それまでどこか気の抜けた表情をしていた慎也の顔つきが、一瞬にして恐ろしいほど険しく、昏いものへと変わる。「何があった」何事にも動じない慎也が、唯一冷静でいられなくなるのが、この甥と姪に関わることだった。特に、彼らの身に何かあった時となれば、尚更だ。「先ほど、坊ちゃまが海外で尾白家の者共に待ち伏せされ……お車が制御不能となり、崖から転落された、と!」執事の言葉が終わるか終わらないかのうちに、慎也の手にあったグラスが、バキリと音を立てて砕け散った。ただでさえ昏く沈んでいた彼の表情は、もはや凄まじい殺気を帯びて見る者を震え上がらせるほどだった。全身から放たれるどす黒いオーラと殺意は、執事を立っているのもやっとという状態にまで追い詰めていた。だが、一葉には、その強烈な殺気は感じられなかった。旭の車が崖から落ちた、と聞いた瞬間、頭の中でキーンという音が鳴り響き、目の前が真っ白になった。何を考えればいいのか、何も考えたくはなかった。この数年で、旭はもう一葉にとってかけがえのない家族になっていた。こんなことが起きるなんて、到底受け入れられない。もう二度と、彼に会えなくなるかもしれない。その恐怖で、足から力が抜け、体はくずおれそうになった。それを、慎也が咄嗟に支えてくれた。「心配するな、俺がすぐに状況を確認しに行く。お前が考えているような、最悪の事態とは限らない。……今は何も考えるな。お前は妊婦なんだぞ。何よりも自分の体の安全を第一に考えろ」一葉は、思わず顔を上げて慎也を見つめた。どんな時も、何が起ころうとも、この人はいつもこうして落ち着き払っていて、人の心を安らかにしてくれる。まるで、何者にも打ち負かされることのない、鋼鉄の巨人のようだ。一葉の視線に気づくと、慎也の眼差しはさらに優しさを増した。「……怖がるな。旭くんは、絶対に死んだりしない」崖から落ちたのよ、崖よ!そんなことで、どうして無事でいられるというの。喉元まで出かかった言葉を、彼女は必死に飲み込んだ。でも、もしかしたら、崖の下は水かもしれない。もしかしたら、崖はそれほど高くないのかもしれない。今は、良い方に考えるべきだ。物事は、良い方に考えれば良い結果が訪れるし、悪い方に考えれば悪い結果が引き寄せられるというではないか。だから、一葉はその
紫苑とて、本心からこの場所に留まり、自分をここまで貶めたあの役立たずの男を見送りたいわけではなかった。ただ、義父の同情をさらに引き、自分の不憫さを印象付けておきたかっただけだ。だから、彼女はさらに別れの言葉を並べ立てた後、執事と共にその場を後にした。車に乗り込み、屋敷を離れるとき、彼女は思わず振り返って獅子堂の家を見た。初めてこの門をくぐった日、自分がどれほど大きな野心に満ちていたかを、今でもはっきりと覚えている。未来に抱いていた、あの途方もない希望。自分の一生を意のままに操るだけでなく、多くの人間を駒のように動かし、全てを思い通りに進められると、本気で信じていた。まさか、その何一つとして叶うことなく、こんなにも惨めに、全てを失って逃げ出すことになろうとは。人生とは……なんと、ままならないものなのだろう。視界からどんどん遠ざかっていく屋敷を見つめていると、堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちた。この瞬間、彼女は初めて理解した。時代劇で見る、罪を得て一族もろとも流罪となったお姫様が、振り返って我が家を見る、あの最後の眼差しに込められた尽きせぬ哀しみを。本港市──ここしばらく、一葉は人に獅子堂烈の動向をずっと見張らせていた。彼が脱獄したという知らせを聞いた時、言吾と慎也が万全の備えをしていると分かってはいても、胸のざわめきを抑えることはできなかった。万が一のことが起きたら、という恐怖。そのせいで、見張りをさらに厳しくさせていた。だからこそ、あの報せを一葉は誰よりも早く知ることになった。ここしばらく、一葉は人に烈の動向をずっと見張らせていた。彼が脱獄したという知らせを聞いた時、言吾と慎也が万全の備えをしていると分かってはいても、胸のざわめきを抑えることはできなかった。万が一のことが起きたら、という恐怖。そのせいで、見張りをさらに厳しくさせていた。だからこそ、あの報せを一葉は誰よりも早く知ることになった。──精神病院で、文江が烈を刺し殺し、その場で自害した、と。その衝撃は凄まじく、一葉はしばらく呆然として、我に返ることができなかった。文江という女性と直接言葉を交わした回数は決して多くはない。だが、その数少ないやり取りだけでも、彼女がどれほど烈という息子を偏愛しているかは、痛いほど伝わってきていた。烈がどのような死に方をしよう
彼女は、自らの人生のすべての望みを、烈という男に託していたのだ。ここ数日、力を蓄えた後の反撃の算段まで立てていたというのに……今、その烈が死んだ!死んでしまった。ほんの数日前まで、あれほど強気に自分に未来を約束してみせた、あの男が!今回の脱獄で、何かとてつもない大勝負に出るのだとばかり思っていた。それなのに、一体これはなんだ。とんでもない大失態を演じただけに終わるとは……!こ……こんな……宗厳よりも遥かに顔色が悪いのにもかかわらず、紫苑は一歩前に出て、ぐらつく彼の体を支えた。「お義父様、あまりお気を落とさずに。しっかりなさってください」「烈さんがああなって、お義父様まで倒れられたら、私は……私はどうすればいいのか分かりません」宗厳は我に返り、紫苑に視線を落とした。自分よりもなお血の気のない彼女の顔を見て、ふと何かを思い至ったのか、知らず知らずのうちにため息を一つ漏らす。そして、長い沈黙の後、彼は口を開いた。「すぐに人を用意して、お前をここから逃がす手はずを整えよう」「海外に荘園と、小さな会社が一つある。今後はそこで暮らすといい」そう告げながら、宗厳の脳裏には冷徹な現実が浮かんでいた。言吾が精神病院に実の母親を一度訪ねただけで、その母親と実の兄が二人とも死んだ。……奴はもはや、昔の言吾ではない。実の母と兄にさえ容赦しない男が、紫苑をこのまま放っておくはずがなかった。ましてや、紫苑は言吾と一葉の間にあの決定的な誤解を生じさせ、二人の仲を引き裂いた張本人なのだ。烈を始末した今、次なる標的は間違いなく紫苑だろう。紫苑の過ちは確かにある。だが、その責任の一端は我々にもあった。彼女がこれまでしてきたことのほとんどは、この獅子堂家のためだったのだ。良い嫁だった。このまま見捨てるわけにはいかない。私が与えるもので、彼女がこの先の人生を不自由なく生きていくには十分だろう。……これも、かつて家族であった者としての、せめてもの情けであった。宗厳が口にした財産のことを、紫苑は知っていた。以前の彼女であれば、義父のあまりの吝嗇さに呆れ、そんなはした金、と鼻で笑っていたに違いない。だが、今の彼女の胸を満たすのは、ただ感謝の念だけだった。人は絶望を味わって初めて、生きる希望がいかに尊いかを知る。以前の彼女は気位が高く、実家と獅子堂家の実権を
どれだけ考えても、考え尽くしても、あの文江が、何の前触れもなく烈に刃を突き立てることなど、到底あり得ないことだった。言吾が我に返るよりも早く。わなわなと震え続けていた文江は、突如、烈の腹から力任せに短刀を引き抜くと、その切っ先を翻し、自らの腹部へと深々と突き立てたのだった。彼女の心は、あまりにも、あまりにも痛すぎた。その痛みは、最愛の息子にこの命をもって償いたいと、彼女に思わせるほどに。文江には医学の心得があった。烈を刺した一突きも、自らを刺した一突きも、寸分違わず的確だった。二人の脾臓は一撃で破裂し、数分も経たずに失血死に至るであろう、致命的な一撃。その自害という行為は、驚愕からようやく我に返りかけていた烈と言吾を、再び信じられないという表情で凍り付かせた。崩れ落ちていく意識の中、文江は瓜二つの顔を並べる息子たちを見つめた。二人ともこれほど優秀で、家柄にも恵まれ、輝かしい人生を送るはずだった。それなのに、なぜ母子三人が、このような結末を……烈に何かを言おうと、唇を開く。だが、何を言えばいいのか、何を言うことができるのか、言葉が出てこない。烈への愛情は本物だった。しかし、その命を奪ったのもまた、紛れもない事実。母と子の間に、もはや交わす言葉など何もなかった。身体が床に崩れる、その最期の一瞬。彼女の視線は言吾に向けられ、震える唇が何かを伝えようと微かに動いた。しかし、必死に開いた口からは、やはり何の言葉も生まれなかった。謝罪?……自分のような母親に、許される資格もなければ、謝罪する資格もない。では他の言葉を?……憎しみ合う母と子の間に、語るべきことなど、もはや何一つ残されてはいなかった。だから彼女は、最期に、烈を見つめた時と同じように、ただ深々と言吾を一瞥し、そして、静かにその瞼を閉じた。烈の方が先に刺されてはいたが、若く頑健な肉体は、すぐには死を許さなかった。彼はまだ息があり、文江がゆっくりと目を閉じ、絶命するその瞬間を、しかと見届けていた。ふ、と烈の口から乾いた笑いが漏れた。どう足掻こうとも、己の死が目前に迫っている。もはや、どんな名医が来たところで助かりはしない。そう悟った瞬間、死への恐怖がすっと消え、不思議なほど心が軽くなるのを感じた。烈は、静かに佇む言吾に視線を向けた。「おめでとう、言吾
「むしろ、お前がこいつの命を奪ってくれるなら、俺にとっては好都合だ」その言葉に、烈は一片の疑いも差し挟まなかった。母が言吾にどのような仕打ちをしてきたか、彼はよく知っている。もし自分が同じ目に遭っていたら、とうの昔に殺していただろう。言吾にしてみれば、烈が母の命を奪うのは好都合だと感じているだけで、何度も自分の命を狙ってきた母親を自らの手で始末しなかった時点で、十分すぎるほど寛大だったのだ。烈は、ぐずぐずと時間を浪費するのを何よりも嫌う男だった。以前の彼であれば、到底通りそうもない条件で交渉を続けるなど、決してしなかっただろう。だが、今は状況が違う。彼は生きたいのだ。そして、これが生き残るための、最後の、唯一の機会なのだ。だから、言吾がこれほどまでに母を切り捨て、何を言っても無駄だと、どれほどはっきりと分かっていても、彼は言葉を続けた。「どうあろうと、お前に命を与えたのはこいつだ。その命で、こいつの命を購うべきだろう!」そんな道徳を振りかざすような言葉にも、言吾は一切動じなかった。それどころか、苛立ちを隠そうともせずに言い返す。「あの女は、何度も俺の命を狙った。俺は、あの女の命を奪わなかった。それであの女から与えられた命は、とうに返したことになる。もはや、何の借りもない。やりたいならさっさとやれ。お前がこいつを殺せば、殺人罪が加わって死刑は確実だ」「それから、これ以上無駄口を叩くな。もう分かっているんだろう。俺の部下が、とっくにここを厳重に包囲している。お前に、逃げる機会などない!」その言葉に、烈は思わず悪態をついた。別の手を考える暇も、何かを言い返す暇もなかった。ブスッ!鈍い音が響いた。先ほど、烈が母である文江に投げ渡し、言吾を殺せと命じた鋭い短刀が、今、彼の腹部に深々と突き刺さっていた。たちまち、真っ赤な、真っ赤な血が噴き出す。彼は、信じられない、という表情で、自らの腹に突き立つ刃を見た。そして、同じく信じられない、という表情で、柄を握り、わなわなと震えている文江を見た。烈ほど用心深く、猜疑心の強い男が、刃が肉に食い込んで、ようやくそれに気づいた。それは、彼がいかに母に対して無防備であったかを物語っている。彼女が、自分を傷つけることなど、あり得ないと。そうだ。たとえ天が落ちてこようとも、母が自分を傷
この事実は、どれほど認めたくなくとも、文江に認めざるを得ない現実を突きつけた。自分は、間違っていた。心の底から。選ぶ相手を、信じるものを、何もかも間違えていたのだ。これまで受け入れられず、認めることのできなかった事実を、なぜ今、こうもあっさりと受け入れられるのだろう。刃が自らの身に振り下ろされて、初めてその痛みを悟ったのかもしれない。あるいは、文江は元より愚かな女ではなかったということか。烈が死の淵から蘇り、「記憶を失った」「犯罪組織の一員だと思い込まされ、やむなくボスになった」などと語り始めた時から、彼女の心の奥底では、うっすらと感づいていたのだ。ただ、一人の息子を犠牲にしてまで、心血を注いで長年育ててきたのだ。選ぶ相手を間違えたなどという事実を、到底受け入れられるはずがなかった。だから、その微かな疑念が鎌首をもたげるより先に、力ずくで心の底へ押し殺してきた。そして、ますます狂的なまでに信じ込んだのだ。悪いのは言吾の方だと。彼がこれまで何一つ悪事を働いていなくとも、それはすべて偽りの姿なのだと。巧みに本性を隠しているだけなのだと。まるでドラマに出てくる完璧な善人が、最後に黒幕だとわかるように。だが、どれほどそう思い込もうとしても、その後の烈の数々の所業は、彼女の頭の中に響くもう一つの声を、次第に抑えがたいものにしていった。それでもなお、烈こそが悪だと認めることを頑なに拒み、彼への偏愛を貫き通した。その声が聞こえるのは、すべて言吾のせいだ、彼が自分をこの精神病院に送り込んだからだと!だから、彼女はここから逃げ出すことを切望した。ここから逃げさえすれば、もうあの声に苛まれることもなくなり、自分は元に戻れるはずだと信じて。だというのに……文江が感傷に浸る間もなく、烈は彼女の腕を荒々しく掴んで引き寄せると、そのこめかみに銃口を突きつけた。「言吾、そこをどいて俺をここから行かせろ。さもないと、こいつを殺す!」言吾は、その言葉を聞いて思わず笑みを漏らした。「……お前、そいつの命で俺を脅すのか?」それは、「お前は頭がおかしいのか」とでも言いたげな表情だった。その視線が、文江の心を針で刺すように抉った。まだ覚えている。言吾が目覚めたばかりの頃、自分が母親だと知った時の、あの敬意と親孝行の念に満ちた、そしてどこか母