とわこは彼の唇にそっとキスをしてから、彼を押し返した。「電話出て。私はドレス脱いでくるね」奏はポケットからスマホを取り出し、発信者を確認してから電話に出た。「今日、悟が黒介を連れてDNA鑑定を受けに行きました」電話の向こうから部下の声が聞こえる。「どうも鑑定する動機が怪しいです。実の弟だと分かってるくせに、わざわざあなたから黒介を引き離して、DNAまで取りに行くなんて」奏は鏡の前のとわこに目をやった。彼女は背中のリボンをほどこうとしていた。「引き続き見張ってろ。何かあればすぐ報告しろ」そう言って、彼は通話を切った。「誰から?」とわこが振り向きながら尋ねる。「悟が黒介を連れてDNA鑑定をしたらしい。君、黒介のこと心配してただろ?だから念のため人をつけてる」彼はそう言いながら、彼女の後ろに回り、リボンを解いてやった。「悟、あなたに何か言ってきた?」とわこは何となく胸騒ぎを感じて聞いた。「今のところ、何も」「もしあの人たちが、お金を要求してきたらあなたは渡すつもり?」ふとした気持ちで聞いたが、言葉に棘がにじむ。「ほら、あの人たち、実家を売ったお金なんて、きっとすぐに使い切るわよ。そしたらまた頼ってくるに決まってる」「そうなったら、その時考える」まだ起きてもいないことを、今から気に病んでも仕方ない。「まったくあの人たち、まるで鬼ね!」とわこは眉をひそめた。「それに、和夫もまだA市にいるんでしょ?」「あいつらのことで心乱されるな」奏は彼女のドレスを脱がせると、隣にあった部屋着を手に取り、そっと彼女の頭からかぶせた。「今日はもう外出せずに、家でゆっくり休んでろ」「うん、娘と一緒にいるわ。蓮が出て行ってから、あの子ずっと寂しそうだったから」「しっかり慰めてやれ。悲しみは時間が癒してくれるさ。慣れてしまえば、案外平気になる」時は流れ、五月の終わりが近づいていた。明日はいよいよ、とわこと奏の結婚式。この盛大な式に向けて、主要メディアは連日、特集記事を掲載していた。「関係者によれば、当日はおよそ千名もの招待客が出席予定。街の名士が一堂に会す豪華絢爛な式に!」「このウェディングは、数百億円をかけて執り行われるとのこと。全ては、たった一人の女性の微笑みのために!」ふたりの結婚写真は、各紙の一面を飾った。
奏はレラを片腕で抱き上げ、もう一方の手でしっかりととわこの手を握った。彼の後を追いながら、とわこは空港のロビーを後にした。向かったのは空港の管制センターだった。大きなガラス窓の向こうには、滑走路が一望できる。「あと三十分で、蓮の乗った便が離陸するはずだ」奏は彼女の手を引いて窓辺に向かって歩きながら言った。「昨夜、マイクと少し話をした。彼の考えに、俺も同感だった。今、蓮が海外で学ぶこと、それが彼にとって、きっと一番いい選択なんだ」とわこは黙って彼の言葉を待つ。「予選では、蓮は結翔より三点だけ上だった。それだけの差じゃ、結翔が採点の公平性に文句を言いたくなるのも無理はない。三十点差なら誰も何も言えないけどな。つまり、実力がまだ足りてないってことだ」その言葉に、とわこの眉がきゅっと寄った。「ちょっと息子に厳しすぎない?結翔くんは三歳年上でしょ?ってことは三年間も多く勉強してるのよ?それに対して三点上だったって、むしろすごいことじゃない!」「だけど、結翔に疑いをかけられただけで、彼は感情的に崩れてしまった」奏は冷静なまま彼女を見つめる。「実力を上げるか、心の強さを鍛えるか。そのどちらかが必要だ。蓮が実力を伸ばす方を選んだなら、俺たちはそれを支えてやるべきなんだ」とわこは大きく息を吸い、目を窓の外へ向けた。「本当に強くならないと、ちょっとした言葉で簡単に揺さぶられてしまう。俺は、自分の息子には、いずれ俺を超えてもらいたいんだ。そうすれば、自分と家族を守れる強さを持てる。だから、今の短い別れなんて、我慢できる」とわこは彼に目を向けた。「あなたの言ってること、たぶん正しいわ。でも、気持ちの問題なのよ。頭では理解してても感情がついていかない。彼が十七歳だったら、ここまで辛くはなかったと思う。あなたが初めて海外に行ったとき、こんなに幼くなかったでしょ?」「でも、これは彼自身が決めたことだ。俺たちが無理やり行かせたわけじゃない」「ほら、やっぱりそう言うと思った」とわこは深く息を吐いて、うっすらと涙を浮かべた目で彼を見上げた。「あなたさ、自分で性格が悪いって言ってたけど、本当にそうよ。たまにすごく嫌になる。蓮がこんなに頑固なの、絶対あなたに似たんだわ」彼は何も言い返さなかった。やがて、滑走路の向こう、蓮の乗った飛行機が静かに動き
とわこは思った。蓮は明らかに、わざと自分との対話を避けている。考えれば考えるほど胸が苦しくなって、とうとう耐えきれず、奏に電話をかけた。「奏、蓮が留学を決めたの。私の元から離れていくのよ」電話の向こう、奏の呼吸が少し荒くなる。「俺にできることは?」「何もしないで。ただ、何もできないから」彼女は声を詰まらせた。「もう決めたって。マイクが言うには、遅くても明後日には出発するって。彼、もうこの家に一日たりともいたくないみたい」「彼がそう望んでるなら、行かせてやるしかない」奏は諦めたように言った。「とわこ、もう泣かないで。もう彼を子どもとして見るのはやめよう」「でもそう簡単に割り切れない。奏、私ね、このままじゃ、本当に彼を失ってしまいそうで、怖いの」「大丈夫だよ。彼は君の息子なんだ。永遠に失うなんてことはない」奏は優しく語りかける。「彼はただ俺と向き合いたくないだけ。君のことは、今も変わらず大切に思ってる。君だって、彼に会いに行けるさ。いくらでも」低く穏やかな声に、とわこの気持ちも少しずつ落ち着いていった。「とわこ、人生ってさ、何もかも思い通りにはいかないよ。でも蓮が元気でいてくれるなら、それだけで十分感謝すべきなんだよ」「うん明日は早起きして、ちゃんと話をしようと思う。どうせ行くなら悲しい気持ちのまま送り出したくない」「それがいい。今日はもう休んで」「うん。ところで、今なにしてるの?」「読書中」「何の本?」彼女は心の中で、彼の隣で寄り添っていたかった。「戦争関連のやつ」「あんまり遅くまで読まないでよ。明日に響いちゃう」「わかってる。おやすみ」電話を切ったあと、とわこは目を見開いたまま、暗い部屋の天井を見つめていた。奏が言っていた、「人生は思い通りにならない」ってこと、彼女だってわかっていた。彼だけじゃない。自分も、長い間、苦しい時期を生き抜いてきた。困難に直面しても、あの頃の自分はこんなに弱くなかった。必死で踏ん張って、この家を守ってきた。今は、奏がいる。だからこそ、信じたい。どんな困難も、きっと乗り越えていけると。翌朝。とわこは蓮の部屋を訪れ、話をしに行った。「蓮、ママは、あなたの決めたことを全部尊重するよ」昨夜泣きすぎたせいで、彼女の目は腫れていた。「ママはね、あなたの
とわこの平静だった心が、一気に冷え込んだ。「あいつ、俺を怖がってるんだ」奏が静かに言った。「だから悟の方を選んだ。俺のところにいたくなかったんだ」「奏、その話はもうやめよう」とわこは胸が締めつけられるように苦しくなった。「今日は結婚写真を撮る日でしょ。暗い話はやめようよ」彼女は思っていた。たとえ黒介が悟の元に戻ったとしても、和夫のそばにいるよりはずっといい。黒介は悟の実の弟だ。悟なら、どんな事情があっても、自分の弟をひどく扱ったりはしないはず。ほどなくして、撮影チームが現れた。ちょうどその頃、瞳もリゾート地に到着した。瞳のアドバイスを受けながら、とわこは三つの異なるテーマでの撮影を選んだ。今日は天気も良く、外での撮影はとても順調だった。当初は外での撮影が1回、スタジオ撮影2回の予定だったが、外の方がリラックスできたため、急遽もう1回外での撮影を追加することに。時はあっという間に過ぎ、夕方になった。館山エリアの別荘。夕食の時間。「先に食べよう。ママは今日はウェディングフォトの撮影で帰ってこられないからね」マイクはとわこに電話をかけた後、子どもたちにそう言った。レラは口をとがらせて文句を言った。「なんで週末に撮らなかったの?見たかったのに、パパとママの写真撮るとこ」マイクは吹き出して笑った。「だって、今撮らないと式に間に合わないんだよ。二人とも賢そうに見えて、実はけっこう抜けてるからな」レラ「そんなことわかってて仲良くしてるマイクも、同じくらいバカってことじゃん!」マイクの笑顔が一瞬止まった。「レラ、お兄ちゃんもうすぐ海外行っちゃうから、これからは俺が一緒に遊んであげるんだよ?ちょっとは優しくしてくれない?」「ふん、弟もいるし!」そう言って、レラは蓮の方を見つめた。「お兄ちゃん、海外に行かないでよ」「昨夜約束したよね。もう撤回なしだよ」蓮は落ち着いた声で答えた。「ううっ、でも、ママが許してくれないかもしれないよ。ママ、きっと寂しがるもん」「レラ、それは君のママがどうこうって話じゃないんだよ。お兄ちゃんが出て行かないと、君のパパ、うちの玄関くぐれないんだからさ」マイクが茶化すように言った。「それに、お兄ちゃんは勉強しに行くんだ。将来はパパよりすごくなるぞ!」レラは項垂れ、小さな唇を尖ら
とわこ「あの二人、また親子喧嘩したみたい。奏、うちに住んでたのに、また自分の家に戻っちゃった」瞳「親子なんて、喧嘩しないほうが珍しいって。先生に蓮の宿題をもうちょっと増やしてもらったら?」とわこ「普段から結構出てるよ。もしかしたら、結婚式には来ないかも。海外で大会があるらしくて」瞳「行きたくないなら、無理に来させなくてもいいんじゃない?大人になれば、親子の関係も自然と良くなるよ」とわこ「うん。ねえ、結婚写真撮りに行くんだけど、一緒に来ない?リゾートで撮るの」瞳「OK!ちょっと準備して、すぐ行くね!」メッセージを送り終えると、とわこは奏の方を見た。「奏、カメラマン、もう決まった?」「うん」「ねえ、水の中で撮るのってどうかな?この前見たんだけど、すっごく綺麗だったの!」とわこの妄想が広がる。「あとね、崖の上で撮ってる人もいたよ!」奏「まさか空まで行きたいって言うんじゃないだろうな?」とわこ「なんでわかったの?飛行機あるでしょ?それで空に行って、ドローンで撮るの!」奏は少し眉をひそめた。「本気?」とわこは数秒考えたあと、あっさりと諦めた。「やっぱり、普通に撮ろう。とにかく結婚式を終わらせなきゃ。だってもう子ども三人いるのよ?これ以上延ばしてたら、蓮が先に結婚しちゃうかも」「うちの息子がそんなに早く結婚すると思うか?」奏は彼女の隣に腰を下ろす。「あいつ、女に全然興味なさそうだけどな」「今は興味ないのは当然よ。まだ未成年なんだから」とわこは自信満々に言った。「大人になれば、ちゃんと目覚めるって」「それはどうかな。君、あいつは俺に似てるって言ってただろ?俺だって君に会うまでは、女なんて興味なかった」奏はあっさりと言った。「じゃなきゃとっくに結婚してたさ。君に拾われることもなかった」「拾ったって?ちょっと、奏、自惚れもたいがいにしてよ!」とわこの頬がうっすらと赤くなり、ふと二人の出会いを思い出す。「まあ、あの時は確かに拾ったかもね。あの事故で植物状態にならなかったら、あなたの母親が勝手に相手を決めるなんてできなかったはず。あの時はあなたの方が優秀だったかもしれないけど、今は私だって負けてないわ」奏の深い眼差しが、赤く染まった彼女の頬に落ちる。「今は君の方がずっと優秀だよ」彼は惜しげもなく賞賛の言葉を口にした。
「俺があいつを怖がるとでも思ってるのか?」奏は彼女の少し冷えた手をそっと握りながら言った。「あいつらが何をしようと、好きにさせておけばいい。俺に影響なんて与えられない」「本当に覚悟できてるの?」とわこは彼の冷静で毅然とした顔を見つめながら、不安が少しずつ消えていくのを感じた。「昨夜ずっと考えてた。こういうことがあるなら、遅かれ早かれ来るものだ。だったら怯えるより、堂々と向き合ったほうがいい」奏は彼女の手を引いてリゾートの中へと歩き出す。「君と子どもたちがそばにいてくれたら、それだけで十分だ。他のことなんて、どうでもいい」とわこの張り詰めていた心が、その瞬間ふっと緩んだ。「奏、そう思ってくれるなんて嬉しい」彼女は深く息を吸い込んだ。「もし、毎日を人生最後の日だと思って生きたら、もっと勇気が出るかもしれないね」「俺は今日を最後の日にしたくない」彼はぽつりと呟いた。「まだ君と一緒にいたりないんだ。ずっと、一緒にいたい。白髪のおじいさんになるまで」「ふふ、じゃあ秘密を一つ教えてあげるね」彼女は機嫌よく笑った。「前に白髪を抜いてあげるって言ったでしょ?あれ、ウソだったの。実は白髪なんてなかったの。ただ髪を一本抜いて、DNA検査に出したの」彼の表情が一瞬、固まった。「俺は君に感謝すべきかな。血を抜かれなかっただけマシだって」「血なんて抜いたらバレバレでしょ?奏はバカじゃないから、すぐ気づくに決まってる」そう言ってから彼女は話題を変えた。「でね、髪を抜いたあと、弥の髪もこっそり抜いたの。そしたら、痛がって『うわー!』って大騒ぎしてさ。今思い出しても笑えるよ」「俺と弥の鑑定をして、なんで黙ってた?俺がショック受けると思ったのか?」「和夫があなたに接触してきたこと、私に黙ってたじゃない」彼女はそう言いながら、道端の花を指先でそっと撫でた。ふいに、何かがひらめいたように顔を上げた。「ねえ、結婚写真撮るの忘れてない?」奏はきょとんとした表情になった。「ほら、普通さ、みんな結婚するとウェディングフォト撮るでしょ?結婚式で写真を飾るのが定番じゃない?」とわこが訊く。「今から撮れば間に合う」「え、ほんとに忘れてたの?ハハハ!周りの誰か、教えてくれなかったの?」とわこは彼のぽかんとした顔を見て、容赦なく笑った。「俺には経験がないから」彼