するとアオは、
「どのくらいまで大きくなったら、結婚してくれるの?」
と真面目な顔で聞いてきた。
「ぷっ……」
吹き出したわたしに、アオはまたむくれた。
「るんちゃん! また笑ったなー!」
ひとしきり笑って、またちゃんと謝ってから、わたしは彼にひとつ、ちょっと真面目な質問をした。
「──じゃ、念のために聞くけど、なんでアオは、わたしとは結婚したいって思うの?」
すると、アオは、いかにも子供と言った表情ではにかんだ。
「だって結婚したら、ずっと一緒にいられるって、ウィスカーがいってたから」
そしたら、きっと寂しくなくなるかなって思ったの。
そう聞くと、胸がキュッと痛んだ。
──すると、パーカーの前ポケットの中で、チャリンと小銭の音がした。
「ん!?」すかさずスマホでアプリを開き、正のエネルギーの残額をチェックすると、
【 残高:‑500,029 ▶︎ ‑500,031 】 ……じゃっかん、増えてる。 わたしは、さっきの胸のちいさな締め付け感を思い起こそうとした。「そうか…… これが、胸きゅんというやつなのか」
無垢な目で、アオは見上げていた。
ということは、このアプリ、わたしが抱く恋愛感情についても計測しているのか。しかし、スライムにわたし、そんな感情をもっちゃうのか。なんだかショックなんだけど、深呼吸して心を落ち着けた。ここでまた変なことぼやいたら、せっかくの+2ポイントを失いかねない……
でも、アオからそう聞いて、わたしも、ちょっと胸の別のところが痛んだ。夕暮れの風が吹きはじめた。 家の東側、玄関と駐車スペースには、すでに影がかかっている。 バールを手にし、見上げるような木箱の前に、わたしは立った。 いまから、これを開けるのだ。 ピンクのパーカーとスキニーはそのまま、髪はひとつにまとめてある。 手には軍手をはめ、「よし」と気合いを入れる。 魔王から届いた木箱は、見上げるように大きい。 このサイズで銅像なら、ふつう四人は手が欲しい。 でもここには、わたしと、スライムしかいない。「開けるよ、アオ」 蓋は、真新しい釘で十箇所ほど打ち付けてある。 わたしはバールの先割れした先端を、釘の頭の下に当てがって、背面を木槌で叩いていく。 浮いた釘の頭は、バールを寝かせることでするりと抜ける。 一本、二本、三本、と、引き抜いた釘を、アオの頭に預けていく。「すごい……」アオが見上げながら、つぶやいた。 わたしは笑む。「まあね。慣れてるからね。」 ここまで大きいサイズは久々だけど、仕事で木箱はしょちゅう開けている。 わりとある仕事だ。 海外から届く絵画とか。 手を止めずに作業する。「なんのお仕事してたの?」「画廊のスタッフよ。」 アートの舞台裏で奮闘する、実務的な存在。「要するに、素敵なお絵かきを一番すてきに見えるように飾ったり、お聞かせしたり、欲しいひとにはどうぞ! って売るお仕事かな」 わたしは答えながら十本目の釘を抜いていく。 錆びていないところを見ると、梱包したのはごく最近ということだ。 ベニヤの蓋を抑え、慎重にずらして外していく。 中身がわからないのが面倒だ。「よし、ではいざ、
アオは目を閉じたまま、アトリエを壁沿いに進んでいく。 小さな心臓が駆け足で鼓動を打っている。 どれだけ工具箱に近づいたかと、アオが目を開けると、まだ半分も進んでいない。 ため息をつき、彼は天井を見上げた。 天窓から差しこむ光が、室内の中央に落ち、イーゼルと画板の背中を照らしている。 しずかに空気は乾燥している。漆喰の壁が光を反射し、部屋はとても明るい。 アトリエの角には、古びた机が見えた。 几帳面に片付けられた画家の作業場が、昨日のまま封じこめられたような、時の止まっている空間だ。 アオの鼻腔が、木材と、油絵具と、わずかに残る溶剤の匂いを嗅ぎ取る。 彼は気を取りなおし、るんから言われたとおり、右の壁に這う。めざすは棚の下の工具箱だ。 たどり着いた棚の下で、彼はガラクタとそうでないものの区別がつかないようだ。 壁に立てかけられたオーク材の棒の束。 なんだかくらくらする臭いの入ったビン。 大きな空き缶のなかを覗きこもうと、アオは金属箱の上によじ登る。 中には、つぶれた絵の具のチューブ。 アオは、その金属箱の上から、遠く目を走らせて、青い工具箱というものを探した。 しかし、一向に、見つからない。 なにしろ、探し物は足もとにあったのだから。 年季の入った工具箱だった。「これだったっぽいね……」 アオは、踏み台にしていた工具箱の上で、バランスを取りながら、冷たい蓋を開けてみる。 と、中には小ぶりなバール、そして使い込まれた木槌があった。「やった……」声が漏れる。 宝物を発掘したような高揚感はないが、これで帰れるという安堵感はある。 顔を上げると、工具箱のうえからは、ドアまでの帰り道がすぐ
アオは、洋間の前で、立ち止まり、息を吸いこんだ。 わたしもなんだか、緊張してくる。 ここを開ければ、父のアトリエがあるのだから──。 水風船ほどの小さなからだで、アオが、意を決したように真鍮のドアノブを見上げた。 「──いい? アオ、心の準備はできた?」 わたしが尋ねると、彼はドアの前で、「うん!」と、大きくうなずいて見せた。 と、言っても、中に何か特別なものがあるわけじゃない。 亡くなった父の画材と、落書きでしかないわたしの絵が、あの雨の夜の火事の直前のまま、残っているだけだ。「じゃ、あけるよ、アオ」 わたしはノブを押し下げる。 わたしが入るわけじゃないのに……やっぱり心臓が早鐘のように鳴りはじめた。 わずかに開いたドアの内を、アオが恐る恐るのぞきこんでいく。 引けた腰を廊下に残したまま、目だけがドアの向こうに伸びている。 そのさまは、背中から見ていても、さすがスライムといった感じだ。 アオは、目を、こっちに引っ込めた細長い体で振り向いて、「……ほんとに、このアトリエ、おばけでないんだよね?」 わたしに何度目かの確認をした。 アトリエの中央にあるイーゼルに掛かった〝それ〟の正体を、知りたい気持ちと、知りたくない気持ちがせめぎ合って、アオの体がドアの角で真っ二つになりそうだ。 わたしはうなずく。「うん。……でないよ。あそこにあるのは、わたしが昔描いた落書きの絵……」 そう。あの絵は、あくまでわたしにしか見えないオバケだ。「けしてアオには悪さをしないわ」 するとアオは、伸びきっていた体を、ぱちんと水風船に戻して、わたしを見上げ、力強くうなずいた。「──わかった。 …&hell
するとアオは、「どのくらいまで大きくなったら、結婚してくれるの?」 と真面目な顔で聞いてきた。「ぷっ……」 吹き出したわたしに、アオはまたむくれた。「るんちゃん! また笑ったなー!」 ひとしきり笑って、またちゃんと謝ってから、わたしは彼にひとつ、ちょっと真面目な質問をした。「──じゃ、念のために聞くけど、なんでアオは、わたしとは結婚したいって思うの?」 すると、アオは、いかにも子供と言った表情ではにかんだ。「だって結婚したら、ずっと一緒にいられるって、ウィスカーがいってたから」 そしたら、きっと寂しくなくなるかなって思ったの。 そう聞くと、胸がキュッと痛んだ。 ──すると、パーカーの前ポケットの中で、チャリンと小銭の音がした。「ん!?」 すかさずスマホでアプリを開き、正のエネルギーの残額をチェックすると、【 残高:‑500,029 ▶︎ ‑500,031 】 ……じゃっかん、増えてる。 わたしは、さっきの胸のちいさな締め付け感を思い起こそうとした。「そうか…… これが、胸きゅんというやつなのか」 無垢な目で、アオは見上げていた。 ということは、このアプリ、わたしが抱く恋愛感情についても計測しているのか。 しかし、スライムにわたし、そんな感情をもっちゃうのか。なんだかショックなんだけど、深呼吸して心を落ち着けた。ここでまた変なことぼやいたら、せっかくの+2ポイントを失いかねない…… でも、アオからそう聞いて、わたしも、ちょっと胸の別のところが痛んだ。
──とはいえ。 わたしは玄関脇で、届けられた大きな木箱に向き直り、腕を組む。 ここで開封するにしたって、バールと木槌がいる。 そして二つとも、父はアトリエの工具箱に保管していたはずだ。 だから、魔王からの贈り物の中身を確かめるには、アトリエに入るほかない。 わたしは、空を仰ぎ見る。 肩の上のアオが、心配そうに言った。「どうしたの、るん、気分よくないの……?」「うん。」 洋間と、その中のアトリエのことを考えるだけでもう、胸がざわついている。 でも、考えたってしかたがない。 とりあえず、木箱のことは忘れよう。お昼にしよう。 わたしは笑みを作る。「──でも、なんでもないのよ。ちょっとした考えごと」 アオとサンドイッチを作って、縁側で食べる。 クレソンのサラダを口に運ぶ。 でも、なんだか味がしないのは、やはり洋間のことで気が重いからだ。 あの魔王からのでっかい荷物、やっぱり気になるし、開封するには、どうしたって蓋から釘を抜くバールが必要だ。 アオが、ドレッシングまみれの口で言う。「るんの家には、そのバールっていうの、ないの?」「あるよ。残念ながらね……」 でもそれが、アトリエにある。 そうつぶやくと、アオが口を舌で拭いた。「あとりえって、ここから遠いの?」「ううん。そこの洋間の中よ」 わたしはテラスから振り返る。 アオも目を背中に動かして、「すぐそこじゃん」とつぶやいた。 そう。遠く離れているわけじゃなくて、単に、洋間の中に入るのが嫌なんだよね……。
わたしは腕組みしたまま考えた。 たしかに我が家には、コンクリートで床を強化した場所が、洋間のアトリエにある。 100キロある銅像の重さに耐える場所となると…… あそこしかない。 「でもなぁ……」 わたしは、冷や汗を感じ、思わず独りごちる。 受け取るとなると、やはり、あそこに置くしかないのか。 にしても、やっぱり洋間には、入りたくない…… わたしは苦笑して、配達員のオークさんを見上げた。「困ったな…… 置き場は、たしかにありはするんですけれど……」 配達員は微笑んだ。「よければ、私が屋内に運び入れますが?」 オークの配達員さんの腕を見ると、制服の袖がピタピタで隙間がないほど太いし、胸も厚い。木箱ごと抱えて持ち運ぶことはきっと不可能じゃない。 でも問題は、そっちじゃないんだよな……。 しかたなしに、わたしは嘘をついた。「──いえ、うちの中に、置ける場所がないんですよね」 オークの配達員さんも、そう聞くと、うなずいて言った。「たしかにこの重さじゃあ、お家の床が抜けちゃいますよね」 「ええ、そう、なんですよねぇ」 嘘をついているのは心苦しいけれど、目を合わせないまま、わたしは続けて言った。「……そんなわけで、やっぱり、この木箱は……ここに置いたままで良いです」 そうだな。いっそ、このまま外に置いておくのがいい。 このオークさんがいれば、こんなに重い荷物でもアトリエに運んでもらえるだろうけれども、引きこむ前に、ドアを開けた時点で、わたしがきっと倒れてしまう。そうなったら、また別の迷惑を配達員さんにはかけてしまうだろうと思った。「──なので、なんかごめんなさい」
肩に乗せているアオが、背伸びして我が家を眺めながら言った。 「あそこが、るんのお家?」 そう。湖畔に昨日建ったというか、生えたばかりのわたしの生家だ。 「うん。向こう側は湖なんだ」 しかし道路に面している玄関前の駐車スペースにも、荷車が停まっているのも見える。 わたしも背伸びした。 「なんだろ。よく見えないけど、郵便屋さんかな」 すると、わたしのパーカーの前ポケットで、着信が鳴った。 取り出すと、登録にない番号が表示されている。 つまり、ウィスカーのじゃないし魔王のものでもない。 しかもよく画面を見ると、電波状態がアンテナじゃなくて、雄山羊の角マークで表示されている。 ともかく、わたしはスマホを耳にあてた。 「──はい、もしもし。」 かけてきた相手の電話先の声は、女性っぽい。 『──あ、よかった。相川様ですか? わたくし郵便局の配達員のオークです。ご自宅にお届けにあがったのですが、お留守なようで』 荷車の荷台の向こうから、携帯を耳に当てている制服姿のイノシシ男の肩から先が覗いて見えた。 わたしはアオを肩に乗せたまま、手を挙げた。 「あ、見えました。こっちです、お地蔵さんのほうです」 すると配達員も、こちらを振り向いて、笑顔で手を上げた。 二本足で立って歩く大柄なイノシシの郵便配達員が、この魔界のオークなのだということは、駐車スペースに着くまでの道すがら、アオが
アオを肩に乗せて堤の上に出る。 川沿いの道はとてものどかだ。 小川の両岸を、菜の花が黄色と緑に埋め尽くしている。 「補色だなぁ」 目に鮮やかだ。 土手の桜並木からは、花びらが舞っていて、いかにも春って感じがする。 お日様の加減もほどよくて、なにより好ましいのは、スギの花粉がないこと。 胸いっぱいに息を吸い込んだって、気持ち良さしかない。 ここは魔界だって言う話だけど、これだけでも天国みたいに快適だ。 そう考えると、よっぽど元の世界の春のほうが、花粉症で地獄だったなと、そうぼやきかけて、またマイナスブザーがならないかと思い、やめた。 わたしは、多少の言い訳をこめて、アオに言った。 「でもなー。やっぱ、サラダくらいあったほうが良いよねぇ」 アオが肩の上で振り向く。 「サラダ?」 「うん。サンドイッチだけじゃ寂しいでしょ? あったらよかったなー、って」 昨夜、魔王の間を出るとき、「いろいろ準備しておく」ためにと魔王が、当座ほしい食品を聞いてきたが、さすがにどうも食欲がなくて、あのときは、牛乳とパン、そしてハムよ答えるしかなかった。 するとアオが、肩の上で、挙手するように背伸びした。 「よし。ちょっとまってて、ぼくそういうの得意なとこあるから!」 アオは、鼻をひろげて匂いをかく。 「へー、鼻の穴なんて、あったんだ」 「うん、こうすると雰囲気でるでしょ? 嗅いでますってかんじで」 そう言う理由か。ということは、なくても嗅げるんだろうなぁ。 でも、わたしも足を止め、菜の花の香りを吸い込む。 なんだか食卓のハチミツを思いだす香りだなぁ。 小川の堤は、蛇行しながら先に続いている。 その先を眺めるように、アオが目を開けた。 「ん、おいしい匂いを見つけたよ! ちょっといってくる、このまままっすぐ進んでてー」 ぴょこんと、彼は肩から飛び降りて、土手の草むらにとびこむ。そのまま草花を揺らして小川に向けて転がっていく彼を、思わず追いかけてしまった。 「って、待ってアオ、またはぐれたらどうすんのー?!」 だけどアオは返事もなく、小川の中へ飛び込んでいってから、顔を出した水面を滑らかに背泳ぎしだした。 そして、 「だいじょうぶー、るんは家に向かってて。すぐ追いつくから」 カメのように彼
公園を出て、アオと歩く。 跳ねて着いてくるアオを振り返った。「それって、もしかして走ってる感じ?」「うん! あるくとね、こんな感じ」 そう言って跳ねるのをやめたアオが、歩くスピードは、カタツムリよりちょっと速いくらい。 わたしはしゃがんで髪を右に寄せ、「乗って良いよ」と空けた肩をつついた。 アオは、丸い目をぱちくりさせた。「ホント?! ぼくが、そこに乗っていいの?」「うん。重くなさそうだし、遠慮なくどうぞ」 すると、アオは喜んで飛び乗ってきた。 軽さにしても、ひんやりとした感触も、お祭り屋台で釣る水風船ほどのものだ。 濡れているかと思ったら、案外と表面はさらっしていて弾力感がある。 アオがなにか言うたび耳元がこそばゆいけど、まあこういうのも良いな。 アオ自身も、わたしの肩からの見晴らしが気に入ったようだ。「すごいー。空を飛んでるみたい」 さすが五歳児だな。 なんでも楽しめるんだな。 しかし、ふと心配になったようで、「でも、るんは肩とか重くない……?」 と。聞いてきた。「全〜然!」 むしろ、いまはわたしの方が心配しなくちゃならない。 家に着いたところで、冷蔵庫にはパンとハムしかないからだ。 ランチに誘っておいてなんだけど、粗食すぎて、なんだか申し訳ない。 でもどうやらアオが、草っていうか野菜をいける口みたいだから、そのへんの農家さんでレタスかトマトでも売ってもらおうかなと考えたけど、そもそもわたしは無一文だった。「……だめじゃん」 思わずつぶやいたら、アオが不思議そうな顔をした。「どうしたの?」「いや、昨日の夜に魔王にレタスも頼んでおくんだったなー……って、思ってさ」 そ