All Chapters of 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

沈黙の献上

月が高く昇った頃、東門の前に一台の馬車が滑り込んだ。布で覆われた幌が音もなく持ち上げられ、中から姿を現したのは、身を薄布で巻かれた一人の青年だった。沈黙のまま降り立つその足は、裸足。王宮の石畳に触れた瞬間、小さく身を震わせたが、それ以上の感情を見せることはなかった。侍従たちは黙々と手続きを進めた。今夜の“献上品”は計三名。年若い男娼たちは、恐怖に顔を引きつらせ、必死に取りすがるような目で周囲を見回していた。だが、中央に立つ青年だけは違った。彼は、ただ月を見上げていた。その瞳に浮かぶのは諦めか、それとも静かな炎か。判別できずに侍従の一人が眉をひそめる。「この者の名は?」「記録にありません。匿名にて届けられました」老侍従が名簿に目を落としながらつぶやいた。「またか。身元も出所も曖昧な者を献上して、何になるというのだ」「…何か、妙ですね」隣の若い侍従が囁く。彼の視線の先には、月光に濡れたような青年の肌があった。薄布の下、細身の体つきは均整が取れており、肌は白磁のように滑らかだった。香の匂いが漂ってきた。どこか馴染みのない、だが忘れがたい香り。「水盆を。香を焚け」命じられ、二人の侍女が水盆を運び込む。銀の縁が静かに揺れ、水面に月が映る。青年は促されるまま腰を下ろし、自らの手で布を解いた。何の羞じらいもなかった。指先が水に触れると、小さな波紋が幾重にも広がる。盆の縁に沈められた布を手に取り、ゆっくりとその首筋を拭う。「喋らないのか?」老侍従が問うた。青年は一瞬、視線をそちらへ向けたが、やはり口は開かない。「名を訊いても、沈黙とは…」「死を恐れていないのかもしれません」若い侍従がつぶやく。水音が、音の消えた空間に吸い込まれていく。「王の前に出される前に、この者を清めの間に通せ」命が下され、青年は立ち上がる。濡れた布が床に落ち、白布の裾が石畳を引きずった。歩くたび、わずかに残る水滴が道を作る。香炉の煙が細く立ち昇り、天井の彫刻をくぐって消える。清めの間の奥
last updateLast Updated : 2025-08-21
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血の名簿

王宮の書庫、その一角にある小部屋では、夜ごとに処刑予定者の名簿が整えられる。沈黙の中に響くのは、羊皮紙の擦れる音と、朱墨を溶かす硯の水音だけだった。侍従長ファイサルは、蝋燭の炎に目を細めながら、書き上げられた名簿に目を通していた。今夜も三人。南方から買われた少年、喉に傷のある元踊り子、そして…もう一人。目が止まる。「“無記録の娼館より献上”か」眉間に皺が寄った。出所が不明な献上品は珍しくない。だが、それでも何かしら、特徴や値段、履歴が記されるのが通例だった。けれど、そこに記された若者には、名も、年齢も、来歴すらない。ただ一行、「無記録の娼館より」と、朱墨で書かれているだけ。「何かの見落としか…?」筆を置き、机の奥から過去の献上記録を引き出す。帳簿をめくる指先は速く、正確だった。だが、同じ記載は一度たりとも現れなかった。「…奇妙だな」蝋燭がふっと揺れた。名簿に落ちる影が乱れる。その時、控えていた若い副官が小声で告げた。「侍従長。例の者、清めを終えました」「様子はどうだった?」「…とにかく静かでした。誰とも目を合わせず、声も発さず。ただ、こちらの指示には従順でした」「泣きもせず、叫びもせず、か」「はい。それが…逆に、気味が悪いという者も」ファイサルは無言で立ち上がった。名簿を片手に、ゆっくりと歩き始める。重厚な扉を抜け、石の回廊を渡ると、香の匂いが微かに漂ってきた。王の私室。その手前の間にて、彼は静かに扉を叩いた。「入れ」低く響いたその声は、誰にも似ていなかった。威圧でも怒気でもない、ただ、無感情な命令。ファイサルは慣れた様子で中に入った。「陛下。今宵の献上者に関して、少しばかり…気になる点がございます」「またか」王は背を向けて椅子に腰掛けていた。薄く開かれた窓から夜風が入り、彼の髪を揺らしている。蝋燭の灯に照らされた横顔は、光と影の境界に沈ん
last updateLast Updated : 2025-08-21
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処刑の寝所

王の私室は、熱を含んだ静寂に包まれていた。天蓋の下、絹の帳が揺れもせずに垂れ下がり、燻香の煙がゆるやかに空気を満たしていた。香は沈香。甘く深く、どこか苦みを帯びたその匂いは、かすかに焦げた記憶を呼び覚ます。扉が開かれる音に、サリームは微かに目を向けた。扉の向こうから、侍従に導かれた若者が一人、ゆっくりと歩み入ってくる。裸足の足が、敷き詰められた絹の絨毯に沈んだ。アミールと名も告げられずに呼ばれたその青年は、真っ直ぐに王のもとへ進み、寝台の前に跪いた。沈黙の中、顔を上げず、ただ頭を垂れたまま。王は彼の様子を見下ろしながら、微かに顎を傾ける。「お前が、声を持たぬ者か」応えはなかった。だが、沈黙は否定ではなかった。王は唇の端を持ち上げた。「いい顔だ。憎しみも、恐れも、歓びもない…ただ静かに、命の終わりを待っている」王は立ち上がり、ゆっくりと寝台から降りる。絹の衣が足元で音を立てる。歩を進めるたびに香が揺れ、仮面のように表情を隠すその匂いが部屋を満たしていく。青年の目の前に立った王は、手を伸ばし、顎に指をかけた。力を込めずにその顔を持ち上げさせると、若者の瞳が、静かに王を見上げてきた。何も語らぬその目に、王は一瞬、違和感を覚えた。それは諦めではなかった。恐れでも、媚びでもなかった。「命が惜しくないのか?」問いは嘲りにも似ていた。だが、その答えを待たずに、王は再び口を開いた。「…よかろう。どうせ明日の朝には、首が落ちている身だ」そう言って、指先が衣の裾に触れた。その動きに、アミールの身体がわずかに揺れる。だが、その瞬間、青年は唇を開いた。「語っても…よろしいですか」王の手が止まった。目を細め、しばし沈黙する。「…語る?」「はい」王の顔に、ゆるやかな笑みが浮かぶ。それは冷笑だった。けれど、その微笑はほんのわずかに歪んでいた。「語ることで命が延びると思っているのか」「いいえ」「では、なぜ語
last updateLast Updated : 2025-08-22
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物語の刃

夜の静けさが部屋を包み込む中、アミールの声が低く、確かに響いた。「昔々、ひとつの王国がありました。その国には、たいへん誇り高い王子がいました。彼は剣よりも詩を愛し、戦よりも花を愛する者でございました」王サリームは背凭れに身を預けたまま、何も言わずにアミールを見下ろしていた。最初の語り出しに、眉ひとつ動かすことなく、視線はわずかに伏せられている。「王子には、ひとりの側近がいました。幼馴染であり、忠誠深く、常に王子の傍に仕えていた者でした。彼は王子の笑顔のためならば、剣を抜くことを厭わず、影のようにその身を寄せていたのです」絹の帳が揺れた。燻香が微かに燻り、部屋にたゆたう匂いの密度がわずかに変わる。サリームの指が肘掛けをかすかに叩く音が一度だけ鳴った。だが、それきり沈黙が戻る。「けれど、ある時、王子は知ってしまいました。側近が他国の使者と密かに会っていたことを。裏切りか、それともただの誤解か。問いただすこともせず、王子は側近を捕らえ、翌朝に処刑を命じました」その瞬間、王の視線が静かに動いた。顔を上げるわけではない。だが、瞳の奥が凍り付くように鈍く光った。「王子は、死を待つ側近の姿を見に、牢を訪れます。そこで彼が見たのは、泣きもせず、恨みもせず、ただ静かに花の香りを嗅いでいた者の姿でした。牢に香が焚かれていたわけではありません。花はどこにもなかったのです」アミールの声は一切揺れない。静かに、だが深く。言葉が刃のように響く。「彼はこう言いました。“最後の夜、あなたがくれた花の香りを思い出しているのです”と」王の喉がわずかに動いた。無意識に唾を飲み込んだのか、それとも声にならない感情を押し込んだのか。「処刑の朝、王子は命令通り、側近の首を落とさせました。そして、それ以降…花の香りを嗅ぐたび、夢に彼が現れるようになったのです。血に濡れた手で、微笑みながら。“あなたはまだ私を愛しているのですね”と」蝋燭の火がふっと揺れた。その瞬間、王の視界が曇った。煙の向こうに、かつての面影が重なる。ザイード。かつての恋人。
last updateLast Updated : 2025-08-22
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幻影の庭

夜の帳が宮殿を覆い、銀の燭台に灯された火が、絹の天蓋に淡い影を揺らしていた。王の私室は、沈香に月桂樹の樹脂を混ぜた燻香で満たされている。煙は静かに流れ、寝台に跪くアミールの髪に絡んだ。その姿はあまりに静かで、まるでこれから語られるものが、この世のものではないことをすでに知っているかのようだった。「語ってもよろしいですか」そう告げてから、アミールは一息の間を置いた。まるで、王の息遣いに合わせて語り出すタイミングを測っているように見えた。サリームは何も返さず、片肘を肘掛けに乗せたまま、目を細める。アミールは目を伏せたまま、声を落とす。「昔、ある国の牢に、一人の青年が囚われておりました。彼は罪人でした。盗みを働いたのでもなく、誰かを傷つけたのでもない。…けれど、王にとって許されざる“沈黙”を持っていたのです」「沈黙が罪とは」サリームが呟いた。嘲りとも、関心とも取れぬ声だった。だがアミールはその言葉を飲み込み、再び口を開いた。「青年は、牢の床にじっと座りながら、毎夜同じ夢を見ました。夢の中で彼は、花に満ちた庭を歩いています。足元の草は露に濡れ、誰かの足音が、その後ろを追ってくるのです」燻香が、ざくろの皮を焼いたような甘さを帯びはじめた。「振り向いても、誰もいない。けれど、香りだけが残っているのです。熟れたざくろの香り。青く光る月の石を首にかけた恋人が、そこにいるとわかるのです」サリームの指が、無意識に膝の上の布をなぞった。その動きはわずかだったが、アミールのまつげがかすかに揺れる。王の反応を、彼は見逃さなかった。「恋人は、もうとっくにこの世にはいません。処刑されたのか、毒を盛られたのか、それすらもわからない。ただ青年の記憶の中では、彼は笑っていました。首にかけた月の石が、陽の光の下では灰色だったのに…夢の中では、青白く光るのです」サリームの視線が、ひとつ上がる。まっすぐアミールを射抜くその瞳は、すでに遊戯ではなく、探るような静かな怒りを含んでいた。「なぜその話を語る。偶然だと?私の記憶を探ったので
last updateLast Updated : 2025-08-23
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沈黙の恋人

燻香が薄く立ち昇り、銀の砂時計の中で細かな粒が静かに落ち続けていた。時を告げる鐘は鳴らない。夜は、ただ闇と香りに溶けて、王の私室を覆っていた。アミールは、再び跪いたまま静かに口を開く。「今宵は…昨日語られた処刑囚が、かつて誰を愛したのか。その話を、お聞きいただけますか」サリームは頷かない。ただ、うっすらと目を伏せ、椅子の肘掛けに腕を置いたまま、何も言わない。それは、許可だった。あるいは、容認以上の何か。アミールは、燭火を背にして語りはじめた。「青年はまだ、王都の外れに住むただの書記でした。昼は公文書に墨を落とし、夜は詩を写し取るような…人の影をまとわぬような生活をしておりました。ある日、ひとりの男が、風のように彼の前を通り過ぎました」王のまぶたがわずかに揺れる。アミールはそれを見ない。「男は言葉を持たぬ者でした。声を失ったのか、もとより話すことを知らぬのか、それすらもわかりません。ただ、目を合わせると、音もなく心を撫でるような何かがそこにあったのです」「名は?」サリームが唐突に問う。問いは低く、冷たい。アミールはそっと首を横に振った。「名前は、ありませんでした。青年は、彼をただ“恋人”と呼んでおりました。顔も、どこか曖昧なのです。目の色も、髪の色も…記憶の中では、いつも夢の中の霞がかかっておりました」「ふざけているのか」「いいえ。覚えていることよりも、覚えていないことのほうが、時に真実を語ることがあります」その言葉に、王の指が一瞬止まる。肘掛けに置かれた手が、握りしめられることなく緩く丸まる。「恋人は、いつも面をつけておりました。舞踏会のような仰々しい仮面ではありません。白い、無表情の面です。まるで、顔を奪われぬために…何かから守るように」「なぜ、そんな者を愛した」「沈黙の中にこそ、青年は自由を見たのです。言葉にされぬものの方が、時に心を深く抉ります」言葉が静かに重なるたびに、室内の温度が下がるよう
last updateLast Updated : 2025-08-23
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赦しを乞う者

「最後の夜、青年は再び夢を見ました」アミールの声は、火の揺らぎに似ていた。最初は微かで、やがて燃えさかる。「それは、これまでと違っておりました。庭も、牢もなく、ただ無の世界に恋人だけが立っていた。仮面はなく、香りもなく、音すらもない。…唯一響いていたのは、恋人の声です」王サリームは寝台の端に腰掛けたまま、葡萄酒の盃を手にしていた。だがその酒にはまだ口をつけていない。指先が冷たく濡れているのは、盃の表面の水滴のせいか、それとも汗か…「お前は、俺を殺したのではない。忘れたのだ」アミールの言葉が空気に溶けていく。「それは夢の中で、恋人が青年にかけた最初で最後の言葉でした。怒りではなく、哀しみでもなく…ただ、事実として語られた“赦し”でした」サリームの唇が、かすかに震えた。それは拒絶の印でもなく、受容でもない。ただ、何かが胸の奥に引っかかっている証だった。「青年は叫びました。“忘れたなど、あり得ない”と。“今でもこうしてお前を夢に見るのに”と。“ずっと、ずっと愛していた”と」語るアミールの声が、徐々に熱を帯びていく。静かな火が、心の内側を焼き始めるように。「けれど恋人は、首を横に振りました。“お前は俺の顔を描けるか”と。“声を真似できるか”“好きだった色を、香りを、触れた感触を言えるか”と問うたのです」「…くだらん」サリームの唇から漏れた言葉は、ひどく乾いていた。「赦しなど、語る者の傲慢だ。殺された側が赦す権利など…あるものか」「けれど、夢の中で恋人は赦していました」アミールは静かに続ける。「それは罰ではありません。赦すことで、罪人の心に“赦されない重み”を残す…それが、彼の最後の選択だったのです」風が吹いた。部屋の奥の鈴飾りが小
last updateLast Updated : 2025-08-24
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夢の終わりに

「夜明けが来る」アミールは静かに、最後の一節を紡いだ。「青年は、処刑台の階段を自らの足で上がりました。恋人の幻は、もう現れません。香りも声も、夢の花も…すべては夜とともに消えていたのです」サリームはその声を聞きながら、掌の内側がじっとりと湿っていることに気づいていた。握りしめた銀杯の縁がわずかに歪んでいる。だが手を離すことができなかった。「刃を振り下ろす者の顔も、見ませんでした。青年はただ空を見ていました。淡く白い朝靄の向こうに、ひとつだけ紅い実が揺れていたのです」アミールは、言葉を置くように、呼吸を整える。「それは恋人が好きだった果実。名を知らぬまま口にして、“甘くもあり、苦くもある”と言った…その実が、枝先に揺れていたのです」王の視界に、突如としてザイードの笑顔が蘇った。葡萄か、ざくろか、あるいはナツメヤシだったか。覚えていない。だが彼が果実を齧ったその唇の赤、光に透けた果汁の色だけが、まざまざと甦った。「青年は、最後の瞬間にこう言いました。“忘れたくなかった”“誰よりも、お前を愛していた”と」アミールの瞳が、そっと王を見上げる。炎でもなく氷でもなく、ただ静けさをたたえた色だった。「そして刃が、首筋に触れたとき…彼は、微笑んでおりました」物語は、終わった。王の寝室は、香の煙が漂っていた。窓の向こうから朝の光が滲み、薄布を透かして床に淡い影を落としている。時間が動いていた。現実の時間が。アミールは何も言わず、ゆっくりと跪いた。額を床に近づけ、そのまま動かない。王サリームは盃を置いた。音はしなかった。ただ、手が宙をさまよい、やがて膝の上に落ちた。「…終わったのか」誰にともなく、彼は問うた。答えはない。アミールは沈黙のまま、頭を垂れている。まるで語りの代償として、自らの命を差し出した者のように。「処刑の時間は、三刻後だと聞いている」
last updateLast Updated : 2025-08-24
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月の契約

砂の尽きる場所に、それはあった。風が触れることを許されぬほど静まり返った丘に、白く冷たい石を積み上げたような神殿がぽつりと立っていた。月の神を祀るためだけに築かれた、名もなき聖域。夜ごと風にさらわれて形を変える砂漠の中で、その神殿だけがひとつとして姿を変えなかったのは、きっとそこに時が流れていなかったからだろう。青年がそこへ連れてこられたのは、満月の夜だった。身体を覆うのは白銀の布一枚。肌に吸いつくそれは、衣というより、まるで月の光を編んだ生地だった。誰の目から見ても、その若者が選ばれたことは明白だった。沈黙を貫く祭司たち、目を伏せる娼館の長、そして彼自身が、それを疑わなかった。「私が…選ばれたのですか」彼は尋ねた。問いに答える者はいなかったが、それでも青年は歩を進めた。神殿の奥へ、白く乾いた階段を音もなく登りながら、まるで夢の中にいるような心地だった。恐れはなかった。あるのはただ、胸を満たす奇妙な悦び。ついに自分がこの身を神に捧げるのだという歓喜が、胸の奥でゆるやかに灯をともしていた。神殿の中央には、月光の杯と呼ばれる儀式の器が据えられていた。乳白色の大理石で造られたその杯は、天井の穴から注ぐ月の光を溜め込み、まるで液体のようにゆらめいていた。青年はその前で静かに跪き、白銀の布を一枚ずつ脱いでいった。布が床に落ちるたび、月の光は彼の肌にやわらかく、だが確かに刻印のような冷たさで触れた。「どうか、この身を」彼は囁いた。「あなたの悦びの器としてお受け取りください」杯に口を近づけた瞬間、空気がわずかに揺れた。風は吹いていなかった。だが、神殿全体がかすかに震えたように思えた。青年は杯の月光を、まるで聖水のように一滴、舌に含んだ。その瞬間、目の前が開いた。いや、内側が裂けたのかもしれない。光と熱と、切り裂くような痛みが一度に押し寄せた。だが、それは歓びとひとつだった。拒む隙間などなかった。肉体の奥へ、何かが滑り込んでくる。その感覚が、かつて誰かの腕に抱かれたときの記憶と重なった。だがこれは違う。これは悦びではない、あるいは、悦びが変質したものだった。青年は床に手をついた。膝が崩れた。背筋がしなり、
last updateLast Updated : 2025-08-25
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香の胎動

神殿の空気は重く澱んでいた。石壁に刻まれた細やかな紋様の隙間から、細い月光が差し込んでいたが、それさえも煙るように揺らいで見えた。乳香が焚かれていた。ほの白く立ちのぼるその香りは、清めとも酩酊ともつかぬ作用をもたらし、視界と意識の輪郭をやわらかく滲ませていた。青年は衣を脱がされ、裸のまま香と花びらに満ちた寝台へと導かれた。すでに神殿に足を踏み入れたときから、彼の思考はゆるやかに遠のいていた。けれど、それが麻痺ではなく、ある種の意志だったことを彼は知っていた。自ら捧げられるためにここへ来たのだ。肉体を媒介にして、月とつながるために。「息を深く吸い込んでください」仮面をつけた神官が低く告げた。青年は従順に鼻腔を満たし、喉の奥へ、香の熱を受け入れた。その瞬間、体内にふわりと何かが溶け込んだ。内側から花が咲くような、ゆるやかで抗いがたい感覚だった。手が、胸に触れた。滑るように、そして沈むように指が這う。乳頭が硬く尖り、肌が月光を撫でられたように震えた。だが、それは淫らな触れ方ではなかった。官能のための愛撫ではなく、あくまで儀式の手順。水を注ぎ、火を灯し、香を焚くように、神官たちは彼の身体に指を這わせた。触れられた部位はそこだけが火照るように熱を帯び、やがてそこから波紋のように、身体全体へとその熱は広がっていった。「月は、貴方の奥に宿ります」仮面の神官が、低く呟いた。青年は目を閉じた。瞬きの裏に、水面に映る月が浮かんだ。波に揺られながら形を変えるその白い円が、彼の意識をさらっていった。身体が浮き上がるようだった。寝台の柔らかさも、肌に触れる花の冷たさも、遠のいていく。あるのはただ、体内で熱がひとつの核のように凝縮されていく感覚。下腹の奥、もっと深く、肉の隙間に滲み込んでくる月光の粒子が、何かを目覚めさせようとしていた。誰かの手が、彼の腿を開いた。膝の裏を押され、恥部が晒される。だが羞恥はなかった。自我が薄くなっていた。すべてが香の中に融けていく。快楽は確かにあった。だがその輪郭は淡く、掴もうとすると指の間から零れ落ちてしまう。快楽の中に、自分という存在が溶けていく。「もっと…」唇から音が零れた。それ
last updateLast Updated : 2025-08-25
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