鈴はそっと紗枝のズボンから手を離すと、静かに言った。「お義姉さん......啓司さんに伝えてもらえますか?」その言葉に、紗枝はふっと笑みを漏らした。「あなたの頭がおかしいのか、それとも私の方かしらね?」「最初は私に頭を下げて、『ここに居させてください』って懇願してきたわよね?私はもうそれを受け入れた。でも今になって『啓司さんに伝えてほしい』だなんて。どうして最初から『啓司さんに取りなして、ここにいさせてください』って正直に言わなかったの?」淡々とした口調ながらも、紗枝の言葉には鋭さがあった。鈴は返す言葉に詰まり、思わず口をつぐんだ。まさかここまで論理的で、理詰めに返されるとは思っていなかった。周囲にいた使用人たちも、奥様が意地悪なのではなく、この鈴という女性の意図にこそ問題があるのだと、次第に察し始めていた。「啓司がはっきりあなたを拒んだのに、まるで私があなたを追い出したかのように振る舞うのね。もし私の言葉にそんな力があるなら、そもそも啓司に伝えてなんて頼まないでしょう?」紗枝の言葉は止まらなかった。鈴は反論できず、沈黙の時間だけが長く伸びていく。ようやく、掠れた声で絞り出すように言った。「......これは、誤解なんです」「もういいわ、何も言わなくて。そんな芝居には付き合いきれないの。用事があるから、これで失礼するわ」それだけ言い残して、紗枝は使用人から傘を受け取ると、さっさと外へ出ていった。すぐに迎えの車がやってきて、彼女を自宅へと送り届けた。今、紗枝は新しい楽曲の制作や、エイリーとのコラボレーションで多忙を極めていた。鈴のことなど、構っている暇も、気にかける余裕もなかった。一方その頃、鈴は雨の中に取り残されたまま、なおもその場に膝をついていた。どうしても諦めきれなかった。啓司があんな冷たい人間だとは、信じたくなかったのだ。やがて、空から容赦のない雨粒が落ち始める。豆粒のような冷たい雫が、鈴の体に叩きつけられる。寒さが骨の芯まで染み込み、彼女の体は震え出していた。そこへ、牧野が啓司を訪ねて邸を訪れた。「......あれは、鈴さんじゃないですか?」牧野はすぐに彼女のことを思い出した。以前、黒木家に訪れたときも彼女はいつも明るく、人懐っこい笑顔で「牧野兄ちゃん」と呼んでいた。鈴は彼を見つ
逸之は、一瞬その場に立ち尽くした。まさか......あの鈴さんが、まだ門の前で芝居を続けているなんて思いもしなかった。てっきり、もう帰ったものだとばかり。啓司は冷静な面持ちのまま、「好きにさせておけ」と短く言った。「かしこまりました」使用人は一礼し、そのまま足早に下がっていった。紗枝もまた、ここまで鈴が執拗だとは思っていなかった。無言のまま朝食を口に運び、特に気にする様子もなかった。そして食事を終えると、逸之を連れて幼稚園へ向かう支度を始めた。別荘の外では、しとしとと雨が降り続いていた。どんよりとした空は今にも泣き出しそうな気配を漂わせ、風は肌寒く、雨脚も少しずつ強まっている。玄関先では、使用人が静かに傘を差し出してくれた。その傘越しに、紗枝はすぐさま門前に跪く鈴の姿を見つけた。全身ずぶ濡れで、細い肩が震えている。濡れた髪が顔に張り付き、唇は紫に染まっていた。四月の雨にしては冷えすぎるほどで、まるで初冬のような寒さだった。紗枝の姿を認めた鈴は、まるで命綱を見つけたかのように縋るような声をあげた。「お義姉さん......どうか、どうかここに居させてください。どんなに働かされてもかまいません!ここを出たら、もう行くところがないんです。この格好で家に戻ったら、お爺さんに......きっと、足を折られるまで殴られます」その懇願にも、紗枝の瞳は澄んだままだった。ただ逸之の視界をふわりと遮るようにして、「行きましょう」と優しく声をかけるだけだった。鈴は思わず目を見開いた。ここまでしても、紗枝が助けてくれないことが信じられなかった。震える手で膝を引きずるようにして紗枝に近づき、その裾を掴んだ。「お義姉さん......本当に、私が死ぬのを見殺しにするんですか?」その声は濡れた地面に溶けるようにかすれ、なおも彼女は懇願した。「頭を下げます!だから、お願いです。どうか、どうか私をここに置いてください!」その様子は、傍目にはまるで紗枝が冷たく鈴を拒んでいるかのように映る。しかし実際には、彼女を拒んでいるのは啓司だった。その事実を、鈴の振る舞いが覆い隠していた。使用人たちは口に出すことこそなかったが、内心では若奥様の冷たさに少し戸惑っていた。いとこが助けを求めて来ているのに、住み込みたいと懇願しているのに、それを拒むなんて
紗枝はじっと啓司を見据えた。「あなた......逸ちゃんを、私から引き離そうとしてるの?」ずっと黙っていたが、忘れていたわけではない。胸の奥に引っかかったままの疑念を、今、ようやく言葉にしたのだ。啓司はぽかんとした顔で彼女を見返した。「どこからそんな話が出てきたんだ?」その反応に、紗枝は少し戸惑った。もしかして、こちらの勘違いだったのだろうか。「じゃあ明日、逸ちゃんを連れて帰るわ」「どうぞ」啓司は、まるで関心がないようにあっさりと言った。そのあまりにも無頓着な様子を見て、紗枝はようやく確信した。啓司は逸之を奪おうとしているわけではない。心のつかえが取れた彼女は、安心して階下へと降りていき、逸之を客室に連れて行こうとした。だが、その背にまた啓司の声がかかった。「これからは、子どもに変なことを教えるのはやめてくれ」「変なことって......何?」紗枝は意味がわからず、思わず聞き返した。しばらく黙った後、啓司は口を開いた。「逸之も景之も、ちょっと成熟しすぎてる。あんな小さい子どもが持つべきじゃない考え方をしてる。変な思想を吹き込むより、もっと実用的なことを教えてやってくれ。まだ自分で尻も拭けないんじゃ、笑い者だぞ」できるだけ婉曲に言ったつもりだったのかもしれないが、紗枝にはその意図がうまく伝わらなかった。なにより、彼女はすでに疲れ果てていた。ただ早く眠りたくて、適当に「はい」とだけ返事をし、逸之を探しに向かった。逸之は一人でリビングに残され、ママとバカパパが延々と話し込んでいるあいだに、いつの間にか眠ってしまっていた。紗枝は眠る息子をそっと抱き上げ、寝室へ連れて行った。逸之はきれい好きな子で、鈴をからかう前によく身体を洗っていた。だからもうお風呂は必要なかった。紗枝も簡単に支度を済ませ、彼を腕に抱いたまま、そのまま眠りに落ちた。翌朝、目覚ましの音が母子の眠りを破った。目をこすりながら、逸之が「ママ......」とつぶやいた。まだ眠気が残っているようだ。「......ママ、どうして僕と一緒に寝てるの?」そう言ったかと思うと、逸之は突然ベッドから飛び起きた。紗枝が「どうしたの?」と聞く暇もなく、彼はスリッパを履いて、啓司の部屋へと駆けていった。だが、部屋に着いたときには、啓司はすで
逸之は少し首を傾げながら二階へ上がった。洗面所から水の音が聞こえる。覗いてみると、啓司が手を洗っていた。その周囲は洗剤でベタベタになり、見るも無残なありさまだった。洗面台の周りをせっせと拭いていた紗枝が、呆れたように口を開いた。「牧野に使い方とか、置き場所とか教えてもらえばいいのに。なんで自分でやろうとするのよ?」紗枝は、啓司が自分を呼び上げたのは、てっきり何か大事な用事でもあるのかと思っていた。けれど実際は、視力を失った彼が高すぎるプライドのせいで牧野に細かく聞けず、何もかも曖昧なまま手探りでやっているというだけだった。今や、手を洗うにも顔を洗うにも、どこに何があるのか分からず、失敗ばかり。昨夜も洗面所をめちゃくちゃにしておきながら、今日になって平然と「片付けて」と頼んでくる。よくもまあ、そんなことが言えたものだ。「あなたの可愛い従妹にでも、頼めばいいじゃない」紗枝の不満は、次々と啓司の耳に届いていた。信じられなかった。あの従順だった紗枝が、いまや自分にこんな口をきくようになるなんて。「......紗枝。俺、ここ数年、お前に優しくしすぎたのかもしれないな」ぼそりと啓司が言った。「それ、本気で言ってるの?」紗枝は最後のひとつを所定の位置に戻すと、彼の手をつかんだ。啓司は本能的に反射しようとしたが、その動きに、どこか嫌悪の色が混じっていた。それが見えた瞬間、紗枝の怒りはさらに燃え上がった。「手をつかまなきゃ、どこに何があるか教えられないでしょ?」渋々といった様子で啓司が手を差し出した。そんな彼の、冷たくて不機嫌な態度が、なぜだか紗枝には「嫌々ながらも言うことを聞いている子ども」に見えてきて、ふと、からかいたくなった。握る代わりに、洗ったばかりでまだ濡れていた手のひらを持ち上げて、ぺちん、と啓司の頬に軽く当てた。「何してる?」啓司の声には、瞬時に怒気がにじんだ。その不機嫌な顔を見た途端、紗枝は思わず吹き出しそうになる。「別に?顔が乾いてるみたいだったから、水分補給してあげただけ」そう言いながら、もう一方の手で、啓司の頬をそっと撫で始めた。不思議なことに、啓司がスキンケアをしている姿など一度も見たことがないのに、肌は白くて滑らかで、毛穴ひとつ見当たらない。こんな間近で顔をまじまじと見るのは初めてだ
紗枝はソファに腰を下ろし、果物を口に運びながら、息子と並んで本を読んでいた。そこへ突然、鈴が話題の矛先を自分に向けてきた。その途端、紗枝の眉がわずかにひそめられる。いつ、啓司に言ったっていうの?もう何年も前のことだし、そもそも鈴がこっそり口にしていた、あの言葉を、自分は一度だって啓司に話した覚えはない。当時の彼女には、それがどれほど無意味なことか、よくわかっていた。啓司に話したところで、彼が自分を庇ってくれるわけでもない。むしろ、「面倒な女」と思われて終わりだ。「何の話?」紗枝は表情を変えず、どこか訝しげな調子で静かに尋ねた。鈴は言葉に詰まり、「私......」とつぶやいたきり、そこで口をつぐんだ。あのときの言葉を、今この場で、しかも啓司の前で繰り返す勇気など、彼女にはなかった。紗枝はあくびをひとつ、軽く漏らした。「変な人ね。自分が昔、何を言ったかも覚えてないのに、私が啓司に話したかどうか確かめるの?せめて、どんな話だったか教えてくれないと。私だって、それを話したかどうかなんて、わかりようがないでしょう?」鈴は一瞬、黙り込んだまま俯き、ぎゅっと掌を握りしめた。そして、決意をこめたように顔を上げた。「お義姉さん......どうかここにいさせてください。あなたと義兄さんのお世話、ちゃんとします。逸ちゃんのことも見ます。使用人には、絶対負けませんから」まさか、自分から進んで使用人になろうとする人がいるなんて。紗枝は内心、驚きを隠せなかった。「それはあなたのお兄さんに聞いてちょうだい。私も逸ちゃんも、面倒を見てもらう必要はないわ」すかさず逸之も口を挟んだ。「そうだよ、鈴さん。僕は面倒みてもらわなくていいんだ」鈴の表情に影が差した。まさか紗枝が、こんなふうに啓司に判断を丸投げするとは思っていなかった。頼めば助けてくれると、どこかで信じていたのだ。「お兄さん、お願いです。私を、ここにいさせてください」鈴の声は今にも泣き出しそうだった。「もし追い出されたら、帰ったとき、おじいさんにきっと叱られます。来るとき、おじいさんが言ってたんです。命は黒木お爺さんに救われたって。だから私たち家族は、黒木家に大きな借りがあるって。お兄さんのお世話を最後までできなかったら......私、生きて帰る
鈴の美しい顔が、一瞬にして朱に染まった。「逸ちゃん、そんなこと言わないでよ。ちゃんと洗ったわよ」「お兄ちゃんが言ってた。うんちがついてたら、ちゃんと取れなくて残るから、高温殺菌しなきゃダメなんだって」逸之は至って真面目な表情でそう言った。鈴は首をかしげた。「高温殺菌って......どうやるの?」「さあ?たぶん、油で揚げるとか?」逸之はわざとおどけたように言った。「......!!」紗枝はこれまで、鈴のずうずうしさをまるで城壁のように感じてきたが、彼女が顔を赤らめるのを見るのはこれが初めてだった。思わず逸之に尋ねた。「逸ちゃん、どうしたの?いったい何があったの?」逸之は、さっき鈴がトイレを掃除していたことを簡単に説明した。その話を聞いた瞬間、紗枝はすぐに息子が鈴をからかっていると察した。逸之は二歳になる前から自分でお尻を拭けるようになっていて、しかもとにかく潔癖な子だった。ズボンを汚すなんてことは考えられない。けれど、紗枝は逸之を責めることなく、ただ静かに鈴に言った。「そうなの。鈴さん、もうちょっとしっかり洗った方がいいわね」鈴は、さっき浴室で皮がむけそうになるくらい手を洗っていた。なのに......今は羞恥と怒りで胸がいっぱいだった。「ええ、何度も洗ったよ」もはや、啓司にご飯をよそう気持ちすら失せていた。もっとも、啓司自身が彼女にそんなことを望むはずもなく、実際には食事係が専用の食事をきちんと運んできていたのだが。「ママ、パパにご飯食べさせてあげて。このままだと不便だよ」逸之は、鈴がまた啓司に食事をさせようとするのを未然に防ごうと、紗枝に促した。啓司は何も言わず、その様子を静かに見ていた。だが紗枝は手を出すことなく、ただ穏やかにこう説明した。「逸ちゃん、パパは目が見えないだけで、手が使えないわけじゃないのよ。食べさせてあげる必要はないわ」逸之は、呆れたようにため息をついた。ママって、本当に鈍いな。家の中にパパを狙ってる女がいるってのに、気づかないの?だが、紗枝にはもちろんわかっていた。ただ、関わりたくなかっただけだ。隙のない卵に蝿はたからない。もし啓司にその気がなければ、鈴がいくら媚びても無意味だし、もしその気があるのなら、鈴を追い出しても、いずれ別の女が現れるだけ。食事