次男はちょうど手がかかる年頃で、抱っこしようとすれば嫌がるし、地面を歩かせればまだ小さくて、周囲の人に気づかれずぶつかってしまいそうになる。誰かが常に付き添っていなければならない状態だった。双はもう少し大きくなっていたので、「走り回っちゃダメだよ」と言えば、素直に香織のそばを離れず、ちゃんとついて来る。佐藤は感心したように言った。「いやぁ……なんて豪華な結婚式なんでしょう」会場は華やかで幻想的な雰囲気に包まれていた。佐藤もその光景にすっかり魅了された様子だった。晋也はこの地に多くの知人を持ち、そして何より愛美は彼の唯一の娘だ。盛大な式を挙げるのは当然のことだった。越人もこれまで圭介のもとで働き、かなりの稼ぎがあった。もちろん、彼自身でもこれほどの式を用意することはできただろう。だが、今回の費用は晋也が全て持った。これが親としての心意気というものだ。佐藤は香織に耳打ちした。「奥様にも、ちゃんとした式を挙げてもらうべきだと思いますよ」香織は笑って肩をすくめた。「子どももこんなに大きくなって……今さらいいわよ」「だからこそ、やるべきなんですよ。女性の一生に、一度きりのものなんですから」ちょうどその時、圭介がこちらへと歩いてきたので、香織は小さく合図して、佐藤にそれ以上話さないように促した。「もう挨拶回り終わったの?」彼女はにっこりと笑いかけて言った。圭介は会場に入ってからずっと、知り合いに囲まれっぱなしだった。ようやくその輪から抜け出したところだった。彼は双の手を取って言った。「ちょっと休憩しに行こうか」もうこれ以上の挨拶はごめんだった。知り合いも多いから、ひとつひとつ対応していてはきりがない。彼らは会場の上階にある控室へと向かい、式が始まる時間までそこで静かに過ごすことにした。一方その頃――憲一は越人と一緒にいた。「ふーんふん!」憲一は越人を上から下まで眺めながら、舌打ちした。「いやぁ、お前……なんていうか……今日のその格好、派手すぎじゃないか?」越人は本当にこの男を蹴飛ばしたいと思った。スーツに身を包んだだけのどこが派手だ?これは明らかな嫉妬だ。間違いなく、嫉妬だ!「お前、顔が歪んでるぞ」越人は言った。憲一はすぐに
彼女たちはVIPルームに案内され、そこでドレスの試着を行うことになった。愛美は更衣室でドレスを試着し、香織と双は外のソファでくつろいでいた。テーブルには、見た目も美しいスイーツと飲み物が並べられている。双は両手でスイーツを抱えて、夢中で頬張っていた。口元にはチョコレートがついていて、香織がティッシュで優しく拭ってあげた。「ゆっくり食べなさいね」すると、双は自分の食べていたお菓子を母親の口元に差し出しながら言った。「これ美味しいよ、ママも食べて」香織は口を開け、息子が差し出した一口をそのまま受け取った。濃厚なチョコレートの味わいの中に、ほんのりレモンの香りが混ざっている。砂糖が多くてもくどさはなく、さらにミントのような爽やかさもある。確かに美味しい。味の深みがある。双は気に入った様子で、次々と別のお菓子にも手を伸ばした。香織はそんな息子を静かに見守っていた。しばらくして、愛美が試着を終えて更衣室から現れた。彼女のウェディングドレスは、クラシックとモダンが融合した特別仕立て。控えめでありながら、ほんのりとした色気も感じさせるデザインだった。活発な性格の愛美にしては、落ち着いた雰囲気があり、優雅で上品な印象を与える。結婚式という神聖な場では、過度な露出はふさわしくない。なぜなら老若男女が集まる場でもあるのだから。愛美のこの選択には、しっかりとした配慮と誠意が感じられた。「お義姉さん、どう?似合う?」愛美は嬉しそうにくるりと一回転して見せた。香織は力強くうなずいた。「すごく似合ってるわ」口いっぱいにお菓子をほおばった双が、もごもごと言った。「おばさん、お姫様みたい」褒められて嬉しくない女性はいない。愛美も例外ではなかった。彼女は嬉しそうに身を屈め、双の頭を撫でながら言った。「いい子ね」フィッティングが無事に終わり、続いてメイクとヘアスタイルのリハーサルも行われた。それはドレスとのバランスを見るためだった。行ったり来たりで、気づけば午後まで時間が過ぎていた。双は待ち疲れてしまったのか、いつの間にかソファの上で眠ってしまっていた。帰るときは、香織が眠っている双を抱きかかえ、そっとお店を出た。車に乗り込むと、双が目を覚ました。彼は
こっそり覗いたのも、中身が愛美の自尊心を傷つけるものではないかと心配だったからだ。水原様が自分を特別扱いしていると彼女が思わないように。しかし実際、長年圭介に仕えてきた越人は知っていた。あの男は決して「部下」を単なる従業員とは思っていない。むしろ、兄弟に近い。今回もそうだった。まだ視力が完全に戻っていないのに、自分のために動き回ってくれた。金も時間も惜しまず、尽くしてくれた。——こんな上司、他にはいない。だからこそ、越人は心から忠誠を誓っていた。ただ、圭介は感情を表に出すタイプではない。だが、彼の周りの人間はみんな知っている。圭介という男が与えてくれるのは、金では買えない「信頼」と「安心」だ。中身が現金でないと知った愛美は、ますます期待に胸を膨らませた。緊張とワクワクで、手元も少しぎこちなくなるほどだった。越人はソファに身を預け、片手に絞りたてのジュースを持ちながら言った。「そんなに緊張するなよ。きっとサプライズになるよ」「うるさい」愛美はむくれた表情で返した。――サプライズってのは、自分で見て初めて成立するもの。人から言われた時点でサプライズじゃなくなるの!越人は笑って、彼女の髪を軽く撫でた。彼女はついに箱を開けた。中にはいくつかのブルーのベルベット製ジュエリーボックス、そして不動産の権利証、さらに一通の書類が入っていた。愛美はその書類を開いた。それは――「潤美グループ」の株式譲渡書だった。これはおそらくこの箱の中で最も価値のある新婚祝いだ。お金では測れない価値。圭介が「潤美」の株を自分に譲渡したということは――それは、「家族として認めている」ということなのだ。愛美は、思わず唇を押さえて、静かに息を呑んだ。嬉しくて、胸がいっぱいだった。そんな彼女の様子を見て、越人が言った。「彼はは不器用で口が悪いが、本当に悪い人じゃない。これは新婚祝いというより……君への嫁入り道具だ。だってこのジュエリー、君が使うものだろう?」譲渡契約書に記されていた名義も愛美の名前だった。ただ、直接手渡されなかっただけ。それがまた、圭介の不器用な「優しさ」なのだ。愛美は、その書類を抱えながら、越人の胸に身を預けた。——嬉しかったのは、お金じゃな
圭介は淡々とした表情で、「新婚祝いだ」とだけ言うと、車に乗り込んだ。越人はにこにこと笑いながら、箱を大事に抱えて彼らを見送った後、愛美と一緒に帰宅の車を走らせた。愛美は後部座席に置かれた箱をちらりと見て尋ねた。「中身は何かしら?」「わからない」越人は答えた。「……は?」愛美は唖然とした。「あなたも知らないの?」彼女の好奇心はさらに膨らんだ。「まだ開けてないから、当然わからないだろう」越人はそう言うと、「運転に集中しろ」と注意した。愛美は彼に向かって舌を出した。「わかってるわよ」本来なら、彼らは晋也と一緒に住んでいた。愛美がそう決めたのも、越人の怪我を看病するためだった。それに家も広かったから、一緒に住んでも窮屈にはならなかった。それに何より、晋也が一人きりで家にいるのが心配だったのだ――孤独で寂しいだろうから。だが、その日は食事が終わると、晋也は別行動で、ひとり車で帰っていった。二人が家に帰ると、晋也はまだ戻っていなかった。愛美はワクワクしながら後部座席から箱を取り出し、口をとがらせて文句を言った。「なんで結婚祝い、あなたにだけわたすのよ?私には何もないなんて不公平」越人は彼女を見上げて、穏やかに言った。「俺にくれたってことは、君にくれたのと同じだろ?」その言葉が終わらないうちに、愛美は反論した。「全然違うわよ!私は彼の妹なのよ?あなたは何?やっぱり、妹の私にくれるべきでしょ?」「……」越人は言葉を失った。彼は小さく笑って言った。「じゃあ、俺がこの箱を返して、君のためにもう一度用意してもらおうか?」愛美は彼を睨みつけた。「ふざけないで」そんなこと言い出したら、物欲しげに見えてしまう。それでもやっぱり少し気分がスッキリしない。越人は彼女の肩を抱いた。「俺のものは全部君のものだろ?」「そういう問題じゃないの。私にくれたら、私たちが近いってことになるじゃない。あなたにくれるってことは、あんたたちの方が近いみたいで……なんか私、他人みたいで嫌なの」その言葉に、越人はくすくすと笑いながら言った。「でも双、君のこと『おばちゃん』って呼んでるだろ?それでも他人?」双の可愛らしい姿を思い出すと、愛美の口元に自然と柔らかな笑みが浮
越人が何か言おうとする前に、晋也がさらに言葉を重ねた。「愛美は俺のたった一人の娘だ。だから俺のものは、すべて彼女のものだ。将来、俺が死んでも、棺で向こうに持っていけるわけじゃない。だから、遠慮なんかするな。もし、どうしても気が引けるっていうなら――愛美を大切にしてやってくれ。もし君が彼女を泣かせるようなことをしたら、俺は絶対に許さないからな」晋也のまっすぐな言葉に、越人は少しも気を悪くすることなく、むしろ真剣な表情で頷いた。「安心してください。命に代えても、彼女を守ります」晋也は満足そうに越人の肩を軽く叩いた。「まずは、しっかり体を治せ。ちゃんと養生して、無理はするな」後遺症が残ったら、愛美がずっと面倒を見なきゃいけなくなるだろ?その無償の父の愛に触れ、愛美は鼻の奥がつんとした。彼女は晋也の肩にもたれかかって、優しく言った。「お父さん、私と一緒にF国へ行きましょうよ!」本心だった。越人と二人で暮らすことは嬉しい。けれど、この家に父さんひとりを残していくのは、どうしても気がかりだ。母さんが亡くなった今、父さんは本当に独りぼっちになってしまうのだから。年を取るほど、孤独が怖くなる。だが、晋也はこの土地での暮らしにもう馴染んでいた。それに、この家はかつて綾香と一緒に過ごした場所。思い出が詰まっている。「君たちはこれから二人で新しい生活を始めるんだ。そこに俺が入り込むのは、ちょっと邪魔だろう。それに……俺は、この家を離れたくないんだ」晋也は静かに答えた。愛美は分かっていた。父さんがこの家を離れたくない理由は、そこに母さんの痕跡があるから。思い出に囲まれて、余生を過ごしたい――それが彼の本音だった。それが「正しい」のかどうか、自分にはわからない。でも、はっきりしているのは――父さんは、本当に母さんを深く愛していたということ。本当に羨ましい。一生を通してただ一人を愛し続けること――たとえその愛が自己中心的だったとしても、少なくとも本物だった。利益や打算とは無縁の、純粋な想い。ただその手段が間違っていただけだ。いや、間違っていたとすら言い切れない。彼がいなければ、母さんはもっと早くに命を落としていたのだから。もちろん、彼女の記憶を失わせたことは、許さ
愛美は双の指差す方向に目をやり、ふっと笑って言った。「あなたはお父さんの息子なんだから、将来はもっと背が高くなるかもしれないわね」その言葉に双の顔がぱっと明るくなり、嬉しそうに微笑んだ。愛美は越人に向かって軽く催促した。「話は食事のときにでもすればいいでしょ?みんな長い時間飛行機に乗ってきたんだから、少しは休ませてあげないと」越人は憲一の肩を軽く叩いて言った。「じゃあ話はまた後でな。そうだ、おめでとう。娘さんができたんだって?」憲一も笑って返した。「お前こそ、おめでとう。美人を手に入れただけじゃなくて、圭介と親戚になっちゃって」「……」越人は言葉を失った。圭介は憲一をちらっと睨み、何も言わずに家の中へ向かった。憲一は肩をすくめた。「別に間違ったことは言ってないだろ?」越人は鼻で笑った。「間違ってはいないけどな、お前の言い方は俺たちの関係を汚した気がするんだよ」まるで、愛美との関係は圭介と繋がってるからって言ってるみたいじゃないか。自分たちは、もっと純粋に、ただ互いの気持ちを大切にしてきただけなのに。水原様がどうとか、そんなのは関係ない。憲一はそのときは本当に深く考えてなかった。でも今になって思えば、たしかにちょっと言い方が悪かったかもしれない。――とはいえ、それを認めるつもりは毛頭なかった。ちょうどそのとき、彼の娘が泣き出した。「……悪い、娘が泣いてるから。じゃ!」そう言って、逃げるようにその場を離れていった。越人は、思わず目をひん剥きたくなるような気分だった。愛美が彼の腕に手を絡めながら聞いた。「なんでそんな目で憲一のこと見るの?」「もう父親なんだってのに、あいつの態度、どう見てもまともじゃないだろ」越人はぶっきらぼうに答えた。愛美は憲一のことをそれほど悪く思っていなかった。「でも、子どもの面倒よく見てるよ。あそこまでできれば、男としては立派よ」「……ハードル低すぎないか?」越人は言った。愛美は甘えるように寄り添ってきた。「じゃあ、もし私たちに子どもができたら……あなた、憲一みたいにできる?」「もっと上手くやってみせるよ」越人はきっぱりと答えた。「今の言葉、録音しとけばよかった〜」愛美は腕に頬を寄せながら、幸せ