「大丈夫、大丈夫……」
誰に言うでもなく小さくつぶやいて、私は次に卵を二つ取り出した。 だし巻き卵は孝夫さんが好む甘めの味つけ。砂糖とだし汁を入れた卵液入りのボールは、握力のない今の手には少し重い。こぼさないよう少しずつフライパンへ流し込むと、じゅっと軽やかな音とともに卵が膨らみ、湯気がふわりと立ち上った。 火加減が少し強かったかな? と焦りながらも、なんとか焦がさず綺麗に巻いていく。 卵焼きは途中少々不格好になっても、後半うまくやれば、何とかそれなりの形に整えることが出来るから助かる。 そう自分に言い聞かせながら、巻きすで形を整えて、端を切り落として出来上がり。端っこは私のお皿に取り分けて、真ん中の綺麗な部分を孝夫さん用のお皿へ盛り付けた。(もう一品、何か……)
思考がぼんやりする中、冷蔵庫の野菜室を覗き込むとミニトマトが目に入った。 冷凍庫に茹でて小分けにしてあるブロッコリーがあるから、あれを軽く解凍して……彩りを考えたおかか和えにしよう。 半分にカットしたミニトマトと一口大にしたブロッコリーを小鉢に盛ると、削り節をのせて薄口醤油を数滴。 それだけなのに、ちゃんと一品になってくれるのが有難かった。……助かる。味噌汁は、昨晩のうちにとっておいた出汁があるから、それに皮を剥いて一口大に切ったじゃがいもとニンジン、それから薄切りの玉ねぎを入れた根菜の味噌汁にしようと決めた。
鍋に入れて火にかけ、コトコト煮える音を聞きながら、私は一瞬、その場で目を閉じた。――寝てしまいそう。
顔を洗ってこようかとも思ったけれど、それをしている余裕はなかった。
味噌を溶かして、最後に刻んだ小口ねぎをふわっと散らしたら、美味しそうな香りが立ちのぼって、少しだけ息がしやすくなった。最後に炊きあがったばかりのごはんをふんわりと握って、塩むすびにする。
焼き海苔は湿気を吸わないよう、直前に巻こうと思った。 手のひらに残るごはんの温もりが、じん「大丈夫、大丈夫……」 誰に言うでもなく小さくつぶやいて、私は次に卵を二つ取り出した。 だし巻き卵は孝夫さんが好む甘めの味つけ。砂糖とだし汁を入れた卵液入りのボールは、握力のない今の手には少し重い。こぼさないよう少しずつフライパンへ流し込むと、じゅっと軽やかな音とともに卵が膨らみ、湯気がふわりと立ち上った。 火加減が少し強かったかな? と焦りながらも、なんとか焦がさず綺麗に巻いていく。 卵焼きは途中少々不格好になっても、後半うまくやれば、何とかそれなりの形に整えることが出来るから助かる。 そう自分に言い聞かせながら、巻きすで形を整えて、端を切り落として出来上がり。端っこは私のお皿に取り分けて、真ん中の綺麗な部分を孝夫さん用のお皿へ盛り付けた。(もう一品、何か……) 思考がぼんやりする中、冷蔵庫の野菜室を覗き込むとミニトマトが目に入った。 冷凍庫に茹でて小分けにしてあるブロッコリーがあるから、あれを軽く解凍して……彩りを考えたおかか和えにしよう。 半分にカットしたミニトマトと一口大にしたブロッコリーを小鉢に盛ると、削り節をのせて薄口醤油を数滴。 それだけなのに、ちゃんと一品になってくれるのが有難かった。……助かる。 味噌汁は、昨晩のうちにとっておいた出汁があるから、それに皮を剥いて一口大に切ったじゃがいもとニンジン、それから薄切りの玉ねぎを入れた根菜の味噌汁にしようと決めた。 鍋に入れて火にかけ、コトコト煮える音を聞きながら、私は一瞬、その場で目を閉じた。 ――寝てしまいそう。 顔を洗ってこようかとも思ったけれど、それをしている余裕はなかった。 味噌を溶かして、最後に刻んだ小口ねぎをふわっと散らしたら、美味しそうな香りが立ちのぼって、少しだけ息がしやすくなった。 最後に炊きあがったばかりのごはんをふんわりと握って、塩むすびにする。 焼き海苔は湿気を吸わないよう、直前に巻こうと思った。 手のひらに残るごはんの温もりが、じん
梅本先生に励まされて帰宅した私は、夕飯を準備して孝夫さんが帰ってくるのを待った。 うなぎの散歩はすでに済ませてある。 ガチャリと玄関ロックの外れる音がして「ただいま」も言わずに孝夫さんが帰ってきた。 私はいそいそと孝夫さんを玄関先まで出迎えに出ると、彼が無言で差し出してくる荷物と上着を受け取る。いつも通りの日常だ。 だけど、やっぱり手渡された孝夫さんの上着からは嗅ぎ慣れない甘ったるいにおいがして……思わず上着を持つ手に力がこもる。「あ、あの……孝夫さん」 意を決して恐る恐る呼び掛けたら不機嫌そうに睨まれて、「あ? 帰ってきたばっかで疲れてるんだけど? 今じゃなきゃダメな話なのかよ」 吐息交じりに棘のある言葉が返ってきた。 私はたったそれだけのことで、アレコレ問い詰めると決めていた心がしゅぅーっと音を立ててしぼんでいくのを感じた。「あ、あの……今じゃなくても大丈夫です。あとにします」 しどろもどろで答える私に、チッと舌打ちして「だったら最初から声掛けてくんな、ブス」というつぶやき声が聞こえてきた。 自分の容姿が他人さまほど恵まれていないことは分かっている。 でも――。 かつては〝かわいいね〟と言ってくれたのと同じ口で〝ブス〟と言われるのはやっぱり辛かった。「(見た目が悪くて)ごめんなさい……」 いつの間にか卑屈な捉え方が身に付いた私は、孝夫さんの言葉に思わず謝ってしまう。 それがまた孝夫さんを苛立たせる……の悪循環。あからさまに吐息を落とされた上、その後も孝夫さんから始終〝話しかけてくるな〟というオーラを出されまくった私は、結局何も聞けないまま布団に入った。 孝夫さんとは寝室もベッドも一緒だ。夫婦だから当たり前なのだけれど、私と眠ることに孝夫さんは少なからず不満を抱いているみたい。 私が先に布団へ入っているとあからさまに溜め息をついたり舌打ちをしたりしながら乱暴に上掛けをまくって寝そべってくる。 逆に私があとから布団へ入っても、折悪しく孝夫さんがまだ寝ついていなかったり、物音で起こしてしまったりすると同様にされてしまう。だから私はこのところ、寝室でも一切気の休まる時がなかった。 ずっと身体が重怠いのは、寝不足なのかな……。 新婚当初から使っているキングサイズのベッドで二人一緒に眠るのは、そろそろ限界なのかも知れない。
「けど、それ。どれもこれも別に決定打があったわけじゃないんでしょう? うなぎちゃんの散歩時に見かけたというご主人と若い女性の相合傘姿も、ご主人のスーツから漂ってきた香りと家へ入った時に感じた残り香が同じものに思えたのも……全部桃瀬先生の早とちりや思い過ごしかもしれません。一度、いま俺に言った気持ちを全部ご主人にぶちまけて……彼としっかり向き合ってみられたら如何でしょう?」 それは教師が生徒を諭す口調そのもので、私、この人は腐っても〝先生〟なんだな……とか失礼なことを思ってしまった。「でも……。もしも勘違いじゃなかったら……」 なのにまだ出てもいない結果に怯えるように、私はそう言わずにはいられなくて……。 不安に揺れる瞳で梅本先生を見つめたら、ニヤリと〝凶悪な極道スマイル〟を向けられてしまう。 違ったらよかった……なんて願ってる時点で、私はきっとすでに確信してるんだ。 ――夫は、もう私を見ていない。 それを認めるのが怖くて、私はただ目を逸らそうとしていただけ……。「そん時は……俺で良ければいくらでも貴女の助けになりますよ。【泥船】に乗ったつもりでドーンと構えていてください」 ニヤリと笑う梅本先生の表情はとっても怖い雰囲気なのに、私は何故だかすごくホッとさせられてしまった。「泥船じゃ、困ります」 眉根を寄せて淡く微笑んだら、「バレましたか」とか。梅本先生は、見た目は怖いけれどとっても優しい人だと思う。「ま、冗談はさておき、もしもの時は絶対俺が力になりますから……だからちゃんとご主人と話してくださいね? 察して欲しいとか、言わなくても分かってくれるよね? とか……自分が我慢すれば丸く収まるから我慢しようって思うとか。そういうのはダメな対処法ですから……絶対しないように
鬱々としたまま学校へ行った私は、職員室へ入る前に両頬をペチッと叩いて気持ちを切り替えた……つもりだった。 一日中、他の先生方にも図書室へ来た子供たちにも何も言われなかったから、完璧に誤魔化せていると思っていた。 このまま終業時間まで誰にも悟られないでいこう。 そう思っていたのに一人ぼっちになった途端、私は気が緩んでしまったみたい。 いつも通り。夕暮れ時の図書室はしんと静まり返っていて、書架の隙間から差し込む西日が床に淡く長い影を落としていた。 (何だろ……。凄く寂しい感じがする) 昨日までは同じ風景を見ても、そんなこと思いもしなかったはずなのに今日に限ってそう感じてしまうのは、感傷的になっちゃってる証拠かな? 授業が終わって子供たちがいない図書室には、児童らの残した温もりみたいなものがまだほんのりと残っていた。いつもなら微笑ましく思えるそれが、今日に限って私、いま一人ぼっちなんだと突き付けられるみたいで……何だかとっても切ないの。 窓の外では木々が風に揺れていて、ほんの少し開けた窓の隙間からかすかに葉擦れの音が聞こえてくる。それさえも静けさを際立たせて、寂寥感《せきりょうかん》を助長させた。 そんな感傷的な気分に負けて、ほぅっと小さく吐息を落としたと同時――。「桃瀬先生が溜め息なんて珍しいですね。何かありましたか?」 放課後、自分のクラスの児童らを帰していらしたんだろう。不意に図書室へ姿を現した梅本先生から開口一番そう問いかけられて、私はビクッと肩を跳ねさせた。 「え?」 それを誤魔化すみたいに、言われた言葉の意味が分からないという風を装ってキョトンとして見せたら、「無理して取り繕う必要はないですよ?」と眉根を寄せられてしまう。 「えっ。そんなこと……」 ――ないですよ? とヘラリと笑いながら紡ごうとしたら、言葉を発する前に、 「今日は一日何だかいつもの覇気がなかったの、気付いてないとでも?」 こちらを探るような視線とともに発せられた梅本先生の言葉に遮《さえぎ》られてしまった。 梅本先生の視線は微塵も揺らぎがなくて……それゆえにすべてをお見通しだと言わんばかりの力を持っていた。 ダメだなぁ。隠したつもりでも、全部バレてた! どれだけ笑顔を貼り付けてみても、やっぱり私、嘘が下手なんだ。 お顔が〝強面《こわもて》だ
孝夫さんは朝の宣言通り夕飯を食べて帰宅してきたらしく、いつもならすぐに告げる「飯」という言葉がなかった。 (きっと、あの女性と美味しいディナーを食べたんだろうな) 私と付き合っているとき、孝夫さんは滅多にレストランなんて連れて行ってくれなかった。一応の理由は『穂乃の手料理が美味いのに、わざわざ外へ食べに行く必要なんかないだろ?』だったけれど、もしかしたら私なんかに使うお金が惜しかっただけかも知れない。 「風呂入る」 つっけんどんに告げられた言葉に、(すぐお風呂へ入りたいとか……。浮気の証拠、消したいのかな)とか思ってしまった私は、視界が水膜に歪み掛けるのを必死にこらえた。 「はい。ちゃんとすぐ入れるよう用意できてます」 震える声を気取られないよう一生懸命告げた私に、「当たり前のこと、いちいち恩着せがましく言うなよ。ホント腹立つ女だな」と、孝夫さんはこちらを見向きもせずに吐き捨てる。 いつもなら〝孝夫さんはそんなもの〟として受け流せる夫の素っ気ない態度のアレコレが、今日はダメ。胸にチクチクと棘を突き立ててくる。 夕方、残業をして家に帰宅してきた時、うなぎが待つこの家に入ってすぐ感じた、〝いつもと違う〟香り――。 もしかしたら街中で見かけた女性が、この部屋に入っていたのかも知れない。 そんなことを思うと、今朝、孝夫さんに残業の報告を入れた自分のバカさ加減を痛感させられるようで、胃の奥がキリリと痛んだ。 部屋に今も何となく残る残り香と同じにおいが色濃く薫る、孝夫さんのスーツの上衣をギュッと抱きしめたまま、私は脱衣所へ消えていく夫の背中をぼんやりと見送った。 ケージの中からうなちゃんが、そんな私を心配そうに見上げている。 「うなちゃん……」 大丈夫だよ、と続けようとして言えなくて……手にしたままのスーツをキッチンの椅子の背もたれへ掛けると、私はまるでその匂いを払拭したいみたいにごしごしとタオルで水気を拭った。 いつもなら生地が傷まないよう気を付けて、ポンポンと優しく叩いて水気を吸うところだけど、そんなの頓着していられない。 (お願い、消えて!) なかなか消えないにおいに焦燥感ばかりが募る。 新しいタオルを手に取った私は、うなちゃんから離れて一旦玄関を抜けて家の外へ出ると、ハンガーにかけた孝夫さんのスーツへ向け
雨の中、うなちゃんといつも通り、一時間ばかりのお散歩を楽しむ。 なんとなく梅本先生に会うのが躊躇われて、いつもと違うコースにしてしまったのは、通常なら外出時にはちゃんと持っているはずの片手袋を忘れてきてしまったから。 (お返しするお話もしそびれちゃったけど……持って来るのも忘れたんだもん。今日はお会いしない方がいいよね?) 雨と残業のダブルパンチのせいだと自分に言い訳をしてみるけれど、そんなのは梅本先生にはきっと関係ない話。 (明日、学校でお返ししよう……) きっとそれが一番いい気がした。 何より、梅本先生は私に関わってくる気満々みたいだった。放っておいても、彼の方から図書室へ来てくれるだろう。 ふと、お勧めのホラー漫画を持って来ると言われたのを思い出した私は、つい苦笑してしまった。 (私が好きなのは都市伝説なのに。どうせ貸して下さるなら、都市伝説系のホラーならいいな?) そんなことを思っていたら、不意にうなぎが立ち止まって、リードを持つ手がグイッと後方へ引かれた。 「うなちゃん?」 こんなことは滅多にない。 どうしたんだろう? と思った矢先、うなちゃんがくるりと向きを変えて、私を引っ張ろうとする。 「ちょっ、うなちゃん、どうしたの?」 立ち止まるだけならまだしも、引き返そうと方向転換をするだなんて、前代未聞だ。 私は不可解な行動を取るうなちゃんを引き留めようとして――。 (え……?) ふと見詰めた数メートル先――。仲睦まじげにひとつの傘に身を寄せ合う男女の姿へ目を留めた。 愛らしいフリル付きのパステルカラーの傘は、見るからに女性ものだ。だけど、その|柄《え》を手にしているのは男性の方だった。 まぁ男性の方が長身なのだから、効率を考えるとその方が断然いいと思う。 思うのだけれど……。 (どう、して……?) ゆるふわウェーブの髪の毛を揺らせる愛らしい若い女性が、豊満な胸をキュウッと押し当てるようにして腕を掴んでいるのは、どう見ても夫の孝夫さんだった。 そこからはもう、ほとんど記憶がないの。 うなちゃんに引かれるまま、町をふらふらと彷徨って……気が付いたらマンションに帰り着いていた。 仕事帰りにそうしたようにエントランスで濡れたレインコートを脱いで持参していたビニール袋