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佐野の過去

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-30 20:01:45

戸棚の奥から新しい茶葉を取り出すと、佐野は静かに缶の蓋を開けた。古い町家の木材が吸い込んだ湿気と、かすかに香る煎茶の青さが、室内の空気に混ざって漂う。指先で茶さじをすべらせながら、ふと手が止まった。

そのまま、静寂の中で動かなくなった自分の手元を見つめる。指先に触れた茶葉の感触が、何かの記憶を引きずり出すように、ゆっくりと心の奥を揺らしていった。

数年前のことだった。まだ今ほど落ち着いた自分ではなかった頃。タロットを「人のために使える」と、信じて疑わなかった頃。

彼は、最初の客ではなかった。でも、特別だった。占い師としての自分を信じて、未来を見ようとする瞳に何度も心を動かされた。恋人になるのは、自然な流れだった。関係が近づくごとに、彼は未来を訊いてくるようになった。

「この先、俺たちはうまくいく?」

最初は迷いながらカードを切った。結果が良くても悪くても、言葉を慎重に選んだ。それでも、彼は求めた。もっと知りたいと、もっと“確信”が欲しいと、問い続けた。

ある日、佐野は見てもいないカードの結果を語ってしまった。願いを叶えるために。信頼を守るために。だがそれは、自分にしか見えないものを、誰かの「確証」に仕立て上げた瞬間だった。

その後、関係は崩れた。ひとつの嘘が波紋のように広がり、彼は佐野の目を見ることをやめた。

「占いは信じるもんやけど、信じさせすぎたら、あかんのやな」

そう思った。そうして、自分にひとつの線を引いた。

「誰とも、深く関わらんこと」

客とは占い師と依頼者。信じすぎさせず、求められすぎず、距離を保つ。自分の感情を混ぜない。仮に特別な想いが芽生えても、それは沈める。そうやって生きると決めた。

けれど、尾崎は。

佐野の指先が、茶葉をつまんだまま止まる。

尾崎は、なぜかその決まりごとをすり抜けてしまう。

あの静かな目。どこにも行き場のないものを抱えたようなまなざし。その奥にあるのは、声に出されない叫びなのか、それとも…諦めたような静けさなのか。

関わってはいけない。それはわかっている。けれど、目を

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