「あれは嘘だな。美由紀にはボクシングを習っているって話はしていたけど、残りの3人にはそんな話はしたことが無いんだ。それに遠藤の言っていたボクシングジムって……あの界隈にはそんなものは無かった。念の為にそこから範囲を広げてジムを探してみたけど『遠藤達也』なんて人間誰も知らなかった」航は弘樹に説明した。「ふ~ん。つまりそれは……」「ああ、単なるはったりだろうな」「それで明日何時に決行するんだ?」「19時に決行だ。それじゃ、俺部屋に戻るわ。明日の準備が色々あるからな」航は立ち上がった。「ああ、分かった」弘樹の声を背中に聞きながら、航は事務所を出た。そして4Fの自分が済む部屋に向かった。真っ暗な部屋の外には明るいネオンが光り輝いている。航は部屋に上がると電気をつけてカーテンをしめた。ベッドの上に座ると、さっそくスマホを取り出した。明日の遠藤との決着の際には彼女たちの協力が必要だ。「まずは1人目に電話してみるか……」航はスマホをタップした――**** バスルームから出てきた美由紀はビジネスホテルの12Fの窓から外を眺めていた。窓の外には地上ではにぎやかな新宿の景色に、立ち並ぶ高層ビルが映し出されている。「ふう……」美由紀は部屋に入る前に自販機で購入しておいた缶ビールと缶チューハイを冷蔵庫に取りに行った。そして冷蔵庫の扉を開き、取り出すと窓際の小さなテーブルの前に運ぶと椅子に座ってプルタブを開けた。プシュッ!子気味の良い音を立てて栓が開かれ、美由紀は上を向くようにゴクゴクと缶ビールを飲むと、窓の外を眺めた。(航君……。今夜は一緒にいてくれると思ったのに……。2人でラーメン食べて、同じ部屋に泊って、航君の匂いに包まれてベッドで眠りたかったのに……)目を閉じれば、遠藤の怒鳴り声が頭の中に響いてくる。強くねじり上げられる腕。美由紀の部屋で暴れて物を壊されたりしたのは1度や2度では無い。そのことを思い出すだけで、今も恐怖がこみ上げてきて胸が苦しくなってくる。(明日……私、本当に達也さんと別れられるのかな……?)そして美由紀は両肩を抱きかかえた。「航君……怖いよ……」美由紀は思った。明日は仕事を休ませてもらおうと――**** そして時は流れ翌日の19時― 美由紀が西郷隆盛の銅像の前に着くと、すでに航がいた。航の傍には3人の女性
航と美由紀は新宿駅に来ていた。新宿駅は美由紀の職場がある駅である。「美由紀、ここのビジネスホテル空いてるってよ。朝食付きで1泊7000円だってさ。お前、金持ってるか?」航は新宿駅前にあるビジネスホテルから出てくると、ホテルの外で待っていた美由紀に声をかけた。「ありがとう航君。うん。大丈夫、お金なら持ってきてるから」「そうか。後、中でも食事出来るってさ。お前まだ食事取っていないんだろう? ここで食べればいいんじゃないか?」「う、うん」美由紀は俯いていたが、顔を上げた。「ねえ、航君。航君もまだ夜ご飯食べていないんでしょう? だったら私とどこかのお店に食べに行かない? そうだ、久しぶりにラーメンはどうかな?」「ごめん。無理だ。明日の準備があるから」しかし、航の口から出た言葉は美由紀を失望させるものだった。「そう……そ、それじゃ明日の件が解決したら……」「美由紀」航は美由紀の言葉を遮った。「いいか? 明日……絶対に遠藤の前では俺に馴れ馴れしい態度を取ったら駄目だからな?」「え? 航君……どうして……?」「あの男は美由紀以外に3人の女と浮気していたんだ。彼女たち全員が遠藤のDV被害で苦しめられている。彼女たちを明日まとめて遠藤のDV被害から助けてやるんだ」「う、うん……」「遠藤を追い詰めるには美由紀も含めて全員が浮気されていたってことだ。それを使って奴を追い詰めるんだ。だからお前が俺に親しい態度を取っていたら変に思われるだろう? 何だ、お前だって浮気していたじゃないかと遠藤が言ってくる可能性がある」「確かに……そうだよね……」「それじゃ、そう言うことだから」航はそれだけ言うと美由紀に背を向け、そのまま振り返ることなく駅の方へと歩いて行った。(航君……)美由紀は雑踏に紛れて航の姿が見えなくなるまで見送っていた。その瞳には涙が滲んでいた――**** JR山手線に乗りながら、航は自己嫌悪に陥っていた。美由紀の自分にすがりついてくるような目が忘れられなかった。(美由紀……お前、たぶんまだ俺のことを思っているんだろうな……。だけど……すまない。俺はもうお前とは付き合えないんだ。ごめん……!)航は手すりを握り締めると窓の外を眺めた。窓ガラスに映る自分の顔。(駄目だ……こんな辛気臭い顔していたら……。相手になめられないようにしないと
「もしもし……」航は美由紀から取り上げたスマホの電話に出た。『ああ? 何だ? てめえは。人の女の電話に勝手に出んじゃねえよ』受話器越しからは相手を威圧する遠藤の声が聞こえてくる。「俺はなあ……美由紀の知り合いだ」「はぁ? 知り合いだと? 何だそりゃ。あ……ひょっとして美由紀の前で別の女を抱きしめて傷つけたって言うのは……お前のことだろう!?』遠藤の声のトーンが大きく、航は耳から受話器を外して聞いていたので、遠藤の声は美由紀の耳にも届いていた。(美由紀……こいつに俺と朱莉のこと話していたのか……)航は美由紀の方をちらりと見ると、美由紀は項垂れて視線をそらせた。「ああ。確かにそうだ。だがな……お前は俺の元カノにDV行為をしているな? それで助けを求められたんだよ。美由紀にな」 『はあ? おい! お前……ふっざけるなよ! 出せ! 美由紀を今すぐ電話口に出せよ!』遠藤は大声でまくし立てた。しかし、航はそれに応じない。「はあ? 誰が電話に出させるかよ。とにかく一度話し合いしようぜ。お前の都合の良い時間に合わせてやるよ。ほら、言ってみろ」航はまるで遠藤を挑発するかのような口ぶりで言う。『くっそ……! ふざけやがって……! それじゃ……明日だ! 明日の19時に西郷隆盛の銅像前で待ってろ!』「ふん。よしいいぜ。それにしても西郷隆盛の銅像前なんて……お前、DV野郎のくせに随分可愛らしい待ち合わせ場所を指定してくるんだな?」どこまでも航は挑発的に話す。『な……! て……てめえ! 俺を馬鹿にするのかよ!!』「いや、別に。それじゃあ必ず来いよ。待ってるからな」航はそれだけ言うと有無を言わさず電話を切り、溜息をついた。「わ……航君……」美由紀は信じられない思いで涙を浮かべて航を見た。「美由紀……」航は美由紀の名を呼んだ。(来てくれた……航君が私を助けに来てくれた……!!)「わ、航君。あのね……」「ごめん」航は美由紀が言葉を言い終わる前に頭を下げてきた。「航……君?」「ごめん、美由紀。俺のせいだろう? 俺がお前を捨てたから……お前はあんな奴に捕まってしまったんだろう?」そして美由紀にスマホを手渡すした。「美由紀。もう今日と明日は絶対にあいつからの電話には出るな。それに今夜はもうマンションに帰るな。今夜はどこかビジネスホテルに一泊
今を去ること1週間程前―― 航は父から聞いた遠藤達也のことについて調べていた。遠藤を調べるのは簡単なことだった。なぜなら彼は上野のドラッグストアに勤務していたからだ。上野と言えば航が拠点としている場所で、いわば庭同然のようなものだった。(一刻も早く美由紀を遠藤から救ってやらなければ……!)だがそう思う一方で、航はもう二度と美由紀とやり直す気にはなれなかった。冷たい人間と思われても構わない。航の中では朱莉と美由紀では天秤にかけるまでもなかった。朱莉に対する思いの方がはるかに勝っていたからである。(悪い、美由紀。お前は俺と別れて……それで深く考えずに、たまたまナンパしてきた男のことを深く知る前に安易な気持ちで付き合ってしまったんだろう?)そう考えると航は罪悪感で一杯になってしまう。だが、美由紀とよりを戻すかどうかと言えばそれはまた別問題であった。今の自分に出来ることはDV男と美由紀を別れさせることなのだと航は心に決めていた。**** 航は別の仕事の依頼も引き受けていて、その仕事と併用している為四六時中遠藤に張り付いているわけにはいかないが、時間の許す限り航は遠藤の様子を探っていた。そして調べれば調べるほどにこの遠藤という男がいかに最低な男なのかということを目の当たりにするようになった。普段の遠藤は温厚そうに見えるが、それは表の顔に過ぎなかった。ドラッグストアの店員ということもあり、接客業はたいして問題は無かったが、彼の態度が豹変する時は卸売業者や販促物設置業者が来た時だった。彼らに対しては自分の方が上の立場にいると遠藤は勘違いしているのか、とにかくつらく当たっていた。中には訪れた業者の中では女性が数人彼に怒鳴られて泣きながら帰って行く場合もあった。そのうえ、遠藤が付き合っている女性も美由紀一人ではなかった。他にも3人の女性と交際してるが、全員遠藤のDVに怯えていた事実も発覚した。(くそ! 何て男だ……! 美由紀以外にも被害者の女性がいたなんて! だが……逆にこれは好都合だな……)航は笑みを浮かべた―― そして航は動いた。まず、一番遠藤と交際期間が短い女性に会った。彼女は遠藤に対して酷く怯えていたが、まだ洗脳まではされていなかった。隙あれば逃げたい、別れたいと思っていたのだ。そこで彼女にボイスレコーダーを渡し、デート中の音声を録音して
怪我の治療を終え、美由紀は自分のマンションへ向かって歩いていた。その道すがら美由紀は溜息をついた。頭の中で琢磨に言われた言葉が頭の中でこだましている。『悪いことは言わない。ああいう男とはすぐに別れた方がいいな』「そんな……別れられるものなら……もうとっくに別れているよ……」美由紀はポツリと呟いた。 遠藤が実はDV男だったと言うことが発覚したのは3回目のデートの時だった。この日、美由紀は達也と上野動物園に一緒に行く約束をしていた。10時に上野公園で待ち合わせをしていたのだが、電車に乗り過ごしてしまった美由紀は5分遅刻してしまった。(別に5分位の遅刻なら連絡入れなくても大丈夫だよね?)そう考えた美由紀は遠藤に遅刻する連絡を怠ってしまった。5分くらいの遅れ位は構わないだろうと考えたのだった。だが……それが間違いのもとだった――公園に着くと、すでに待ち合わせのベンチには遠藤が足を組んで座っていた。「ごめんね、達也さん。少し遅れちゃって……待った?」美由紀は笑顔で遠藤に声をかけた。すると遠藤はイライラした様子で美由紀を睨みつけるといきなり怒鳴りつけてきたのだ。「遅い!! 遅すぎる!!」「キャアッ!!」そのあまりの迫力に美由紀は思わず耳を押さえてしまった。「え……? た、達也……さん……?」美由紀は一瞬何が起こったのか理解できなかった。「おまえなあ……」遠藤はベンチからユラリと立ち上がると、再び激しく怒鳴りつけてきた。「約束の時間を5分もオーバーしやがって!! しかも、遅れるって連絡を一度も入れずに! ふざけるんじゃねえ!!」「ご、ごめんなさい!! 許してください!」美由紀は必至で頭を下げた。あまりの恐怖に目じりには涙が浮かんできた。一人っ子で両親から甘やかされて育ってきた美由紀は、誰かにこれほどまでに怒鳴られたのは生まれて初めての事であったのだ。「謝れば済むとでも思っているのかよ!!」美由紀が必死で謝っても遠藤の怒りは収まらない。「お願いです……達也さん。何でもしますのでどうか許してください……」美由紀は震えながら必死で頭を下げ続ける。すると少しだけ遠藤の声のトーンが落ち着いた。「ほ~う。何でもしてくれるのか?」「は? はい……」美由紀は恐る恐る顔を上げた。「そうか……なら、今日のデート代、すべてお前が払えよ」「
「キャアアアッ!!」背後でものすごい悲鳴が起こり、琢磨は驚いて振り向くと、先ほどの女性が男に強く手首を握りしめられていた。(え……? あの男は誰だ?)「美由紀! 遅いじゃねえか! 人を10分も待たせやがって!!」遠藤は美由紀の腕を強く握りしめ、会社の前で怒鳴りつけている。その様子を通行人たちがじろじろと見ながら通り過ぎていく。「ごめんなさい! ごめんなさい!」それはあまりにもすごい剣幕で、見ている者たちは恐ろしくて、止めに入ることも出来ずにいた。(あれはDVだ! しかもうちの女子社員に……!)琢磨はすぐに引き返すと美由紀と遠藤のもとへと向かった。「おい! 美由紀! てめえ……この俺を10分も待たせたんだからな! 覚悟はできているんだろうなっ!? ……ん? 誰だ? てめえは?」遠藤は突然近づいてきた琢磨に気が付き不機嫌そうに睨みつけた。「何をしているんだ? 手荒な真似はよせ」怒気を含んだ声で琢磨は遠藤に言った。琢磨は女性に暴力をふるう男を一番この世の中で軽蔑していたのだった。「ああ~ん……この女は俺の彼女なんだよ。自分の所有物をどうしようが貴様には関係ないだろう?」そしてより強く美由紀の腕をねじり上げた。「い、痛いよ! 離して達也さん!」美由紀は涙交じりに訴える。「やめろ!」琢磨は遠藤に怒鳴りつけた。その時騒ぎを聞きつけてか、2名の自社ビルの警備員が足早にこちらへ向かってやってきた。「チッ!」遠藤は舌打をすると美由紀の腕を離し、足早に繁華街の方へ向かって去って行った。「大丈夫でしたか?」「お怪我はありませんでしたか?」2名の男性警備員は琢磨と美由紀に声をかけてきた。「いや……俺は大丈夫だったかが、この女性社員、階段から落ちて怪我をしてしまったようなんだ」「え……怪我を?」「どこを怪我したんですか?」2名の警備員に聞かれた美由紀は俯きながら答えた。「あ、あの……右手首と左足首を……」それを聞いた琢磨は警備員たちに声をかけた。「すまないが、こちらの女性を医務室まで連れて行ってあげてくれないか?」「ええ、分かりました」「どうぞ、つかまって下さい」警備員たちは美由紀を両脇から支えた。「……ありがとうございます……」美由紀は涙目になって2人の警備員に礼を述べ、琢磨を見た。「……社長。ご迷惑をおかけしてしまい