Share

第5話

Author: 癒し猫
「本気か?」

征司は冷ややかに千尋を品定めするように見た。

千尋が口を開く前に、佳乃が彼女を追い越し、征司の車の前へ回り込む。

千尋の足元を一瞥し、低い声で囁いた。

「不満があるなら、後で個人的に言えばいいでしょう。こんな人前で、社長を窮地に追い込むつもり?」

「そんなつもりは……」

千尋の声は次第に小さくなり、言葉を続けるのがためらわれた。

「ただ、お相手するのは……」

千尋は下唇を噛んだ。

征司にとって、自分の新鮮味はもうこんなにも早く失せてしまったのだろうか?

男とは実に薄情なものだ。

佳乃は好機とばかりに、千尋を追い詰めるのをやめない。

一言一言に、千尋と征司の間を裂こうとする意図が込められていた。

「そんなつもりはない、ですって?

でも、橘さんは今まさにそうしているじゃない。我儘を言って社長を困らせるのはおやめなさい」

「私は……」

千尋は取引の駒として扱われているだけなのに、佳乃の言い方では、まるで千尋が理不尽で、大局をわきまえない人間であるかのようだ。

千尋がどうしていいか分からずにいると、佳乃の口元に浮かんだ軽蔑的で得意げな笑みが見えた。

佳乃が以前から千尋を快く思っておらず、征司のそばから追い出したがっていることは分かっていた。

今や、目的を達成できると確信しているような態度だ。

同じ女性なのに、なぜ千尋をこんなに苦しめるのだろう。

今、ようやく目が覚めた。

自分が愚かだったのだ。佳乃に対して、自分は違うのだと証明しようとし続けていた。

佳乃は自ら進んで征司に身を捧げているが、自分は征司の『好み』であり、無理やりそばに置かれている存在なのだと。

自分たちは違うのだと。

今はただ、目の前のすべてから逃げ出したかった。

千尋は淡々と言った。

「ええ、本気です!」

千尋が背を向けた瞬間、征司の一言が、彼女の独り善がりな仮面を引き剥がした。

「家の事はもうどうでもいいのか?」

「……」

千尋は一瞬動きを止め、足元に鉛でも付けられたかのように重くなった。

そうだ、健太の昇進は?実家の借金は?

その時、佳乃さえも千尋の躊躇に気づき、軽蔑するように笑うと、そっと彼女の背中を押し、契約書を彼女に押し付けた。

「さあ、早く行きなさい。葉山社長がお待ちかねよ」

千尋はわずかに首を傾けた。

ガラス窓には、華やかな服を着た自分の姿が映っている。

今、身につけているものは下着に至るまで、すべて征司が用意したものだ。

ふと、健太が自分を征司に差し出した時の気持ちが理解できたような気がした。

自分はまな板の上の鯉なのだ。なされるがままになるしかない。

今、もし健太のことだけなら、ためらわずに立ち去ることができる。

しかし、実家という大きな重荷がある。

自分の意地だけでは、この厳しい現実を支えきれないようだ。

ベントレーへと足を踏み出した時から、千尋のプライドは消え失せた。

錦生の運転手が駆け寄ってきて、彼女のために車のドアを開けた。

車に乗り込む前に、千尋は振り返って再び征司の方を見たが、彼から憐憫のかけらも見出せず、ただゆっくりと閉まっていく車の窓が見えただけだった。

一方、佳乃は征司の車の中から千尋に微笑みかけ、得意げに座席に収まった。

確かに自分に拒否する資格はない。

無理にでも耐え、征司の冷淡さと佳乃の侮蔑を意に介さないふりをするしかなかった。

錦生は千尋が乗り込んでくるのを見ると、その分厚い大きな手を彼女の太ももの上に滑らせた。

千尋は嫌悪感に身をずらし、車の窓の方を向いた。

錦生が寄りかかってきて、彼女の華奢な肩を両手で掴み、ねっとりとした声で言った。

「橘さん、南央市には来たことがあるかい?」

千尋は首を振った。

「いいえ」

「ちょうどいい。ここ数日、私に時間があるから、南央市を案内してあげよう」

錦生は彼女の髪に顔を近づけて匂いを嗅ぎ、掠れた声で言った。

「いい香りだ」

「……」

気持ち悪い。

抑えきれない吐き気がこみ上げ、千尋は慌てて口を押さえ、こみ上げてくるものを飲み込んだ。

錦生は彼女がまだ緊張しているのを見て、さらに得意げに笑うと、耳元で卑猥な言葉を囁いた。

聞いているだけで耳が熱くなり、今すぐにでも彼を平手打ちしてやりたい衝動に駆られた。

しかし、そんなことはできないと千尋は分かっていた。

だが、これから起こることを考えると、千尋は全身が不快に強張り、指先で膝の上を強く握りしめた。

鼻の奥がツンとし、目から何かが溢れ出しそうになった。

千尋は鼻をすすり、こみ上げる涙をぐっとこらえた。

車はすぐにホテルの前に停まった。千尋は重い足取りで錦生の後をついていった。

ホテルのロビーに入る一歩一歩は、千尋自身が歩んだものだが、そのどれもが彼女の望んだものではなかった。

ただ、千尋が気づかないところで、一台の黒いセダンが彼らの車を追って、同じようにホテルの前に停車していた。

エレベーターに乗り込もうとしたその時、背後から優しく穏やかな呼び声が聞こえた。

「あなた?」

錦生は瞬時に足を止め、凍りついた。

千尋も彼に合わせて立ち止まった。

姿は見えずとも、その声だけで相手が物腰の柔らかな淑女であることが感じられた。

千尋が顔を向けると、錦生の顔色が不自然になっているのが見えた。

彼は声を潜めて千尋に言った。

「鷹宮社長の代理で契約書を取りに来た、と言ってくれ」

千尋はすぐに理解した。

この女性は、本妻だ。

「わかりました」

錦生は千尋の腰に回していた手を離し、振り返る頃には別人のような顔つきになり、優しさ溢れる笑顔で妻の方へ歩み寄った。

彼は妻に呼びかけた。

「偶然だな?」

千尋が予想した通り、錦生の妻、葉山瑞穂(はやま みずほ)は、気品があり、立ち居振る舞いも上品だった。

年齢を重ねてはいるものの、魅力は衰えていなかった。

瑞穂は穏やかに微笑み、自然な仕草で錦生のスーツの襟元に手を伸ばし、整えながら言った。

「佐伯(さえき)さんたちと近くで買い物をしていて。まさかあなたたちに会うなんて」

その「あなたたち」という一言で、千尋もいとも簡単にこの状況に巻き込まれた。

錦生は慌てて事務的な態度で千尋を紹介した。

「瑞穂、こちらは大鷹航空技術の鷹宮社長のアシスタント、橘千尋さんだ」

千尋は自ら手を差し出した。

「初めまして、奥様。社長が急用で来られなくなりまして、私が代わりに契約書を葉山社長にお届けに参りました。こちらです」

千尋は自然な流れでバッグから契約書を取り出した。

錦生は一瞬呆気に取られた。

明らかに、彼女がこんな型破りな手に出るとは予想していなかったようだ。

彼は不本意ながらも、ペンを受け取り、素早く契約書にサインして千尋に返さざるを得なかった。

「橘さん」

錦生は意味ありげに言った。

「鷹宮社長は実にお目が高い。君のような有能なアシスタントを雇えるとは」

千尋は契約書をしまいながら言った。

「葉山社長こそ、ご冗談を。これほど優雅で上品な奥様がそばにいらっしゃるからこそ、ご商売も順風満帆なのでしょうね」

瑞穂は最初、千尋のことなど気にも留めていなかった。

それは彼女の視線から感じ取れた。

しかし、その言葉は彼女の注意を引き、千尋を注視するその眼差しも変わった。

まるで千尋を認めるかのように、瑞穂は頷いて言った。

「お嬢さんは綺麗だけじゃなく、お口も上手なのね。これから真面目に仕事に取り組めば、きっと良い将来が待っているわ」

千尋は瑞穂に頷いてみせた。

「奥様のお言葉、ありがたく頂戴いたします。お言葉、励みになります」

今退かずして、いつ退くというのか。

千尋は二人に言った。

「葉山社長、奥様、契約書へのサインもいただきましたので、これ以上お邪魔はいたしません。失礼いたします」

錦生の瞳が一瞬見開かれた。

千尋が契約書を受け取ったらすぐに立ち去るとは思わなかったようだ。

しかし、瑞穂がいる手前、千尋を引き止めることはできなかった。

彼は含みのある言い方で言った。

「橘さん、鷹宮社長によろしくお伝えください」

「はい、葉山社長。必ず申し伝えます。失礼いたします、奥様」

瑞穂はにっこりと微笑んだ。

「ごきげんよう」

千尋は振り返らずに歩き出した。

飛ぶように走り去りたいと思った。

ロビーを出て、急いで階段を駆け下り、タクシーを捕まえてその場を去った。

車に乗ってようやく、張り詰めていた心が落ち着いた。

バッグの中の契約書を取り出し、錦生のサインが確かにあることを何度も確認すると、突然、フッと笑い出した。

「ふふ……」

錦生が妻に不倫の現場を押さえられたであろう状況を想像すると、可笑しかった。

しかし、錦生の妻が現れなければ、自分が無事に逃れるのは難しかっただろうことも否定できなかった。

ホテルに戻り、部屋のドアを開けると、驚いたことに征司がソファに座っていた。

手には煙草を挟み、千尋を見るその目には心配の色は一切なかった。

彼は尋ねた。

「もう終わったのか?」

千尋はドアを閉め、心の怒りが頂点に達した。

「社長のお言葉ですと、ずいぶん残念そうですわね」

契約書をテーブルに置き、千尋はわざと言った。

「ご要求通り、やり遂げました。 どうぞお部屋にお戻りください。シャワーを浴びたいので」

征司はゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と彼女に近づくと、その顎を掴んで上を向かせ、面白がるように尋ねた。

「なかなかやるじゃないか。見くびっていたな」

千尋は顔を背けて彼の手を振り払い、バスルームへ向かった。

ドアを閉めようとした瞬間、征司が入ってきた。

次の瞬間、彼女の足が床から離れ、洗面台の上に抱き上げられた。

千尋は怒りに燃え、目を赤くしながら言った。

「たった今、他の男と一緒にいたのよ!気持ち悪くないの?」

しかし征司は、シャツのボタンを一つずつ外し、有無を言わさず彼女の顔を両手で包み込み、キスをした。

「お前たちが部屋に上がらなかったのは知っている」

彼は掠れた声で言った。

「俺の車が外にいたからな」

それを聞いて、千尋はさらに怒りと悔しさで、拳で征司の胸を叩いた。

そのキスは、さらに激しさを増した。

バスルームには湯気が立ち込め、シャワースクリーンのガラスには、征司と千尋の乱れた手形が印された。

征司に強く抱きしめられ、鼻を赤くして泣きじゃくる千尋を、征司はさらに激しく求めた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 囚われの蜜夜   第40話

    千尋が彼の深いキスに溺れかけていた、まさにその時、オフィスのドアがノックされた。ドア越しに亮介の声がした。「社長、重要なお客様がお見えになりました」「っ!」千尋ははっと目を開け、我に返った。征司が千尋を抱き起こし、千尋は慌てて服の乱れを直した。征司はネクタイを直し、千尋の身なりが整ったのを確認してから応えた。「入って」オフィスのドアが開けられ、千尋は先ほどの書類を手に外へ出ようとした。振り向いた瞬間、千尋と入ってきた相手は視線が合い、互いに息を飲んだ。「……」「……」征司の初恋の人に会ったことはなくても、今この瞬間に、目の前の女性がその人だと千尋には分かった。二人はすれ違った。美咲は優雅に微笑んで征司の方へ歩み寄り、千尋は無表情のままドアへ向かった。亮介がドアを閉める前、美咲が優しく征司を呼ぶ声が聞こえた。「征司、お久しぶり」亮介が千尋に視線を向けた。彼が何を言いたいのか千尋には分かっていた。「何を見ていますか?」「……」亮介は一瞬言葉に詰まった。千尋は笑った。「私が落ち込むのを期待してたわけ?」亮介は無表情で言った。「社長の初恋です」千尋はおかしくなった。「だから、私に何の関係があるっていうんですか」そう言うと、千尋は立ち去った。亮介は今頃、千尋の態度に苛立っているだろう。午後の間ずっと、征司と美咲はオフィスにこもりきりだった。やがて定時になり、千尋は車の鍵を手に取ると、振り返りもせずに会社を出た。今夜、征司はきっと蘭泉邸には夕食に戻らないだろう。自分も戻るつもりはなかった。千尋はそう思い、そして、静江に電話して、夜は友人と食事の約束があると伝え、自分の分の夕食は不要だと告げた。結果、征司も予想通り、家には戻らなかった。電話を切ると、千尋はすぐに冴子の携帯番号にかけた。呼び出し音が四、五回鳴ってから、ようやく出た。「冴子、もう仕事終わった?食事でもどう?」冴子の声が受話器の向こうから聞こえてきた。「ちょっと、千尋。もしかして私を監視してる?どうして私が残業してるって分かったのよ」千尋は尋ねた。「残業?何時ごろ終わりそう?」向こうが数秒静かになり、それから冴子が言った。「かなり遅くなりそう。も

  • 囚われの蜜夜   第39話

    寝る前、蓉子が二人分のスープを運んできた。一杯は征司に渡すと、彼はそれをサイドテーブルに置き、「冷ましてから飲む」と言った。もう一杯は千尋に手渡されると、蓉子は優しい眼差しで千尋を見つめて言った。「これは滋養スープよ。千尋ちゃんの顔色が悪いみたいだから、特別に田中さんに作ってもらったの」子供の頃から、家で誰かにこれほど優しくしてもらった記憶はない。千尋は受け取ってお礼を言うと、スープを一滴残らず飲み干した。蓉子が去ると、征司は腕を枕にしてベッドのヘッドボードにもたれかかり、意味深な口調で千尋に尋ねた。「スープはおいしかったか?」千尋は彼の言葉に裏があると感じた。「少し苦味というか、独特の後味がありましたでも、せっかくのおば様のお気持ちですから、無下にはできません」「ふふ……」征司は笑った。「あれはお母さんが、俺たち二人に早く子供ができるようにと用意したものだ」それを聞いて、千尋は一瞬、頭が真っ白になった。子供なんて、絶対にあり得ない!だって彼との関係は偽りなのだから。それなのに、どうして子供の話なんか出てくるの?しかし、あのスープの効果は、千尋が抗えるものではなかった。その夜、千尋はいつも以上に情熱的で、彼にしがみつくようにまとわりついた。そのため、征司も何度か理性を失いかけた。翌朝早く、二人は朝食を済ませるとすぐに鷹宮家を後にした。去り際、蓉子は千尋の顔が赤らんでいるのを見て、ちらりと征司に目をやり、意味ありげな笑みを浮かべた。征司は蓉子に近づき、声を潜めて言った。「お母さん、これからは寝る前にそういうのは用意しないでほしい。たくさん食べるとよく眠れないんだ」蓉子は千尋に視線を移し、唇を結んで微笑み、「分かった」と言った。千尋は恥ずかしそうに頷いて別れの挨拶をしたが、ドアが閉まった途端、征司の表情から優しさが一瞬で消え、千尋を見る眼差しも冷たく無関心なものに変わった。会社に着くと、征司は千尋をオフィスへ呼んできた。ドアをノックして入ると、彼は亮介に仕事の指示を与えているところだった。千尋が入ってきたのを見て、亮介にまず席を外すよう合図した。「昨夜は危なかった。時間を見つけて、必ず薬を飲んでおけ」千尋は彼の意図を汲み取った。妊娠を恐れる気持ちは

  • 囚われの蜜夜   第38話

    結衣は尋ねた。「じゃあ、彼女と社長は……?」「言うまでもないでしょ」玲奈は呆れたように言った。「あなたね、これから彼女と話す時は気をつけたほうがいいよ。何でもかんでも話して、うっかり墓穴を掘ることのないようにねね。はぁ……そんなこと蒸し返さないでくれる?前のあのアシスタントたちのことを思い出すと、本当にゾッとするわ。どんなに離れていても、あのあざとい色気が漂ってくる感じがするのよ」結衣は言った。「注意してくれてよかったわ。とにかく、これから彼女と接する時は、気をつけないと。私みたいに思ったことがすぐ口に出るタイプは、本当に彼女を怒らせやすいものね」玲奈は鼻で笑った。「そんなに緊張する必要もないわよ。どうせ彼女もすぐいなくなるだろうから」結衣は好奇心から尋ねた。「橘さんは、どのくらい社長に気に入られてると思う?」玲奈は軽蔑するように笑った。「三ヶ月、ってとこかしらね」結衣の口ぶりは同意していないようだった。彼女は言った。「半年だと思うわ」玲奈は笑った。「じゃあ、賭けてみる?負けた方が、一週間分のミルクティーをおごるってのはどう?」千尋は化粧室の個室の中に立ち、彼女たちが自分のことをあれこれ品定めし、最後には賭けまで始めるのを黙って聞いていた。もし以前の自分だったら、きっと情けなく個室に隠れて、悔しさを我慢して出て行けなかっただろう。でも今は、自分には一年間の契約がある。何も気にする必要はない。彼女たちの驚愕の視線の中、千尋はドアを押し開けて外へ出ると、何食わぬ顔で洗面台の前に立ち、蛇口をひねった。「その賭け、私も乗りましたわ。私は一年、に賭けます」千尋はペーパータオルを引き抜き、ゆっくりと落ち着いた様子で指先一つ一つを拭いた。「約束ですよ。後でごまかさないでね。私はミルクティーを楽しみに待ってるんですから」言い終えると、千尋は化粧室を出た。彼女たちの視界から離れた後、千尋は気づいた。面と向かってやり返すのは、こんなにも気持ちのいいことだったなんて。過去の、我慢ばかりしていた時を思い返すと、本当に多くの楽しみを経験し損ねていたのだ。会議は午後いっぱい続いた。千尋は定時で退社し、車で鷹宮家の邸宅へ向かった。病気のお祖父様を

  • 囚われの蜜夜   第37話

    こんな不平等な契約にサインしたら、正気とは思えない。千尋は契約書をテーブルの上に戻した。征司の顔色が目に見えて暗く、険しくなった。「この契約はあまりにも不公平です。罠だと分かっていて、なぜ飛び込む必要があるんですか?」どうせここまで話したのだから、いっそ腹を割って話そう。「これまでの会社への貢献度からしても、自分の努力であなたからお借りしたお金を返済できる自信があります。あなたが仰った恩義についても、当然お返しするべきです。困っている時に助けてくださった恩は忘れません。私は約束を守る人間です。一年間あなたのお相手をすると約束した以上、絶対に約束を破ったり、裏切ったりはしません。ですが、違約金の条項は受け入れられません」千尋ははっきり告げた。征司はソファにだるそうにもたれかかり、あくまで軽い口調で言った。「本当に君が言うように約束を守るなら、違約金が一円だろうと一億円だろうと、気にする必要はないだろう?どうせ君は契約違反などしないのだから、恐れることはないだろう。そんなに心配するということは、何か後ろめたいことでもあるのか?」征司が譲のことをほのめかしているのだ。千尋は分かったが、譲とは本当に何もなく、会ったことさえないのだ。「はっきり申し上げます。今の私には、あなた以外の男性とはいかなる関係もありません」それを聞いて、征司は姿勢を正し、指で契約書を軽く叩きながら言った。「俺に君を信じさせたいなら、サインしろ。これ以上分かりやすい話はないだろう?」「……」どうであれ、彼女が進退窮まった時、征司は助けてくれた。彼には恩がある。この恩は、この一件できっちり清算しよう。千尋は決めた。ペンを取り、署名欄にサインし、印鑑で捺印した。「これでよろしいでしょうか?」征司は契約書を手に取ってざっと目を通し、千尋の目の前でそれを金庫にしまった。契約上、二人の関係は征司の家で恋人役を演じることに限定された。しかし、家の外では、千尋は依然として征司の日陰の愛人のままなのだ。契約書にサインした後も、実際のところ千尋の生活に大きな変化はなく、仕事も生活もすべて普段通りだった。しかし、千尋の心には、未来に対するわずかな期待が芽生え始めていた。毎日、征司の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼い

  • 囚われの蜜夜   第36話

    「はぁ、もう、それがね……お祖父様が雪を見たいって言うものだから、お父さんと私で庭に連れ出して少し座らせてあげたのよ。そしたら、風邪をひいてしまって」征司は言った。「何でも言うことを聞くべきじゃない。年を取ると、判断力も鈍るんだから」「お父さんにも言ったのよ。これからは何でも言うことを聞いて、好きにさせてはだめだって。お祖父様をもう長年世話してきたんだから。万が一、うちで何かあったりしたら、私が責められでもしたら嫌だわ」征司は「お母さん」と制するように言い、ちらりと千尋を見た。征司の視線を受け、千尋は部外者の自分が聞くべき話ではないと即座に察した。その時、看護師が祖父の点滴を交換していた。蓉子は言った。「お祖父様の様子を見てきてちょうだい。あなたが呼びかけて、目を覚ませるかどうか見てきて」千尋と征司はベッドのそばへ行った。征司は腰を下ろし、布団の中に手を入れて祖父の手を取り、優しく呼びかけた。「爺さん、しっかりして。帰ってきたぞ」征司が数回呼びかけると、康夫のまつ毛が動いた。征司は続けて呼びかけた。「爺さん、起きてくれ。帰ってきたぞ」康夫は目を開け、濁った瞳が征司を見るとぱっと輝きを増し、か細い声で言った。「おお、わしの可愛い孫が帰ってきたか」征司は千尋の手を引いた。「爺さん、俺だけじゃないぞ。彼女も連れてきたんだ」千尋は緊張した面持ちで呼びかけた。「あ……お祖父様、初めまして。あの、千尋とお呼びください」康夫の視線がゆっくりと千尋の顔に移り、頷いた。「ああ……ああ……征司の、恋人かね?」「あ、はい。お祖父様、どうぞお大事になさってください。早く良くなってくださいね」康夫はかすかに笑った。「良い子、良い子」気の持ちようなのかどうかは分からないが、康夫は千尋に会った後、容態が上向き、体を起こして少し食べられるようになった。征司は父親の正輝と一緒に部屋で康夫に食事を手伝い、千尋は蓉子にリビングへ連れて行かれて話をすることになった。蓉子は微笑んで千尋に尋ねた。「あなたと征司は、付き合ってどのくらいになるの?」千尋は征司に教えられた通りに答えた。「半年です、おば様」その後の質問も、すべて征司が予想していた範囲内のもので、千尋はすらすらと答え

  • 囚われの蜜夜   第35話

    千尋は征司について階段を上ったが、心は不安でいっぱいだった。彼女の足取りがためらっているのに気づき、征司は振り返って小声で言った。「緊張しなくていいよ」千尋は頷き、心を落ち着かせた。二階に着くと、千尋ははっと目を奪われた。内装は洗練された和の様式だった。このような静謐な趣のある内装スタイルを知っていたのは、かつて健太との新居を準備した時のデザイナーのおかげだ。デザイナーは多くのスタイルを紹介してくれたが、千尋が最も惹かれたのが、この凛とした和の美しさを持つ様式だった。しかし、あの新居は狭く、たとえこの様式で内装したとしても、このような静かで風格のある雰囲気は出せなかっただろう。遠くの壁にある違い棚には、年代物の花瓶やその他の置物が飾られており、控えめながらも上質な贅沢さが漂っていた。そのとき、中年の男性が部屋から出てきた。征司は自分から呼びかけた。「お父さん」鷹宮正輝(たかみや まさき)は振り返り、千尋と征司を見ると、まず静かにドアを閉めてから応えた。「帰ったか」征司は歩み寄った。「ああ、着いたばかりだ。爺さんの容態はどうだ?」正輝は首を振った。「あまり良くない。一昨日、医者が診に来て、熱が続いていて感染の疑いがあるということで、点滴をしたんだ。今は意識がはっきりせず、目を覚ましてもあまり話したがらない。さっき、お母さんが薬を飲ませたら、また眠ってしまった」正輝の視線が千尋の顔に移った。征司が紹介した。「お父さん、こちらは橘千尋、俺の恋人だ」千尋は恭しく挨拶した。「おじ様、初めまして」正輝は千尋を値踏みするようにじろじろと見た。千尋の服装から人となりを見定めようとしているかのようだ。だが、おそらく満足したのだろう、その目には優しい笑みが浮かんでいた。「橘さん、ようこそ。ゆっくりしていってくれ」「ありがとうございます、おじ様」正輝は言った。「お母さんと看護師さんは中にいる。私は下へ行って、田中さんに爺さんのために何か食べるものを作ってもらうように頼んでこよう。さっき魚が食べたいと言っていたからな。橘さん、楽にしていてくれ」「はい、おじ様。どうぞおかまいなく」正輝が階下へ降りると、征司は上着を脱ぎ、千尋のものも受け取ってソファの上に置いた。

  • 囚われの蜜夜   第34話

    千尋は硬い笑顔を浮かべた。「静江姉さん、実は征司さんは私のことなど好きではないんです。今日はただ、彼の恋人役を演じるために来ただけなんです」静江は目を細め、優しく微笑んだ。「まあ、そうなの?そう思っているのね?」静江は征司のことをあまり理解していない。親戚だから、征司の善良で謙虚な一面しか見ていないのだ。しかし、自分と征司は割り切った関係なのだ。だからこそ、彼の冷酷さや非情さも目の当たりにしてきた。千尋はそう思い、そして言った。 「静江姉さんが今でも私とこうして会えるのは、私が自分の立場をちゃんと弁えているからです」千尋のその言葉を聞いて、静江の目には残念そうな色がよぎったが、それ以上は何も言わず、また仕事に戻った。千尋は時間が近づいたのを見て、五分前に住宅地の入口へ出て待った。一月の臨海市は、身を切るように寒かった。家を出る前に念のため気温を確認したが、現在の屋外気温は氷点下十八度ほどだ。千尋はロングのダウンコートを着てカシミヤのマフラーを巻いていた。しかし、それでも足元から這い上がってくる冷気がふくらはぎまで染み通ってくる。あまりの寒さに耐えかね、その場で足踏みせずにはいられなかった。さらに十分以上待って、ようやく征司の車が車が混み合う中についに見えた。車が完全に停まると、千尋は助手席のドアを開けて乗り込んだ。征司は車を発進させ、無表情で言った。「待たせて悪かったな。さっき渋滞に巻き込まれたんだ。二台の車が事故を起こして、道が完全に詰まってた」「ああ、今来たところです」征司がバックミラーで千尋を見た。千尋は自分のまつ毛に霜がついているのに気づき、慌てて手で拭った。これは「今来たところ」でできるはずがない。千尋の下手な嘘は、いつも一瞬で見抜かれてしまう。征司はエアコンの設定温度をさらに上げた。暖かい風が体に当たるとずいぶん心地よく、こわばっていたふくらはぎにも徐々に感覚が戻ってきた。「今から俺が言うことを、よく覚えておけ。家に着いたら、俺が言った通りに答えろ。答えに窮するような質問は俺がフォローする」「はい」征司は言った。「俺の両親が祖父の世話をしていて、一緒に住んでいる。祖母は一昨年亡くなった。俺たちは付き合って半年だ。プロジェ

  • 囚われの蜜夜   第33話

    部屋は静まり返り、一瞬、千尋は彼に向かって怒りをぶつけたい衝動に駆られた。しかし、理性が勝った。彼に逆らうことはできないのだ。征司は千尋にとって強力な後ろ盾であり、今の千尋は彼の庇護なしにはやっていけない。しかし同時に、彼を敵に回せば、その力で容赦なく潰されるであろうことも分かっていた。千尋は弱みを見せて、彼の同情を引こうと決めた。彼女は目を赤くし、唇を震わせながら言った。「怒らないでください。さっきは私が至りませんでした」征司は千尋の魂胆を一目で見抜いた。「急に殊勝な態度だな?俺がお人好しに見えるか?」千尋は唇を引き結んだ。「あなたを評価する資格はありません。私が分かっているのは、私が最も困難な時に、助けてくださったということだけです」征司は楽しげに笑った。「少しは良心が残っているようだな。だが、改めて言っておく。我々の関係をいつ終わらせるかは、君が決めることではなく、俺が決めることだ。下手な小細工をして俺から逃れようなどと考えるな。一度泥沼に足を踏み入れて、まともな女性に戻れるとでも思っているのか?笑わせる」二人の会話は、気まずい空気の中で終わった。臨海市に戻ってから、征司は千尋に対してよそよそしい態度をとった。昼間、会社では千尋を見て見ぬふりをし、夜、帰ってきては事を終えるとすぐに眠ってしまう。千尋はまるで、彼の性欲のはけ口にされたかのようだった。冴子が出張から戻り、二人は夜に一緒に食事をする約束をした。千尋は静江に電話をかけ、夕食は家で食べないと伝えた。五分と経たないうちに、内線電話が鳴った。征司が千尋を呼んでいる。その声からは感情が読み取れなかった。千尋はドアをノックして中に入った。征司は電話中だったが、千尋を見ると、手早く二言三言応対して電話を切った。「社長、何か御用でしょうか?」征司は言った。「今夜、俺の実家へ付き合ってもらう。普段着に着替えてこい」実家へ行くというのは、おそらく家族に会うということだろう。しかし、千尋の立場で、そんなことが許されるのだろうか?征司は千尋の戸惑いを見て取り、説明した。「祖父の病状が思わしくないんだ。孫の嫁に一目会いたがっている。今夜、その役を演じてもらう」「っ!」まさか、そんなこ

  • 囚われの蜜夜   第32話

    千尋が部屋に戻っても、征司はまだいなかった。しかし、それほど時間は経たないうちにドアがノックされ、千尋は応対に出た。「どなたですか?」「橘さん、井上です」ドアを開けると、亮介が書類袋を手に立っていた。「橘さん、これを社長にお渡しください」「社長はまだ戻っていません。お急ぎでしたら、お電話なさいますか?」亮介は少し黙ってから言った。「いえ、急ぎではありません。社長は今、金森部長のところで打ち合わせ中とのことです。お戻りになりましたら、こちらをお渡しいただけますでしょうか」「了解しました。お預かりします」ドアを閉めると、千尋は心の中で毒づいた。あんなに目端の利く人が、どうして征司が信行の部屋にいるなんて信じるのかしら。さっき、あの二人がエレベーターに乗り込んで、佳乃が泊まっているフロアで降りたのを、確かにこの目で見たなのに。千尋が眠りに落ちそうになった時、ドアがカードキーで開けられた。征司が戻ってきたのだと分かったが、ひどく眠くて、朦朧としながら目を開け、つぶやいた。「お帰りなさい……?」「ん」征司はまっすぐバスルームへシャワーを浴びに行った。温かい湿気を帯びて近づいてきた時、千尋は軽く押し返した。「すごく眠いんです。先に寝ますね……」千尋は彼がキスするのをされるがままにしていたが、次第に息が苦しくなってきた。「んん……」千尋は目を開け、弱々しく彼の背中を叩いた。「目が覚めたか?」征司は千尋の上にのしかかり、深い瞳で千尋を見つめて尋ねた。千尋は眠い目をこすった。「寝ましょうよ。明日は朝早い飛行機で帰るんですから」征司は千尋の顎を持ち上げて顔を覗き込み、意味ありげに言った。「君を甘く見ていたよ。離婚もしていないのに、もう次の相手を探そうとしているとはな。そういう男なしではいられないタイプらしい」「っ!」千尋は、あの電話を彼が聞いていたのだと悟った。「説明させてください!」征司は言った。「どう言うかよく考えろ。嘘が一つでもあれば、お前を臨海市で二度と顔を上げられないようにしてやる。試してみるがいい。どうなっても知らないぞ」「……」彼には絶対にそれができる。昔、会社の技術部門の役員が、社内の重要資料を持って競合他社のド

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status