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第1542話

Author: 夏目八月
皇后は制止を振り切って中へ駆け込んできた。血まみれの息子を目にした瞬間、鋭い悲鳴を上げて気を失ってしまう。

幸い御典医もその場にいた。宮人たちが慌てて皇后を外へ運び出し、御典医が介抱する。意識を取り戻した皇后は、声も枯れ果てるほどに泣き続けた。

玄武は部下を率いて場の統制を図り、暴走した馬を捕らえ、迅速に調査に取りかかる。

簾の中では、清和天皇が地面に跪いて震える手を大皇子の頬に触れていた。掌は鮮血で真っ赤に染まる。

丹治先生は既に鍼を打っていたが、天皇に場所を空けるよう告げた。まずは頭部の止血が先決だった。

鍼治療は命を繋ぎ止めるためのもの。持参した薬丸では飲ませることができない。さくらに止血の散薬を渡し、大皇子に飲ませるよう指示した。薬粉を飲み込ませることができれば、内臓出血の進行を遅らせられる。

丹治先生には状況がはっきりと見えていた。馬の蹄が身体を踏み抜いたのだ。馬と騎手の重量に加えて、あの速度である。内臓に致命的な損傷を負っているのは疑いない。

鍼を打たなければ、もう息絶えていただろう。

だが、たとえ一時的に命を繋ぎ止めたところで――救うのは至難の業だった。

大皇子の意識はかろうじて残っていた。さくらの切迫した声が聞こえる。何かを飲み込むよう促している。

痛い。全身が痛くてたまらない。耐え難い苦痛に身体が勝手に震えてしまう。怖い。自分は死んでしまうのだろうか?

それでもさくらの言葉には従おう。飲み込もう、必死に飲み込もうとする。だがそれには想像以上の力が必要だった。もう力が残っていない。口の中は苦い薬と血の味で満たされ、吐き気を催すが、それすらもできずにいる。

父上の声が聞こえるような気がした。恐れることはない、と。でも父上の声がひどく震えている。やはり自分は本当に死んでしまうのかもしれない。

父上、申し訳ございません。またお失望をおかけして……もう疲れ果てて、瞼を開けていられない。

「大皇子様、翼くん、眠っちゃだめ、しっかりして!」涙を流しながら、さくらが名前を呼ぶ。「早く目を開けて叔母を見なさい。叔母がいるわ、父上も母上もここにいらっしゃるのよ。お願い、目を覚まして」

清和天皇は手足が氷のように冷たくなり、その場にへたり込んでしまった。恐怖に満ちた目で丹治先生を見つめ、唇を震わせる。「先生……翼は……」

丹治先生は顔を上
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