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夢と記憶のあわい ①

last update 最終更新日: 2025-07-02 22:57:56
 影の中で揺れるエレナの姿が見える。

 記憶の底に沈み、穏やかに微笑むエレナ──

 エレナを救わなければ。

 リノアは、その微笑みに導かれるまま、そっと手を伸ばした。それは触れるというより、記憶と夢のあわいにひとすじの祈りを浸すような動作だった。

 触れた瞬間、世界がわずかに揺らいだ。

 冷たくもなく、熱くもない、境目のない感触————

 ひとしずくの沈黙が降り立ち、見えない波紋が空気の奥深くへと広がっていく。幾重にも折り重なった空気の層がたわみ、世界の輪郭が緩やかにほどけていった。

 世界の色が失われ、音が遠ざかっていく……

                   ◇

 懐かしい風の匂い。そして、どこか遠くで私を呼ぶ誰かの声──

 気づけば、そこには森が広がっていた。

 木々の影が長く伸び、空がやけに高い。

 リノアは目の前に聳え立つ大きな木を見つめた。幹は両腕では抱えきれないほどの幅を持っている。

 その木の根元に佇む一人の幼い少女──

「ここで待っていて。すぐに戻ってくるから」

 そう言って、背を向けて去っていく母の姿……

──これは幼い頃に見た、あの日の光景だ。

 その背中を見送った時のことはよく覚えている。空の色も、風の匂いも何もかも。

 追いかけたいと、本心では思っていた。だけど私はその場から動くことができなかったのだ。

 母を困らせてはいけない。言いつけは守るべきだと思っていたから……

 足に絡みつく”待つことの正しさ”という名の鎖。それが、どこかひどく冷たかったことを私はずっと言葉にできずにいた。

 あの時、なぜ追いかけなかったのだろう──

 なぜ、あのとき声を上げなかったのだろう──

「……ずっと後悔してた」

 呟いたその声は、年を重ねた今のリノア自身のものだった。

 幼い頃の自分と今の自分が緩やかに重なっていく。

 胸の奥にぽっかりと空いた空白は、どこか風の抜ける静かな窪みに似ていた。

 それは「寂しい」と一言で括るにはあまりにも深く、静かで、形のないまま棲みついていた感情。

 それが自分の中にずっと在り続けていたことを──今、ようやく知った。

 リノアは幼い日のリノアに近づいていき、何かを取り戻すように、そっと身を寄せた。

 温かさも言葉もない、ただ沈黙だけが二人の間を満たしていく。

 振り返らない母の後ろ姿をじっと見送った小さな存在。

 どれだ
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