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夫婦という役割の終わり

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-07-21 17:08:07

区役所の窓口は、午前中の手続きが一段落したあとの静けさに包まれていた。

数組の年配夫婦が年金相談の案内を待ち、子供連れの若い母親が保険証の更新について話している。

そんな日常の風景の中、唯史と希美は並んで、離婚届の記入台に向かって座っていた。

目の前の書類は、何も特別なものには見えなかった。

薄い緑色の用紙に、きちんと罫線が引かれ、印刷された文字が並んでいる。

そこに、ただ自分たちの名前を書き込むだけ。

婚姻届と同じ形式だ。

違うのは、「婚姻」を「離婚」に置き換えただけだった。

唯史は、ペンを手に取った。

黒いボールペンの先端が、紙に触れる。

すっと線を引くと、インクが静かに紙の上を滑った。

自分の名前を、癖のある字で丁寧に書く。

一画ずつ、慎重に、しかしどこか機械的に。

それはまるで、誰か他人の名前を書いているかのようだった。

続いて希美が、迷いなくペンを走らせていた。

その手元を、唯史は横目で見た。

希美の指先は震えていなかった。

肩の力も抜けている。

まるで、日常の買い物メモでも書いているかのように、自然だった。

それが不思議だった。

いや、正確に言えば、不思議に感じている自分自身に、唯史は戸惑った。

「こんなもんやろな」

心の中で呟いた。

それでも、胸の奥が「しん」と冷えた。

まるで、冬の朝に凍った水を一口飲み込んだような、そんな感覚だった。

指先が少し汗ばんでいるのに気づき、ハンカチを取り出そうとしたが、思いとどまった。

希美は何も言わなかった。

書き終えた離婚届を、静かに机の端に置く。

その手つきは、まるで家計簿を閉じるときのように落ち着いていた。

唯史は自分の手を見た。

ペンを握る指が微かに湿っている。

けれど、動悸はしていなかった。

ただ、胸の中が妙に静かだった。

何も感じていない…そう思い込もうとしたが、実際には、何かがひっそりと冷たくなっていくのを感じていた。

カウンターの奥から、事務員が声をかけた。

「お二人とも、こちらでお間違いないですか」

唯史はうなずいた。

希美も同時に頷く。

二人の髪が、蛍光灯の光を受けて無機質に反射していた。

その光は、まるで二人の関係をすでに過去のものとして切り取るかのように、冷たく淡い。

窓口の事務員が、淡々と手続きを進めていく。

離婚届の確認をして、印鑑を押す場所を指差す。

唯史は朱肉を手に取り、静かに判を押した。

その赤い印が紙の上に滲む様子を、ぼんやりと見つめた。

「これで…終わりやな」

心の中で、そう呟いた。

口には出さなかった。

隣の希美も、同じことを考えているのかもしれない。

けれど、二人ともそれを言葉にはしなかった。

手続きは、驚くほどあっさりと終わった。

何年も積み重ねてきたものが、たった数分で処理される。

役所の中は、変わらず日常の空気に満ちていた。

誰も、二人のことを特別視しない。

当然だ。

ここでは、誰もが同じように「手続きをする人間」でしかない。

唯史は立ち上がった。

椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた気がした。

希美も立ち上がり、鞄の肩紐を直した。

その動作も、いつもと変わらない。

夫婦としての最後の瞬間だというのに、何も特別なことはなかった。

「帰ろか」

唯史が言った。

希美は「うん」とだけ答えた。

その声には、涙も怒りも、何もなかった。

二人は並んで、役所の出口に向かった。

蛍光灯の光が後ろから二人を照らしている。

その光が、どこか無表情な影を床に落とした。

影は重ならず、それぞれ別の方向に伸びていた。

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