佐山は、ノートパソコンのタッチパッドをなぞる指を止めた。
呼吸が浅い。けれど、それを意識することもなかった。ディスプレイの光が、静かに顔を照らしている。画面の中では、コマンドラインが次々と動いていた。ログ解析ツール。バックアップデータの復元。本来なら業者でも簡単には触れない領域を、佐山は冷静に操作していた。姉のパソコンに残っていたデータを、片っ端から復元している。
削除されたファイルも、履歴も、ゴミ箱すら完全に復元した。姉が自分で消したものか、誰かに強制されたものか、それはまだ分からない。だが、それを知る必要はなかった。全部、見ればいい。全部、確かめればいい。佐山は、プログラムを打ちながら、何も考えないようにしていた。
感情は邪魔だ。ただ、目の前の作業を淡々と進める。それだけに集中する方が、余計なことを考えなくて済む。画面の中で、解析が進んでいく。
チャットツールのデータも、バックアップフォルダから復元できた。姉が使っていた社内ツール。本来なら社内のログは管理者権限がなければ見られない。だが、梓は自分用にコピーを保存していた。おそらく、証拠を残すためだろう。「……」
佐山は無言のまま、解析が終わるのを待った。
目はディスプレイに釘付けだが、顔の筋肉は微動だにしない。まぶたすら、ほとんど動かなかった。解析が終わり、フォルダが開く。
チャットログのファイルが並ぶ。日付ごとに保存されたデータは、数ヶ月分にも及んでいた。佐山は、その中の一つをクリックした。
テキストファイルが開く。目を走らせると、すぐに異常なやり取りが見つかった。「またあの女、営業失敗してたな」
「枕営業してるくせに、使えねーな」
「部長、なんで庇うんだろ。抱いてんじゃね?」
その文章を見た瞬間、佐山の目が細くなった。
ロッカー室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。業務が終わると、オフィスの空気は急速に弛緩する。誰もが疲労と余韻を抱え、私語も減る。だが、その静けさの中で、佐山はひとり、ネクタイを外していた。手首の動きは、淡々としていた。今日一日つけていたネクタイをゆるめ、首元から滑らせる。その感触は、まるで舞台の小道具を外す感覚に似ていた。鏡越しに、自分の顔を見た。笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ、穏やかな顔。何の変哲もない、仕事帰りの若い男の顔。しかし、その内側では別の表情があった。「これは、ただのゲームだ」心の中で、佐山はゆっくりと呟いた。今日一日、美咲が与えてきた言葉や視線を、何度も思い返す。「分からないことは私に聞いて」「佐山さん、頑張って」「また一緒に案件出そうね」その一つ一つが、彼女の「所有欲」を満たしていた。自分を「選んだ側」の優越感。自分が「導く側」だと信じ込んでいる快感。佐山は、それを冷静に観察していた。だが、その快感を与えているのは、他でもない自分だ。与えているふりをしているだけ。その事実が、胸の奥でじわじわと熱を持って広がる。ネクタイを丁寧に丸め、鞄の中にしまう。その動きもまた、儀式の一部だった。舞台が終わった後の、衣装を脱ぐ時間。だが、心はまだ舞台の上にいる。本番は、これからだ。ロッカーに鍵をかける指先は、決して震えなかった。それどころか、静かな快感に満ちていた。姉を奪った女に、今、懐かれていると錯覚させている。その倒錯が、何よりも自分を満たしていた。「俺は、悲しんでなんかいない」それも、心の中で繰り返した。泣きたいわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ、ゲームをしているだけだ。役割を与えられたふりをして、自分が主導権を握るゲーム。
美咲は、休憩室でコーヒーを淹れていた。昼休み明けのわずかな隙間時間。業務に戻る前の、ほんの数分の儀式だ。コンビニで買ってきたペットボトルの水をポットに注ぎ、インスタントのコーヒーをカップに入れる。ステンレスのスプーンがカップの底に触れて、かちゃりと音を立てた。部下たちは、誰もこの時間に声をかけてこない。それが普通だ。部長が一人でいる時は、そっとしておく。誰もがそういう距離感を守っている。それが、役職者という立場だった。だからこそ、美咲は一瞬だけ戸惑った。背後から、柔らかい声がかかった。「部長、ブラックなんですね」振り向くと、佐山が立っていた。距離が、近い。同じフロアで働く者同士としては、ぎりぎり不自然にならない範囲の距離。だが、他の社員なら絶対に取らない距離だった。美咲は、ほんの一瞬だけ動揺した。だが、それを表には出さなかった。軽く笑って、カップを手に持ち替える。「そうよ。朝は砂糖入れるけど、昼はブラックって決めてるの」「へえ」佐山は、ほんのわずかに目を細めた。その表情は、単なる好奇心にも見えたし、懐いている年下の顔にも見えた。美咲は、心の奥に微かな快感を覚えた。「この子、私に気を許してる」そう錯覚する感覚。いや、錯覚だとは思いたくなかった。自然な距離感のように見せかけて、確かに「特別な何か」を感じさせる。佐山はそういう雰囲気を纏っていた。「いつもブラックなんですか?」「うん、まあね。大人になるとそうなるの」「大人、ですか」佐山は、目を伏せて小さく笑った。その声のトーンが妙に耳に残った。ただの雑談のはずなのに、胸の奥をかすかに撫でられるような感覚。美咲は、それを気のせいだと自分に言い聞かせた。「砂糖とかミルクは、使わないんですね」「そう。甘いのは仕事
昼休みの時間になった。フロアの空気が一斉に緩む。それまでキーボードを叩いていた指が止まり、椅子が軋む音があちこちから聞こえる。誰かがコンビニの袋を持って戻ってきた。別の誰かは、エレベーターの方へ向かう。社内の食堂に行く者、デスクで弁当を開く者、スマホをいじる者。それぞれの昼休みが、平等に流れていく。佐山は、そんな風景の中で、あえて席を立たなかった。弁当を買いに行くふりをしてトイレに立つこともできたが、あえて美咲の近くに残った。手元の資料をゆっくりめくる。顔は穏やかに、眉間には少しだけ困ったような皺を寄せて。「部長」佐山は声をかけた。柔らかい声だった。呼ぶときだけ、少しだけトーンを落とす。それが、年下の男の「甘える時の声」に自然と聞こえるように。美咲は顔を上げた。昼食のサラダにフォークを差し込んだまま、佐山の方を見た。「どうした?」佐山は、手元の資料を見せた。営業用のプレゼン資料。新規クライアント用の提案書のテンプレートだった。「これ、フォーマットは分かるんですけど、実際に使う場面って、どういう順番で話すのがいいんでしょうか」「順番?」「はい。例えば、先に課題を聞いてから提案するのか、それともこちらから先に商品説明をするのか。今までの職場だと、決まった形しかなかったので」美咲は、ほんのわずかに唇を緩めた。その顔には「教えてあげる側の快楽」がにじんでいた。上司として、部下に頼られること。しかも、こんな美形の部下に。その構図自体が、美咲には心地よかった。「基本は、相手の状況を聞いてから提案よ。だけど、相手によっては、最初にプレゼンしちゃった方が話が早い時もある。ケースバイケースかな」「なるほど…」佐山は、わざと少し首をかしげた。眉を寄せる。唇を少しだけ噛む。その仕草は、完全に「懐いている年
美咲は、自分のデスクから佐山の横顔をちらりと見た。黒髪がきれいに撫でつけられている。耳のあたりにかかる髪の流れも、襟足も、整っているのにわざとらしさがなかった。その自然さが、かえって目を惹く。美咲は、心の中で「やっぱり顔がいい」と思った。派遣で入れた新人にしては、思った以上の収穫だった。実務能力はこれから見ていけばいい。だが、顔だけは最初から決まっている。それは、美咲にとって大きな武器だった。営業職は、見た目も仕事のうち。そういうことは、この業界では暗黙の了解だった。特にクライアント対応の場では、第一印象で八割が決まる。男でも女でも、顔が良ければそれだけで信用されることがある。美咲は、そこに快感を覚えていた。「選ぶ側」の立場。「使う側」の快楽。自分のチームに、誰を置くかは自分が決める。その決定権を持っていることが、美咲の自尊心をくすぐった。佐山は、物静かで礼儀正しい。控えめに見えるが、返事はきちんとしている。目を見て話す。けれど、決して出しゃばらない。絶妙な距離感だった。「これは使えるな」美咲は、心の中で確信していた。イケメン部下は、単なる飾りではない。その存在は、自分の立場を高める。他の女性社員たちが、佐山をちらちら見ているのも気づいていた。「私が選んだ部下よ」そういう所有感が、美咲の胸に広がっていた。午前中の業務が一段落したころ、美咲は立ち上がり、佐山のデスクに近づいた。後ろから声をかける。「佐山さん、慣れた?」佐山は椅子を回し、美咲を見上げた。その目が、一瞬だけ柔らかく緩んだ。美咲は、その変化に気づいた。だが、表情には出さない。気づかないふりをする。「はい。まだ分からないことばかりですけど、頑張ります」佐山の声は低くて穏やかだった。耳に心地
朝8時半。フューチャーリンク広告のエントランスは、もうすでに社員たちの足音で満ちていた。スーツの擦れる音と、ヒールの小さな音。エレベーターのドアが開くたびに、ぴりっとした空気が立ち上る。オフィス街の朝は、いつもこんなふうに始まる。曇った空からは、湿気を帯びた光が差し込んでいた。梅雨入り前の重たい空気。けれど、佐山はその湿度すらも、体の内側で切り離していた。エントランスのガラスは、朝の光を反射している。そこに映る自分の姿を、佐山は一瞥した。黒いスーツ。ネクタイは少し緩め。だが、それは計算の上だった。新入りらしい「まだ慣れていない雰囲気」を演出するための、わざとらしい微調整。髪は整えすぎず、ラフすぎず。目元には、柔らかい笑みの気配を残している。「今日は、舞台に立つ日だ」心の中で、佐山はそう呟いた。高揚感が、皮膚の内側を静かに滑っていく。名札を受け取る指先が、わずかに震えている。だが、それは不安からくるものではなかった。ゲームの開始を知らせる合図だ。震えは、むしろ快感だった。受付嬢がにこやかに「おはようございます」と頭を下げた。佐山は、同じように会釈を返す。だが、心の中では「舞台装置が動いている」と冷静に観察していた。エレベーターに乗ると、他の社員が「今日からですか?」と声をかけてきた。柔らかい表情。新入りに対する慣れた対応。佐山は、その空気に違和感なく溶け込む。「はい。今日からお世話になります」口角を少しだけ上げる。目元もわずかに緩める。だが、内心では全てを俯瞰していた。自分は「懐に入り込むための準備」をしているだけだ。ここでの笑顔も、言葉も、全てはゲームの駒に過ぎない。エレベーターのドアが開くと、フロアの空気が変わった。白い蛍光灯が天井一面に並び、オフィスの机が整然と並んでいる。パソコンのディス
美咲は、履歴書を机の上に戻した。白い指先が紙を滑らせると、会議室の中にわずかな摩擦音が響いた。その動作は、あまりに無造作で、あまりに当然のものだった。選ぶ側の人間が、いつもやる手つき。そこには迷いがなかった。「佐山さん」美咲は、再び佐山の目を見た。その視線は、すでに「決めた」という色を帯びている。形式的な確認ではなかった。もう、採用は確定している。美咲の中で、それは決定事項だった。「うちで、やってみましょうか」声は柔らかかった。しかし、その柔らかさの裏にある「選ぶ側の優越」は隠しきれない。自分が「許可を与える」立場だという自覚が、声色に滲んでいる。支配する側の女の声音だ。佐山は、それを静かに受け止めた。「ありがとうございます。よろしくお願いします」佐山は、頭を下げた。けれど、その内心では、すでに冷たい達成感が広がっていた。理由は分かっている。美咲が自分を選んだのは、能力でも経歴でもない。「顔がいいから」「営業職にも使えそうだから」それだけだ。美咲の中では、それで十分だった。「営業に出すときは、見た目も大事だからね」美咲は、軽く笑いながらそう言った。それは、冗談のように聞こえるが、本心だった。佐山は、その言葉を否定せず、ただ柔らかく頷いた。「はい。自分にできることを頑張ります」その答え方も、計算している。謙虚でありながら、使いやすそうな男を演じる。言葉のトーンも、目線も、全てを調整している。だが、その裏では、別の感情が確かに蠢いていた。「これで準備は整った」心の中で、佐山は呟いた。冷たい言葉だった。だが、それは確実に自分のものだった。美咲は、採用を決めた自分に満足していた。この男は使いやすい。顔がいい。営業先にも