「いいですか? ジェニファー様は少しも悪くありません! むしろ利己的なのはジェニー様の方です!」「シ、シド……?」「だってそうですよね? 教会にお使いに行かせたのだって、ジェニー様は自分の名前で行かせたじゃないですか! 最初からそんなことをしていなければフォルクマン伯爵に嫌われることも無かったし、ニコラス様と結婚していたのはジェニファー様だったはずなのですよ!?」けれどジェニファーは首を振る。「だけど、喘息発作でジェニーが死にかけたのは私が彼女の側にいなかったからよ。大恩人のフォルクマン伯爵を裏切るようなことをしてしまったのだから嫌われても仕方ないわ……それに私は貧しい没落貴族。侯爵家のニコラスと結婚なんか出来るはず無いもの」「! ジェニファー様……どうして、あなたはそこまで……」「でも……心配してくれてありがとう、シド。家族以外の人で、今までこんなに私のことを気に掛けてくれた人は1人もいなかったから。嬉しかったわ」まるで全てを諦めたかのように悲し気に微笑むジェニファー。「そんなこと……言って……俺……は……」怒りとも悲しみとも言えぬ気持ちが込み上げ、シドは顔を伏せた。「改めて写真のことも色々とありがとう。私なら大丈夫だから、もう行っていいわよ? 色々とシドも忙しいでしょうから」その言葉は、「一人にして欲しい」とお願いしているよう聞こえる。「……分かりました。また何かありましたら、お呼び下さい。いつでもすぐに駆け付けますから」「ええ。ありがとう」「では失礼いたします」シドは立ち上がると、重い足取りでジェニファーの部屋を後にした。「もう駄目だ……これ以上、あんな悲し気なジェニファー様の顔なんか見たくない……!」廊下を歩きながらシドは呟いていた。ここ最近、ずっと彼の頭の中を占めていたのはジェニファーのことばかりだった。悲しい顔を見れば胸は締め付けられ、笑顔を見れば嬉しい気持ちになる。自分で自分の心を持て余していた。その時。「あら? シドさんじゃありませんか」顔を上げると、洗濯物のカゴを手にしたポリーだった。「あぁ、ポリーか」前髪をかき上げてため息をつく。「もしかしてジェニファー様のお部屋に行ってらしたのですか?」「あ、ああ。そうだ」シドはポリーの言葉に何故かドキリとした。「私もこれからジェニファー様のお部屋にリネ
「ジェニーが……あの写真を展示して良いと言ったの?」ジェニファーの声が震える。「はい、そうです」「それって、いつのことなの……?」「今から3年ほど前だったそうです。店主は15年前に撮影した写真の出来があまりに良かったので、展示をしたいと思ったそうです。ですが、名前しか聞いていなかったので連絡を取ることも出来ず、10年以上の歳月が流れてしまったのです」「そうだったわ、あの写真は私の名前でお願いしたから……」ジェニファーは15年前の記憶を思い出す。「そして突然、その機会は訪れました。3年前にジェニー様があの写真店に現れました」「3年前……それって、ニコラスとジェニーが再会した時期よね?」「はい。3年前、お二人は婚約時期にこの城に滞在していたことがあります。恐らくその際にあの写真屋へ行ったのでしょう。店主の話だと、侍女らしき女性と二人で写真の現像を頼みたいと来店しました。その際に名前を聞いて、すぐに当時の写真を見せて、この写真に写るのはお客様でしょうかと尋ねたそうです」「それで……ジェニーは……?」声を押し殺してジェニファーは尋ねた。「ジェニー様はかなり驚いていたそうです。そして、とても良く撮れているので是非展示して欲しいと返事を貰えたと話してくれました」「そうだったの……ね……」ジェニファーはスカートをギュッと握りしめて俯く。(そんな……あの写真が、ジェニーに知られてしまっていたなんて……私、なんてことを……!)「ジェニファー様? どうされたのです? 大丈夫ですか? 気分でも悪いのですか?」ジェニファーの様子がおかしいことに気付き、シドは立ち上がって近くに来た。「私、ジェニーを傷つけてしまっていたのだわ……なのに……謝りたくても、もうジェニーはこの世にいない……どうすればいいの……?」どうしようもない罪悪感が胸に込み上げてくる。「え? 何を仰っているのですか?」シドが眉をひそめた。「私ね……ジェニーと約束していたの。ニコラスと会ったその日の出来事は全て報告するって。だけどニコラスと写真を撮ったことは報告しなかったの。ジェニーに悪い気がして……ううん、違う。そうじゃないわ……あの写真だけは、自分が身代わりじゃなく、ジェニファーなんだと……その証が欲しかったの。さぞかしジェニーは驚いたでしょうね。だって彼女の信頼を裏切るようなこ
昼食を終え、ジョナサンを寝かせつけた後にシドがジェニファーの部屋を訪ねて来た。「ジェニファー様。お時間を取っていただき、ありがとうございます」「そんなこと気にしないで。ジョナサンもさっき、お昼寝に入ったばかりだから当分目が覚めないと思うし。どうぞ、かけて」「ありがとうございます」椅子を勧められて座るとジェニファーも向かい側に座った。「シド。用件は何かしら?」「報告したいことがあって、訪ねたのですが……ジェニファー様。本日俺の不在時に何かありましたか?」シドはじっとジェニファーを見つめる。「え? どうしてそんなことを聞くの?」「いえ、ただジェニファー様が普段よりも元気が無いように見えたので」「そう? 私はいつもと同じよ。何も変わりないと思うけど?」「いいえ。少なくとも俺の目にはそうは見えません。何かあったのですよね?」シドは身を乗り出した。「シド……」「俺はニコラス様からジェニファー様を見守るように命じられています。もし差し支えなければ何があったのか、話していただけませんか?」ニコラスからそこまで、踏み込むような命令は一切受けていない。けれどシドはどうしても憂いの表情を浮かべているジェニファーを放っておけなかったのだ。そんなシドを見て、ジェニファーは思った。(あまりシドを心配させるわけにはいかないわよね。私は護衛してもらうような身分でも無いのに)「分かったわ……あのね……」そこでジェニファーは、中庭に置かれた温室の話をした。あの温室には品種改良した青いバラが栽培されており、ジェニーローズと名付けられていること。そしてメイド達が、いかにジェニーを大切に思っていたかを。「短い生涯だったけどジェニーは幸せに生きられたようで安心したわ。だって彼女は私にとって大切な存在だったから。でも残念だわ……出来れば、ジェニーが生きている内にもう一度会って話をしたかったのに」ジェニファーは寂しげに笑う。「……そんなことが、あったのですか……?」シドが何処か苦しそうに問いかける。「でも私の様子がいつもと違うって、よく分かったわね。シドの目はごまかせないみたいね」「そんなことは当たり前です。何故なら俺は……」そこまで言ってシドは言葉を切った。(今、俺は一体何を言おうとしていたんだ……?)「どうかしたの?」「いえ、何でもありません
――翌日朝食を終えたジェニファーはジョナサンをベビーカーに乗せて中庭を散歩していた。「今日も良い天気ね。風がとても気持ちいいと思わない? ジョナサン」ジョナサンに早く言葉を覚えて貰いたいジェニファーは一生懸命話しかけていた。そのとき、目の前を一匹の蝶が飛んでいく。「アー?」ジョナサンは蝶を指さして首を傾げる。「今のが何か知りたいのね? あれはね、蝶って言うのよ」「チョー?」「ふふ、そうよ。蝶よ。羽がとても綺麗でしょう?」するとジョナサンは手をバタバタさせて、蝶が飛んで行った方角へ行きたがる素振りを見せる。「もしかしてもっと蝶を見たいの?」尋ねるとジョナサンは嬉しそうに頷く。「分かったわ、なら行ってみましょう」ジェニファーは早速後を追うと、ヒラヒラと飛んでいた蝶が温室の入口へと吸い込まれるように入ってしまった。「あ! あそこは……」ジェニファーの顔が暗くなる。そこは最初に立ち入り禁止を言われた温室だったからだ。執事のカルロスからは立ち入ってはいけない場所は何処もないと言われたものの、とてもではないが中へ入ることなど出来なかった。(どうして昨日といい、今日といい……)「チョーチョ、チョーチョ」しきりに温室へ行きたがるジョナサン。「ごめんなさい、ジョナサン。駄目なの、あの中へ入ることは出来ないのよ」「ダーッ」途端にジョナサンは不機嫌そうな表情を浮かべる。そこでジェニファーはベビーカーからジョナサンを抱き上げた。「それならお部屋で積み木遊びはどう? ジョナサンは積み木が好きでしょう?」するとコクリと頷くジョナサン。「ふふ。ジョナサンは聞き分けの良い子ね。それじゃ、お部屋に戻りましょう」ジェニファーはジョナサンにおしゃぶりをくわえさせ、再びベビーカーに乗せた時。話し声が風に乗って聞こえてきた。「今日もジェニーローズは綺麗に咲いていたわね」「ええ。ジェニー様の瞳の色によく似ているわ。早速エントランスに飾りましょう」(え!? ジェニーローズ!?)その言葉に驚いたジェニファーは足を止め、茂みに隠れるように様子を伺った。すると2人のメイドが楽し気に会話をしている。それぞれメイドは大輪の青いバラの花を手にしていた。「青いバラ……。ジェニーローズ……まさか、あのバラは……」メイド達がこちら側に近づいて来たので、慌ててジェ
(ど、どうしてあの時の写真がここに飾られているの……?)写真の中のニコラスとジェニファーは無邪気な笑顔で映っている。それは失われてしまった大切な思い出。ニコラスはもう笑顔をジェニファーに向けてくれることは無いし、ジェニファー自身もフォルクマン伯爵家を追い出されてから、心の底から笑うことが出来なくなってしまった。いつもどこか、空虚な気持ちを抱えて生きていたのだ。(もう私は……この頃のように笑うことは出来なくなってしまった……)呆然と写真を見つめるジェニファー。一方、何も知らないポリーは、楽しそうに想像を膨らませている。「この子たちは貴族なのでしょうか? 2人とも良い身なりをしていますよね。顔は似ていないので、兄妹では無さそうですね。ひょっとして、お友達同士なのかも……ジェニファー様はどう思いますか?」「そ、そうね……多分、仲の良い友達同士なのではないかしら?」何とか返事をするも、冷静ではいられなかった。「あら? でもこの写真の子達……何処か見覚えがあるような……?」ポリーが首を捻ったそのとき。「ポリー。写真も見たことだし、もういいだろう? ジョナサン様はお休みになられたのだから、寄り道はこれくらいにしておけ」シドがポリーを窘めた。「あ、そうでしたね。すみません。初めて写真を見たものですから、つい浮かれてしまいました。ジェニファー様にも、申し訳ございません」ペコリとポリーは頭を下げた。「別に気にしなくていいのよ。それでは帰りましょうか?」出来るだけ平静を装いながらジェニファーは返事をし、3人は岐路へ着いた――城へ到着したのは16時を少し過ぎた頃だった。メイドの仕事が残っているポリーとエントランスで別れると、シドが声をかけてきた。「ジェニファー様、お疲れですよね? 部屋まで送ります」「え? ええ。ありがとう」返事をするとシドは口元に少しだけ笑みを浮かべ、2人はジェニファーの部屋へ向かった。「……あの写真、さぞかし驚かれたのではありませんか?」歩き始めると、すぐにシドが話しかけてくる。「そうね、驚いたわ。あの写真は私が持っているはずなのに、何故なのかと思ったの。でも考えてみれば不思議なことではないわよね。だって15年前に、あのお店で写真を撮って貰ったのだから。まさか飾られているとは思わなかったけど……シドは、あの店に写真が
城に帰るため、3人は町中を歩いていた。「あ……」ふと、ジェニファーは前方に見える建物に気づいて足を止めた。(あの建物……何だか見覚えがあるわ……。あ! そうだ……思い出したわ)その建物とは、15年前に何度か足を運んだことのある写真館だったのだ。シドも気づいたのか、じっと写真屋を見つめる。「ジェニファー様、どうかしたのですか?」何も知らないポリーが尋ねてきた。「い、いえ。何でも無いの」ジェニファーは視線をそらせるも、ポリーが気づく。「あ! あの店は写真屋さんですね!? 何か飾られているみたいですよ」写真屋の窓からは通行人に見えるように、写真が飾られている。「そ、そうねみたいね」なんと答えればよいか分からず、ジェニファーは曖昧に頷く。「ジェニファー様、お願いがあるのですが……実は私、一度も写真を見たことが無いのです。ほんの少しで構いませんので、あの棚に飾られている写真を見に行ってもいいでしょうか?」好奇心旺盛なポリーが頼んできた。「え……?」15年前……元はと言えば、写真の件が絡んでこなければジェニファーはフォルクマン伯爵から恨まれることも無ければ、ジェニーやニコラスとの関係もこじれることは無かったかもしれない。そう思うと、あの写真屋に足を運ばれるのは躊躇われた。けれど真剣な目でポリーに頼まれては断ることは出来ない。(そうよね……もう過ぎ去ってしまったことをいつまでも悩んでいても仕方がないわね。後ろ向きな考えは捨てないと)ジェニファーは自分の中で結論づけると頷いた。「そうね。では行ってみましょうか?」「ありがとうございます!」ポリーは笑顔でお礼を述べると、先に立って写真屋へ向かって歩き始めた。ジェニファーも後に続こうとしたとき。「ジェニファー様、写真屋に行ってもよろしいのですか?」ジェニファーの気持ちを察してか、シドが小声で素早く尋ねてきた。「ええ、いいのよ。別に行って何があるというわけでもないし。何よりポリーがあんなに嬉しそうにしているのだもの」「……そうですね。では行きましょう」そこで2人もポリーの後を追って写真屋へ足を向けた。「素敵……これが写真というものなんですね」ジェニファーとシドが写真屋に辿り着いた頃には、ポリーは真剣な眼差しで写真を見つめていた。棚には、色々な写真が飾られている。『ボニート』