砂は風の指先に遊ばれ、夜明けの色をひそやかに映していた。
少年は、竜のいる石室を背にして立っていた。
背には旅の袋、乾いた足元には踏みならされていない白砂。彼はまだためらっていた。数歩進めば、外の世界が彼をのみ込んでいく。けれど、振り返ってしまえば…たぶん戻れない。
背中の奥、心の奥で、何かが揺れていた。それは名のない感情だった。名前をつければ、きっと壊れてしまうような、繊細なものだった。
竜は何も言わなかった。言葉を持たない獣の沈黙は、時に人の沈黙より雄弁だ。
その眼差しはただ、ひとつの光を追っていた。少年の肩越しに見える朝の兆し。そこに、希望と名づけるにはあまりにも儚い、けれど確かに温かいものが滲んでいた。
少年はようやく、ゆっくりと一歩を踏み出した。
その足取りは決して迷いなくはなかった。砂に沈むたび、少しだけ振り返りたくなる。だが振り返らなかった。もう一度見てしまえば、きっと胸の奥で何かが崩れてしまうことを知っていた。
砂漠に幻が咲くという。旅人が渇きに惑い、見るはずのない泉を見る。けれど、今、少年の心には確かに水があった。ほんの少し、けれど確かに。
竜は、その背中を見ていた。
ただ見ていた。
見送ることしかできなかった。
自分が閉ざされてきたこの石室には、誰かを繋ぎ止める鎖はなかった。あるのは、呪いと傷だけ。
だが、その朝。
少年のいた場所に、わずかな置き土産が残されていた。
水瓶。ひび割れた古い皮の袋の中には、最後の一滴の水が底に揺れていた。
竜はその匂いを嗅ぎ取った。人の手の匂い、水の匂い…そして、もっと微かな…花の匂い。
その香りに導かれるように、竜は水瓶を嗅ぎ、覗き込んだ。
袋の内側に、小さな、乾いた粒がひとつ、張りついていた。
それは、種だった。
花の種。
砂漠では決して芽吹かぬはずの、小さな命の予兆。
それは少年が運んできたもの。いや、少年の身体のどこかから零れ落ちた“存在の証”だった。
竜の心がわずかに動いた。
水に触れた指先が、ぬるく濡れた。その温度は、水そのものの熱ではなかった。手の奥で、長く忘れていた感覚が目覚めかけていた。
誰かがここにいたということ。
誰かが自分を見てくれたということ。
それは、空の石室にとってあまりにも大きな出来事だった。
少年が幻だったのか、それとも夢だったのか。
それは、竜にもわからなかった。
けれど、確かにここに存在して、去っていった。
そして、種を残した。
――もしそれが咲くのだとしたら。
水があれば。風があれば。ほんの少しの陽が差せば。
竜の目がゆっくりと閉じられた。
それは眠りではなかった。祈りのような、あるいは受け入れるような、深い呼吸だった。
アミールの声が、物語の終わりを告げるように低く響いた。
「それは…ただの幻だったかもしれない」
彼のまなざしは、王の方を向いていた。
「けれど、種は確かに残っていたのです」
王サリームは、その視線を受け止めきれず、目を伏せた。
手に握っていた杯が、ぬるくなっていた。香の煙がもうほとんど立ち上っていなかった。
「幻を語って、何になる」
そう呟いた声は、掠れていた。
アミールは静かに笑った。
「幻だからこそ、語るのです」
サリームの中で何かがざわめいた。
アミールの顔がぼやけて見えた。煙のせいではなかった。記憶と現在が重なり、彼の輪郭が曖昧になる。
ザイードの最後の夜も、あの月の夜も、記憶の底にあった泉の瞳も…すべてが混じり合っていく。
「お前は…」
声にならなかった。
アミールは微笑んでいた。
その笑みに、確信はなかった。けれど、たしかに何かを宿していた。
まるで王自身が作り出した幻を、アミールがそのまま引き受けて存在しているかのように。
王は、目を閉じた。
その奥に揺れていたのは、少年の背中。去っていく者の輪郭。残された種の重さ。
そして、今目の前にいるこの語り部の声。
幻かもしれない。けれど、確かにそこにいる。
その矛盾こそが、胸を締めつけるのだった。
香炉の底で、火が小さく弾けた。
乾いた音だった。だが、胸のどこかに、確かに沁みた。
砂は風の指先に遊ばれ、夜明けの色をひそやかに映していた。少年は、竜のいる石室を背にして立っていた。背には旅の袋、乾いた足元には踏みならされていない白砂。彼はまだためらっていた。数歩進めば、外の世界が彼をのみ込んでいく。けれど、振り返ってしまえば…たぶん戻れない。背中の奥、心の奥で、何かが揺れていた。それは名のない感情だった。名前をつければ、きっと壊れてしまうような、繊細なものだった。竜は何も言わなかった。言葉を持たない獣の沈黙は、時に人の沈黙より雄弁だ。その眼差しはただ、ひとつの光を追っていた。少年の肩越しに見える朝の兆し。そこに、希望と名づけるにはあまりにも儚い、けれど確かに温かいものが滲んでいた。少年はようやく、ゆっくりと一歩を踏み出した。その足取りは決して迷いなくはなかった。砂に沈むたび、少しだけ振り返りたくなる。だが振り返らなかった。もう一度見てしまえば、きっと胸の奥で何かが崩れてしまうことを知っていた。砂漠に幻が咲くという。旅人が渇きに惑い、見るはずのない泉を見る。けれど、今、少年の心には確かに水があった。ほんの少し、けれど確かに。竜は、その背中を見ていた。ただ見ていた。見送ることしかできなかった。自分が閉ざされてきたこの石室には、誰かを繋ぎ止める鎖はなかった。あるのは、呪いと傷だけ。だが、その朝。少年のいた場所に、わずかな置き土産が残されていた。水瓶。ひび割れた古い皮の袋の中には、最後の一滴の水が底に揺れていた。竜はその匂いを嗅ぎ取った。人の手の匂い、水の匂い…そして、もっと微かな…花の匂い。その香りに導かれるように、竜は水瓶を嗅ぎ、覗き込んだ。袋の内側に、小さな、乾いた粒がひとつ、張りついていた。それは、種だった。花の種。砂漠では決して芽吹かぬはずの、小さな命の予兆。それは少年が運んできたもの。いや、少年の身体のどこかから零れ落ちた“存在の証&rd
石室の夜は、砂漠よりも静かだった。風の音すら届かず、時間という概念が失われたかのようにすべてが沈黙していた。少年は、竜の足元の岩に背を預け、眠りに落ちていた。呼吸は浅く、肩がわずかに上下するたび、疲れ切った身体がその存在を訴えていた。竜は、その寝息を見守っていた。眠る者の脆さ、温かさ、そして無防備さ。そのすべてが、竜には未知のものだった。喰らう者としてしか触れてこなかった他者の体温が、今は静かに自らの傍にある。鱗の隙間に風が這い、そこに残る古傷が鈍く疼いた。それはもうとっくに癒えたはずの痛みだった。だが、目の前の小さな存在が、それを呼び起こした。少年の手が、夢の中の動きで竜の鱗に触れたのは、ほんの一瞬だった。浅い眠りの中で無意識に伸ばされた指先が、竜の腹のあたりの、傷跡の縁にかすかに触れた。その瞬間、竜の背が震えた。空気がぬるく動いた。熱が走った。それは火ではなかった。炎でも怒りでもなく、もっと原始的なもの。何かが触れた、という事実が、竜の内部で反射的に“応答”を起こした。舌のように熱いものが、じり…と這うように動いた。竜の身体の奥で、かつて封じたはずの本能が目を覚ましかけていた。少年の肌に、何かが触れた。夢の淵にいた少年の身体が、ぴくりと揺れた。目を開けるより早く、彼はその「熱」に反応した。硬い岩よりも柔らかく、だが鋭く滑るような何か。ぬめりとした熱が、腰のあたりを這い、そのまま背中を撫で上げた。「…っ…!」少年は息を呑み、目を見開いた。暗闇の中、目の前には巨大な鱗の壁。そのすぐ向こうに、彼を見下ろす瞳。竜の目が、わずかに細められていた。怒ってはいなかった。むしろ、戸惑っているようにも見えた。だが、確かに舌が、まだ少年の腰に触れていた。熱かった。柔らかく、けれど力がある。呼吸をすれば、その熱が喉の奥にまで入り込むような感覚だった。「や…めて…」そう言いかけた声は、
石室の空気は、静かに濃くなっていた。竜は、動かぬまま少年を見ていた。大きく焼けた石のような背、鱗のひとつひとつに積もる砂。眼差しは敵意を孕まず、ただ重たく、澱のように沈んでいた。そこには、喰らう者の飢えも、捕らえる者の鋭さもなかった。ただ、観察していた。自分に差し出されたものと、それを差し出した者の意味を測るように。少年は、自分が睨まれているのか、それとも透かされているのか分からなかった。ただ、その視線の奥にある熱だけははっきりと感じた。それは体の芯にじんわりと沁みる、熱病のような気配だった。喉が痛んだ。唇を舐めても乾いたままで、皮膚がめくれて血が滲んでいた。それでも、彼は空の水袋をしっかりと抱えていた。もしかしたら、袋の底に一滴くらい残っているかもしれない。その希望は、喉を潤すためのものではなかった。竜の頭はわずかに傾いていた。大きな顎が、砂と骨の眠る床に影を落とし、その鱗の隙間に古い裂傷があった。肉がまだらに剥がれ、火傷のような痕が縦に走っていた。血は滲んでいなかった。きっとそれは、何年も前に負った傷だ。少年は、何かが心の奥でちりりと軋むのを感じた。怖かった。それは確かだった。だが、もっと深くにある何かが、彼を動かした。水袋を握る手に力を込めて、ぐいと引き寄せた。袋の口を開くと、内側で小さな水音がした。耳に届いたその音は、まるで幻のようだった。数滴、それだけだった。旅の最後の命綱だった。だがそれを、自分の喉に流し込もうとは思わなかった。少年は石室の床にひざまずき、水袋を逆さにした。滴がひとつ、ふたつ…かすかにゆれて、そして竜の足元に落ちた。音はしなかった。砂に染みて消えた。だが、香のような甘い匂いがふわりと立ちのぼった気がした。竜の瞳が、ゆるやかに揺れた。金属のような硬質さの奥に、何か柔らかな波紋が広がった。熱が、空気の中に濃くなっていく。焦げつくような吐息が、少年の顔にふわりと触れた。少年は、目を逸らさなかった。逸らすことが、嘘をつくように思えたからだ。泉の水面のような眼差しが、竜をまっすぐに映していた。まるで、その存在をそのまま肯定するかのように。「…傷が、痛むんじゃ
風が息絶えたように、沈黙の砂が世界を覆っていた。陽が沈んでもなお残る熱が、岩を灼き続け、空気を焼いていた。星ひとつ瞬かぬ夜の砂漠は、生者の皮膚に容赦なく死を纏わせる。だが少年は、すでに自分が生きているのかどうかさえ、わからなくなっていた。水袋はとうに空だった。唇はひび割れ、喉は焼けた紙のように音も立てずに裂けた。乾いた風が顔を撫でても、それを「冷たい」と感じる余裕はなく、ただ目を細めて進むしかなかった。砂に足を取られるたびに、記憶が遠のく。誰かの声が耳の奥で反響していたが、それがいつの記憶かさえ思い出せない。そして、突然だった。砂丘の端に、それは口を開けていた。岩の間に穿たれた、獣の顎のような暗い裂け目。気づけばそこに立ち尽くしていた。岩肌は黒ずみ、まるで太古の炎に焼かれた跡のようだった。風がひとしきり吹いたとき、少年の足元から砂が舞い、裂け目の奥へと引き込まれていく。まるで招かれているようだった。「…水があるのかもしれない」掠れた声が、喉の奥から漏れた。希望というより、執着だった。重たい足を一歩踏み出し、石の階段を下り始めた。空気は変わっていなかった。むしろ、熱がこもっていた。だが砂よりはましだった。汗はとうに乾き、心臓だけが微かに鼓動を刻んでいた。地下へと続く石段を、ゆっくりと降りていく。壁の装飾は剥がれ、掘られた文字は時の風に削られて判別できなかった。ただ、どこかに“牙”のような彫りが繰り返されているのがわかる。それがただの装飾でないことを、少年の本能は知っていた。最下層に着いたとき、空気が変わった。動きのない空間。息を吐いても揺れない空気。そこには、何かが“眠っている”という気配があった。目の前にあったのは、封じられた石室だった。巨大な扉には鎖が巻かれていた。だがその鎖のひとつが、誰かの手によってほどかれたかのように地に落ちていた。少年は無意識のうちに、その隙間を押し開いた。その中に“それ”はいた。巨大な背。焼けた岩のような鱗。空気の熱がその存在から滲み出していた。眠っているのか、死んでいるのかもわ
満月の夜は、静寂を纏っていた。風もなく、砂は息を潜め、神殿の石壁さえ沈黙していた。夜空は深い藍に沈み、その中央に浮かぶ月だけが、まるで息づく者のように輪郭を脈打たせていた。すべてが、終わりを迎えるのを知っていた。青年は寝台に横たわっていた。白銀の布が肌に張りつき、汗と香が入り混じったその匂いは、どこか懐かしいものに似ていた。かつて母の腕に抱かれたことがあるのなら、それはそのときの感触だったかもしれない。けれど彼はその記憶さえ持たなかった。誰かに抱かれ、呼ばれ、選ばれるという体験のすべてを、神殿で初めて知ったのだった。「もう、満ちたのですか」仮面をつけた神官が頷いた。声はなかった。ただその仕草が、祭りの終焉を告げていた。青年はまぶたを閉じた。瞼の裏に月が浮かぶ。それは今宵に限って、ほんのわずかに赤く滲んでいた。まるで彼の中にある何かと呼応しているかのように。胸の奥が焼けるように熱い。けれど、その熱には苦痛はなかった。むしろ、安らぎに近かった。空っぽの中に残っていた最後の欠片が、静かに燃えているだけのこと。呼吸が浅くなる。意識が月へと引かれていく。指先が痺れ、花弁のように開いた唇から香が洩れた。それは乳香でも花の香でもなかった。青年自身の肉体が、内側から香を放っていた。白く、ほのかに甘く、だがどこか焦げたような匂い。それが神殿の隅々にまで満ちていき、石に染みこみ、衣に染みこみ、やがて空へと昇っていった。月が、ゆっくりと揺れた。誰の目にもはっきりとわかるほど、円の一角が欠けていた。それは雲ではなかった。まるで空の果てから、誰かが月に歯を立てたかのように、そこだけがくっきりと齧られていた。祭司たちは沈黙のまま、顔を伏せた。誰ひとりとして声を上げず、誰ひとりとして涙を流さなかった。ただ香の中で、月が一口、欠けていく音を聞いていた。青年の身体はもう動かなかった。花弁のように開かれた手のひらが、ひとつ、ふたつと震えたあと、静かに止まった。熱が抜けたわけではなかった。むしろ、彼の周囲の空気だけが異様に温かかった。命の名残が香となり、光となり、月の口元へと吸い込まれていく。「月に喰われた者」神官のひとりが、記録の板にそう記し
その夜から、青年の腹部には小さな疼きが棲みついた。最初は微かな違和感だった。まるで夜毎に月が満ちるように、静かにじわじわと広がっていった。呼吸をするたび、胸の奥で音もなく形を変えるそれは、時に熱を伴い、時に氷のような冷たさで彼の身体を内側から撫でてきた。神殿の者たちは何も告げなかった。月の契約が済んだ後、青年はほとんど話しかけられることもなく、決まった時刻に水と少量の果実が与えられ、それ以外の時間はひとり静かに石室に閉じ込められていた。灯りはなかった。ただ天井の小さな窓から落ちる光が、時折壁に白い線を引いた。月の位置でしか時間を知ることのできない空間だった。鏡はなかった。いや、鏡が置かれたことは一度だけあった。ある夜、石の棚の上にそっと置かれたそれを、青年は半ば躊躇いながら覗き込んだ。だがそこに映ったのは、もはや“自分”ではなかった。頬はこけ、目の奥の光は沈み、肌は月の光を吸い込むように青白く透けていた。けれど何より恐ろしかったのは、鏡の奥に“それ”の影が映らなかったことだった。自分の身体の内に、確かに何かがいる。眠りの最中にも目覚めているような感覚があった。ときおり、夢とも幻ともつかぬ光景が脳裏に浮かんだ。ひとつの胎に暗い実が育ち、それが決して開かれることなく、内側から命を吸い取っていく。痛みはなかった。ただ、痩せていく。熱が失われていく。誰かに呼ばれているような気がして振り返っても、そこには誰もいなかった。青年はそれでも誇りを失わなかった。むしろ、その苦しみの中でさえ、自分が“選ばれた者”であることだけが唯一の支えだった。祭司たちは何も告げなかったが、視線には確かに敬意のようなものがあった。あるいは、それは畏れだったのかもしれない。彼が宿しているものが、人の手に負えない“神意”であることを、誰よりも彼らが理解していたのだろう。「私は、祝福されたのだ」青年は何度も呟いた。それは自己洗脳のようでもあり、ただの願望でもあった。だが言葉にすることでしか、保てないものがあった。命とは呼べぬ何かを内に抱えながら、彼は祈るようにして毎晩その言葉を唱え続けた。吐く息は次第に細く、微か