とわこは思った。蓮は明らかに、わざと自分との対話を避けている。考えれば考えるほど胸が苦しくなって、とうとう耐えきれず、奏に電話をかけた。「奏、蓮が留学を決めたの。私の元から離れていくのよ」電話の向こう、奏の呼吸が少し荒くなる。「俺にできることは?」「何もしないで。ただ、何もできないから」彼女は声を詰まらせた。「もう決めたって。マイクが言うには、遅くても明後日には出発するって。彼、もうこの家に一日たりともいたくないみたい」「彼がそう望んでるなら、行かせてやるしかない」奏は諦めたように言った。「とわこ、もう泣かないで。もう彼を子どもとして見るのはやめよう」「でもそう簡単に割り切れない。奏、私ね、このままじゃ、本当に彼を失ってしまいそうで、怖いの」「大丈夫だよ。彼は君の息子なんだ。永遠に失うなんてことはない」奏は優しく語りかける。「彼はただ俺と向き合いたくないだけ。君のことは、今も変わらず大切に思ってる。君だって、彼に会いに行けるさ。いくらでも」低く穏やかな声に、とわこの気持ちも少しずつ落ち着いていった。「とわこ、人生ってさ、何もかも思い通りにはいかないよ。でも蓮が元気でいてくれるなら、それだけで十分感謝すべきなんだよ」「うん明日は早起きして、ちゃんと話をしようと思う。どうせ行くなら悲しい気持ちのまま送り出したくない」「それがいい。今日はもう休んで」「うん。ところで、今なにしてるの?」「読書中」「何の本?」彼女は心の中で、彼の隣で寄り添っていたかった。「戦争関連のやつ」「あんまり遅くまで読まないでよ。明日に響いちゃう」「わかってる。おやすみ」電話を切ったあと、とわこは目を見開いたまま、暗い部屋の天井を見つめていた。奏が言っていた、「人生は思い通りにならない」ってこと、彼女だってわかっていた。彼だけじゃない。自分も、長い間、苦しい時期を生き抜いてきた。困難に直面しても、あの頃の自分はこんなに弱くなかった。必死で踏ん張って、この家を守ってきた。今は、奏がいる。だからこそ、信じたい。どんな困難も、きっと乗り越えていけると。翌朝。とわこは蓮の部屋を訪れ、話をしに行った。「蓮、ママは、あなたの決めたことを全部尊重するよ」昨夜泣きすぎたせいで、彼女の目は腫れていた。「ママはね、あなたの
とわこの平静だった心が、一気に冷え込んだ。「あいつ、俺を怖がってるんだ」奏が静かに言った。「だから悟の方を選んだ。俺のところにいたくなかったんだ」「奏、その話はもうやめよう」とわこは胸が締めつけられるように苦しくなった。「今日は結婚写真を撮る日でしょ。暗い話はやめようよ」彼女は思っていた。たとえ黒介が悟の元に戻ったとしても、和夫のそばにいるよりはずっといい。黒介は悟の実の弟だ。悟なら、どんな事情があっても、自分の弟をひどく扱ったりはしないはず。ほどなくして、撮影チームが現れた。ちょうどその頃、瞳もリゾート地に到着した。瞳のアドバイスを受けながら、とわこは三つの異なるテーマでの撮影を選んだ。今日は天気も良く、外での撮影はとても順調だった。当初は外での撮影が1回、スタジオ撮影2回の予定だったが、外の方がリラックスできたため、急遽もう1回外での撮影を追加することに。時はあっという間に過ぎ、夕方になった。館山エリアの別荘。夕食の時間。「先に食べよう。ママは今日はウェディングフォトの撮影で帰ってこられないからね」マイクはとわこに電話をかけた後、子どもたちにそう言った。レラは口をとがらせて文句を言った。「なんで週末に撮らなかったの?見たかったのに、パパとママの写真撮るとこ」マイクは吹き出して笑った。「だって、今撮らないと式に間に合わないんだよ。二人とも賢そうに見えて、実はけっこう抜けてるからな」レラ「そんなことわかってて仲良くしてるマイクも、同じくらいバカってことじゃん!」マイクの笑顔が一瞬止まった。「レラ、お兄ちゃんもうすぐ海外行っちゃうから、これからは俺が一緒に遊んであげるんだよ?ちょっとは優しくしてくれない?」「ふん、弟もいるし!」そう言って、レラは蓮の方を見つめた。「お兄ちゃん、海外に行かないでよ」「昨夜約束したよね。もう撤回なしだよ」蓮は落ち着いた声で答えた。「ううっ、でも、ママが許してくれないかもしれないよ。ママ、きっと寂しがるもん」「レラ、それは君のママがどうこうって話じゃないんだよ。お兄ちゃんが出て行かないと、君のパパ、うちの玄関くぐれないんだからさ」マイクが茶化すように言った。「それに、お兄ちゃんは勉強しに行くんだ。将来はパパよりすごくなるぞ!」レラは項垂れ、小さな唇を尖ら
とわこ「あの二人、また親子喧嘩したみたい。奏、うちに住んでたのに、また自分の家に戻っちゃった」瞳「親子なんて、喧嘩しないほうが珍しいって。先生に蓮の宿題をもうちょっと増やしてもらったら?」とわこ「普段から結構出てるよ。もしかしたら、結婚式には来ないかも。海外で大会があるらしくて」瞳「行きたくないなら、無理に来させなくてもいいんじゃない?大人になれば、親子の関係も自然と良くなるよ」とわこ「うん。ねえ、結婚写真撮りに行くんだけど、一緒に来ない?リゾートで撮るの」瞳「OK!ちょっと準備して、すぐ行くね!」メッセージを送り終えると、とわこは奏の方を見た。「奏、カメラマン、もう決まった?」「うん」「ねえ、水の中で撮るのってどうかな?この前見たんだけど、すっごく綺麗だったの!」とわこの妄想が広がる。「あとね、崖の上で撮ってる人もいたよ!」奏「まさか空まで行きたいって言うんじゃないだろうな?」とわこ「なんでわかったの?飛行機あるでしょ?それで空に行って、ドローンで撮るの!」奏は少し眉をひそめた。「本気?」とわこは数秒考えたあと、あっさりと諦めた。「やっぱり、普通に撮ろう。とにかく結婚式を終わらせなきゃ。だってもう子ども三人いるのよ?これ以上延ばしてたら、蓮が先に結婚しちゃうかも」「うちの息子がそんなに早く結婚すると思うか?」奏は彼女の隣に腰を下ろす。「あいつ、女に全然興味なさそうだけどな」「今は興味ないのは当然よ。まだ未成年なんだから」とわこは自信満々に言った。「大人になれば、ちゃんと目覚めるって」「それはどうかな。君、あいつは俺に似てるって言ってただろ?俺だって君に会うまでは、女なんて興味なかった」奏はあっさりと言った。「じゃなきゃとっくに結婚してたさ。君に拾われることもなかった」「拾ったって?ちょっと、奏、自惚れもたいがいにしてよ!」とわこの頬がうっすらと赤くなり、ふと二人の出会いを思い出す。「まあ、あの時は確かに拾ったかもね。あの事故で植物状態にならなかったら、あなたの母親が勝手に相手を決めるなんてできなかったはず。あの時はあなたの方が優秀だったかもしれないけど、今は私だって負けてないわ」奏の深い眼差しが、赤く染まった彼女の頬に落ちる。「今は君の方がずっと優秀だよ」彼は惜しげもなく賞賛の言葉を口にした。
「俺があいつを怖がるとでも思ってるのか?」奏は彼女の少し冷えた手をそっと握りながら言った。「あいつらが何をしようと、好きにさせておけばいい。俺に影響なんて与えられない」「本当に覚悟できてるの?」とわこは彼の冷静で毅然とした顔を見つめながら、不安が少しずつ消えていくのを感じた。「昨夜ずっと考えてた。こういうことがあるなら、遅かれ早かれ来るものだ。だったら怯えるより、堂々と向き合ったほうがいい」奏は彼女の手を引いてリゾートの中へと歩き出す。「君と子どもたちがそばにいてくれたら、それだけで十分だ。他のことなんて、どうでもいい」とわこの張り詰めていた心が、その瞬間ふっと緩んだ。「奏、そう思ってくれるなんて嬉しい」彼女は深く息を吸い込んだ。「もし、毎日を人生最後の日だと思って生きたら、もっと勇気が出るかもしれないね」「俺は今日を最後の日にしたくない」彼はぽつりと呟いた。「まだ君と一緒にいたりないんだ。ずっと、一緒にいたい。白髪のおじいさんになるまで」「ふふ、じゃあ秘密を一つ教えてあげるね」彼女は機嫌よく笑った。「前に白髪を抜いてあげるって言ったでしょ?あれ、ウソだったの。実は白髪なんてなかったの。ただ髪を一本抜いて、DNA検査に出したの」彼の表情が一瞬、固まった。「俺は君に感謝すべきかな。血を抜かれなかっただけマシだって」「血なんて抜いたらバレバレでしょ?奏はバカじゃないから、すぐ気づくに決まってる」そう言ってから彼女は話題を変えた。「でね、髪を抜いたあと、弥の髪もこっそり抜いたの。そしたら、痛がって『うわー!』って大騒ぎしてさ。今思い出しても笑えるよ」「俺と弥の鑑定をして、なんで黙ってた?俺がショック受けると思ったのか?」「和夫があなたに接触してきたこと、私に黙ってたじゃない」彼女はそう言いながら、道端の花を指先でそっと撫でた。ふいに、何かがひらめいたように顔を上げた。「ねえ、結婚写真撮るの忘れてない?」奏はきょとんとした表情になった。「ほら、普通さ、みんな結婚するとウェディングフォト撮るでしょ?結婚式で写真を飾るのが定番じゃない?」とわこが訊く。「今から撮れば間に合う」「え、ほんとに忘れてたの?ハハハ!周りの誰か、教えてくれなかったの?」とわこは彼のぽかんとした顔を見て、容赦なく笑った。「俺には経験がないから」彼
「あなたに悪意がなかったことは分かってる。でも、蓮はあなたの一言で父親と決裂することになったの。だからこれからは、何か言う前に、それが他人にどんな影響を与えるか、ちゃんと考えてから口にしてほしい」学校を出た後、とわこは深く息を吐いた。結翔は、次に蓮と会ったときに謝ると約束してくれた。ひとまず、この件は穏便に解決したようだった。車に戻ったとわこは、スマホを取り出して奏の番号を見つけ、電話をかけた。すぐに繋がった。「奏、蓮の件はもう心配しなくて大丈夫。彼のクラスメイトにはちゃんと説明したから。明日は私が蓮を学校に連れて行くわ。結翔も謝ってくれるって」とわこは、朝、奏が立ち去るときに見せた寂しげな後ろ姿を思い出し、胸が締め付けられた。蓮のために、彼は学校に多額の支援金を出し、高い報酬で外国人教師を雇った。すべては、蓮への愛ゆえの行動だった。今の蓮にはまだその想いが理解できない。でも、自分が父親になったとき、きっと分かる日が来る。「うん」奏は静かに答えた。「今どこにいるの?あなたに会いたい」「まずは、子どもをちゃんとケアしてあげてくれ」奏の声には少し沈んだ響きがあった。とわこには悟られまいと気持ちを抑えているようだった。「わかった。じゃあ、明日あなたのところに行く」「明日は式場に行く予定なんだ」「なら、私も一緒に行くわ」少しの間を置いて、奏は了承した。翌朝、とわこは蓮を学校まで送り届けた。結翔が蓮に謝っている姿を見届けた後、とわこは学校を後にした。彼女と奏の結婚式は、とあるリゾート施設で行われる予定だった。とわこは車でリゾート地へ向かい、奏と合流した。「奏、なんだか元気がないみたい。もしかして、蓮のことで傷ついたの?」彼女は彼の前に立ち、大きな手をぎゅっと握った。奏は首を振った。「悟が黒介を連れ去った」その言葉に、とわこの顔が一瞬で凍りついた。握っていた彼の手も、思わず離してしまった。「どうして悟に黒介を渡したの?」彼女は眉をひそめた。「自分が何をしてるか分かってるの?悟が黒介を連れて行ったって、あの人が黒介を大事にしてくれると思うの?」「黒介は悟の実の弟だ」「そんなこと分かってる!でも、あの人が黒介を引き取ったのは、世話をしたいからじゃない」とわこの両手は強く握られ、身体が
奏は「誰を欲しいんだ?」などとは尋ねず、ただ一言、冷たく返した。「もし俺が渡さないって言ったら?」悟は苦笑を浮かべた。「もし母さんがまだ生きていたら、俺たち兄弟がこうやって争う姿を見て、何を思っただろうな」「母さんを引き合いに出して俺を責めるな!」奏は怒鳴った。「母さんを死に追いやったのは、お前とお前の息子だろう?どの面下げて母さんの名前を口にできるんだ!」「どの面下げて?それはこっちのセリフだ!」悟の胸が激しく上下する。「俺は少なくとも、あの人の実の息子だった。お前はどうだ?奏、お前はその嘘でいつまで逃げ続けるつもりなんだ?お前は弟の人生を奪っておいて、今度は彼をこの家に閉じ込め続けるつもりか?」「閉じ込める?」奏はその言葉に一瞬、言葉を失った。「俺が彼の人生を奪った?お前は母さんを無実だとでも思ってるのか?これは母さんが仕組んだことだ!」「たとえ母さんが奏と黒介を取り違えたとしても、母さんはもう亡くなったんだ!これ以上、間違いを繰り返すわけにはいかない!黒介を俺に返せ!あいつは俺の実の弟だ!俺が生きてるうちはあんたに好き勝手させるつもりはない」「ただの知的障害者に、何の価値がある?」奏は吐き捨てるように言った。「お前、今の生活で余裕あるのか?お前とお前の息子だって食うのに精一杯じゃないか。黒介を引き取ってどうする?俺を脅す道具にする気か?」悟の目が血走る。「奏、お前、自分の良心に問いかけてみろ!俺がこの人生でお前を一度でも傷つけたか?兄として、お前を虐げたことがあるか?ないだろう!俺が望んでるのは、ただ自分の弟を取り戻したいだけなんだ。それをお前が拒む権利なんてあるのか」「お前は常盤グループの社長だろ?そんなお前が、ただの一般人の俺を恐れるのか?黒介を家に戻さなかったとしても、俺が本気でお前を脅す気になれば、他にいくらでも手段はある」リビングに緊迫した空気が流れた。今にも爆発しそうなほど、張り詰めている。「奏として生き続けたいのなら、それでも構わない。でも黒介は俺に返してほしい。あいつを連れて帰りたいんだ」悟の声は少し落ち着き、どこか交渉めいた響きを持っていた。「この事実を知ったのは、つい最近だ。気持ちの整理がつかなくてな。他のことは今は考えたくない。ただ、俺の弟を家に連れて帰りたい、それだけなんだ」奏は悟のやつれた顔