***
……なんでいるんだよ。
結局、河原とはろくに話すこともないまま忙しい時間帯に入ってしまった。
別に隙を見て問い詰めようとかそんなつもりはなかったが、これでは彼の様子を窺うことすらろくにできず、気持ちの整理がまるでつかない。直前の客足の少ない時間帯は河原が休憩に入っていたし、繁忙時を過ぎれば今度は俺が休憩に入る番だ。
……まぁ、仮に話せるような機会があったとして、今の俺ではなにも聞けないだろうけれど。「ホットコーヒーお願いするよ」
「……今日は土曜じゃありませんけど」しかもそんな中、気がつけば喫煙席の一角に座っていたのはあの男で、当然のように呼び止められた俺は、不機嫌さを隠すこともなく平板に返した。
「今週から他にも来られそうな日ができてね。火曜日の夜とか……」
火曜日……。
火曜日は河原の出勤日だ。しかもはっきり夜だと言った。
俺と違って河原は定休だから、なにもなければその日は遅番で店に出ている。 ……見城はもうそこまで知っているのだろうか。河原と二人きりで会った時に、そう言った話も聞き出したのかもしれない。「……そうですか」
俺は目を合わせることもなくそれだけ言うと、オーダーを繰り返すこともなくその場をあとにした。
水面下で募っていた苛立ちが嵩んで、堪えきれず俺は厨房に戻るなりまっすぐ河原の元へと向かった。
河原は少々手の掛かるデザートプレートの盛り付け作業をしているところだった。手元から視線を一切上げることなく、しっかりと集中しているように見える。いつもなら終わるまでそっとしておくところだ。
けれども、その時の俺にはそれができなかった。
俺は構わず距離を詰め、その耳元に顔を寄せた。「お前、今日仕事終わったあと、なんか約束あんの?」
河原は驚いたように手を止め、ややして小さく答えた。幸い、盛り付けへの支障は出ていなかった。
「な、にもないけど……なんで?」
外に漏れてしまうのではないかというくらい、鼓動がうるさい。呼吸の仕方を忘れるくらい胸が締め付けられる。それでも平静を装って言葉を紡いだ。「それで、お前なんて答えた?」 問いを重ねると、ますます胸が痛くなった。 河原はストレートだし、普通に考えれば断っているはず。 だが、相手はあの見城だ。結果は分からない。「……分からない、って答えた」 返された答えに、ぴくりと目線が揺れた。「分からないから、待って欲しいって……」 「分からない?」 被せるように言う俺に、河原は再び口を噤んだ。 俺は別に河原を責めたいわけじゃない。追い詰めたいわけでもない。けれども、結果としてそうなっているのは明らかで、そんな自分の態度に自嘲めいた笑みが浮かぶ。それでも言わずにはいられなかった。「分からないってなんだよ……待って欲しいって、そんなの、……」 いつの間にか、身体ごと揺れそうなほどに鼓動がうるさくなっていた。全身から血の気が引く感覚がして、唇までもが震えそうになる。「そんなの、考えるまでもねぇだろ……? ――お前はこっち側の人間じゃねぇんだから……っ」 絞り出した声が、堪えきれない焦燥にわずかに揺れた。 口にしてしまった内容に、遅れて我に返るもあとも祭りだ。いや、そんなふうに思うのも今更のことかもしれない。現に窺うように顔を上げても、河原の様子に大きな変化は見られなかった。「……そう、なんだけど……」 怯むでもなく、気圧されたふうもなく、河原はただ淡々とした口調で言葉を継いだ。 俺はそんな河原の後ろ姿を見詰めながら、吐き捨てるように呼気だけで笑った。「やっぱ、あいつは特別なんだな」 改めて思い知らされる。全くその指向がなくても、やっぱりあいつには惹かれるのか。 元々そうなる可能性は考えていたくせに、認めたくないばかりにこんなにも無様な姿をさらす羽目になっている。 ……格好悪ぃな。 込み上げる自嘲に、口端が歪む。「うん……で
「なに考えてたんだよ」 「え……」 「一体なにを考えててこんなことになった?」 「なにって……」「こんなこと、もうずっとなかっただろうが」 いくら忙しい時間帯だったとは言え、新人時代を除けば本当に久々のことだった。 要はそれくらい余裕がなかったということだ。「あ……うん。ごめん、迷惑かけて」 「迷惑とかじゃねぇ」 努めて淡々と告げていたつもりの声が自然と険を帯びる。「……見城のことだろ」 「え……」 「お前の頭ん中、もうずっと見城のことばっかだもんな」 「……」 否定しない河原の顔を見ることができない。 目の前の河原の腕を無意味に見つめたまま、俺は責めるように続けた。「俺、関わるなって言ったよな。なのにお前、あのあとあいつと会ってたよな。……俺に……俺にあんなことされた直後だっていうのに」 そこまで言うと、自嘲気味に口端が歪んだ。 本当は圧迫止血だって、本人にさせればいいことだ。なのに俺は河原の手が離せない。ともすれば固定を兼ねて共に巻いた隣の指ごと、強く握り締めてしまいそうになっている。 俺の言葉に、河原の身体がわずかに強張る。 その反応で分かった。河原は覚えている。酒のせいで記憶にないというわけでもない。 だけどそれだけだ。それについて河原はなにも言わないし、たった一言すら俺を詰ることもせずただ黙り込むだけだった。 ……そんなに俺とのことはどうでもいいのか。 俺は衝動のままに言葉を継いだ。「見城になに言われたんだよ」 「え……」 「好きだとでも言われたか? それとも先に」 「え、ちょ、ちょっと待っ……。暮科、なにか誤解して――」 見城の名前が出るなり、河原はとたんに口を開いた。結局見城か。 そのことにますます冷静ではいられなくなる。「なにが誤解だよ」 「……ぃ、……!」 被せるように言うと、河原は小さく悲鳴のような声を上げた。
俺は急くように扉を開き、部屋へと踏み込んだ。 視線を巡らせると、河原はそこから数歩離れた近くのロッカーへと肩で縋るようにして立っていた。「……っ」 俺は思わず舌打ちした。 河原の顔は蒼白となっていて、胸の前でタオルごと片手を掴んだまま俺を見ようともしない。漏らした舌打ちは自分自身に向けたものだったが、そのかすかな音にぴくりと河原が肩を震わせたのが分かった。 怪我だけが原因と言うには、明らかに様子がおかしく見えた。 きっとずっと思い詰めていたのだ。 思いがけない見城との再会に、そしてその時告げられただろう言葉の意味に。これほどまでに河原を揺さぶる見城という存在に、今更ながら酷く苛立った。 憔悴しきったような河原との距離を詰め、俺は河原の上腕を掴んだ。「――来いよ。手当てしてやるから」 「っ……」 河原の漏らした声に多少力は緩めたものの、ろくに動けそうにないその身体を半ば引き摺るようにしてソファの前まで連れて行く。 よく見るとタオルは一部が赤く染まっており、思った以上の出血があったことを改めて知った。「手ェ、上げとけ」 有無を言わさずソファに座らせても、いまだに河原はまともに顔すら上げようとしない。 声をかけても反応は乏しく、仕方なく俺は手ずから彼の腕を肩より上へと掲げさせた。「……っ」 痛みが走ったのか、河原がかすかに堪えるような呼気を漏らす。 それでも優しい言葉なんてかけてやれない俺は、「下ろすなよ」 それどころか平板にそれだけ言うと、半ば逃げるように救急箱を取りにその場を離れる。 思えば昔から口が悪いとか、冷たいとか言われることも少なくなかった。 俺にそんなつもりが無くとも、とにかく愛想が足りないことで誤解されることもあるのだと、はっきり指摘してきたのは義弟だった。 それでも元々他人にさほどの執着を持たなかった俺は、それならそれで構わないとも思っていた。 けれども、こうして特別な存在を前にすると、やはりそのまま
*** 一時間ほどが過ぎた頃、タイミングを計っていたように見城に声をかけられた。会計係に呼ばれたのだ。ちょうど手が空いていたこともあり、断るに断れなかった俺は仕方なくレジカウンターを挟んで見城の前に立つ。「英理はホント厨房から出てこないんだね」 俺はろくに目も合わさなかったが、そう言った見城がいつも通りの微笑みを浮かべていることは分かっていた。それがよけいに俺の神経を逆撫でする。 なにも答えない俺に、見城は相変わらず万札を差し出し、小銭は出さない。それにまた苛立ちが募った。 嵩張る釣りをぞんざいに返すと、なに食わぬ顔してそれを受け取った見城がまた口を開く。独りごとのようでいて、それにしては大きい声で、「できれば顔が見たかったんだけどなぁ」「ありがとうございました」 俺はそれを遮るように言葉を被せ、足早にカウンターを抜け出すと出入り口へと足を向ける。取っ手に触れるとすぐさまドアベルの音を響かせ、平素ではあり得ないほど平板な声で「またのご来店をお待ちしております」と心にもない定型句を口にした。「……つれないなぁ」 見城は隠すこともなくおかしげに笑った。 なにがそんなに……と言いたくなるほど、妙に楽しそうに笑みを深めて俺の前を通り過ぎるその背を、俺は堪らずまっすぐに見た。「――あいつのこと……傷つけたらタダじゃおかねぇからな」 ……例えば見城と河原がどうにかなったとしても、河原が幸せであるならそれでいい。 それでいい。 それでいいと、思いたいけど――。 釘を刺すようなその言葉に、見城が振り返るような気配がしたが、俺はそれを確認することもなく踵を返していた。 その背後で見城は苦笑めいた吐息を落とし、そのまま店を出て行った。 *** 見城が帰ったことで気持ちが幾らか
*** ……なんでいるんだよ。 結局、河原とはろくに話すこともないまま忙しい時間帯に入ってしまった。 別に隙を見て問い詰めようとかそんなつもりはなかったが、これでは彼の様子を窺うことすらろくにできず、気持ちの整理がまるでつかない。 直前の客足の少ない時間帯は河原が休憩に入っていたし、繁忙時を過ぎれば今度は俺が休憩に入る番だ。 ……まぁ、仮に話せるような機会があったとして、今の俺ではなにも聞けないだろうけれど。「ホットコーヒーお願いするよ」 「……今日は土曜じゃありませんけど」 しかもそんな中、気がつけば喫煙席の一角に座っていたのはあの男で、当然のように呼び止められた俺は、不機嫌さを隠すこともなく平板に返した。「今週から他にも来られそうな日ができてね。火曜日の夜とか……」 火曜日……。 火曜日は河原の出勤日だ。しかもはっきり夜だと言った。 俺と違って河原は定休だから、なにもなければその日は遅番で店に出ている。 ……見城はもうそこまで知っているのだろうか。河原と二人きりで会った時に、そう言った話も聞き出したのかもしれない。「……そうですか」 俺は目を合わせることもなくそれだけ言うと、オーダーを繰り返すこともなくその場をあとにした。 水面下で募っていた苛立ちが嵩んで、堪えきれず俺は厨房に戻るなりまっすぐ河原の元へと向かった。 河原は少々手の掛かるデザートプレートの盛り付け作業をしているところだった。手元から視線を一切上げることなく、しっかりと集中しているように見える。いつもなら終わるまでそっとしておくところだ。 けれども、その時の俺にはそれができなかった。 俺は構わず距離を詰め、その耳元に顔を寄せた。「お前、今日仕事終わったあと、なんか約束あんの?」 河原は驚いたように手を止め、ややして小さく答えた。幸い、盛り付けへの支障は出ていなかった。「な、にもないけど……なんで?」
普段はどちらかと言うと俺の方が先に店に着いていることが多かった。 仕事に入る前に、できればゆっくり一服しておきたかったからだ。 なのにその日に限って、更衣室のドアを開けるとそこには既に河原の姿があり、「あ、おはよう」 そのくせ彼の態度には取り立てて変化は見られなかった。 俺が河原と飲んだのは一昨日のことだ。昨日は木崎と少し飲み、その間河原は見城と会っていた。 そして今日は俺も河原も遅番だ。 まさか、覚えてねぇとか……? いや、河原は酔って記憶をなくすようなことはなかったはずだ。 けれどもそう疑ってしまうほど、河原の様子はきわめて普段通りで、笑顔も穏やかに感じられた。 ……見城になにか言われたのか。 それで機嫌がいいのか? あからさまに避けられるようなことがなくほっとしたのも本音だが、かと言っていくら天然なところがある河原でも、あの夜のこと全てを冗談で片付けてしまえたとは思えない。 先に支度を済ませた河原は、窓際に立ってのんびり空を見上げていた。 もしかして、なかったことにするつもりか……。 俺は彼から視線を逸らし、手早く自分も着替えを済ませた。それから河原の死角となるソファに腰を下ろし、煙草に火を点ける。 他のスタッフはまだ来ていなかった。 今までなら嬉しいだけだった二人だけの空間が、今は酷く重苦しく感じられる。 俺はざわつくばかりの胸中を誤魔化すように、ソファの背凭れに頭を乗せ、細く紫煙を吐き出した。 視界の端で、河原はただぼんやりと窓外を眺めたままだ。その様子から、なにを考えているのかは全く読めない。 もう……あいつのことで頭がいっぱいなのか。 考えれば考えるほど胸が締め付けられる。 と同時に自嘲めいた笑みが滲んで、誤魔化すように煙草をくわえた。 ぼやけた視界に映る見慣れた天井へと、細く頼りない紫煙が立ち上っていく。 ……河原がなにを考えているのか分からない。 こんなにも河原を遠く感じたこ