「レラ、お兄ちゃんのことが一番好きって言ってたじゃない?」とわこが不思議そうに訊いた。「そうだよ!一番好きなのはお兄ちゃん。でもピアノは弟にだけ弾いてあげたいの。だって、弟は私がミスしても気づかないから!」レラが得意げに理由を言った。とわこは思わず吹き出した。「でもお兄ちゃんも気づかないでしょ?ピアノ弾けないんだし」レラはぽかんとした顔でしばらく考えた。「そうかも!お兄ちゃんってなんでもできると思ってた!えへへ!」そう言って、彼女はうれしそうに蓮の手を引いて階段を上がっていった。とわこは笑いながら見送った。「とわこ、時差ボケがあるんじゃなかった?シャワー浴びて早めに休んだほうがいいわよ」三浦が声をかけた。「うん、そうする」とわこは寝室に戻り、クローゼットからパジャマを取り出した。すると、不意にお腹にキリキリとした痛みが走った。とっさにクローゼットの扉に手をついて、ゆっくりと腰をかがめる。息を大きく吐きながら、顔色は見る見るうちに青ざめていった。痛みは強かったが、不思議と恐怖はなかった。この痛みには、覚えがあった。出産してから、ずっと月経が戻っていなかった。今感じているこの下腹部の痛みは、生理痛。飛行機の中でも、胸が苦しくてお腹が重たい感じがしていたが、ただの疲れだと思っていた。まさか、生理が来るとは思っていなかったのだ。少し痛みが和らいだ頃、とわこは洗面所へ向かった。常盤家。奏はシャワーを終え、蓮のために買っておいた誕生日プレゼントを手に取った。それは、虎のキャラクターを模したスマートロボットだった。蓮の干支が寅年なので、奏はこのロボットを選んだ。プレゼントを買いに行った日、彼は一郎と一緒にテクノロジー館を何時間も回ったが、結局良い物が見つからなかった。そこで海外からこのロボットを取り寄せたのだった。ロボットは昨日、ようやく手元に届いたばかり。電源を押すと、ロボットが元気にしゃべり出した。「ご主人様、こんばんは。僕がお手伝いできることはありますか?」奏「うちの息子を喜ばせられるか?」ロボット「もちろんです!タイガーは歌も歌えるし、物語もお話できます。それにジョークも!」奏「うちの子は七歳だ。どんなものが好きだと思う?」ロボットは少し間を置いたあと、答え
常盤家。奏が家に戻って階段を上がろうとしたとき、千代が呼び止めた。「旦那様、一つご存じないかもしれない話があるんです」奏は振り返って千代を見た。「何のことだ?」「本宅のことです」千代の顔は深刻だった。「ご長男様が、売りに出そうとしているらしいんです」奏の目が一瞬で鋭くなった。「誰から聞いた?」「不動産関係の仕事をしている甥から電話がありました」千代の目が潤み、涙が光った。「旦那様、ご長男様はきっとお金に困っているんです。じゃなきゃ、あの家を手放すなんて」「俺に金を出せと言いたいのか?」奏はポケットに手を突っ込み、千代を見据えた。千代は慌てて首を振った。「まさか!あの人たちは恩を仇で返すような人間ですよ。奥様にあんな仕打ちをするなんて!お願いしたいのは、旦那様に本宅を買い取ってほしいんです。住まなくても構いません。他人の手に渡るよりマシです。よそ者に売られたら、常盤家が陰で笑い者になります」千代は常盤家の体面と名誉を守るために提案していた。奏には資金力があり、本宅を買うのは難しくない。「明日、誰かに見に行かせよう」奏は言った。「もう休みなさい」「夕飯はお済みですか?」千代が慌てて聞く。「食卓に出しておきました。戻られなかったので片付けていません」そう言われて、奏はようやく今夜何も食べていないことに気づいた。夕方、会社から直接館山エリアの別荘へ向かっていたのだ。とわこの家に着いたときには、ちょうど食事が終わったところだった。奏はダイニングへ向かった。千代は急いで料理を温めに行った。「今夜、お子さんたちとはうまくいきましたか?」千代が尋ねる。「うまくいかなかった」彼は眉をひそめ、冷たい声で言った。「蓮にはますます嫌われた。蒼を泣かせてしまったし、レラにも避けられた」そう言うと、気分はどん底だった。ビジネスの世界では、すべてを掌握し余裕を持って振る舞えるのに、子どもたちの前ではどうしてこうも失敗ばかりなのか。千代は驚いて、すぐに彼の前に駆け寄った。「どうしてそんなことに......」「焦りすぎたんだ」奏は自らの失敗を振り返る。「蓮と仲直りしたい気持ちが強すぎて、逆に嫌われた」「蓮くんは旦那様に性格が似ているんですよ。焦っても、うまくいきません。蓮くんはとわこさんの言うことをよく聞
奏は唇を固く引き結び、とわこの声が彼の理性を少しずつ取り戻させた。手を放すと、蓮はすぐに階段を駆け上がった。とわこは奏の腕を離さずにいた。「奏、さっき何したの!子どもを無理させないでって言ったでしょ!今のが無理やりじゃなかったら何なの!?」奏は喉を鳴らし、かすれた声で一語ずつ絞り出すように言った。「俺はただ......ただ謝りたかっただけなんだ」「でもやり方が違う。彼は子どもよ、大人じゃないの。今のあなたのやり方はあまりにも強引だったわ」とわこは彼をリビングのソファに座らせながら言った。「あなたは自分の家庭環境のせいで、いまだに心に傷を抱えてる。なのに、どうして蓮がすぐにあなたを許せるって思えるの?」奏はふいに顔を上げ、とわこの顔をじっと見つめた。「責めてるわけじゃないのよ」とわこは力なく息をつきながら言った。「ただ、もう少し冷静になって。蒼は泣き出しちゃったし、レラだって怖かったと思う」「ごめん」奏は子どもたちの方を見ながら苦しい表情を浮かべた。三浦が蒼を抱いていた。蒼はもう泣き止んでいた。レラは三浦の後ろに立ち、宿題を手に持ったまま、黒く澄んだ瞳でリビングの様子をこっそりうかがっていた。「とわこ、子どもたちにプレゼント買ったんだ。よかったら渡しておいてくれ。俺が渡したら、きっと受け取ってくれないと思うから」とわこ「明日にして。今はもう落ち着いた?」「うん」「自分で車で来たの?それとも運転手?」「自分で運転してきた」奏は彼女の意図を察し、すぐに立ち上がった。数歩進んだところで、ふと思い出したように足を止めた。「アメリカに何しに行ったんだ?こんなに早く戻ってきたってことは、ほとんど飛行機に乗ってただけだろ」「暇だったと思っておいて」彼女は黒介のことを話す気になれなかった。「時差ボケで、ちょっと眠いの」「そうか。子どもたちのフォロー、頼むな」「言われなくても分かってる」彼女は奏を玄関まで見送った。彼が去った後、とわこはリビングに戻った。三浦が蒼を抱いて近づいてきた。「とわこ、ごめん」「謝らなくていいよ。来たいって言ったのは彼で、三浦さんのせいじゃない」とわこは蒼を見つめた。「さっきはびっくりしちゃったよね?もう大丈夫よ、誰にもいじめさせないから」蒼は口を尖らせて、「ぷぷぷ」と泡を吹
彼女が別荘のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、温かく穏やかな光景だった。奏が蒼を抱き上げ、リビングの中央に立っていた。レラは新しいおもちゃを手に、蒼に何やら話しかけている。三浦はそばで微笑みながら見守っていた。とわこは玄関口で立ち尽くした。まるで足に鉛が詰まったかのように、動けなかった。蒼を抱いている奏は、まるで慈愛に満ちた父親のように見えた。彼が冷酷で残忍な男だと他人に話しても、誰も信じないだろう。そのとき奏がとわこに気づき、笑みが一瞬で凍りついた。まさか、こんなに早く帰国するとは思わなかった。誰も彼女が今日戻ってくるなんて教えてくれなかった。もしマイクが知っていたら、子どもを置いて舞台を見に行ったりなんて絶対しないはずだ。三浦も彼女の姿に驚き、しばらく固まった。反射的に、三浦は蒼を奏の腕から受け取った。「ママ!」とわこの背後から響いたのは、蓮の声だった。ボディーガードが車を停めたばかりで、蓮はすぐにドアを開けて飛び出し、とわこのもとへ駆け寄った。とわこは気持ちを整え、優しく微笑んだ。「どうしたの?今日はずいぶん帰りが遅かったのね」「ちょっと分からない問題があって、先生に聞いてたんだ。ママ、どうして突然帰ってきたの?中に入らないの?」「向こうの仕事が終わったから、すぐチケット取って帰ってきたの」とわこは少し間を置いてから、「さ、入ろうか」と言った。二人は玄関で靴を履き替え、手を繋いでリビングへと入って行った。中の様子を見た瞬間、蓮の整った顔がピンと張り詰めた。どうして奏がここにいるんだ?「ママ!お兄ちゃん!」レラは洋服の裾をぎゅっと握り、不安げに目を泳がせながら言った。「さっき弟と遊んでただけで、パパとは遊んでないの」とわこはさっき見ていた。確かにレラは蒼と遊んでいただけだ。「レラ、ママ怒ってないよ」とわこは彼女の頭をそっと撫でた。「今日、宿題あるの?」「ある!もう終わったよ!」そう言ってレラは部屋へ宿題を取りに走っていった。蓮はランドセルを手に、足早にリビングを通り抜けて自分の部屋へ向かった。奏は息子の拒絶に胸が張り裂けそうだった。「蓮!」蓮はその声に一瞬足を緩めたものの、すぐに階段を上がっていった。奏の中で何かが切れたように、目が真っ赤になり、蓮
奏を家に入れるか、入れないか、マイクは悩んでいた。個人的に奏に恨みはない。とわこのことを考えなければ、素直に入れていただろう。そんなマイクが迷っている間に、家のボディーガードが先に行動した。奏に、門を開けてしまったのだ。マイク「???」もしとわこが家にいたら、彼女はきっと怒鳴りつけただろう。「あなた、一体誰の味方なの?」実際、マイクも過去に何度も同じように責められてきた。「とわこがいないからって、お前が勝手に判断していいのかよ」マイクは冷笑を浮かべながらボディーガードに近づく。ボディーガードは不満げに言った。「俺が開けなくても、どうせお前が開けるだろ?あとでマイクが開けたって言われるだけだし」マイク「お前、勝手に行動しておいて、罪までなすりつけるのかよ!」ボディーガードは無視してその場を離れた。奏はマイクの前まで来ると、真っすぐに尋ねた。「子どもは家にいるか?」マイクは眉をひそめた。「やっぱり目的は子どもか。自分で情けないとは思わないのか?お前は常盤グループのトップだろ?会いたいなら正々堂々と来いよ。どうして母親がいないタイミングを狙って来るんだ?どうせ子どもは全部彼女に話すぞ?」奏はその皮肉に反応せず、ポケットから2枚のチケットを取り出した。「これ、子遠が好きな舞台のチケットだ。今夜8時開演。行くか?」マイク「子遠が本当に好きな舞台かどうか、確認したのか?」奏「本人に聞けば分かるだろう」マイクは少し考えてからチケットを受け取った。「じゃあ俺は舞台に行ってくる。その間、子どもは」「三浦がいる。心配いらない。俺も、長居はしない」マイクはまだ気がかりだった。「とわこがビデオ通話してきたら、どうするつもりだ?」「もしそうなっても、お前が気にすることじゃない」奏は最悪の展開も想定済みだった。「彼女はせいぜいお前を一発怒鳴るだけで、本気で恨むのは俺だから」マイク「そんなに大ごとじゃないだろ?彼女、言ってたよ。彼と私は敵じゃないって。だからお前が子どもに会いに来ても、多分文句は言わないと思う」そう言いながら、自分自身にも言い聞かせているようだった。マイクが車で出て行った後、奏は無事にリビングに入った。三浦が温かいお茶を用意し、蒼を抱いて連れてきた。「レラは宿題中です。終わったらきっと出て
彼女は車に戻り、スマホを開いて黒介に電話をかけた。申し訳ありません。おかけになった電話は電源が切られているか、圏外にあるため......とわこは強烈な違和感を覚えた。この電源オフは、絶対に彼の意思じゃない。眉間をピクリと動かし、次に黒介の父の番号にかけ直す。申し訳ありません。おかけになった電話は話し中です......この男、何を企んでいるの?手術前に会ったときは、もっとまともな人間に見えたのに。でもさっき隣人が言っていた話を思い返すと、全身に鳥肌が立つ。引っ越しは、彼女を避けるため?それとも最初から計画されていたこと?黒介の容態が安定したら、すぐに引っ越すつもりだった?だとしたら、なぜ?なぜ黒介の病状が良くなった途端に姿を消したの?どこへ行ったのか、全く見当がつかない。とわこは水の入ったボトルを手に取り、一口飲んでから少し冷静になり、連絡先を開いた。黒介の父と自分を繋いだ知人に電話をかける。この知人は、彼女が以前に手術を担当した患者の家族だった。電話はすぐにつながった。「先生?どうされました?今はアメリカにいらっしゃるんですよね?」「はい、今アメリカにいます。今日はちょっとお伺いしたいことがあって。白鳥和夫さんとは、どのくらいのご関係なんですか?引っ越したって知ってます?」相手は少し驚いたようだった。「引っ越した?そんな話は聞いてません。別に親しいわけじゃないですよ。父の手術が終わったあと、彼が知人を通じて僕に連絡してきて、息子のことを話してくれたんです。僕も彼の息子がかわいそうに思えて、先生を紹介しただけです」とわこの心は、じわじわと重く沈んでいく。「先生、彼の息子の手術って、無事終わったんですよね?手術成功したって聞いてますけど......まさか、まだ治療費の支払いが済んでないとか?」「いえ、支払いは全部済んでます。ただ、様子を見に行きたかったんですが、家を引っ越してて、連絡も取れなくなってしまって。」とわこが説明した。「ああ、そういうことでしたか。なら、もう放っておいたらどうですか?あの人、自分の用が済んだら、それっきりになるタイプなんですよ。僕にもその後は全然連絡してきませんし。ま、でもお金払ったなら、それで十分じゃないですか?」とわこは軽く相槌を打ち、通話を終えた。視線