石畳の上を、七菜の足音が軽やかに響いていた。夕暮れの光が、まだ秋の名残を含んだ風に透けて揺れる。三人はホールを後にし、ゆるやかな坂道をのぼっていた。陽が傾くにつれ、空の色はだんだんと深みを増し、橙から藍への移ろいが空の端に滲んでいる。
七菜は数歩先を歩いていた。演奏を終えた後の高揚がまだ身体の内側で温かく灯っているのか、背中は伸び、スカートの裾が風にふわりと舞った。
智久と春樹は、その小さな背中を見送りながら、自然と同じ歩幅で並んでいた。言葉はなかったが、その沈黙は以前のような気まずさではなく、むしろ、しっくりと肩に馴染む布のような穏やかさを帯びていた。
小さな公園の前を通りかかったとき、七菜がちらりと振り返り、ふたりに手を振った。
「ちょっとだけブランコ乗っていい?」
「いいよ。でもすぐ行くぞ」
智久がそう言うと、七菜は嬉しそうに駆け出していった。
その後ろ姿を見送りながら、ふと、智久は春樹のほうを向いた。声に出すほどの思いではなかったのに、不意に言葉が口をついて出た。
「なあ、春樹」
春樹は、少し目を細めて顔を向けた。
「ん?」
智久は、一拍置いたのち、前を歩く七菜に視線を戻した。そしてそのまま、何気ない口調で続けた。
「次はさ…三人で弾いてもいいかもな」
春樹の足が、一瞬だけ止まりかけるようにわずかに遅れた。すぐに歩を戻しながら、その横顔に驚きが浮かんだ。それは大げさなものではなく、ほんの少し眉が上がり、目元がゆるんだだけの反応だったが、智久にはそれで十分だった。
春樹は、口元に小さく笑みを浮かべた。
「三人で?」
「うん。七菜と、おまえと、俺と」
智久の声は低くて、どこか照れたような響きを含んでいた。まるで、その場で初めて思いついたような言い方だったが、言葉の奥にあるものはもっと深く、静かな覚悟のようなものが込められていた。
春樹はしばらく黙っていた。前を歩く七菜の背中に視線を投げたあと、ゆっくりと息を吐くように笑った。
「じゃあ…誰が歌う?」
その
雨がすっかり上がった夜だった。和室の障子は閉じられたまま。けれど、その隙間から、廊下に細く柔らかな光が漏れていた。蛍光灯の白ではなく、あたたかな電球色。その色が、夜の静けさをさらに濃く染めていた。昭江は、一人だった。膝をそろえて座り、姿勢よく、何も置かれていない譜面台を見つめていた。ピアノの蓋は開けられ、鍵盤はその全貌を明らかにしている。けれど、彼女はまだ指を動かしていない。呼吸のように浅く胸が上下するだけで、部屋の空気はどこまでも静かだった。そして、ゆっくりと、右手の指先が一音を選んだ。「…」和音ではなかった。旋律でもない。たったひとつの単音。それは、鍵盤を押した瞬間から、部屋いっぱいに広がるようだった。天井にも、畳にも、壁にも、染み込むようにして、その音は鳴った。かつて毎日この部屋で響いていた音楽とは違う。訓練や練習や指導のためのものではなく、もっとずっと素朴で、ためらいがちで、けれど心の奥底から出てくるような、そんな音だった。音が消えても、空間はしばらくその余韻を抱きしめていた。まるで誰かを包むように。慰めるように。あるいは見送るように。その音が鳴ったとき、ちょうど智久は廊下を歩いていた。風呂上がりで髪がまだ少し湿っており、白いシャツの裾を片手で押さえながら、自室へ戻ろうとしていた足が、不意に止まった。和室の扉の前で、立ち尽くす。光が細く、扉の下から漏れている。音はもう止んでいるのに、そこに何かが残っている気がしてならなかった。耳に届いたのは、ほんの一音だった。だが、そのたった一音が、まるで彼の背中をそっと押したようだった。智久はゆっくりと呼吸を整えた。肩が少しだけ上がって、そしてすうっと落ちる。誰にも見られていないというのに、その動作は不思議なほど静かで、そして美しかった。彼は扉を開けなかった。けれど、その場を離れずに、ほんのしばらく立っていた。まるでその音の行方を追いかけるように。和室のなかでは、昭江が静かに目を閉じていた。指先はまだ鍵盤に残っている。音はもう鳴っていないのに、その余韻だけが、あたたかく手
昭江は静かに湯呑を置いた。その音は畳の上ではさして響かず、それでも、智久には妙に鮮明に届いた。何も語らぬ時間が、息を潜めるように流れていく。昭江の目はもう智久から逸れていた。窓のほうへ、淡く明るさを取り戻しつつある空を、ただ見つめている。雨が細くなっていた。降っているのか止んだのか、その境界が曖昧なまま、路地の石畳に残る水たまりだけが、風のゆらぎを映していた。「智久」それは唐突ではなく、けれどあまりに自然すぎて、智久の背筋が一瞬だけわずかにこわばった。名前を呼ばれることに、こんなに体が反応するのかと、自分自身に驚くほどだった。「自分を…幸せにする勇気を持ちなさい」ゆっくりとした口調だった。語尾は微かに揺れていて、しかし芯のある響きが、畳の縁をなぞるようにして智久の胸の奥に届いた。言葉を飲み込もうとした瞬間、喉の奥がかすかに鳴った。返事をしようとして、声が出なかった。昭江が、ふと右手を伸ばした。智久の前に置かれた膝の上、その手の甲の上に、そっと自分の手を重ねる。年齢の刻まれた細い指だった。けれど、その触れ方には、幼い日の記憶を呼び起こすような、どこまでもやわらかな温度があった。智久は、その手から目を逸らさずにいた。何も言えなかった。ただ、重なった母の手を、ゆっくりと自分の指で包んだ。ぎこちなくもなく、急ぐこともなく、まるで風が木々の間をすり抜けていくように。その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。ようやく息を吐いた。深く、音のある呼吸だった。肺の奥に滞っていた澱のようなものが、吐息と一緒にすこしずつ抜けていくのが、自分でもわかった。この音だ、と智久は思った。ずっと許せなかった自分自身を、やっと赦すことができた音。誰かの前で泣くことができず、ひとりで気丈にいようとしてきた年月のなかで、心の奥に積もった埃のような後悔や痛みが、ふとした拍子にほどけるときの、そんな音だった。昭江は何も言わず、手を離さなかった。見つめてもこなかった。ただ、その手のひらの温もりだけが、言葉より確かに、「ここにいる」と語っていた。窓の外、雲の
「私はね、音を聴く人間なのよ」その言葉は、まるで水面に一滴、静かに落とされた雨粒のようだった。響きすぎもせず、沈黙に吸い込まれることもなく、ただ自然にそこに落ちた。昭江の声は、少しかすれていた。けれど、それは年齢による衰えではなく、積み重ねた静けさの奥にある“熱”が少しだけ滲み出たような声音だった。智久は、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。ただ、視線を落としていた床が、ふと自分には馴染みのない深さを持っているように感じられ、ゆっくりと顔を上げる。昭江は座布団に浅く腰掛けたまま、右手で眼鏡のブリッジを軽く押し上げていた。その仕草が終わらないうちに、彼女は続けた。「言葉で伝えるより、音で伝えた方が、届くことってあるの。あなたも…昔は、少しだけ、それがわかってたと思うのよ」静かに、けれどまっすぐに放たれる言葉に、智久は思わずまばたきをひとつ挟んだ。「春樹くんがね、うちでピアノを弾き始めた頃…あの子はまだ、とても無表情だったの。でも、音には不思議な熱があったのよ。どこにもぶつけることができない思いを、鍵盤にだけ載せていた」昭江は言いながら、膝の上で重ねた手をほんのわずかに動かした。指先がふるえるように動いて、止まる。その静けさのなかで、彼女は目を細めた。「でもね、ある日、音が変わったの。はじめて、“誰かを思っている音”になった」智久の心臓が、不意に一度、大きく跳ねた。昭江は、まっすぐに息子を見ていた。その目の奥に、断定でも非難でもなく、ただ確信だけがあった。「春樹くんが、あなたのことを想っていると気づいたのは、その音のせいよ。あの子自身も、気づいていなかったかもしれない。でも、音は正直だった。そういう意味で、あの子は、あなたに…とても似ているのよ」言葉の最後が落ち着くより早く、智久の喉がかすかに鳴った。それは何かを飲み込む音ではなかった。ただ、反応として自然に、逃れるように、もしくは無意識に動いてしまった身体のひとつの“音”だった。
湯のみを持つ手が、かすかに揺れた。熱はほとんど残っていない。けれど、智久の指先は妙に湿っていて、そこに吸いつく陶器の感触が落ち着かなさを煽る。口元は乾いているのに、喉の奥は不思議と潤っていて、何かを吐き出すタイミングを逸し続けていた。和室の隅に置かれた掛け時計が、淡々と時を刻んでいる。秒針の音がこんなにも鮮明に耳に入るのは、この空間にどれだけの静けさが広がっているかの証だった。昭江は正面に座っていた。座布団の縁からきちんと揃えた膝、背筋を伸ばしすぎず、けれど決して崩れない姿勢。そのまま、何かを待っているようだった。智久は湯のみを口元に運んだが、飲むふりだけしてそれをまた膝の上に戻した。「母さん」呼びかけた声が、自分でも驚くほどかすれていた。「……春樹とのこと、もうわかってるよね」言葉を切るまでに、一拍置くのが精一杯だった。昭江の視線は、動かなかった。けれど、それは“無関心”ではなく、“揺れなさ”だった。まるで、ずっと前から知っていたことを、いま改めて静かに認めているかのように。頷いた。その仕草も、音を立てず、無駄な揺れがなかった。智久はもう一度、湯のみを手にとって口元に運ぶ。今度は、ほんの少しだけ、唇を濡らす程度に飲んだ。けれどその小さな動作のあと、思いがけず大きな息が胸の奥から漏れてしまった。「……恥ずかしいと思ってる?」問うたあと、自分でもなぜそう尋ねたのか、わからなかった。昭江は、その問いかけに、何の反応も示さなかった。頷きもせず、首を振りもしなかった。ただ、まっすぐに智久を見ていた。沈黙が落ちる。それは、拒絶でも承認でもなかった。けれど、智久の胸の奥に何かが、音もなく沈んでいくのを感じた。「俺、自分の気持ちに向き合うのが遅すぎたと思ってる」続けて話す声には、どこか吐き出すような響きがあった。「妻を亡くしてから、自分のことなんか後回しだった。
家の中に、雨の音がしんと染みこんでいた。降り始めたのは、午後も深くなったころだった。細くて冷たい雨粒が瓦を打ち、縁側をかすめ、和室の障子の向こうでひたすら静かに、繰り返しを奏でている。昭江は、その音に背を向けていた。和室の奥、灯りもつけないまま、開けたままのピアノの蓋に向かって、すうっと腰を下ろす。その手はすぐに鍵盤には触れず、ただ、鍵盤の白黒を見つめるだけだった。目を細め、何かを確かめるように。やがて指が動いた。触れたのは、いちばん端の白鍵。押したのではない。ほんの、そっと。まるで、その鍵がまだ音を出す器官であることを、手のひらで思い出しているような、そんな動きだった。それでも、その無音は、室内に何かを満たしていた。雨の音と、昭江の静かな気配とが入り混じって、まるで演奏の前奏のように和室を包んでいた。そのとき、廊下のほうから軋むような足音がひとつ、二つ。畳の上に乗ると、それはさらに深く低く響いた。智久だった。上着を脱ぐ音もなく、ただゆっくりと和室の敷居をまたぐ。そこにいる母の背中に、どう声をかけるべきかを探しているのが、その立ち止まりかたに滲んでいた。昭江は振り返らなかった。けれど、気づいているのは明らかだった。鍵盤に置いた指先がわずかに動いた。その震えが、雨の粒が弾ける音と重なる。智久はひと呼吸だけ間を置き、それから黙って、畳に膝をついた。母の正面ではなく、少しだけ離れた位置に座る。そこは、昭江の指が触れている鍵盤の端からちょうど視線の角度で見える位置だった。「……ただいま」小さな声だった。だが、雨音よりは確かだった。昭江はそれに応えるように、ゆっくりと鍵盤から手を離した。鍵を撫でた指がそのまま膝の上に戻る。その仕草に、演奏を終えた演奏者のような静けさがあった。「おかえりなさい」声は出なかったが、唇がわずかに動いた。智久はその動きを目で追い、そしてわずかに頷いた。和室には、言葉ではなく音のない会話がしばらく続いた。雨は止まず、ただ、同
石畳の上を、七菜の足音が軽やかに響いていた。夕暮れの光が、まだ秋の名残を含んだ風に透けて揺れる。三人はホールを後にし、ゆるやかな坂道をのぼっていた。陽が傾くにつれ、空の色はだんだんと深みを増し、橙から藍への移ろいが空の端に滲んでいる。七菜は数歩先を歩いていた。演奏を終えた後の高揚がまだ身体の内側で温かく灯っているのか、背中は伸び、スカートの裾が風にふわりと舞った。智久と春樹は、その小さな背中を見送りながら、自然と同じ歩幅で並んでいた。言葉はなかったが、その沈黙は以前のような気まずさではなく、むしろ、しっくりと肩に馴染む布のような穏やかさを帯びていた。小さな公園の前を通りかかったとき、七菜がちらりと振り返り、ふたりに手を振った。「ちょっとだけブランコ乗っていい?」「いいよ。でもすぐ行くぞ」智久がそう言うと、七菜は嬉しそうに駆け出していった。その後ろ姿を見送りながら、ふと、智久は春樹のほうを向いた。声に出すほどの思いではなかったのに、不意に言葉が口をついて出た。「なあ、春樹」春樹は、少し目を細めて顔を向けた。「ん?」智久は、一拍置いたのち、前を歩く七菜に視線を戻した。そしてそのまま、何気ない口調で続けた。「次はさ…三人で弾いてもいいかもな」春樹の足が、一瞬だけ止まりかけるようにわずかに遅れた。すぐに歩を戻しながら、その横顔に驚きが浮かんだ。それは大げさなものではなく、ほんの少し眉が上がり、目元がゆるんだだけの反応だったが、智久にはそれで十分だった。春樹は、口元に小さく笑みを浮かべた。「三人で?」「うん。七菜と、おまえと、俺と」智久の声は低くて、どこか照れたような響きを含んでいた。まるで、その場で初めて思いついたような言い方だったが、言葉の奥にあるものはもっと深く、静かな覚悟のようなものが込められていた。春樹はしばらく黙っていた。前を歩く七菜の背中に視線を投げたあと、ゆっくりと息を吐くように笑った。「じゃあ…誰が歌う?」その