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30話 光を纏う小さな〝元〟同僚

last update Last Updated: 2025-10-01 09:30:08

 その晩、ネクターはとうとう寝付くことができなかった。

 布団に潜り込んで目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのは先程の彼の顔ばかり。胸の奥が落ち着かず、寝返りを打つ度にシーツがかさりと音を立てる。

 夕食だって、結局は一緒に食べたものの、互いに言葉を交わさぬまま終わってしまった。いつもなら些細な話題でも見つけて笑い合えるのに──今夜は皿の上のスープやパンの切れ目ばかりを見つめ、食事の味すら覚えていない。

(許せる訳ない。だけど……言い方はきつすぎたかもしれないわね。さすがにこの空気は……居心地が悪すぎる)

 吐息を漏らしてベッドの上で丸まり、ネクターは掛布もかけずに額を枕に押しつけた。

 やがて深いため息をひとつ。目を閉じようとした、その時だった。

 ──隣室からボソボソと声がする。

 耳を澄ませば、それは確かにレックスの声だった。けれど、言葉は分からない。イフェメラ語ではなく、初めて出会った時に彼が口にしていた、ツァール語に似た異国の響き。低く熱を帯びたり、あるいは呟くように細くなったり、感情に応じて抑揚が変わっている。

 まるで誰かと会話をしているかのように──。

(独り言? ……それにしては、妙に長いし抑揚があるわ)

 不審に思いながらも、最初は我慢しようとした。夜更けまで作業をしていたこともあり、眠りたかったのだ。だが暑さと苛立ちも重なり、眠気は遠のくばかり。明日は朝から修理依頼の品を抱えて工房を開けなければならないのに。

 とうとう我慢の限界に達したネクターは、布団を蹴飛ばして起き上がった。素足のまま廊下に出て、ためらいもなくレックスの部屋の扉を開け放つ。

「ボソボソと煩いのよ! 寝付けないじゃない!」

 叩扉など知ったことではない。荒々しく言い放てば、レックスはベッドの縁に腰掛けたまま振り返り、目を丸くした。だがすぐにネクターを視界から外し、部屋の隅に置かれた机の上へと視線を向ける。

 そして、先程と同じ理解不能の言語で、ゆっくりと語りかけ始めたのだ。

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