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夢と記憶のあわい ③

last update 最終更新日: 2025-07-09 22:54:46
 地面に爪を立て、リノアは叫んだ。

 喉が焼けるように熱い!

 叫びは言葉にならず、ただ炎の奔流へと呑み込まれていくのみ。

 まるで終わりのない悪夢……

──父と母は無事なのだろうか。

 リノアの胸の奥に焦りの感情が渦巻く。

 リノアは焼けるような空気をかき分け、必死にその姿を探した。

 しかし、そこにいたはずの父と母の姿が、どこにも見当たらない。幼き日の自分も、父と母の元に向かって行ったはずなのに……

 まるで最初から、そこに何も存在しなかったかのように、ただ森だけが燃えている。

「一体、どこに……。確かに、そこにいたはずなのに……」

 歪んだ空気の中で、リノアの思考が揺らぎ始める。

 リノアは周囲を見渡した。

 地面の裂け目がぼんやりと揺らぎ、木々の輪郭も霞んでいる。燃え盛る炎の映像と音だけを除いて……

 リノアの意識はその曖昧な狭間で波に呑まれるように漂った。

 何が真実で、何が幻想なのか、それすらも判然としない。

 肌が焦げ付く、あの痛みの感覚も、いつの間にか薄れている。

 火の奔流に包まれている最中だというのに、一体、これは……。身体が現実と乖離している……

 この世界の端に独り、浮かんでいるような不思議な感覚──

 リノアはその感覚に抗わず、静かに身を委ねた。すると程なく、炎の中心に奇妙な揺らぎが現れた。

 風に抗うようにゆっくりと逆巻く炎──

 火の奔流は、一点を起点に風と逆向きの軌跡を描きながら、空間そのものを軋ませるように捻じれていった。

 現実がほどけていく始まりかのように。

 その先に広がっていたのは記憶とも夢ともつかない、過去が未来を侵食した空間だった。

 色はあるのに、名がつけられない。

 光は差しているようでいて、照らすものはどこにもない。

 時間は粒子のように漂い、触れようとするほどに空間に溶けていった。

 そこにあるのは感覚だけだった。確かなものは、ここには何一つ存在しない。

 リノアの輪郭もまた、次第に曖昧になっていき、誰かの遠い夢が残した残響として、揺らぎの中を漂っていた。

──どこからか音が聴こえる。

 意識が空間に溶け出していく中、遠くから聴こえる微かな囁き──これは言葉ではない。

 リノアは輪郭を失った意識のまま、その音に導かれるように深く、そして静かに空間の奥へと沈んでいった。

──何だろう? この懐かしい声……

 
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