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第298話

Author: 青山米子
でも、そんなことは許されない。

彼は命懸けで自分を救ってくれた。けれど、同じその彼が、自分を深く傷つけたこともまた、紛れもない事実なのだ。

過去のすべての裏切りを水に流し、以前のように彼を愛する?

もうあんな思いはしたくない。彼を信じるのが怖い。怖いのだ。

それなのに、この腕を振り払うことができない。

記憶を失くしていた頃の一葉には、到底理解できなかっただろう。どうしてあんなにも恋に溺れることができたのか、自分があれほど愚かなはずがないとさえ思っていた。

でも、今なら分かる。

深く愛したことのない人間には、決して分からないだろう。あれほど深く愛した人を、完全に断ち切ることがどれほど難しいことか。

とりわけ、その相手が、ただ自分を傷つけるだけの男ではなかったからこそ、余計に厄介なのだ。

彼もまた、かつては命を懸けるほど、ひたむきに、熱烈に、自分を愛してくれていた。

「なあ、待っててくれ。この足が治ったら……獅子堂家を片付けたら……そしたら、俺たちは堂々と一緒になれるんだ!」

言吾は、入ってきた時の冷酷さが嘘のように、少年のように瞳を輝かせながら一葉を見つめた。

彼を見つめ返す一葉は、何と答えるべきか分からなかった。

複雑な感情が渦巻く中、一葉は言吾を見送った。

彼が去った後、治療器具を片付けてホテルに戻ろうとした、その時だった。

カツ、カツ……

若い女が、目も眩むような高さのクリスタルのハイヒールで硬質な音を立てながら、部屋に入ってきた。

一葉の姿を認めると、女がちらりと視線を送る。

それだけで、背後に控えていた黒服の男二人が、瞬時に一葉の両腕を押さえつけた。

一葉は眉をひそめ、何かを言おうとする。

だがそれより早く、女は分厚い書類の束を一葉の眼前に投げつけた。

そして、心底見下しきった、女王様然とした態度で言い放った。

「この書類にサインなさい。そうすれば、生かしてあげるわ」

書類に目を落とした一葉は、それが株式譲渡契約書であることに気づいた。

しかも、彼女が持つ二つの会社の全株式を、「獅子堂凛(ししどう りん)」という名の人物へ譲渡させる、という内容だ。あまりの理不尽さに、一葉は呆れて顔を上げた。

「あなたが……獅子堂凛?」

名を呼ばれた若い女――凛は、汚らわしいものを見るかのような目で一葉を睨みつけた。「あんた
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