!? そんな相手がいたのか、小夜!?」「ち、違うよ!」「隠さなくてもいいのに」「本当にそんなんじゃないから!」 思いっきり動揺するお父さんと、ニヤニヤするお母さんに、私は顔を熱くしながら否定する。 一応ふたりで出かけるけれど、付き合ってるわけじゃない。ラブラブなデートだったらどんなにいいか。 お母さんは両手を腰にあて、本音をこぼす。「なんだ、違うの? いつ小夜が彼氏を連れてきてくれるのかなーって、私ずっと待ってるんだけど。できることならイケメンがいいわね」「お前……」 がっくりとうなだれるお父さん。ひとり娘の色恋沙汰で、朝から一喜一憂している両親はちょっと面白い。「そういえば、恭哉くんのお母さんから聞いたわよ。律くんこっちに戻ってきてるんだって?」 洗い物を始めるお母さんに急に律の名前を出されて、また私は席を立てなくなってしまった。 お父さんも驚いたようにこちらに目を向ける。「そうなのか?」「うん、実は……」 なんとなくふたりにも言っていなかったのだ。電話も手紙も内緒でしてたから、そのクセがついたせいもある。「また皆で遊べばいいじゃない。私も律くんのお母さんと会いたいわ。引っ越してから全然連絡取ってなかったから」 そっか……律の事情を探るなら、正攻法じゃないけどお母さんたちに聞くっていう手もあったか。でもこの感じからすると、お母さんもなにも知らなさそうだ。 考えを巡らせていると、お母さんが懐かしそうに笑って言う。「小夜ってば、律くんと結婚するー!ってよく言ってたじゃない? 本当に相手があの子なら、私はなんの心配もないんだけど」「ま、まあ律くんならいい子だし、百歩、いや千歩譲って嫁にやって
両親への挨拶が済んだ後、私たちはふたりで借りたアパートへ向かった。 部屋に入るとどっと疲れが出て、ふたりしてソファに座り込む。「あー……よかった。ふたりも認めてくれて」「ああ。おじさんたちも、小夜とそっくりで素敵な人たちだって再確認したよ」 嬉しいことを言ってくれる律は「あ、もうお義父さんになるのか」と呟き、私は幸せな笑いがこぼれた。 手を繋ぎ、彼の肩にこてんと頭を乗せる。「これからずっと一緒にいられるなんて、本当に幸せ」「俺も」 幼い頃の約束をずっと実現させたいと思っていたけれど、実際にそうなると夢みたいな気分。 愛しさが膨れて、ふいにキスをしたくなって彼に顔を向けたら、同じことを考えていたのか視線が絡まった。 自然に唇を寄せ、温かな口づけを交わすと、律は私の髪を梳きながら熱っぽい瞳で見つめる。「……抱いていい? 改めて小夜の大切さを実感したら、全部欲しくなった」 心臓がときめきの音を奏でる。大人になった彼は、色気がありすぎてくらくらするほど。 私は頬が火照るのを自覚しながら、こくりと頷いた。「私も、律にいっぱい触れたかった」 正直に返すと、彼も少し頬を赤らめ「可愛くてたまんない」と微笑む。もう一度唇を寄せると、タガが外れたように濃密なキスをお見舞いされた。 私たちが抱き合える日はそんなに多くない。ふたりきりになれるのは週末だし、律の体調や仕事のタイミングで叶わない時もあるから。 だから、私は毎回緊張して、ずっとドキドキしているのだ。 ソファでたくさんキスをした後、ベッドに移動して身体中を甘く愛撫する。「愛してる」と何度も囁き合い、十分に慣らされてから熱く滾る彼を迎え入れた。 重なる肌からも、自分の中の奥深くでも、彼が生きていることを感じられる。 こんなに幸せなことはないと、とろけそうな意識の中で思いながら汗ばむ背中にしがみついた。 それから数日後、私の誕生日に、律とふたりで海に来ていた。夏真っ盛りで暑いけれど、手を繋いでゆっくり砂浜を歩く。 こうしているなにげない瞬間、一分一秒が、私たちにとっては宝物だ。「キョウは来月こっちに戻ってくるんだっけ?」「ああ。『早く帰りたい』ってそればっかり言ってるよ」 穏やかな波音に、私たちの笑い声が混ざり合う。 あれからキョウは自動車メーカーの営業マンに、ありさは調理師になった。別々の道に進んでも、相変わらず連絡はとっている
小夜、今までありがとう。 高校を卒業してから約五年。辛いことも楽しいことも、全部ふたりで分かち合ってきたけど、 終わりにしよう、俺たち。 * * * 高校を卒業して、早くも五年が経った。 律が飲む薬の量はそこまで変わらず、普通の生活を送ることができている。むしろ、だいぶ症状に慣れてきた分、以前よりも充実した毎日を過ごせていると思う。今はお互い社会人として精一杯生きる日々だ。 私は大学に進学し、理学療法士の資格を取って総合病院に就職した。この道を選んだのはもちろん、律を支えていくために勉強し、その力を存分に使いたいと思ったから。 リハビリのサポートは大変なことも多いけれど、患者さんとのおしゃべりは楽しいし、『あなたのおかげでこんなことができるようになったよ』と感謝されると心から喜びを感じられる。新たなやりがいを見つけられたので、私も律に感謝だ。 律はITのスキルを学べる専門学校に進み、今は大手のインターネット企業でデスクワークをしている。病気に理解があり、リモートワークもできる職場なので、自分のペースで無理なく働けているようだ。 大人になりスーツを着こなす律も当然カッコよくて、会社の女性社員に狙われやしないか、私は内心不安だったりするけれど。 私が就職してからアパートも借りて、週末はそこでふたりで過ごす半同棲生活を送っている。 これは律からの提案だった。『お互い実家暮らしじゃ、思う存分小夜に触れられないから』という、なんとも赤裸々な理由で。 こぢんまりとした部屋に好きな家具や雑貨を置いて、一緒にご飯を食べて寄り添って眠る。この平凡な生活がなにより幸せで、心を満たしてくれる。 ケンカはめったにしない。律が少し無理をして、それで私が怒ってしまう時がたまにあるものの、すぐに謝るから。 時に意見がぶつかって、仲直りしてまた笑い合う。その繰り返しで、私たちには誰よりも強い絆が出来上がっていると自負している。 ──しかし、私の二十三回目の誕生日を約一週間後に控えた今日。この日ばかりは、私と律はお互い固い表情で、あまり言葉も交わさずに隣り合って座っている。 私の家のリビングで、向かい合っているのは私の両親だ。〝話がしたい〟とだけ伝えてあったのだが、おそらく内容は予想できていただろう。 さらに、スーツを着ている律を見て確信したはず。私だけでなく、両親も緊張しているのがわかる。
一般公開が終わった後は後夜祭が行われる。その時に会おうと、律と約束していた私は、クラスの後片づけが終わると四組に向かった。 しかし、教室に律の姿はない。「逢坂なら、古畑と一緒にどこか行ったよ」「えっ?」 律とよく一緒にいる男子が教えてくれて、私は目が点になった。 律がキョウと? なにか話があったのかな。どこに行ったんだろう……。 少しだけ考えて思い浮かんだのは、以前彼に連れられて行った屋上に繋がる階段。なんとなくそこへ向かってみると、上のほうから話し声が聞こえてきた。 思わず忍び足になり、そうっと近づいてみると、聞き慣れた男子の声が聞こえてきた。「病気だなんて知らずに、いろいろ言って悪かったな」 この声に内容……やっぱりキョウが律に言っているようだ。 邪魔はできないけれど話も気になって、私はその場で静かに耳を澄ませる。「いいんだよ、そんなの。言われても仕方ないことをしてたのは俺なんだから。……ていうか、キョウのおかげで思い直すこともできたし」 キョウのおかげ? やっぱり私が知らない間に、ふたりは話していたのだろうか。「病気になってから、いろんな考え方がネガティブになってて。〝頭はしっかりしてんのに、どうして身体が言うこときかないんだ〟、〝俺は人に迷惑かけるばっかりだ〟ってずっと思ってたんだよ」 胸がきゅっと締めつけられるのを感じていると、彼は「でも」と続ける。「今は〝制限のある自分は、大切な人になにができるかを考えるためにこの頭があるんだ〟って思えるようになった。だから、ありがとな」 律の声は、明け方の空みたいに澄んでいて、私の胸の苦しさも和らいでいく。 キョウがなにを言ったのかはわからないけれど、律の気持ちを変えるくらいの影響力があったんだろう。さすが、親友だね。「……ようやく気づいたか」 キョウがふっと笑い、穏やかな声色で言う。「でも、律がそうやって考えてるってことが、小夜にとっては一番幸せなんじゃねーかな」 彼の言葉は、私の心にも優しく流れ込んでくる。 キョウの言う通り、私はなにもしてもらわなくても、律のその気持ちがあれば十分嬉しい。 姿が見えなくても、ふたりの和やかな雰囲気を感じる。昔よりもっと絆が深まったようで、私も自然に表情がほころんでいた。「……あ?」「ひゃっ!」 突然、階段を下りてきたギャルソン姿のキョウが現れて、私は飛び跳ねそうなくらいびっくりし
こんな賑やかな始まりを迎えた二学期、私の心は澄み渡っていた。 律の体調は気がかりだけれど、彼のクラスの仲よしな友達も、病気をカミングアウトして以来気遣ってくれているらしく、特に問題は起こっていない。 以前までのチャラチャラした雰囲気はまるで消えているし、女子たちは不思議がっているかもしれない。 そして、あっという間に文化祭を迎え、今日は一般公開二日目。 うちのクラスのコスプレカフェという名の出し物も、まあまあな盛り上がりだ。奇抜なコスプレをしている人もいる中、私はフリフリのレースがついたちょっとだけゴスロリっぽい服を着ている。 休憩の時間になると、ありさと一緒に比較的静かな体育館の横にやってきた。 なぜか海賊のコスプレをしている彼女、めちゃくちゃ似合っている。うっかり惚れてしまいそう。「なんか女子から熱い視線を感じるんだよね」「だって、ありさカッコいいもん!」 同じく熱い視線を送る私に、ありさは呆れ顔をする。「でも裏方の手伝いしてる時、料理の手際の良さに感心してる男子も結構いたよ」「そぉー? ま、あたしの魅力に気づいてくれる人がひとりくらいいてもいいか」 無邪気に笑ったありさは、美味しそうにクレープを食べ始めた。 私も種類の違うクレープを味わい、しばらくするとありさが神妙な顔をして言う。「それにしても、まさか逢坂くんが難病患者だったとはねー……」 つい先日、ありさとキョウにも、律が病気のことを打ち明けていた。 ふたりとも驚きを隠せない様子だったけれど、もちろん受け入れてくれている。「サニーサイド行った時に、意外と歩くのゆっくりだなぁとは思ったけど、それも病気のせいだったんだ」「うん……言われてみれば、って感じだよね。いつもは全然普通だし」 時々信じられなくなる。こんなに元気なのに、必ず動けなくなる時が来るなんて。 でも、いつか訪れるその時も、私は彼に寄り添っていたいと思う。「律は私たちに迷惑かけたくなかったみたいだけど、私は逆にもっとそばにいたいって思うようになっちゃったよ」 なにげなく口にしたけれど、恥ずかしいことを言った気がして顔が熱くなってくる。 照れ隠しで大口を開けてクレープを頬張ると、ありさがふふっと笑った。「でも、逢坂くんが離れようとしてたのも、小夜との将来をちゃんと考えてたからでしょ。それってすごいことだよね」 ありさの言う通りだ。 私はずっと当たり
「おはよー」「あー眠い……」「ねぇ、数学の課題やった?」 いつもと変わらない、クラスメイトの雑談が飛び交う新学期の朝。私はこれまでと少し違った気持ちで教室に入った。 自分の席に荷物を置いたありさは、満面の笑みを浮かべながら私の席にやってくる。「いやーもう本当によかったねぇ、小夜~!」「お前それ何回目だよ」 一緒に登校したキョウが、ありさに呆れた声を投げた。でも彼女はそんなこと気にせず、私に抱きついている。「だって嬉しいんだもん! 小夜の長かった恋が報われてさー」「ありがとね、ありさ」 私もすっごく嬉しいよ。律とまた気持ちが通じ合えたことも、ありさがこんなに喜んでくれることも。 夏休み中に、誕生日を祝ってくれた皆には律とのことを報告していた。病気については律が自分から話すと言っていたので、キョウとありさにもまだ打ち明けていない。 こうやって会うのは久々だから、ありさはテンションが上がっているらしい。私はそんな彼女からキョウに目線を移して微笑む。「キョウもありがとう。いっぱいお世話になりました」 うやうやしく頭を下げると、相変わらず無愛想な彼はちょっぴり意地悪なことを言ってくる。「またどっか行っちまわないように、鎖でもつけといたほうがいいんじゃねーの?」「もう大丈夫!」 自信を持って答えると、キョウの顔にもふっと笑みが生まれた。 思えば、キョウは事あるごとに私を助けてくれていた。今があるのは彼の力も大きいので、「本当にありがとね」と告げた。 満足げで、でもなぜか少しだけ寂しそうにするキョウに、真木ちゃんが近づいてくる。「新しい妻は、この海姫様なんていかがでしょう?」「へっ?」 まぬけな声を合わせ、キョトンとする私たち。真木ちゃんの後ろから姿を現した海姫ちゃんは、なにやら艶やかな笑みと仕草でキョウの肩に手を回した。 ギョッとする彼に、海姫ちゃんが色っぽく迫る。「たまには同学年もアリかーと思ってね。ぽっかり空いた隙間を埋めてあげるわよ、恭哉クン?」「……色気あるお姉様タイプもいいかもな」 顎に手をあてて真剣に言うキョウに、私たちは吹き出した。お互い冗談なのかどうなのか、すごく微妙だけれど。 そうして皆で笑い合っていると、急に教室内がざわめき出す。なんとなく周りに目を向けると、うちのクラスにはないオーラを放つ人物が中に入ってきた。「律……!?」 あれ、なんで律が? 彼がこの教
えっちゃんから話を聞いた後、彼が「どうぞ」と言うので、私は律の部屋に入らせてもらった。 顔色はさっきよりも良くなっていて、穏やかに寝息をたてている彼を見て、少し安心する。 夕日でオレンジ色に染まる、シンプルで男らしい部屋をぐるりと見回してみる。 小学生の頃は、サッカーボールやユニフォームが目につくところにあったけれど、今は見当たらない。チームの皆や、私たちと撮った写真ももう飾られていなくて、寂しい気持ちになった。 本棚には律が好きらしい漫画が並んでいて、その一番端に、漫画ではない本が何冊かある。 背表紙には、彼の病名が書かれている。病気についての解説書や、患者さんの闘病記のようだ。 律もこの病気の患者なのだと改めて思うと胸が苦しいけれど、私ももっと詳しく理解したい。 少し目を通してみたくて本を拝借しようとした時、その本の隣に見覚えがある箱を見つけて、私は動きを止めた。「これ……」 思わず小さな声を漏らして、お道具箱みたいなそれにそっと手を伸ばす。 可愛らしい赤いチェック柄のその箱は、律が引っ越す前に私やキョウがあげたものだと、すぐに思い出した。 確かこれにお菓子を詰めて、餞別のつもりであげたのだ。それをとっておいてくれたなんて。 懐かしさが込み上げつつ、今は中になにが入っているのか気になる。ちらりと律を見やるも、まだ起きる気配はない。 ……ちょっとだけ、見てもいい? ちょっとだけだから! 好奇心が勝ってしまった私は、心の中で勝手に律に断りを入れて箱に手を伸ばす。そっとふたを開けてみて、目を見開いた。 中に入っていたのは、これまた見覚えがある封筒の束。私が送った、手紙の数々だった。 全部、大事にとっておいてくれたんだ……。 嬉しさを噛みしめるも、ひとつだけ気になるものがある。たぶん私のものではない、ぐしゃぐしゃに丸められた紙だ。これはなんだろう。 どうにも気になって、また〝ちょっとだけ!〟と心の中で言い、ゆっくり開いてみる。 綴られた文字を見て、驚きで心臓が飛び跳ねた。シンプルな便箋には、【緒方小夜さま】と書かれていたから。 うそ……これ、律が私宛てに書いた手紙!? 信じられない気持ちで文字を追うと、私の名前の下には【十五歳の誕生日、おめでとう】と書かれている。 十五歳って、えっちゃんのふりをして手紙をくれたのと同じ、中学三年の時だ。どうしてそんなものが……と不思議
「サッカーができなくなっちゃったのも、それで……?」「そう。激しい運動はやっぱりやめたほうが良くてね。でも律の場合まだ症状は軽いし、薬を飲んでいれば日常生活には支障ないよ」 えっちゃんは私を安心させるように微笑んだ。日常生活に問題はないとわかって、少しほっとする。 とはいえ、大好きなサッカーができなくなって、律はどれだけ悔しかっただろうと思うと、やり切れなさでいっぱいだ。 えっちゃんもすぐに表情を曇らせて、声のトーンを落とす。「でも、今日は特別調子が悪かったみたいだね」「あんなふうになることはよくあるの?」 さっきの律の姿を脳裏に蘇らせて、胸の中に不安と心配が渦巻いたまま問いかけた。 彼は「そんなことないよ」と否定したものの、表情は浮かない。「薬の服用のタイミングや量が合わないと、いろんな副作用が出るんだ。人によって症状は違うみたいだけど……律は足が動かなくなっちゃったみたいだね。今日の状況を聞くと」 だから、踏切の真ん中で立ち止まったまま動けなくなってしまったんだ。あの時、私が彼を見つけていなかったらと思うとゾッとする。「ついこの間、薬の種類が変わったからそのせいかもな。少量の違いで症状が出るから、コントロールが難しいんだ。いつ、どれくらいの量を飲むのか、律が自分自身でちゃんと把握して、うまく付き合っていかなきゃいけない」「そんなに難しい病気なんだ」「ああ……。まあ、今日は暑さにやられたせいもあるかもしれないけど。これだから出無精は困るよ」 口を尖らせているけれど、弟想いなのが伝わってきて、少しだけ笑みがこぼれた。「じゃあ、薬を飲んでいれば症状は抑えられるんだよね?」 そんなに副作用が出てしまうのは怖いけれど、気をつけていれば大丈夫なのかな。完治はしないとしても……。 えっちゃんは、ほんの少し口角を上げて答える。「薬が効いている間は、普通に生活できるよ。寿命には関わらないから、他に病気や事故に遭ったりしなければ長生きできるし」「そうなんだ……!」 余命があるようなものではないと知って、私はあからさまに安心してしまった。 しかし、えっちゃんの声は明るくならないまま、「でも」と続ける。「症状は確実に進行する。何年もかけて、すごくゆっくりとだけど。何十年先かわからないけど、将来寝たきりになるのは避けられない」 その事実を聞いた瞬間、目の前が暗くなる感覚がした。 律の身体
電話で言った通り、十分足らずで来てくれたえっちゃんの車に乗り込むと、律は安心したのかすぐに眠ってしまった。 ほどなくして着いたのは、えっちゃんも一緒に暮らしているというマンション。彼は律を抱き抱えて一階の部屋に運び、私をリビングに上がらせてくれた。「悪かったね、迷惑かけて」「ううん、私は全然」「たまたま俺が休みでよかったよ」 苦笑するえっちゃんは、あまり動揺した様子はない。私はすごく心配したけれど、病院に連れていくほどでもないみたいだし……。 やっぱり、ちゃんと律の身体のことを知りたい。律が寝ている部屋のほうを眺めていると、キッチンに回ったえっちゃんが「なにか飲む?」と問いかけた。 お言葉に甘えて飲み物をもらうことにした私は、リビングのソファに座って彼を眺める。 その姿はすっかりカッコいい大人の男性だけれど、優しい雰囲気は昔のままでなんだか落ち着く。おかげで、四年ぶりだというのにまったく違和感なく話せる。「はい、おまたせ」「ありがとう。あの、おじさんたちは?」 琥珀色の液体の中で氷が揺れるグラスを受け取りながら聞くと、えっちゃんは私の向かい側のソファに座って説明してくれる。「引っ越してからは母さんと三人で暮らしてて、親父だけ仕事の関係で向こうに残ってる。律を診てくれる病院はこの街が一番よくて。俺もこっちで就職したから面倒見れるし」「そうだったんだね……」 ということは、おじさんだけ単身赴任している感じなんだ。律が病院に通いやすいように、この街に引っ越してきたということらしい。「今日は母さんも親父のとこに泊まりで行ってるから、小夜ちゃんも遠慮なくいてくれていいよ。律はまだ起きないだろうし」 穏やかに微笑んで、グラスに口をつける彼。私もアイスティーをひと口飲んで、気持ちを落ち着けてから口を開く。「……えっちゃん、律はどんな病気なの?」 核心を突くと、えっちゃんは少しだけ表情を曇らせて苦笑を漏らした。「律は隠したがってたけど、もう今日のことで小夜ちゃんも気づいたよね」 目線を上げた彼は、意を決したように真剣な表情でこう言った。「律は、身体を動かしにくくなったり震えたりして、運動がスムーズにできなくなる病気なんだ。今は進行を止める治療薬がなくて、難病に指定されてる」 難病……その重々しい単語を耳にして、ドクンと鈍い音が身体の奥で響いた。「高齢者に多い病気なんだけど、若くし
「はあ……よかったぁ」 一気に力が抜けて、へなへなと倒れ込みそうになるも、私の横には倒れたまま動かない律がいる。うつぶせで横に向けた顔は青白く、苦しそうに歪んでいる。「律っ! ねえ、大丈夫!?」 どうしよう、どう具合が悪いんだろう? あそこで動けなくなるくらいなんだから相当なはず。 まだパニックは治まらず、軽く律の肩を揺すると、彼の唇がかすかに動く。「さ、よ……」「え?」「ごめん……小夜……」 ──四年ぶりに〝小夜〟って呼んでくれた。こんな時なのに、感極まってじわりと涙が滲む。「危ない目に、遭わせて……ほんと、情けない……」 荒い息をしながら途切れ途切れに言葉をつむぐ彼に、私はぶんぶんと首を横に振った。「いいの、私は大丈夫だから。それより救急車──!」 とにかく電話するためバッグからスマホを取り出そうとすると、律がゆっくり手で制した。その手が震えていて、言葉に詰まってしまう。 なんとか上体を起こした彼は、はいつくばるようにして道の脇へ移動しようとする。よく見ると足も震えているみたいだ。 いつもの律から想像できない姿に困惑しながらも、とにかく今は彼を助けようと身体に腕を回して支えた。 あまり人目につかない木陰に一緒に座ると、律はポケットから取り出したスマホを震える手で私に差し出す。「越に、電話……」「えっちゃんに?」「ボタン……うまく、押せなくて」 それを聞いて、さらにぐっと胸が苦しくなった。 この状態を見ていれば、もう一目瞭然だ。律は、きっとなにかの病気を患っているんだって──。 髪で表情が隠された、頭を垂れる彼を見つめて、私は唇を噛みしめる。泣きそうになるのを堪えて〝逢坂 越〟の名前を探し、電話をかけた。 えっちゃんは、私が名乗るとすぐにわかってくれた。今の状況を伝えると、『十分くらいで着くから』と言ってもらえたので、ひとまず安心する。「えっちゃん、すぐ来てくれるって。もう少し待ってられる?」「ん、ありがと……さっきよりマシ」 いくぶんか表情が和らいできた律にほっとしながら、スマホを返した。「でもつらいでしょ? 私に寄りかかってて」 返事を聞くより先に、少し強引に彼の身体を抱き寄せる。律は抵抗せず、おとなしく私に寄りかかり、肩に頭を乗せた。 私の右側に触れている、柔らかな髪、温かい身体。無意識のうちにしっかりと手を握って、ただじっと彼の存在を感じていた。「……小夜