蘭瑛《ランイン》は今日も、華山《かざん》の麓にある小さな町に、薬を届けに行っていた。
露店の串焼きを頭の中で浮かべ、口の中に唾液が溜まっていくのを感じる。側から見たら気味の悪い光景だが、蘭瑛の小顔からは、にんまりとした笑みが溢れていた。 蘭瑛は、ハッと普段の表情を取り戻し歩いていくと、突き当たりの道端で人集りが見える。 大道芸でもやっているのだろうか? 蘭瑛はその人集りの行列に紛れ込み、何やら話をしている老婦人たちの会話に耳をそば立てた。「あの麗しい宋長安の国師様が、さっきここを通られたのよ〜。まぁ〜それはそれは、美しい方だったわ」
「あぁ〜残念。私ももう少し早く来れば、お目にかかれたのに〜。それにしても何故、華山に来られてるのかしら?」
「分からないわ〜。渭陽《いよう》にでも行かれるのかしらね」
「んな訳ないでしょう。あんな閉山の近くなんかに。今、閉山は凄いことになってるって噂よ。赤潰疫が蔓延して、子ども達がほぼ亡くなってるって…」
蘭瑛はその話を聞いて、先日清安《せいあん》の寺で、赤潰疫に罹患した親子を思い出した。あのような惨虐な光景が、閉山でも起きてると思うと、胸が締め付けられる…。
蘭瑛は空を見上げた。 いくら名家の流医であろうと、万人を助けることはできない。それは、幼い頃から教えられてきた流医としての心構えの一つだ。それに、タダで薬を処方することも、六華鳳宗の教えでは禁じられている。一人の者にそれを許してしまえば、皆にそれをしなければならなくなるからだ。 悲しいが、ここは善人ばかりがいる世界ではない。 どれだけ情が湧こうが、規律を持って接しなければ、名家としての存続が危ぶまれる。蘭瑛は、宋長安の国師がどれだけ麗しかろうが、美しかろうが、そんなことはどうでも良く、ただこの惨事が終息することを、青天に向かって願うしかなかった。
薬を届け終わった蘭瑛は、露店に行く気分を完全に失い、そのまま鳳明葯院《ほうみんやくいん》へ戻った。
いつも通り六華鳳宗の門を潜ると、立派な鼻革を付けた白と黒の二頭の馬が、大人しく主人を待っているかのように、立っていた。 驚いた蘭瑛に気づいた門番が、声を掛ける。「蘭瑛、お帰りなさい」
「ただいま戻りました。これは?」
「はい。滅多にお目にかかれない、宋長安の上客の御馬たちです」
門番は穏やかに言い、立派な馬を見上げる。
宋長安という名を聞いて、蘭瑛は怪訝な表情を浮かべた。(宋長安の上客?六華鳳宗に何の用よ)
門番は続ける。
「私も大変驚いたのですが、宗主は特段変わった様子はなく、普段の客人のように宋長安の上客を迎え入れられました。宋長安の客人の方々も、とても丁寧でして、昔のような風貌は全く感じられませんでしたよ」
蘭瑛はそれでも納得がいかなかった。
いくら今が良くても、過去の事実は変えられない。 砂埃が立つように、心がざわめいていく。するとそこに、鈴麗《リンリー》がやって来た。
「蘭瑛姉様。おかえりなさいませ」
「ただいま、リンリー。どうしたの?」
「遠志宗主が客間へ来るようにと、仰っております」
(え?宋長安の客人と顔を合わせろってこと?)
凶を引き当てるような、嫌な予感がする。
こういう時はだいたい、当たってしまうのだ。 蘭瑛は、怪訝な表情のまま仕方なく、鈴麗と客間へ向かった。扉の前で「ふー」と呼吸を整える。
そして、客間の扉をゆっくり開けると、白檀の香りがふわりと、蘭瑛の鼻腔を通過した。香りだけで、とんでもない上客であることが窺える。 蘭瑛は中に入るや否や、屏風の後ろから顔を覗かせ、中の様子を伺う。 すると、噂通りの眉目秀麗な男が茶を啜っている姿が目に映った。その横には、穏やかな笑みを浮かべる護衛もいる。 茶を啜る仕草が、しなやかに揺れる柳のようで、紺碧色の目からは冷艶が漂う。蘭瑛は意に反するように、思わず息を呑んでしまった。「蘭瑛、いるならこちらへ来なさい」
遠志の声に蘭瑛は肩をぴくつかせ、震える声で「はっ、はい…」と返事をした。
澄んだ紺碧色の目と、一瞬目が合う。
蘭瑛はすぐに目を逸らし、遠志の方を向く。「蘭瑛。宋長安の王《ワン》国師殿と護衛の宇辰《ウーチェン》様だ。ご挨拶を」
「あ、はい…。六華鳳宗の華蘭瑛《ホアランイン》です」
蘭瑛は拱手をしながら、辿々しく挨拶をする。
目の前にいる二人も、蘭瑛に拱手しながら頭を下げた。先ほどまで、偉そうにしていた蘭瑛の心は、たちまち緊張へと変わっていく。蘭瑛は恐る恐る、目の前にいる二人に目を向ける。改めて見ると、蘭瑛はどこか見覚えのある顔であることに、気づいた。
(あ、新安の寺に来ていた二人組だ!)
あの時と雰囲気が全く違っていた為、最初は分からなかったが、蘭瑛は俯きながら納得した。
その横から、遠志の声が聞こえてくる。
「王国師殿。事情はよく分かりました。それでは、私のこの娘・蘭瑛を、そちらへ向かわせたいと思います。実力や知識は私と変わりませんので、ご安心ください」
蘭瑛は慌てて頭を上げ、遠志に向けて、どういうこと?と首を傾げる。
「皇太子殿下の容態が悪いそうだ。至急、お二人と一緒に行って、適切な処置を施してきなさい」
「え?そ…、そんな大役、私にはできませんよ!」
「お前しかいないんだ、蘭瑛。宗主命令だ」
遠志の声調がいつもと違った。
蘭瑛はそれ以上何も言えず、口を噤んだ。 三宗名家の家訓の一つ「宗主命令」は、何があっても従わなければならない。普段は、宗主たちが集まった後に申し渡されるのだが、単独での発令は異例中の異例だ。 何か急を要するのだろう。 拒めない蘭瑛は、仕方なくそれを受け入れた。二人のやり取りを見ていた護衛が、安堵の表情を見せる。
「それでは、このまま宋長安へお連れいたします。そちらのご準備が整い次第、出発いたしましょう」
蘭瑛は部屋に戻り、簡単な日用品と下着を布の中に絡めた。
そして、普段から持ち歩いている六華葯箱の中を整理し、使えそうな薬草や漢方、法薬の術で作った液薬の瓶を詰め込み、門へ向かった。 門の前では、二頭の馬を引き連れた王国師と宇辰、遠志が待っている。蘭瑛は小走りでそこに向かい、「お待たせしました」と言う。遠志は、ほんの少し寂しさを滲ませた顔で、蘭瑛に小さな本を差し出した。
「持っていきなさい。きっと役に立つはずだから。私の大切な一冊だからね。大事にするんだよ」
受け取った蘭瑛は、パラパラと頁を開く。 厚みのある小さな本は、遠志がコツコツと六華鳳宗の家宝である鳳秘典を、書き写したものだった。 蘭瑛は、六華葯箱にそれを仕舞い込み、荷物を宇辰に渡す。「蘭瑛様は、王国師の馬に。私はこのお荷物をお運びしますので」
「えっ…」
蘭瑛は思わず、顔を引き攣らせた。
あの、無駄に美しい国師と一緒に馬に乗るなんて、雪の日に外に放り出されるのと同じぐらい、生きた心地がしない。 もし、この氷山の一角を、華山の誰かに見られでもしたら、二度とここへは戻って来られなくなるかもしれない。 いや、途中で何処からともなく矢が飛んできて、四方八方から滅多刺しにされるかもしれない! 蘭瑛はそんなことを思っていると、脳天から低く落ち着いた声が、舞い降りてきた。「心配しなくていい」
蘭瑛はその声の方を見上げると、仏頂面でこちらを見ている王国師と目が合った。
屋外の光で照らされた紺碧色の目は、更に青々しく見える。 王国師から差し出された手をそっと握ると、蘭瑛は上へと引き上げられ、馬に跨った。「蘭瑛をお願いします。蘭瑛、身体には気をつけるんだよ」
「はい…。行ってまいります」寂しさを堪えて、蘭瑛は遠志にぎこちない笑みを見せる。
宋長安の二人は、馬の手綱を引きながら遠志に向かって拱手をし、縮地印を使って三人は宋長安へ向かった。歩いて来た道を戻るように、妃たちの殿門の前を通り過ぎ、突き当たりを左に向かってそのまま歩いていくと、藍殿《らんでん》はあった。 「こちらになります」 「は、はい」 青を基調とした立派な建造物が何棟も連なっており、宿舎か何かだと蘭瑛《ランイン》は思った。ぼんやり眺めていると、隣にいた宇辰《ウーチェン》が、爽やかな笑みを向けて口を開く。 「あちらは、永憐《ヨンリェン》様の住居です。こちら側は、私たち護衛や侍女が寝泊まりする所になっております」 宇辰は、向かって右側の塔を指しながら、蘭瑛に説明した。 「はぁ…」 やはり、国師というだけあって、暮らしぶりは桁違いのようだ。ここで、露店の串焼きなんぞ食べた日には、間違いなく打首にされるだろうな…。蘭瑛から思わず苦笑いが漏れる。 「蘭瑛様は客人ですので、今晩はこちらではなく、あちらの塔にある客室へご案内いたします」 藍殿の斜め奥にある塔を指され、蘭瑛はコクっと頷いた。 宇辰の後ろに続いて歩いていくと、左右に分かれる中央の廊下に到着する。奥にはだだっ広い中庭があり、その庭を囲うかのように、藍殿は造られているようだ。宇辰から、左側の廊下は永憐の住居に繋がる為、ここから先は入室禁止であることを、入念且つ丁寧に説明された。 あんな威圧感を漂わせた、仏頂面の男の家に入ったところで何になる?居心地が悪いだけじゃないか。 蘭瑛はそう思いながら、口元を一文字に固める。 しかし、宇辰によると、今も永憐に好意を寄せた下女たちの侵入が後を絶たず、寝台に潜り込んだり、下着や肌着を盗む不届き者がいるんだとか。蘭瑛は宇辰に、無断で入ったらどうなるかを尋ねてみると、無断で入室した場合は、男女問わず三日三晩鞭打ちの刑に処され、しばらくの間、禁足処分になるとのことだった。 蘭瑛は、誰が見ても分かるぐらい顔を引き攣らせて、宇辰が歩いていった右の塔へ進んでいく。 すると、厨房から肉料理の香りがふんわりと踊るように、蘭瑛の鼻腔に入り込んだ。 (はぁ〜、なんて美味しそうな匂い…) 美味しいものに目がない蘭瑛は、口から生唾が飛び出そうになった。 そういえば、今日は突然の事で何も口にしていない。寄り道して、露店の串焼きを食べてくるべきだったと、蘭瑛は少し後悔した。 ぎゅるるる、とお腹が鳴るの
馬に揺れること一炷香《いっちゅうこう》。 新安《しんあん》をあっという間に通り抜け、威風堂々とした宋長安《そんちょうあん》の町に辿り着いた。 華山《かざん》の麓より、初夏の陽気を感じる。 軒先一つ一つに竹簾がかかり、連なる日陰の下を通るように、人々が行き交っている。この果てしない町並みは一体、どこまで続いているのだろう。蘭瑛は不覚にも好奇心をくすぐられた。 宋長安の二人は馬の手綱を緩め、宮廷へと繋がる緩やかな坂道を、ゆっくりと進んでいく。 蘭瑛《ランイン》は、見慣れない景色に目を奪われつつも、複雑な感情が胸を掻きむしっていた。 父親を打首の刑にした先帝の宋長帝《そんちょうてい》は、もうこの世に存在しない。しかし、旱魃した場所に水を張るのが難しいように、どれだけ月日が経とうと見聞は残り、残された者たちの心は未だ枯れ果てたままだ。過去に起きた『華山の乱』が、どのように宋長安の人々に伝わっているか分からないが、恐らく六華鳳宗に良い印象を持つ者は少ないだろう。 蘭瑛の目は、段々と虚ろになっていく。 すると、今まで口を開かなかった後ろの美人が、突然言葉を発した。 「宋長安は初めてか?」 「あ、はい…。今まで来る機会がなかったので」 過去の尾を引いているせいもあるが、宋長安は新安よりも流医が溢れており、当然ながら今まで一度も宋長安から、依頼が来たことはない。六華鳳宗は、色んな意味で管轄外だ。 ふと、蘭瑛は疑問に思った。 宋長安には宮廷専属の御用医家はいないのだろうか?と。 普通、宮廷に一人は御医と呼ばれる医家がいるはずなのだが…。 蘭瑛は後ろの美人に、恐る恐る尋ねてみる。 「あ、あの…。宋長安には御用医家はいらっしゃらないのですか?」 永憐は、少し間を置いて答える。 「いない訳ではないが、色々と信用できない」 (信用できない…) 蘭瑛は心の中で呟いた。 なるほど。宮廷の中に、毒を盛れと言われたら毒を盛るような、よからぬ流医がいるという訳か。 あまり、余計なことを尋ねない方がいいと思い、蘭瑛は目線を馬の頭に向ける。すると、その斜め後ろで手綱を引く、指先の長い永憐の右手が、目に入った。 新安で手当てしたことを思い出し、蘭瑛は後ろまで聞こえるように首を横にして、ぎこちなく美人の名を呼んだ。 「あ、あの…。ワ…、王《
蘭瑛《ランイン》は今日も、華山《かざん》の麓にある小さな町に、薬を届けに行っていた。 露店の串焼きを頭の中で浮かべ、口の中に唾液が溜まっていくのを感じる。側から見たら気味の悪い光景だが、蘭瑛の小顔からは、にんまりとした笑みが溢れていた。 蘭瑛は、ハッと普段の表情を取り戻し歩いていくと、突き当たりの道端で人集りが見える。 大道芸でもやっているのだろうか? 蘭瑛はその人集りの行列に紛れ込み、何やら話をしている老婦人たちの会話に耳をそば立てた。 「あの麗しい宋長安の国師様が、さっきここを通られたのよ〜。まぁ〜それはそれは、美しい方だったわ」 「あぁ〜残念。私ももう少し早く来れば、お目にかかれたのに〜。それにしても何故、華山に来られてるのかしら?」 「分からないわ〜。渭陽《いよう》にでも行かれるのかしらね」 「んな訳ないでしょう。あんな閉山の近くなんかに。今、閉山は凄いことになってるって噂よ。赤潰疫が蔓延して、子ども達がほぼ亡くなってるって…」 蘭瑛はその話を聞いて、先日清安《せいあん》の寺で、赤潰疫に罹患した親子を思い出した。あのような惨虐な光景が、閉山でも起きてると思うと、胸が締め付けられる…。 蘭瑛は空を見上げた。 いくら名家の流医であろうと、万人を助けることはできない。それは、幼い頃から教えられてきた流医としての心構えの一つだ。それに、タダで薬を処方することも、六華鳳宗の教えでは禁じられている。一人の者にそれを許してしまえば、皆にそれをしなければならなくなるからだ。 悲しいが、ここは善人ばかりがいる世界ではない。 どれだけ情が湧こうが、規律を持って接しなければ、名家としての存続が危ぶまれる。 蘭瑛は、宋長安の国師がどれだけ麗しかろうが、美しかろうが、そんなことはどうでも良く、ただこの惨事が終息することを、青天に向かって願うしかなかった。 薬を届け終わった蘭瑛は、露店に行く気分を完全に失い、そのまま鳳明葯院《ほうみんやくいん》へ戻った。 いつも通り六華鳳宗の門を潜ると、立派な鼻革を付けた白と黒の二頭の馬が、大人しく主人を待っているかのように、立っていた。 驚いた蘭瑛に気づいた門番が、声を掛ける。 「蘭瑛、お帰りなさい」 「ただいま戻りました。これは?」 「はい。滅多にお目にかかれない、宋長安の上客の御馬たちです」
開花という一幕を終えた桜は、緑へと色彩を移し、木々の隙間から溢れる木漏れ日が、黄華殿《おうかでん》の床を照らす。 新安《しんあん》で赤潰疫が発生したことを受け、世を統治している四つの国 宋長安《そんちょうあん》・朱源陽《しゅうげんよう》・橙仙南《とうせんなん》・青鸞州《せいらんしゅう》が集まる『四国会《よんごくかい》が、橙仙南の宮廷・黄華殿《おうかでん》で執り行われた。 豪華な黄華殿の中にある小さな人工池の中で、黄色の花々が咲き乱れている。一段と上品な香りが、辺り一面を漂い、来る者の鼻腔をくすぐった。 「永憐《ヨンリェン》兄様、いい香りだね」 口を開いたのは、永憐の横で足を崩して座っている、宋長安の皇太子・賢耀《シェンヤオ》だ。その横には、永憐の側近・宇辰《ウーチェン》も端座し、宇辰は穏やかな笑みを賢耀に見せていた。永憐はというと「うん」と小さく頷くだけで、相変わらずの仏頂面だ。 宋長安の皇帝・宋武帝《そんぶてい》は、もう一段上の年長者が並ぶ上座で、橙仙南の皇帝・橙武帝《とうぶてい》と、青鸞州の皇帝・鸞氷帝《らんひょうてい》と和やかに談話している。 かかった雲が日差しを遮り、黄華殿の中が少し暗くなった。 明度を見計らったかのように、この上品な香りを、一瞬にして自国の香油の香りに変える、強者がやってきた。 嗅覚を疑うその如何わしい香りは、妓楼の売女が客寄せに使うような、甘ったるさを秘めており、嗅ぐ者の鼻を麻痺させる。 先ほどまでの、穏やかな香りは一変し、こっそり鼻を覆う者もいれば、気分を害して外に出る者もいたり、はたまた永憐のように、微動だにしない者もいたりと、周囲は異様な空気に包まれた。 そんな周りを気にする素振りも見せず、朱源陽の皇帝・朱陽帝《しゅうびてい》は、意気揚々と床を鳴らして、上座に座った。 その後ろでは、護衛の端栄《タンロン》がそれぞれの国の年長者たちに拱手をしている。 「さて、とっとと始めようではないか」 四国会の中では最年長の為、傲慢な態度はいつものことだが、今日は遊女のような愛人も連れてきたようだ。 老人が年若い女を見て興奮しているように、朱陽帝は愛人の頭をいやらしく撫でている。 何を見せつけられているのだろうか。 下にいる者たちからは、溜息が漏れる。 朱色の衣を纏った変態な老人を一瞥しながら、賢耀は小さく口
朝方に眠ると、蘭瑛《ランイン》はいつも同じ夢を見る。 この切り取られた夢は、蘭瑛の奥底に眠る悲しみを、容赦なく抉り出す…。 ・ ・ ・ 「蘭瑛、早く来なさい。その子も連れていくの?」 「うん。だって友達だもん!どんな時も一緒にいなきゃ」 蘭瑛の母・瑛珠《インジュ》と、白いウサギを抱えた8歳の蘭瑛は、六華鳳宗《ろっかほうしゅう》の弟子たちの誘導を受けながら、華山の奥へと逃げる。 「どうして、こんな事になっているの…」 「宋長安《そんちょうあん》の朝廷から宗主を打首にすると…」 「どうしてよ…。主人が何をしたっていうのよ…」 弟子の言葉に瑛珠は泣き崩れ、蘭瑛は震えているウサギを抱えながら、母の慟哭な姿を眺めていた。 「父上はどうなっちゃうの?」 「大丈夫ですよ。小蘭《シャオラン》様。何があっても、御父上は必ず私たちを守ってくださいます」 弟子たちに小蘭と呼ばれていた蘭瑛は、その言葉に、勇気づけられたが、状況は一変する。 蘭瑛の父・鳳鳴《ホウメイ》と遠志《エンシ》、双子の弟・法志《ホウシ》が駆けつけたが、宋長安の修仙者たちが、カチャンカチャンと凍てつくような冷たい鍔音を立て、続々と背後から迫ってきているのが分かった。 蘭瑛は、その物々しい空気に怖気付いてしまい、瑛珠と一緒に大きな岩の後ろに隠れ、うさぎの体に顔を埋めた。 ついに、追い詰められた六華鳳宗の全員は逃げ場を失い、宋長安の者たちと対峙する。 もう終わりだと皆が思った刹那、鳳鳴が皆の前に出た。 「玄天遊鬼の責任は六華鳳凰の末裔として私が担う。しかし、ここにいる者たちの命だけは取らないでいただきたい」 鳳鳴は跪き、頭を下げた。 その瞬間、鳳鳴の首を目掛けて一本の剣光が一閃する。 鳳鳴を庇うかのように、瑛珠は蘭瑛を残して岩から飛び出し、一閃の中に飛び込んだ。 「父上!母上!」 ・ ・ ・ 蘭瑛は自分の声でハッと目を覚ました。 激しい鼓動を抑えるように胸に手を当て、ゆっくりと呼吸を整える。 しばらく落ち着くまで、蘭瑛は無機質な天井を、ただただぼんやりと眺めた。 15年前の春。玄天遊鬼《げんてんゆうき》は封印されていたものの、その年の冬は玄天遊鬼の傀儡《かいらい》が多く出没し、多くの命が犠牲
春陽の候。 華山《かざん》の麓では桜が咲き誇り、ちょうど見頃を迎えていた。 六華鳳宗《ろっかほうしゅう》の開祖・六華鳳凰《ろっかほうおう》が植えたとされる桃色の色鮮やかな百本の桜並木は、誰の目にも美しく映り、まるで華麗な舞踊を見ているかのように煌びやかだ。 「綺麗だなぁ〜」 蘭瑛《ランイン》も足を止め、桜の木を見上げる。 何かを思い起こさせるかのように、ひらりと舞い降りてきた二枚の花弁が、蘭瑛の手のひらに乗った。 「父上、母上。今年も素敵に咲きましたよ」 春になると、毎年思い出してしまう。 両親を失くしてしまったあの日のことを…。 蘭瑛は手のひらに乗った二枚の花弁を、吹かれた風に差し出し、自然に還らせた。風に乗って飛んでいく花弁を見送ったあと、蘭瑛はハッと我に帰る。 「いっけない!早く行かなきゃ。また、叔父上に怒られる〜」 六華鳳宗の現宗主・叔父の遠志《えんし》に頼まれていた約束の問診を思い出し、蘭瑛は急ぎ足でそこへ向かった。 山を降りた華山の町は、栄えている宋長安《そんちょうあん》より人口は少ないが、食材が豊富な為、食材を求めて近隣の町から人が流れてくる。町は露店で賑わい、蘭瑛はいつも問診が長引いたと嘘をついて、露店の店先で寄り道をしていた。 美味しい物に目がない蘭瑛は、もちろんこの後も、こっそり串焼きを食べるつもりだ。 「こんにちは〜。六華鳳宗の蘭瑛です」 「あ、蘭瑛先生どうぞ〜。ごめんなさいね、こんな所まで来てもらって」 もうすぐ臨月だという、腹が大きく膨らんだ亭主の妻に、笑顔で迎え入れられる。 「いえいえ、とんでもない!私は何処まででも飛んでいきますから〜」 亭主の妻とたわいもない挨拶を交わし、蘭瑛はいつも通り問診する。 六華鳳宗は名医の三宗と言われているが、朝廷に所属する御用医家ではなく、市医の医家として生業を立てている。こうして、依頼を受けた場所に出向かい、町の人々の命を守りながら歩き回っているのだ。 「今日も落ち着いてらっしゃいますね」 「蘭瑛先生のおかげだよ〜」 横になっている亭主の腹を触診し、深傷を負った腹部の傷に六華術の一つ、癒合《ゆごう》の術を施す。 「蘭瑛先生、知ってる?」 亭主の妻がお茶を淹れながら少し怪訝そうに尋ねた。 蘭瑛は首を傾げ、亭主の妻の方を向く。 「あの物騒な閉山《へいざ