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胎に棲むもの

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-26 15:41:56

その夜から、青年の腹部には小さな疼きが棲みついた。最初は微かな違和感だった。まるで夜毎に月が満ちるように、静かにじわじわと広がっていった。呼吸をするたび、胸の奥で音もなく形を変えるそれは、時に熱を伴い、時に氷のような冷たさで彼の身体を内側から撫でてきた。

神殿の者たちは何も告げなかった。月の契約が済んだ後、青年はほとんど話しかけられることもなく、決まった時刻に水と少量の果実が与えられ、それ以外の時間はひとり静かに石室に閉じ込められていた。灯りはなかった。ただ天井の小さな窓から落ちる光が、時折壁に白い線を引いた。月の位置でしか時間を知ることのできない空間だった。

鏡はなかった。いや、鏡が置かれたことは一度だけあった。ある夜、石の棚の上にそっと置かれたそれを、青年は半ば躊躇いながら覗き込んだ。だがそこに映ったのは、もはや“自分”ではなかった。頬はこけ、目の奥の光は沈み、肌は月の光を吸い込むように青白く透けていた。けれど何より恐ろしかったのは、鏡の奥に“それ”の影が映らなかったことだった。

自分の身体の内に、確かに何かがいる。眠りの最中にも目覚めているような感覚があった。ときおり、夢とも幻ともつかぬ光景が脳裏に浮かんだ。ひとつの胎に暗い実が育ち、それが決して開かれることなく、内側から命を吸い取っていく。痛みはなかった。ただ、痩せていく。熱が失われていく。誰かに呼ばれているような気がして振り返っても、そこには誰もいなかった。

青年はそれでも誇りを失わなかった。むしろ、その苦しみの中でさえ、自分が“選ばれた者”であることだけが唯一の支えだった。祭司たちは何も告げなかったが、視線には確かに敬意のようなものがあった。あるいは、それは畏れだったのかもしれない。彼が宿しているものが、人の手に負えない“神意”であることを、誰よりも彼らが理解していたのだろう。

「私は、祝福されたのだ」

青年は何度も呟いた。それは自己洗脳のようでもあり、ただの願望でもあった。だが言葉にすることでしか、保てないものがあった。命とは呼べぬ何かを内に抱えながら、彼は祈るようにして毎晩その言葉を唱え続けた。吐く息は次第に細く、微かな息遣いすら月に奪われていくようだった。

ある夜、彼はふと石床に膝をついた。目の前に果実の皿が置かれていた。黒い実が三粒。乾いた皮膚のような色と、艶のない表面。それを手に取った瞬間、掌に冷たい感触が広がった。それが果実ではなく、自分の内側の何かと同じ温度を持っていることに気づいたとき、青年は初めて“それ”に名前をつけようとした。

だが、言葉は出てこなかった。

喉が詰まり、声にならなかった。呪われた名前なのだと直感した。口にすれば、それはもう彼の内ではなくなる。だから青年は黙って実を皿に戻し、そのまま仰向けに寝転んだ。天井の窓から、ひとすじの月光が降りていた。まるでその光の下で、死が胎内で眠っているように思えた。

王はそこで息を詰めた。アミールの声は静かで、まるで風のない夜のように冷たかった。語りの熱を削ぎ落とすように、あえて抑えられたその調子が、逆に生々しかった。サリームは、ふいに口の中に酸味を覚えた。指先が勝手に拳を握っていた。アミールの語る青年に、ザイードを重ねそうになる自分がいた。

いや、違う。それだけではない。あの夜、自らが与えた快楽の先に、ザイードがどれほどの孤独を抱えていたのか。その内側に何を宿していたのかを、王は知らないまま死を与えてしまったのだ。

アミールは、語りながら王の顔色を窺っていた。あからさまではない。けれど、語句の緩急、声の震わせ方、間のとり方一つにしても、王の心の揺れをなぞるような繊細さがあった。

王はとうとう、低く呟いた。

「それは…」

言葉が喉の奥で潰れた。何を問いたいのかも、自分でわからなかった。ただ、アミールが遠い昔の罪を描いているような感覚が拭えなかった。

アミールはわずかに目を細めた。問いに答えることなく、語りを続ける。

「青年は、胎の中に“死”を宿したまま、月の光を仰ぎました」

「誰にも見つめられず、誰にも触れられず、ただ選ばれたことだけを信じて」

「…そして、ある朝、彼の寝床の上には、一粒の黒い実だけが残されていたのです」

その声に、王の心臓が軋んだ。静寂が降りた。まるで石の床に打ち捨てられた命のように、重く沈んだ空気が、ふたりの間を埋め尽くした。アミールはそこで語りを閉じたが、その沈黙こそが物語の結末だった。

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