LOGIN病院を出て、要と天音は車の後部座席に座っていた。要は、疲れたようにシートに背を預けながら、天音の手を握りしめていた。天音は窓の外を眺めていて、その手を振り払おうとはしなかった。「あの子にはヘルパーさんを24時間体制で手配しておいた」天音は振り向かずに、「ありがとう」と言った。彼が大智のことを言っているのだと、天音はすぐに分かった。要の指が、天音の薬指にはめられたダイヤモンドの指輪を優しくなぞった。彼の口元に、どこか満足げな笑みが広がった。初めて会った時のことを、彼は思い出していた。ただそこに座っている天音を見た途端、恋に落ちていた。次に会ったのは、コンピュータープログラミングコンテストの会場だった。彼女は見事、優勝を取っていた。彼女の自作のプログラムで自分のパソコンに侵入し、データを根こそぎ調べ上げたんだ。そして、少しいたずらっぽく、こう言った。「隊長、あなたのプライベートって、すごく退屈ですね」って。その時、彼女はまだ十六歳だった。自信に満ちた彼女の明るい笑顔を見て、確信したんだ。初めて会った時の気持ちは、紛れもなく恋だったと。だけど残念なことに、彼女はまだ未成年だった。しかも、彼氏までいたんだ。その彼氏も優秀なやつで、彼女にぞっこんだった。自分のスカウトも断った。それでも彼女のために京市へ戻り、菖蒲との婚約を取り消した。理由は、自分でもよく分からない。ただ、自分の妻になるのは彼女しかいないと、そう思ったんだ。それからしばらくして、彼女から突然電話がかかってきた。電話の向こうで、彼女は悲しそうに泣いていた。その時、彼女は18歳だった。後で知ったことだが、あの日、彼女の母親が亡くなったんだ。彼女の母親は、スカウトを受けるようにと彼女に頼んでいた。蓮司にさえ、決して知られないようにと。それは自分が人を選ぶ基準とも合っていた。そのため、彼女に留学の機会を与え、自分の下に置いた。それからの2年間、彼女はコンピューターの世界に夢中だった。20歳になった彼女は、ダークウェブで名を馳せるようになった。彼女も大人になった。だから自分は、あることを決意した。だがその矢先、蓮司が全世界への生配信で、彼女にプロポーズしたんだ。彼女は大喜びでそれを受け、すぐにでも帰
彼は自分のために、駆けつけたのだ。「暁は後始末に向かった」要は淡々と言った。「ここは私たちがいれば大丈夫。時間ができたんだから、結婚式の料理の試食に行ってきたらどう?結婚式の準備もまだまだたくさんあるのに……」玲奈の顔からは、昨日のような喜びの色は消えていた。要は一歩前に出ると、大きな手で天音の頭をそっと撫でた。そして彼女の耳元で声を潜めた。「蛍の様子を見てから行こうか?」天音は頷き、要に促されるまま病室のドアを開けた。蛍は病床の上で体を起こしていた。その感情の読めない視線が、心配そうに見つめる天音の顔に向けられた。蛍は初めて、天音という人間を値踏みするように見つめた。「蛍さん、少しは良くなったの?」天音はそう優しく問いかけながら、ゆっくりと病床に近づいた。蛍は、初めて天音に会った時のことを思い出していた。ドレスショップで、水色のドレスを着た天音が試着室から出てきて、隣の友人と楽しそうに笑っていた。優しくて、しとやかで、綺麗。それが天音への第一印象で、すぐに好感を持った。今、改めて天音を見ても、その時の良い印象は少しも変わらなかった。たとえ、天音が蓮司の執着する元妻だと知った後でも。たとえ、自分の目には、天音が夫と子を捨てた女に映ったとしても。息をのむような美女ではないのに、見れば見るほど綺麗だと思える顔立ちだった。会うたびに、春のそよ風に吹かれるような心地よさを感じる。その育ちの良さからにじみ出る、穏やかで落ち着いた雰囲気があった。だから、周りの人間はいとも簡単に彼女に惹きつけられてしまうのだ。蛍は、天音の手を握った。胸が締め付けられる思いで、蛍は言った。「天音さん、どうしてあなたが私の恋敵なの?もう、越えられない壁になってしまったのよ。お願い、教えて。どうしたら蓮司さんは私を好きになってくれるの?」それは、ほとんど懇願だった。車が天音に突っ込んできた、あの瞬間。蓮司は身を挺して天音をかばった。あの瞬間、蛍は悟ってしまったのだ。天音が兄と結婚しようとしまいと、蓮司は彼女を諦めないだろうと。天音のためなら、蓮司はきっと何でもするだろう。なぜあんなに天音を愛せるの?天音が心変わりして、もう彼を捨てたと分かっているのに。天音は一瞬きょとんとしたが、すぐに蛍の手
蓮司は特殊部隊の隊員と揉み合いになり、スーツの襟はぐしゃぐしゃ、見るも無残な姿だった。大きな手で天音の手首を掴む蓮司の目には、絶対に手放さないという強い意志が宿っていた。まるで天音がまだ蓮司の所有物で、行くも留まるも蓮司が決められるとでも言うように。でも、蓮司に何の資格があるの?天音は激しくもがいて、その手を振り払った。天音は蓮司の手から心電図の結果を奪い取ると、蓮司に叩きつけた。「私の心臓はどこも悪くないわ。私を騙していたのは、隊長じゃない」蓮司は心電図を掴むと、眉をひそめてそれを見た。そこには異常は見られなかった。どうして、異常は見られなかったのか。「天音、もう一回検査しよう」蓮司は天音の手を引いた。天音が振りほどかないのを見て、要の目に冷たい光が宿った。検査室から出てきた特殊部隊の隊員が蓮司を捕らえようとしたが、要の一瞥で動きを止めた。天音の手首は蓮司に固く握られていた。そしてもう片方の手は、指先まで要にしっかりと絡め取られていた。天音は、蓮司のほうへと向き直った。「最初から最後まで私を騙し続けていたのは、あなたよ。あなたは大智を施設に放り込んで、辛い思いをさせた。それなのに、私の前では良き父親を演じていたのね」天音には信じられなかった。蓮司が実の息子に、こんな仕打ちをするなんて。「恵里のために、あなたは何度も私を騙した。あなたたちの娘を、彩花の代わりにしようとした。私が産んだ大智のことなんて少しも愛してないし、私のことも、まったく愛してないのよ!あなたが心から愛しているのは愛莉と恵里、あの二人だけなのよ」「違う、そうじゃないんだ」蓮司は慌てふためいた。天音は嘲るように笑った。「彼女のために、私に贈ったのと同じビルを桜華大学に寄付した。私のために集めたRhマイナス血液型のドナーグループも、彼女が使えるようにした。おまけに、私に贈るために競り落とした『海の星』まで、彼女の首につけてあげてたわね。私の父親と恵理の母親は、間接的に私の母を死に追いやった。それなのに、あなたは?彼らに援助を続けて、のうのうと暮らさせていた!あなたは彼らを、ちやほやして甘やかしたのよ」「天音、すまない、俺が悪かった。母さんに薬を盛られたんだ。どうかしてたんだよ」そのすべてが、蓮司の
蓮司は天音を椅子に座らせた。「加藤さん、数分だけですので」隆は蓮司の険しい表情をチラリと見て、怯えたように言った。「私の妻がお世話になった手前、どうかご協力ください」天音は、蘭がどんな危険を冒して中絶薬をすり替えてくれたのかを思い出し、胸が締め付けられた。蘭は本当に優しい人だった。心が揺らいだ彼女は、ベッドに横になった。隆は心電図の電極を天音の胸と四肢に取り付けた。想花を出産した後、心臓の手術を受けた。そして手術はとてもうまくいった。だから心臓にはもう何の問題もないはずだった、と天音は自分に言い聞かせた。モニターに心臓の鼓動が映し出されるのを見て、天音はなぜか緊張した。胸の前で組んでいた手が、蓮司に掴まれた。突然、「バン!」という音が響いた。誰かが勢いよくドアを開けたのだ。天音は驚き、そちらを見ると、電極が体から剥がれ落ちた。心電図モニターから「ピーピーピー」という警告音が鳴り響いた。そこに立っていたのは、感情を読み取れない表情の要だった。要は激しい怒りを胸に秘めながらも、大股で天音に近づいてきた。その時、蓮司が要の前に立ちはだかった。「天音はショックを受けている!心臓の検査が必要なんだ!」蓮司も一歩も引かなかった。二人の視線がぶつかり合う中、要は冷たい声で言った。「俺が抱き上げて行くか、それとも、自分でこっちに来るか?」この言葉は、天音に向けられたものだった。そこには、拒否を許さない強い意志が込められていた。天音は慌ててベッドから降り、要のそばに行った。要が天音を抱き寄せようとしたその時、蓮司に手首を掴まれた。「天音の心臓は弱っているんだぞ、死なせる気か?心臓検査が必要なんだ」蓮司は一歩も引かなかった。要が視線を送ると、そばにいた特殊部隊の隊員が蓮司を取り押さえた。蓮司は、検査室の中に足止めされた。要は天音を抱きしめながら、心臓の位置に視線を落とし、優しく囁いた。「大丈夫か?」天音は静かに首を横に振った。要は先ほど蓮司がしたように、天音を強く抱きしめた。突然抱きしめられた天音は、心臓がドキリとした。要がこんな風に抱きしめてくれるのは初めてだった。要はため息混じりの声で天音の耳元で囁いた。「そんなに落ち込むな」「私が急に道路に飛び出した
天音は、赤いスポーツカーに乗った蛍が自分に向かって突っ込んでくるのを、ただ呆然と見つめていた。その瞬間、千鶴は地面に倒れ込み、悲鳴を上げた。天音の目の前に黒い影が視界を横切り、次の瞬間、彼女は誰かの腕の中に抱き寄せられた。蛍は驚きに目を大きく見開き、急ブレーキを踏みながらハンドルを切った。「ドン!」という衝撃音の後、けたたましいクラクションが鳴り響いた。「ビーッ――」エアバッグが作動した瞬間、蛍は蓮司が天音をしっかりと抱きしめているのを見た。蓮司の黒い瞳からは、天音を全て飲み込んでしまいそうなほどの熱い想いが溢れ出ていた。胸に激痛が走り、蛍は意識を失った。「天音!大丈夫か?」蓮司は慌てて天音の体を隅々まで確認した。彼女の呆然とした小さな顔を両手で包み込み、ただ怯えているだけだと分かった。蓮司は天音を愛おしそうに抱きしめ、耳元で優しく囁いた。「怖がるな、もう大丈夫だ。危険な目に遭わせない。何が起きても、俺は必ずそばにいる。ずっと守るから」天音は蓮司の腕の中で、ゆっくりと意識を取り戻した。その瞬間、助けてくれるのは要だと思っていた。そして、警察、消防、救急隊、記者たちが現場に駆けつけた。この事故と、抱き合う二人の写真はすぐにインターネット上で拡散された。抱き合っている男女は、数日前にG・Sレストランで親密に抱き合っていた二人ではないか、と気付く人もいた。一度削除されたトレンドワードが、再び注目を集めることになった。……要は会議を終え、出席者と一人一人握手を交わして会場を後にした。その際、好奇の視線を浮かべた人々の顔と、彼らの手に握られた携帯をちらりと見た。#試練を乗り越える愛。#元夫と復縁。#浮気発覚。「天音はどこだ?」要の全身から、重苦しいオーラが放たれていた。「加藤さんがたった今、交通事故に遭われたそうです……」暁の言葉を最後まで聞かず、要は会議場を飛び出した。隊長になってからというもの、彼は一度も自分で運転したことがなかった。暁は、運転手から鍵を受け取る要の姿に驚き、慌てて助手席に飛び乗った。車は矢のように走り出した。30分かかる道のりを、わずか10分で到着した。病院に着いたものの、救急室には天音の姿はなかった。……その頃、天音は蛍に付き添っ
天音のまつげが震えた。天音が真剣に話を聞いているのを見て、千鶴はバッグから健康診断書を取り出し、天音の手に乗せた。「大智は、あなたの心臓病を遺伝しているの」その声は小さく、天音を驚かせないように配慮していた。天音は診断書を開いた。そこにはこう書かれていた。【拡張型心筋症】心不全を引き起こす可能性もある心臓病の一つだ。天音の手は震え、悲しみが全身を包み込んだ。千鶴は天音の手を握った。「あなたのお母さんは、あなたを留学させたのは、蓮司と引き離すためだった。私も、時間が経てば、あなたたちは新しい人と出会い、気持ちが薄れると思っていた。でもまさか、蓮司が私に黙って、プロポーズビデオを公開するなんて思ってもみなかったわ。そして、あなたも帰ってきた。あなたたちはまた一緒になり、『お互いしかいない』と私に言ったね。あの頃は、医療は進歩しているし、必ずしも問題のある子供が生まれるとは限らないと思っていた。大智も確かに健康だった。でも、彩花を妊娠した時、悲劇が起きた。お腹の彩花は左心室がうまく育っていなくて、血液を十分に送り出せない。だから、全身の血が足りなくなって、生きていくことはできないって言われたの。あの時、私は正気を失っていた。大智にも何かあったらと怖くて……蓮司に薬を飲ませ、恵里を仕向けた。風間家の血筋を守るため、自分のエゴであなたの心を傷つけた。全部、私のせいだ。天音、本当に申し訳なかった。でも大智には罪はない。ただ甘やかされて育った子供だった。今はもう反省している。施設から帰ってきてからというもの、毎晩のように『ママ』と泣き叫びながら目を覚ますのよ。見ていて本当に可哀想なの」千鶴は目に涙を浮かべた。「あなたが結婚するなら、心からお祝いするわ。でも、心のどこかに大智の居場所を作ってくれない?この子を、見捨てないでほしいの」天音は診断書を置き、革のバッグを持ち上げた。そして立ち上がり、驚いている千鶴を見下ろした。「母が亡くなってから、あなたを本当のお母さんのように慕っていた。なのに、あなたは私を何だと思っていたの?蓮司のため仕方なく受け入れた厄介者?彩花に問題があるって知っていて、私に黙っていた?私の体が弱くて妊娠できないって知っていて、子供を産めと急かした?私を子供を産