Home / 恋愛 / 千巡六華 / 第二話 新安

Share

第二話 新安

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-06-23 11:45:30

 朝方に眠ると、蘭瑛《ランイン》はいつも同じ夢を見る。

 この切り取られた夢は、蘭瑛の奥底に眠る悲しみを、容赦なく抉り出す…。

 ・

 ・

 ・

 「蘭瑛、早く来なさい。その子も連れていくの?」

 「うん。だって友達だもん!どんな時も一緒にいなきゃ」

 蘭瑛の母・瑛珠《インジュ》と、白いウサギを抱えた8歳の蘭瑛は、六華鳳宗《ろっかほうしゅう》の弟子たちの誘導を受けながら、華山の奥へと逃げる。

 「どうして、こんな事になっているの…」

 「宋長安《そんちょうあん》の朝廷から宗主を打首にすると…」

 「どうしてよ…。主人が何をしたっていうのよ…」

 弟子の言葉に瑛珠は泣き崩れ、蘭瑛は震えているウサギを抱えながら、母の慟哭な姿を眺めていた。

 「父上はどうなっちゃうの?」

 「大丈夫ですよ。小蘭《シャオラン》様。何があっても、御父上は必ず私たちを守ってくださいます」

 弟子たちに小蘭と呼ばれていた蘭瑛は、その言葉に、勇気づけられたが、状況は一変する。

 蘭瑛の父・鳳鳴《ホウメイ》と遠志《エンシ》、双子の弟・法志《ホウシ》が駆けつけたが、宋長安の修仙者たちが、カチャンカチャンと凍てつくような冷たい鍔音を立て、続々と背後から迫ってきているのが分かった。

 蘭瑛は、その物々しい空気に怖気付いてしまい、瑛珠と一緒に大きな岩の後ろに隠れ、うさぎの体に顔を埋めた。

 ついに、追い詰められた六華鳳宗の全員は逃げ場を失い、宋長安の者たちと対峙する。

 もう終わりだと皆が思った刹那、鳳鳴が皆の前に出た。

 「玄天遊鬼の責任は六華鳳凰の末裔として私が担う。しかし、ここにいる者たちの命だけは取らないでいただきたい」

 鳳鳴は跪き、頭を下げた。

 その瞬間、鳳鳴の首を目掛けて一本の剣光が一閃する。

 鳳鳴を庇うかのように、瑛珠は蘭瑛を残して岩から飛び出し、一閃の中に飛び込んだ。

  「父上!母上!」

 ・

 ・

 ・

 蘭瑛は自分の声でハッと目を覚ました。

 激しい鼓動を抑えるように胸に手を当て、ゆっくりと呼吸を整える。

 しばらく落ち着くまで、蘭瑛は無機質な天井を、ただただぼんやりと眺めた。

 15年前の春。玄天遊鬼《げんてんゆうき》は封印されていたものの、その年の冬は玄天遊鬼の傀儡《かいらい》が多く出没し、多くの命が犠牲となった。

 その為、当時宋長安《そんちょうあん》の皇帝だった宋長帝《そんちょうてい》が、玄天遊鬼が元六華鳳凰の弟子だったことを理由に、玄天遊鬼にまつわる所業の責任を六華鳳宗の宗主だった蘭瑛の父・鳳鳴に、全て擦りつけたのだ。

 「不当な誅殺だ…」

 蘭瑛はむくっと起き上がり、涙の玉を潰すかのように目尻を押さえた。

 思い出すだけでも、胸が苦しくなり、それと同時に憎しみや殺意も芽生えてくる。いつか必ず、この手で両親の仇をうってやろうと心に決めているが、誰があの一閃を打ち出したのかは未だに分からない。ただあの時、血まみれになった両親を、雪片のような冷たい視線で見つめていた者が居たことだけは、今も忘れられないでいる。

 すると、現実に引き戻すかのように、双子の弟子・鈴麗《リンリー》と鈴玉《リンユー》が声を掛けてきた。

 「蘭瑛姉様、起きていらっしゃいますか?遠志宗主がお呼びです。至急、客室に来るようにと」

 「うん。分かった。着替えたらすぐに行く」

 蘭瑛は新しい衣に着替え、髪を一つに結いながら、客室へ向かった。

 扉を開け、そっと中に入ると馴染みの声が聞こえてくる。

 薬の行商人・暁明《シャオミン》だ。

 しかし、普段とは違う重苦しい雰囲気を肌で感じ、蘭瑛は何事かと尋ねた。

 「すみません、お待たせしました。何かあったのですか?」

 「あぁ〜、蘭瑛先生!こんにちは。先程も、宗主にお伝えしたのですが…。隣の新安《しんあん》で、赤潰疫が出たと報告を受けまして、こちらに」

 蘭瑛は驚愕した。

 噂程度だと思っていた赤潰疫が、まさか隣町の新安にまで来ているとは、露ほども思っていなかったからだ。

 遠志が立ち上がり、口を開く。

 「蘭瑛。私たちもすぐに新安へ向かおう」

 「分かりました。すぐに準備してきます」

 蘭瑛は自室に戻り、六角形の結晶が刺繍された六華鳳宗の衣を羽織る。

 そして、昨日作った赤沈薬《せきちんやく》を胸元に忍ばせ、遠志たちと新安へ向かった。

 華山と宋長安との間にあるこの新安は、行商人が多く行き交い、宿屋などが多い。江湖郎中《こうころうちゅう》と呼ばれる『安くて早くて便利』が売りの流医が多いことでも知られている。しかし、今回の赤潰疫は、三大名家の法術の薬でしか効果がない為、暁明《シャオミン》曰く、江湖郎中たちはなす術がなく、困っているんだとか。

 暁明は、とある寺院に蘭瑛たちを案内した。

 話を聞いていると、どうやら遠志と馴染みがある寺らしい。

 何歩か進むと、手入れの行き届いた大きな寺院に到着する。

 蘭瑛は、直感的に嫌な予感がした…。

 恐る恐る本堂に入ると、やはり、見るに耐えない惨状が目に飛び込んできた。

 顔や手足の皮膚が赤くただれ、熱を浴びるような痛みで、泣き叫ぶ子供たち。中には、意識がなく瀕死状態な子どもが何人も横たわっていたり、顔に布を被せられている子どもが隅の方に置かれていたりした。子どもを抱える母親の腕にも赤潰疫が表出し、苦痛の表情を訴えている。

 蘭瑛は赤潰疫のあまりの恐ろしさに、眼球が揺れるほど絶句してしまった。

 だが、遠志はどんな時も泰然自若《たいぜんじじゃく》だ。

 言葉が出ないほど呆然としていた蘭瑛の肩を軽く叩き、これから何をするか指示を出した。

 「蘭瑛。落ち着きなさい。まずは赤沈薬を塗って、その後に寛解《かんかい》の術を。私はその後ろから、癒合《ゆごう》の術を施していこう。布を被っている子には、黄泉の国へ行けるよう、六華導《ろっかどう》を施してあげよう。暁明と尊師殿も手伝いを頼めるかい?」

 「もちろんです」

 「はい宗主。私もお手伝いいたしましょう」

 暁明は赤沈薬が入った大きな瓶を持ち、蘭瑛と遠志は塗擦と法術を、寺院の住職は布を巻くという作業を始める。触れてしまうと感染してしまう為、直接触れないように一人ずつ丁寧に手当をしていく。特殊な赤沈薬の効果はすぐに発揮し、子供たちの泣き声が少しずつ止んでいった。

 人数があと少しとなった頃、宋長安の朝廷に支えているという、目鼻立ちの整った二人の男が寺院を訪ねてきた。

 住職と遠志は手を止め、その者たちの元へ向かう。

 「宋長安の永憐《ヨンリェン》と申します。こちらは、私の遣いである宇辰《ウーチェン》。お忙しい中恐れ入りますが、どのような状況かお聞かせ願いたい」

 二人は両手を前に出し、丁寧に拱手した。

 どうやら、宋長安の朝廷から赤潰疫の報告を受け、薬師の住職がいる寺院があると聞き、ここを訪ねたいう。

 目立たない衣といえども、庶民とは違う身分であることは明白だ。

 面長で、切れ長な目に、澄んだ瞳。

 低く、安心感のある声音。

 背丈も八尺(約184㎝)ぐらいあるだろうか。

 まさに、容貌矜厳《ようぼうきんげん》と言われる修仙者だ。

 住職と遠志が、その二人と赤潰疫の経緯などを話している奥で、蘭瑛はその間も塗擦を続けた。

 すると、隣にいた暁明がコソコソ話すように、小さく口を開く。

 「蘭瑛先生、あの方をご存知ですか?」

 蘭瑛は首を振り、赤沈薬を塗り続ける。

 「知らないんですか。めちゃくちゃ有名な、宋長安の国師、永豪君《よんごうくん》ですよ。とても偉い方なので、なかなかお目にかかれないんですけど、いやぁ〜、お噂通りの秀麗さですね。でも、冷酷無情でも知られていて、とても怖い方なんだとか。全く笑わないって噂ですよ」

 (さすが、流医一の情報屋だ)

 蘭瑛は適当に相槌をうち、永憐の姿をチラリと見た。

 確かに愛想は皆無に等しく、玉のような肌をしただけの人形のようだ。

 暁明はまだ続ける。

 「それでも、あの方の妻になりたいと願う女子《おなご》が後を絶たず、毎日縁談の木簡や書簡が届くんだとか」

 蘭瑛は思わず小さく鼻で笑ってしまう。

 (毎日って?そんな男のどこがいいんだか。いくら顔が良くても、笑わない男と結婚したってつまんないじゃん。まぁ、宋長安の男と結婚なんて、私は御免だけど…)

 蘭瑛はそんな事を思いながら、淡々と赤沈薬を塗り続けた。

 そうしていると、突然、床を蹴る音が聞こえてくる。

 音の鳴る方に目をやると、永憐たちの側にいた童子が、余りの痛さに暴れ回り、気を取り乱しながら永憐の足元に飛びかかったのだ!

 永憐は避けることができず、飛び出してきた童子を抑えるように、童子の手に触れてしまった。

 それを見ていた蘭瑛は、咄嗟に「離れて!」と叫ぶ。

 目の前いた遠志が、慌てて童子を引き寄せ、こちらに赤沈薬を持って来るよう、蘭瑛を呼び寄せた。

 蘭瑛は、鳥のような速さで永憐の元へ走っていき、永憐の手を瞬時に掴んで、自作の赤沈薬を塗る。

 「あなた様も赤潰疫になってしまいますから、念の為、塗っておきます」

 永憐はあまりの突然のことに動揺していたが、手を引っ込めようにも引っ込められず、蘭瑛にされるがまま手を預けるしかなかった。

 「しばらく濡らさず、そのままにしておいてください。もし、感染しても直ぐに治りますから」

 蘭瑛は素っ気なく伝え、永憐の硬った手を離す。

 永憐は腕を戻し、小さく「すまない」と伝えた。

 何事もなかったかのように、蘭瑛は最後の患者の元へ行き、また赤沈薬を塗り始める。永憐たちは、遠志と住職と二言三言話したあと、風が抜けるように去っていった。

 しばらくして、一通り手当を終えた蘭瑛たちも、寺院を後にする。暁明とも別れ、蘭瑛と遠志は六華鳳宗がある華山の方向に向かって歩き始めた。

 すると、遠志が突然立ち止まり、蘭瑛の名を呼んだ。

 「ん?叔父上、どうしました?」

 蘭瑛は顔を前に出し、尋ねるような眼差しを向ける。

 遠志は顔を穏やかにして蘭瑛に微笑みかけた。

 「今日は露店の串焼きでも食べようか?」

 「ふぇ?どうしたのですか?急に」

 蘭瑛は目を丸くして驚く。遠志は更に微笑む。

 「今日は疲れただろう。好きな物を食べたらいい」

 遠志は、今日の惨事を見て、心を痛めてしまった蘭瑛を、少しばかり気遣っているのだろう。

 しかし、目の前にいる蘭瑛はというと、そんな感情は1ミリも感じていないように、目を輝かせてはしゃいでいる。

 「え〜叔父上〜、何食べます?私は、串焼きに、抄手《チャオショウ》、餡入りの包子《パオズ》に、羊肉串《ヤンロウチュアン》。あ、餡餅《シャーピン》も食べないと!」

 「そ、そんなに食べるのかい?」

 遠志の顔が、段々と引き攣っていくが、蘭瑛はまだ食べ物の名前を続けようとする。

 遠志は「うんうん」と蘭瑛の話に耳を傾けながら、二人は実の親子のように仲睦まじく、賑わっている宿屋の方面へと向かっていった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 千巡六華   第二十四話 瓦解

    「大敵現るだな」 「何のことだ?」 棘なような目つきで言い返す永憐の額には青筋が帯びており、深豊はこれ以上何も言わない方がいいと口をつぐんだ。 普段から感情の起伏を表に出さない者の怒気は恐ろしい。 深豊は、竹馬の友ならぬ親友の目で永憐の気持ちを察し、話題を変えようとした。 するとそこに、入り口から河南に立ち寄ってから橙仙南へ向かうと言っていた宋武帝と宇辰が、護衛たちと一緒にやってきた。 「お〜!来たか宋栄辰!元気だったか?相変わらず、王国師と似ているなぁ〜」 橙武帝が宋武帝を見るや否や、永憐の顔と宋武帝の顔を交互に見る。 永憐は口元だけを緩ませ、返事は宋武帝に委ねた。 「はははっ。最近、よく言われます。それより、お元気そうで良かった。全く、気を揉むことばかりが続いて…」 「本当になぁ〜。栄辰も不幸が続いて大変だったな…」 年長者は互いに溜め息を吐き合う。 近頃の世勢に、各国の疲弊度は増すばかりだ。 増え続ける赤潰疫と屍の退治。そこに朱源国との戦が加わるとなると、どれだけ修仙者がいても足りない。命を狙われている橙武帝を護るだけでも精一杯だというのに。 そんな会話を日が暮れるまでした後、橙武帝は気を利かせ小さな宴に皆を招待し、この黄華殿を彩らせた。 秀沁はさも当然のように蘭瑛を隣に座らせ、昔話に花を添えている。そんな様子を見て見ぬふりをしていた永憐から、一切の笑みが消えていたのは言うまでもない。 賑やかな宴は終わり、月明かりが雲に隠れるように黄華殿にうら寂しさが漂う。永憐もまた焦燥感に駆られていた。 初めて抱くこの感覚をどうにか落ち着かせる為、一杯の強い酒を飲んで寝台の上でただ目を瞑り続ける…。 すると、コンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。 永憐はむくっと起き上がり、部屋の扉の前まで向かう。 「誰かそこにいるのか?」 「永憐様、蘭瑛です」 その声を聞いた永憐はそっと扉を開けた。 いつも見ている顔が目の前に現れた瞬間、漏れ出す安堵に思わず顔が緩みそうになった

  • 千巡六華   第二十三話 橙仙南

    翌朝。 馬に跨った永憐と蘭瑛は、梅林とパオに見送られながら宋長安を後にした。縮地印を結び、橙仙南の下町まで一気に進む。すると、活況に満ちた町並みが見え始め、永憐の背後に乗っていた蘭瑛は、目を泳がせるように景色を堪能した。 さすが、栄耀栄華と言われる橙仙南だ。 宋長安に初めて来た時に感じた感動が蘇る。 「永憐様、橙仙南ってこんなに素敵なんですね〜」 「そうだな。ここは、宋長安より富貴が多い。世に逢う生活を送ってる者ばかりだ」 二人はしばらく馬に揺れ、いつも馬を預かってくれるという預託舎へ向かう。到着すると、各国の上級来賓の御馬がずらりと並び、皆大人しく主人を待っているようだ。 永憐は蘭瑛を馬から降ろし、馬の紐を門番へ授ける。 そして、二人はしばらくこの煌びやかな橙仙南の町を歩き、風情を愉しんだ。 すると食べ物に目がない蘭瑛は、ある食事処に目が留まった。 汁物屋から漂う美味しそうな匂いが、蘭瑛の食欲を誘う。 「永憐様、一緒に食べませんか?あそこの汁物屋で」 「うん」 蘭瑛は永憐の袖を引っ張り、人集りの多い食事処へ向かう。蘭瑛が店の扉を開けると、気前のいい女将が出迎えてくれた。 「いらっしゃい!あら、素敵なお嬢さんに素敵な郎君ね。こちらにどうぞ」 穏やかな笑みを湛えた女将に席を案内され、二人は並んで窓際に座る。 蘭瑛は鶏肉と根菜の汁物を二つ頼み、店の中をきょろきょろと見渡した。 「そんなに楽しいか?」 永憐は、茶を啜りながら落ち着いた様子で蘭瑛に尋ねる。 蘭瑛は破顔した顔を見せながら答えた。 「はいっ!だって、久しぶりに外に出れたんですよ〜。たまには羽を伸ばしたっていいじゃないですか〜」 「まぁ、そうだな」 永憐は窓枠から見える景色を遠目に眺めながら続ける。 「お前はやっぱり、宋長安は嫌か?」 唐突な質問に答えが詰まった。 「嫌ではないですけど…」 蘭瑛はそれ以上言葉を繋ぐことが出来なかった。 決して嫌な訳ではない…。梅林の食事は美味しいし、藍殿にいるという安心感もある。ただ、何となく寂しさを埋められないだけで…。 蘭瑛がそんな事を思っていると、頼

  • 千巡六華   第三章 求是 第二十二話 閉山

     真夏の昼間だというのに、閉山の周辺は霊気と邪気が漂うせいか、ひんやりと肌寒い。 玄天遊鬼の動向を探る為、討伐を終えた永憐と深豊は枯れた木々たちが並ぶ蕪穢な閉山に、足を踏み入れていた。 「本当に噂通りの場所だな…」 「うん…」 深豊と永憐は地面に落ちているカラスの死体を避けながら、一歩ずつ茂みの奥へと進む。上へと登るにつれ邪気が濃くなるのだが、二人は鍛錬を極めた上級修仙者の為、露程も感じない。 「あれか…」 「うん…」 視線の先には、薄暗く不気味に佇む漆黒の蔵が見えた。 噂では聞いていたが、玄天遊鬼が実際に封印されていたといわれる蔵を見るのは、二人とも初めてだった。 「こんな所まであの妖魔を引きずってきたのか?冠月道長は?!一体どんな超人なんだよ?!」 「確かに。こんな所で激しい闘いができるとは思えない」 永憐はふと足元に目を遣る。 するとそこには、勢いよく剥がされた呪符が酷く汚れた状態で落ちていた。 永憐はそれを手に取り、深豊に渡す。 「恐らく、誰かがこれを剥がしたんだ」 「ん?何だ?って、おい!こ、これって…」 「そうだ。冠月道長の邪滅印符だ」 「こんな強力な呪符、誰が剥がせんだよ?!」 冠月がかつて使用していたというこの伝説の邪滅印符は、相当な力を持つものでなければ剥がすことはできない。例え、この青藍と呼ばれた最強の二人であっても、宋武帝たるや国の年長者であってもだ。 永憐が深豊に尋ねた。 「天京と名乗る者を知らないか?」 「天京?知らねぇな…。噂で名前は聞いたことあるが、実物は見たことねぇ」 永憐は、先日没した美朱妃と天京が、深く関わりを持っていたことを話した。 「ほ〜。朱色の狸ジジィは、何を考えてるか分からねぇな。ここ最近、橙仙南でも妙な話があってよ…」 深豊は話しながら永憐と一緒に蔵の中に入り、地面の石についたただならぬ血痕の跡を辿る。 「橙仙南の橙武帝と弟の橙剛俊が酷く揉めてて、この弟がよく狸ジジィの側近、端栄と会っているらしい」 「端栄と?」 「あぁ。何か裏でやってん

  • 千巡六華   第二十一話 雪上加霜

     朱源陽が離反してから、異常なほど妖魔や邪祟が出るようになった。それに加え、各国の町にも赤潰疫が蔓延し始めるという苦難が襲い、永憐たちは鎮圧を強いられていた。 幸いにも、橙仙南と青鸞州は継続して桃園の義を結んでおり、三国はそれぞれに情報を共有し、結束を高めていった。 普段から疲れを一切見せない永憐だが、この日の夜は藍殿で酷く疲れを見せていた。 蘭瑛はそんな永憐の隣に座り、消毒の準備をする。 「永憐様、大丈夫ですか?はい、手出してください」 「うん…」 討伐の過酷さを物語るように、負傷した永憐の手のひらは血豆だらけで、指の付け根部分が酷く爛れていた。蘭瑛はその手に、癒合の術と寛解の術を施し、包帯を巻き付ける。 「あんまり、無理しないでくださいよ…」 「平気だ。大したことない。お前こそ、新安で赤潰疫の治療に追われてるんだろ…。河南や函谷でも、やはり赤潰疫は酷いのか…?うっ…」 永憐は痛みに堪えながら尋ねる。 蘭瑛は雲散の術を施しながら続けた。 「はい…。なので、医家三宗が揃って各地に出向いているそうです。橙仙南の玉針経宗は針脈や漢方に強く、青鸞州の清命長宗は霊脈や予防医学に特化していますので、三家が揃えばそのうち終息するかと…。あ、そういえば、頼まれていた天京と名乗る流医のことなんですけど、情報屋に聞いても、天京と名乗る流医はいないとの事でした…」 「天京は流医ではないということか?ならば、そいつは一体、何者なんだ…」 永憐は片方の腕で目を覆い、溜め息を吐きながら、カウチにだらしなく凭れた。 そんな永憐を見るのに慣れてしまった蘭瑛は、何も触れずただ言葉を繋げる。 「私が思うにですけど、秀綾を殺したのは恐らくその天京という謎の人物かと。宋長安の人物はあのようなやり方はしないはず…。顔半分の陥没がかなり酷かったので、何か物凄い衝撃を受けたんだと思います。とても、人間の力とは思えない…」 「人間ではない可能性もあるということ

  • 千巡六華   第二十話 朱華離反

     蘭瑛は今日も雹華妃のいる清雲殿に足を運んでいた。 あれから永憐が宋武帝に事の経緯を話し、雹華妃と東宮の周りは厳重体制となった。蘭瑛も一人で歩く事を禁じられ、宇辰の後輩・風里が蘭瑛の護衛を務める事になった。 さすが、宇辰の後輩だけあって礼儀を重んじ、温厚な人物だ。風里は丁寧に、雹華妃の女官たち一人一人に挨拶をして回っている。 今日は一段と暑さが厳しく、清雲殿の中は沢山の氷で埋め尽くされていた。東宮の小李はというと、手足をバタバタと元気よく動かせるほど回復し、今は赤潰疫の痕の治療に励んでいる。 「蘭瑛先生、小小のこの傷は、成長と共に薄くなっていきますか?」 小李の小さな頭を撫でながら雹華妃が尋ねた。 蘭瑛は雲散の術を施しながら、優しく宥める。 「はい。恐らく、この雲散の術を続けていれば、次第に消えていくと思います。六華鳳宗の先人たちの記録にも、そう書いてありましたから。ゆっくり様子を見ていきましょう」  小李を心配していた雹華妃の目から安堵が漂う。 蘭瑛はその雹華妃の表情に思わず目が止まった…。 歳は自分と変わらないのに、未来の宋長安の統治を担う小さな命を産み育て、母として東宮を様々な目から守ろうとする雹華妃の強さは計り知れない。容姿は華奢に見えるが、さすが妃だけあって、自分にはない器があると蘭瑛は思った。 (自分もいつか、雹華妃のように温かくて優しい眼差しを向けられる家族を作れるだろうか…)  蘭瑛は、氷の表面に映る歪んだ自分を眺めた。 ・ ・ ・  一方、紫王殿では重苦しい空気が流れ、宋武帝は額に青筋を浮かべながら、眉間を揉んでいた。 どうやら連日の事件で、宋武帝の堪忍の尾が切れたようだ。 光華妃と美朱妃はそれぞれ侍女を従えて、カウチに腰を下ろしている。 もちろん、その横には永憐と宇辰の姿もあった。 宋武帝は怒りを含めた低い声で、話を切り出す。 「どうしてお前たちを呼んだか分かるか?いつまで、そうやって白を切るつもりだ?」 「だから何のこ

  • 千巡六華   第十九話 雹華妃

    初夏の陽気から汗ばむ陽気へと移り変わり、宋長安《そんちょうあん》にも本格的な夏が到来した。 青々とした大木から蝉時雨が降り注ぎ、先日の凍りついた華宴の話は瞬く間に掻き消されていった。 藍殿《らんでん》での生活は何の不自由もなく、永憐《ヨンリェン》の部屋の隣にある部屋を使うことになった蘭瑛《ランイン》は、毎朝うさぎに餌をやりながら、梅林《メイリン》の美味しいご飯を食べるのが日課になった。 今朝もまた、梅林特製の油茶《ヨウチャー》を食べながら梅林と談笑する。 「そういえば蘭瑛、この子の名前はあるのかしら?」 「いや、飼うと思ってなかったので、考えていなかったんですけど…何がいいですかね?白いので包子《パオズ》とか?」 「ふふふ、それ食べ物じゃない。でも、包《パオ》なら可愛くていいんじゃないかしら?沢山食べるようになって、ちょっとふっくらしてきたしね」 「あはははっ。確かに!じゃ、今日から君はパオにしよ〜う!パ〜オ〜」 のんびりと大人しく床に座っているうさぎを撫でながら、蘭瑛はこのうさぎをパオと命名した。新しく名を貰ったパオは、嬉しそうにまたプウプウと鳴き始める。  「では、梅林様。パオをお願いします」 蘭瑛はそう言って、パオを梅林に預け、普段通り医局へ向かった。 医局に到着すると、見知らぬ侍女が蘭瑛を待っていた。 名は雪美《シュエミン》と言い、雹華妃《ヒョウカヒ》の侍女頭だそうだ。 淑妃の侍女頭が直接ここに来るということは、何か内密にしておきたい事情でもあるのだろうか。 どこか挙動不審にも見える雪美だが、蘭瑛はどうしたのかと先ず要件を尋ねた。 「実は昨日から、雹華妃様の二歳になる東宮様が、酷い高熱で伏せておられます。至急、御医の蘭瑛先生に診ていただけないかと、雹華妃様から御言付けを預かりました…。ここだけの内密にお願いしたく…、一緒に来ていただけませんか?」 そう言って、雪美は自分の指を絡めながら俯いた。 蘭瑛はすぐに「そういうことなら、すぐに参りましょう」と言って、葯箱を持って雹華妃のいる青雲殿《せいうんでん》へ雪美と一緒に向かった。 蘭瑛は誰もいないことを確認しながら、どうしてこのように内密で動いているのか雪美に尋ねてみる。 「何か言えないご事情でもあるのですか?」 「は、はい…。他のお妃たちには内密にしていただきたいので

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status