Share

泉の瞳

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-27 15:43:07

石室の空気は、静かに濃くなっていた。

竜は、動かぬまま少年を見ていた。大きく焼けた石のような背、鱗のひとつひとつに積もる砂。眼差しは敵意を孕まず、ただ重たく、澱のように沈んでいた。そこには、喰らう者の飢えも、捕らえる者の鋭さもなかった。ただ、観察していた。自分に差し出されたものと、それを差し出した者の意味を測るように。

少年は、自分が睨まれているのか、それとも透かされているのか分からなかった。ただ、その視線の奥にある熱だけははっきりと感じた。それは体の芯にじんわりと沁みる、熱病のような気配だった。

喉が痛んだ。唇を舐めても乾いたままで、皮膚がめくれて血が滲んでいた。それでも、彼は空の水袋をしっかりと抱えていた。もしかしたら、袋の底に一滴くらい残っているかもしれない。その希望は、喉を潤すためのものではなかった。

竜の頭はわずかに傾いていた。大きな顎が、砂と骨の眠る床に影を落とし、その鱗の隙間に古い裂傷があった。肉がまだらに剥がれ、火傷のような痕が縦に走っていた。血は滲んでいなかった。きっとそれは、何年も前に負った傷だ。

少年は、何かが心の奥でちりりと軋むのを感じた。怖かった。それは確かだった。だが、もっと深くにある何かが、彼を動かした。

水袋を握る手に力を込めて、ぐいと引き寄せた。袋の口を開くと、内側で小さな水音がした。耳に届いたその音は、まるで幻のようだった。数滴、それだけだった。旅の最後の命綱だった。だがそれを、自分の喉に流し込もうとは思わなかった。

少年は石室の床にひざまずき、水袋を逆さにした。滴がひとつ、ふたつ…かすかにゆれて、そして竜の足元に落ちた。音はしなかった。砂に染みて消えた。だが、香のような甘い匂いがふわりと立ちのぼった気がした。

竜の瞳が、ゆるやかに揺れた。金属のような硬質さの奥に、何か柔らかな波紋が広がった。熱が、空気の中に濃くなっていく。焦げつくような吐息が、少年の顔にふわりと触れた。

少年は、目を逸らさなかった。逸らすことが、嘘をつくように思えたからだ。泉の水面のような眼差しが、竜をまっすぐに映していた。まるで、その存在をそのまま肯定するかのように。

「…傷が、痛むんじゃないかと思って」

掠れた声が空間に溶けた。意味を問うたわけでも、答えを求めたわけでもなかった。ただ言葉を、熱を、手渡したかった。それがこの石室の中で唯一できることのように思えた。

竜は、動かなかった。けれど、確かに変わった。目の奥に、一度も灯らなかった色が宿った。少年の放った言葉が、彼の内部のどこかで反響した。

ひび割れた鱗が、かすかに呼吸するように動いた。皮膚の下に潜む熱がじわじわと広がっていた。それは怒りでも傷みでもない、もっと鈍く深いもの。感情と呼ぶには、あまりに古く眠っていたものだった。

竜は、長い間誰にも見られていなかった。誰からも名を呼ばれず、傷を見られず、存在を忘れられてきた。けれど今、目の前にいる小さな命が、まるで泉のように澄んだ眼で、自分の奥底をのぞき込んでいる。

その視線が、痛かった。だが、沁みた。ひび割れた魂の底に、湿り気が差した。乾ききった大地に、ひとしずくの水が落ちたときのように。

竜は、目を閉じた。拒絶ではなかった。それは、まばゆい光をひととき遮るような仕草だった。そして、ほんのわずかに首を下ろした。その仕草に、少年は言葉を失った。

その姿は、まるで礼だった。威圧でもなく、服従でもなく、ただ同じ高さに視線を落とすという、極めてささやかな“応答”だった。

そのとき、少年の目に涙が滲んだ。砂漠で泣いたのは初めてだった。痛みではない涙。孤独の中に、誰かと触れたことで溢れた水。瞳の奥に、澄んだ泉が広がった。

竜は、その涙を見た。そして、再びゆっくりと目を開いた。

その目に宿った光は、はじめて見る色だった。まるで、生きている証のような、微かな温度。

アミールの声が、そこまで語り終えると、長く深い沈黙が落ちた。

香の煙がかすかに揺れ、王の影を切り取っていた。サリームは黙したまま座っていた。だがその眼は、遠くを見ていた。何年も前、ある月の夜に見た、ひとつの眼差しを。

ザイードが、泉のような眼をしていた夜。

それは、言葉ではなく水だった。傷に触れ、名を呼ばず、ただ傍にいた。

アミールはその記憶を、声にせずに掬い取っていた。語りの端々に、感情の伏流を忍ばせて。

その語りが毒なのか、救いなのか。

王自身も、まだ答えを持っていなかった。だが、手の中に握っていた杯が、熱を失っていることに、彼は気づかなかった。指先まで、沁み入るように何かが流れ出していた。

沈黙のなか、アミールのまなざしは、変わらず穏やかだった。まるで王の中に泉があると信じているように。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け   泉の瞳

    石室の空気は、静かに濃くなっていた。竜は、動かぬまま少年を見ていた。大きく焼けた石のような背、鱗のひとつひとつに積もる砂。眼差しは敵意を孕まず、ただ重たく、澱のように沈んでいた。そこには、喰らう者の飢えも、捕らえる者の鋭さもなかった。ただ、観察していた。自分に差し出されたものと、それを差し出した者の意味を測るように。少年は、自分が睨まれているのか、それとも透かされているのか分からなかった。ただ、その視線の奥にある熱だけははっきりと感じた。それは体の芯にじんわりと沁みる、熱病のような気配だった。喉が痛んだ。唇を舐めても乾いたままで、皮膚がめくれて血が滲んでいた。それでも、彼は空の水袋をしっかりと抱えていた。もしかしたら、袋の底に一滴くらい残っているかもしれない。その希望は、喉を潤すためのものではなかった。竜の頭はわずかに傾いていた。大きな顎が、砂と骨の眠る床に影を落とし、その鱗の隙間に古い裂傷があった。肉がまだらに剥がれ、火傷のような痕が縦に走っていた。血は滲んでいなかった。きっとそれは、何年も前に負った傷だ。少年は、何かが心の奥でちりりと軋むのを感じた。怖かった。それは確かだった。だが、もっと深くにある何かが、彼を動かした。水袋を握る手に力を込めて、ぐいと引き寄せた。袋の口を開くと、内側で小さな水音がした。耳に届いたその音は、まるで幻のようだった。数滴、それだけだった。旅の最後の命綱だった。だがそれを、自分の喉に流し込もうとは思わなかった。少年は石室の床にひざまずき、水袋を逆さにした。滴がひとつ、ふたつ…かすかにゆれて、そして竜の足元に落ちた。音はしなかった。砂に染みて消えた。だが、香のような甘い匂いがふわりと立ちのぼった気がした。竜の瞳が、ゆるやかに揺れた。金属のような硬質さの奥に、何か柔らかな波紋が広がった。熱が、空気の中に濃くなっていく。焦げつくような吐息が、少年の顔にふわりと触れた。少年は、目を逸らさなかった。逸らすことが、嘘をつくように思えたからだ。泉の水面のような眼差しが、竜をまっすぐに映していた。まるで、その存在をそのまま肯定するかのように。「…傷が、痛むんじゃ

  • 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け   乾いた口吻(こうふん)

    風が息絶えたように、沈黙の砂が世界を覆っていた。陽が沈んでもなお残る熱が、岩を灼き続け、空気を焼いていた。星ひとつ瞬かぬ夜の砂漠は、生者の皮膚に容赦なく死を纏わせる。だが少年は、すでに自分が生きているのかどうかさえ、わからなくなっていた。水袋はとうに空だった。唇はひび割れ、喉は焼けた紙のように音も立てずに裂けた。乾いた風が顔を撫でても、それを「冷たい」と感じる余裕はなく、ただ目を細めて進むしかなかった。砂に足を取られるたびに、記憶が遠のく。誰かの声が耳の奥で反響していたが、それがいつの記憶かさえ思い出せない。そして、突然だった。砂丘の端に、それは口を開けていた。岩の間に穿たれた、獣の顎のような暗い裂け目。気づけばそこに立ち尽くしていた。岩肌は黒ずみ、まるで太古の炎に焼かれた跡のようだった。風がひとしきり吹いたとき、少年の足元から砂が舞い、裂け目の奥へと引き込まれていく。まるで招かれているようだった。「…水があるのかもしれない」掠れた声が、喉の奥から漏れた。希望というより、執着だった。重たい足を一歩踏み出し、石の階段を下り始めた。空気は変わっていなかった。むしろ、熱がこもっていた。だが砂よりはましだった。汗はとうに乾き、心臓だけが微かに鼓動を刻んでいた。地下へと続く石段を、ゆっくりと降りていく。壁の装飾は剥がれ、掘られた文字は時の風に削られて判別できなかった。ただ、どこかに“牙”のような彫りが繰り返されているのがわかる。それがただの装飾でないことを、少年の本能は知っていた。最下層に着いたとき、空気が変わった。動きのない空間。息を吐いても揺れない空気。そこには、何かが“眠っている”という気配があった。目の前にあったのは、封じられた石室だった。巨大な扉には鎖が巻かれていた。だがその鎖のひとつが、誰かの手によってほどかれたかのように地に落ちていた。少年は無意識のうちに、その隙間を押し開いた。その中に“それ”はいた。巨大な背。焼けた岩のような鱗。空気の熱がその存在から滲み出していた。眠っているのか、死んでいるのかもわ

  • 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け   月を喰む者

    満月の夜は、静寂を纏っていた。風もなく、砂は息を潜め、神殿の石壁さえ沈黙していた。夜空は深い藍に沈み、その中央に浮かぶ月だけが、まるで息づく者のように輪郭を脈打たせていた。すべてが、終わりを迎えるのを知っていた。青年は寝台に横たわっていた。白銀の布が肌に張りつき、汗と香が入り混じったその匂いは、どこか懐かしいものに似ていた。かつて母の腕に抱かれたことがあるのなら、それはそのときの感触だったかもしれない。けれど彼はその記憶さえ持たなかった。誰かに抱かれ、呼ばれ、選ばれるという体験のすべてを、神殿で初めて知ったのだった。「もう、満ちたのですか」仮面をつけた神官が頷いた。声はなかった。ただその仕草が、祭りの終焉を告げていた。青年はまぶたを閉じた。瞼の裏に月が浮かぶ。それは今宵に限って、ほんのわずかに赤く滲んでいた。まるで彼の中にある何かと呼応しているかのように。胸の奥が焼けるように熱い。けれど、その熱には苦痛はなかった。むしろ、安らぎに近かった。空っぽの中に残っていた最後の欠片が、静かに燃えているだけのこと。呼吸が浅くなる。意識が月へと引かれていく。指先が痺れ、花弁のように開いた唇から香が洩れた。それは乳香でも花の香でもなかった。青年自身の肉体が、内側から香を放っていた。白く、ほのかに甘く、だがどこか焦げたような匂い。それが神殿の隅々にまで満ちていき、石に染みこみ、衣に染みこみ、やがて空へと昇っていった。月が、ゆっくりと揺れた。誰の目にもはっきりとわかるほど、円の一角が欠けていた。それは雲ではなかった。まるで空の果てから、誰かが月に歯を立てたかのように、そこだけがくっきりと齧られていた。祭司たちは沈黙のまま、顔を伏せた。誰ひとりとして声を上げず、誰ひとりとして涙を流さなかった。ただ香の中で、月が一口、欠けていく音を聞いていた。青年の身体はもう動かなかった。花弁のように開かれた手のひらが、ひとつ、ふたつと震えたあと、静かに止まった。熱が抜けたわけではなかった。むしろ、彼の周囲の空気だけが異様に温かかった。命の名残が香となり、光となり、月の口元へと吸い込まれていく。「月に喰われた者」神官のひとりが、記録の板にそう記し

  • 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け   胎に棲むもの

    その夜から、青年の腹部には小さな疼きが棲みついた。最初は微かな違和感だった。まるで夜毎に月が満ちるように、静かにじわじわと広がっていった。呼吸をするたび、胸の奥で音もなく形を変えるそれは、時に熱を伴い、時に氷のような冷たさで彼の身体を内側から撫でてきた。神殿の者たちは何も告げなかった。月の契約が済んだ後、青年はほとんど話しかけられることもなく、決まった時刻に水と少量の果実が与えられ、それ以外の時間はひとり静かに石室に閉じ込められていた。灯りはなかった。ただ天井の小さな窓から落ちる光が、時折壁に白い線を引いた。月の位置でしか時間を知ることのできない空間だった。鏡はなかった。いや、鏡が置かれたことは一度だけあった。ある夜、石の棚の上にそっと置かれたそれを、青年は半ば躊躇いながら覗き込んだ。だがそこに映ったのは、もはや“自分”ではなかった。頬はこけ、目の奥の光は沈み、肌は月の光を吸い込むように青白く透けていた。けれど何より恐ろしかったのは、鏡の奥に“それ”の影が映らなかったことだった。自分の身体の内に、確かに何かがいる。眠りの最中にも目覚めているような感覚があった。ときおり、夢とも幻ともつかぬ光景が脳裏に浮かんだ。ひとつの胎に暗い実が育ち、それが決して開かれることなく、内側から命を吸い取っていく。痛みはなかった。ただ、痩せていく。熱が失われていく。誰かに呼ばれているような気がして振り返っても、そこには誰もいなかった。青年はそれでも誇りを失わなかった。むしろ、その苦しみの中でさえ、自分が“選ばれた者”であることだけが唯一の支えだった。祭司たちは何も告げなかったが、視線には確かに敬意のようなものがあった。あるいは、それは畏れだったのかもしれない。彼が宿しているものが、人の手に負えない“神意”であることを、誰よりも彼らが理解していたのだろう。「私は、祝福されたのだ」青年は何度も呟いた。それは自己洗脳のようでもあり、ただの願望でもあった。だが言葉にすることでしか、保てないものがあった。命とは呼べぬ何かを内に抱えながら、彼は祈るようにして毎晩その言葉を唱え続けた。吐く息は次第に細く、微か

  • 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け   香の胎動

    神殿の空気は重く澱んでいた。石壁に刻まれた細やかな紋様の隙間から、細い月光が差し込んでいたが、それさえも煙るように揺らいで見えた。乳香が焚かれていた。ほの白く立ちのぼるその香りは、清めとも酩酊ともつかぬ作用をもたらし、視界と意識の輪郭をやわらかく滲ませていた。青年は衣を脱がされ、裸のまま香と花びらに満ちた寝台へと導かれた。すでに神殿に足を踏み入れたときから、彼の思考はゆるやかに遠のいていた。けれど、それが麻痺ではなく、ある種の意志だったことを彼は知っていた。自ら捧げられるためにここへ来たのだ。肉体を媒介にして、月とつながるために。「息を深く吸い込んでください」仮面をつけた神官が低く告げた。青年は従順に鼻腔を満たし、喉の奥へ、香の熱を受け入れた。その瞬間、体内にふわりと何かが溶け込んだ。内側から花が咲くような、ゆるやかで抗いがたい感覚だった。手が、胸に触れた。滑るように、そして沈むように指が這う。乳頭が硬く尖り、肌が月光を撫でられたように震えた。だが、それは淫らな触れ方ではなかった。官能のための愛撫ではなく、あくまで儀式の手順。水を注ぎ、火を灯し、香を焚くように、神官たちは彼の身体に指を這わせた。触れられた部位はそこだけが火照るように熱を帯び、やがてそこから波紋のように、身体全体へとその熱は広がっていった。「月は、貴方の奥に宿ります」仮面の神官が、低く呟いた。青年は目を閉じた。瞬きの裏に、水面に映る月が浮かんだ。波に揺られながら形を変えるその白い円が、彼の意識をさらっていった。身体が浮き上がるようだった。寝台の柔らかさも、肌に触れる花の冷たさも、遠のいていく。あるのはただ、体内で熱がひとつの核のように凝縮されていく感覚。下腹の奥、もっと深く、肉の隙間に滲み込んでくる月光の粒子が、何かを目覚めさせようとしていた。誰かの手が、彼の腿を開いた。膝の裏を押され、恥部が晒される。だが羞恥はなかった。自我が薄くなっていた。すべてが香の中に融けていく。快楽は確かにあった。だがその輪郭は淡く、掴もうとすると指の間から零れ落ちてしまう。快楽の中に、自分という存在が溶けていく。「もっと…」唇から音が零れた。それ

  • 千夜一夜に囚われて~語りの檻と王の夜明け   月の契約

    砂の尽きる場所に、それはあった。風が触れることを許されぬほど静まり返った丘に、白く冷たい石を積み上げたような神殿がぽつりと立っていた。月の神を祀るためだけに築かれた、名もなき聖域。夜ごと風にさらわれて形を変える砂漠の中で、その神殿だけがひとつとして姿を変えなかったのは、きっとそこに時が流れていなかったからだろう。青年がそこへ連れてこられたのは、満月の夜だった。身体を覆うのは白銀の布一枚。肌に吸いつくそれは、衣というより、まるで月の光を編んだ生地だった。誰の目から見ても、その若者が選ばれたことは明白だった。沈黙を貫く祭司たち、目を伏せる娼館の長、そして彼自身が、それを疑わなかった。「私が…選ばれたのですか」彼は尋ねた。問いに答える者はいなかったが、それでも青年は歩を進めた。神殿の奥へ、白く乾いた階段を音もなく登りながら、まるで夢の中にいるような心地だった。恐れはなかった。あるのはただ、胸を満たす奇妙な悦び。ついに自分がこの身を神に捧げるのだという歓喜が、胸の奥でゆるやかに灯をともしていた。神殿の中央には、月光の杯と呼ばれる儀式の器が据えられていた。乳白色の大理石で造られたその杯は、天井の穴から注ぐ月の光を溜め込み、まるで液体のようにゆらめいていた。青年はその前で静かに跪き、白銀の布を一枚ずつ脱いでいった。布が床に落ちるたび、月の光は彼の肌にやわらかく、だが確かに刻印のような冷たさで触れた。「どうか、この身を」彼は囁いた。「あなたの悦びの器としてお受け取りください」杯に口を近づけた瞬間、空気がわずかに揺れた。風は吹いていなかった。だが、神殿全体がかすかに震えたように思えた。青年は杯の月光を、まるで聖水のように一滴、舌に含んだ。その瞬間、目の前が開いた。いや、内側が裂けたのかもしれない。光と熱と、切り裂くような痛みが一度に押し寄せた。だが、それは歓びとひとつだった。拒む隙間などなかった。肉体の奥へ、何かが滑り込んでくる。その感覚が、かつて誰かの腕に抱かれたときの記憶と重なった。だがこれは違う。これは悦びではない、あるいは、悦びが変質したものだった。青年は床に手をついた。膝が崩れた。背筋がしなり、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status