「ふふふ、兄妹って賑やかでいいね。私は一人っ子だからそんな言い合いしたことなくて。それに毎日一人でご飯食べてるから、今日みたいな賑やかなの久しぶり。一緒に食べてくれてありがとう」にっこりと笑う姫乃さんはとても愛くるしい。隣でなぎさが「やば、姫乃さん可愛い」と呟いた。女子でもそういう反応か、すごいな姫乃さん。それよりも、だ。今の言葉に引っ掛かりを覚えて思考が戻される。姫乃さんは何かを隠しているわりに言葉は正直だ。「姫乃さん、いつも一人でご飯食べてるんだ?」「うん」「ふーん」ほら、こんな風に。普通に答えてくれる。 誰だ、姫乃さんが彼氏と同棲してるとか言いふらした奴は。この人のどこに彼氏の影があるのだろう。なさすぎて逆にびびる。それに気づいたっぽい姫乃さんは「あの、えっと……」とどもった。 わかりやすすぎて困る。いや、それ以上に心配すぎるこの人。「じゃあ毎日一緒に食べましょう」何かを考える前に勝手に口が動いていた。 この純粋な姫乃さんが、悪い男に引っ掛かったら目も当てられないと思ったから。案の定姫乃さんは、目を丸くして驚いていた。 あー、悪い男は俺かもしれない、などと思わなくもないが、その辺の考えは頭の隅に追いやった。姫乃さんを守らないといけないという、謎の使命感がわいている。それに、こんな姫乃さんの姿を知っているのは俺だけなんじゃないだろうかという優越感も相まっている。「むー。姫乃さん、たまには私も食べに来ていいですよね?」「えっ、う、うん」ちゃっかりなぎさも、姫乃さんを取り込もうとしている。 姫乃さんは訳が分からないといった感じだったが、勢いに押されて頷いていた。
とにかくよくわからない押し問答が続いた。姫乃さんとなぎさが言い合っているだけで、いつの間にか俺は蚊帳の外だ。むしろなぎさが強引に話を進めているだけのような気もする。会社でも思っていたけれど、姫乃さんは押しに弱い。優しさゆえの性格だろうか、すぐ人に譲ろうとするしすぐ人の意見にいいよと賛同する。結局、姫乃さんの家で夕食を取ることになったのだが――。玄関を開けるとふわっといい香りがした。俺と同じ間取りなのに、全く違う部屋だ。可愛らしいというのか、全体的に淡い色で統一されており、姫乃さんの柔らかさがにじみ出ている様だった。「ちょっと待っててね」キッチンに立った姫乃さんは、手際よく夕飯の準備を始めた。かつ丼は二つしか買っていないから、なぎさのために三人分に分けなくてはいけない。妹のせいで余計な手間をかけさせて申し訳ないなと思いつつも、姫乃さんの後姿をぼんやりと眺めていた。本当に綺麗な人だと思った。エプロンもよく似合う。姫乃さんのこんな姿が見られてお得な気持ちになってしまった俺は、会社の先輩たち同様に姫乃さんの毒気にやられているのかもしれない。家に上がったなんて言ったら殺されそうだな、黙っておこう。やがて姫乃さんが、三つに分けたかつ丼と小さな小鉢を持ってきた。「うわぁ、美味しそう!」なぎさが目をキラキラさせながら喜ぶ。 かつ丼だけじゃなく漬物まで添えられて、姫乃さんの気遣いが感じられた。「姫乃さんすごい。美人だし優しいし料理もできるし」「ええっ? そんなことないよ、これくらいなぎさちゃんもできるよ」「なぎさは卵焼きひとつ上手く焼けないからな」「余計なこと言わないで」「本当のことだろ」「樹のバカ!」はあ、本当に。なぎさの相手疲れる。なんでこいつここにいるんだよ。 と思ったら、目の前の姫乃さんがなぜかクスクスと笑いだした。
「姫乃さんって単純。わかりやすい」「か、からかわないでっ」笑えば、姫乃さんは顔を真赤にしながら目を潤ませた。瞬間、後悔の念に苛まれた。姫乃さんは会社の先輩なんだった。 失礼にも程があるかも。「……すみません、意地悪言って。姫乃さん可愛いから。じゃあ、大人しく帰ります」反省。猛省。 姫乃さんは会社の先輩で、みんなの癒やしの女神で。そんな崇高な存在に、なぜこんなにも構いたくなるのだろう。しん、と気まずい空気が流れた。俺の言動がそうさせたのだから、本当に申し訳ない。そのまますぐにマンションに着いた。カツ丼は姫乃さんに渡そう、そう思って姫乃さんにもう一度向き合う。と――。「大野くん、ご飯一緒に食べ……」 「樹! 今日泊めてよー」姫乃さんの言葉に被せて、元気いっぱいな声。そして突然腕が絡み取られる。……は?嫌な予感がしてそちらを見やれば、見知った顔。「私もカツ丼食べたい! 2つあるじゃん」遠慮のない、ガサツな言動。俺の妹、なぎさ。 なんで今ここに現れるのか、気まずいに気まずいを重ねるなよ。 俺はさっと袋を避けつつ、「これは姫乃さんのだから」と堅守する。そんな俺達のやりとりを怪訝な目で見る姫乃さん。「あ、えーっと、よければどうぞ」そしてすごすごと引き下がる。 俺はなぎさを睨む。やばいと思ったのか、なぎさは口パクでごめんと言った。そしてなぎさは姫乃さんの袖をむんずと掴んだ。「ごめんなさい! そんなつもりじゃなくて」「いいのいいの。二人で食べて」「ダメです。もしかしてお兄ちゃんの彼女ですか?」「えっ、かっ、えっ?!」姫乃さんがなぎさと俺を交互に見ながら、慌てふためいた。わずかに頬を赤らめる、その仕草はまるでウブ。そんな動揺することでもないと思うのだが。「会社の先輩だよ」一応訂正しておく。なぎさは何故だかガッカリした表情をした。 なんでだよ。ていうか、お前、態度が顔に出過ぎだろう。「妹のなぎさです」ちゃっかり自己紹介もして、二人でやんややんやとかつ丼の押し付け合いをしている。てか、マジでなぎさ、帰れよ。かつ丼は俺と姫乃さんのだ。
姫乃さんがワタワタしている間に、さっさと会計も済ませた。ここ数日で、俺は確実に姫乃さんに興味を持っていた。綺麗で気立ての良い、社内の癒やし的存在。そんな風にまわりが持て囃しているのに、俺の目に映る姫乃さんは可愛くてどんくさい女の子なのだ。姫乃さんのほうが年上なのに、そんな言い方は失礼かもしれないけど、何と言ったらいいのか、彼女の本当の姿を暴いてやりたい……なんて思ってしまった。「一緒に食べます?」無意識に、誘っていた。目を瞬せて「えっ?」と困惑しているのがわかったけれど、俺はカツ丼の袋を持って姫乃さんの背を押す。「さ、かえりましょー」いつまでも店内の男共の好奇な目に当てさせたくない。好奇な目で見るのは俺だけでいい。変な独占欲がわいた。姫乃さんはお金を払うだのなんだのと、律儀に財布を出す。奢ると言っても譲らない。うーん、意外と頑固な一面もあるのか。それともただの真面目なのか。しかもカツ丼の袋も持つとか言うし。どうせ同じマンションですぐそこなんだから、俺に持たせときゃいいものを。「一緒に食べてくれたらお金もらいますよ」あまりにもしつこいので、意地悪く言ってやった。きっとまた困った顔をするのかなと思った。なのに――。「そんな。……ん、じゃあ奢ってもらおうかな」完全に拒否られた。どこまで頑固なんだよ。予想外の反応に、こちらが戸惑う。「そんなに俺と食べるの嫌? 彼氏に怒られる?」思ったより強い口調になってしまった。あ、と思ったときには姫乃さんはぐっと口を結んで、困った顔になった。どうしてか、その反応が嬉しくなった。大丈夫だろうか、俺。好きな子に意地悪する小学生みたいじゃないか。いやいや、やめろ。何してんだ。自制する気持ちと裏腹に、口は止まらない。「本当は彼氏いないんでしょ?」すると姫乃さんの顔はみるみるうちに赤く染まり、動揺が激しくなった。いないんだな、彼氏。確信に変わった。姫乃さんに恋人がいないことがわかって嬉しくなる。ひとつ、暴いてやった。
退社後、電車を降りたところで前を歩く姫乃さんに気づいた。別に後をついているわけじゃないけれど、マンションが一緒だから必然と同じ方向に歩き出す。と、すぐ横のカツ屋の前で止まった。店の前の幟を見て、うんうんと頷いている。【カツ丼特盛デー】と書かれている幟にそそられて、俺も躊躇いなく入店した。姫乃さんを対応するレジの店員とは別の店員たちも、チラチラと姫乃さんを見ている。あー、わかる。綺麗だもんな、姫乃さん。 当の本人は慣れているのかさほど気にしてない様子だが、どういうわけか俺のほうが気になってしかたがない。「特盛ひとつ…」 「特盛ふたつで」姫乃さんがレジで注文するのと被せるように、言った。急に現れた俺を、姫乃さんは目をまん丸くして見ている。一呼吸置いてようやく俺を認識したらしい彼女は、「お、大野くん!」と跳び上がった。 いやいや、驚きすぎだろう。おもしろ。「姫乃さんでも特盛食べるんですね」「えっ?!」別に他意はなく言ったのだけど、姫乃さんは顔を真赤にして両手で頬を覆った。そんな仕草は、綺麗というよりも可愛らしい。この人の魅力、やばくないか?「なに恥ずかしがってるんですか?」「いや、だって特盛だし」「たくさん食べるのは健康的でいいですよね。好きですよ」そう言ったら、ますます顔を赤くした。 そんなに恥ずかしがることでもないだろうに。
真相は本人に直接聞くのが一番だと思うんだけど。ちらりと姫乃さんを見やる。いつも通りの綺麗な佇まいでパソコンに向かっている。そんな噂なんてないかのように。「姫乃さん、テレコン借りたいんですけど」次の会議のために備品を借りようと声をかけた。ふ、と顔を上げる姫乃さんは柔らかく微笑む。「はい、ちょっと待ってね」席を立ち、テレコンをキャビネットから出してくれた。貸出台帳を記入しなくてはいけないため、ペン片手に隣に立つ。「ねえ。姫乃さん、同棲してるの?」耳もとでこそっと尋ねた。姫乃さんの肩がビクッと揺れ、シャープペンの芯がボキッと折れてどこかにとんだ。「えっ? いや? あの。えっ? なに?」顔を真っ赤にしながら、しどろもどろになる姫乃さん。あきらかに動揺している。あの時と同じだ。飲み会の帰り、彼氏の話をふったときの動揺っぷりに似ている。これはもう、限りなく黒に近いだろ。 何でみんな気づかないんだ。姫乃さんのオーラにやられておかしくなってるのか?「ま、どっちでもいいけど。でもあのマンション、単身者用だよね?」そう言ったら、姫乃さんは目を見開いて口をパクパクした。動揺がひどい。なのに金魚みたいで可愛い。貴重なものを見た気がする。「じゃあテレコンお借りします」笑いをこらえながら、俺は会議に出向いた。 これ以上攻めると姫乃さんが再起不能になりそうだったから。