するとアオは、
「どのくらいまで大きくなったら、結婚してくれるの?」
と真面目な顔で聞いてきた。
「ぷっ……」
吹き出したわたしに、アオはまたむくれた。
「るんちゃん! また笑ったなー!」
ひとしきり笑って、またちゃんと謝ってから、わたしは彼にひとつ、ちょっと真面目な質問をした。
「──じゃ、念のために聞くけど、なんでアオは、わたしとは結婚したいって思うの?」
すると、アオは、いかにも子供と言った表情ではにかんだ。
「だって結婚したら、ずっと一緒にいられるって、ウィスカーがいってたから」
そしたら、きっと寂しくなくなるかなって思ったの。
そう聞くと、胸がキュッと痛んだ。
──すると、パーカーの前ポケットの中で、チャリンと小銭の音がした。
「ん!?」すかさずスマホでアプリを開き、正のエネルギーの残額をチェックすると、
【 残高:‑500,029 ▶︎ ‑500,031 】 ……じゃっかん、増えてる。 わたしは、さっきの胸のちいさな締め付け感を思い起こそうとした。「そうか…… これが、胸きゅんというやつなのか」
無垢な目で、アオは見上げていた。
ということは、このアプリ、わたしが抱く恋愛感情についても計測しているのか。しかし、スライムにわたし、そんな感情をもっちゃうのか。なんだかショックなんだけど、深呼吸して心を落ち着けた。ここでまた変なことぼやいたら、せっかくの+2ポイントを失いかねない……
でも、アオからそう聞いて、わたしも、ちょっと胸の別のところが痛んだ。アオは、洋間の前で、立ち止まり、息を吸いこんだ。 わたしもなんだか、緊張してくる。 ここを開ければ、父のアトリエがあるのだから──。 水風船ほどの小さなからだで、アオが、意を決したように真鍮のドアノブを見上げた。 「──いい? アオ、心の準備はできた?」 わたしが尋ねると、彼はドアの前で、「うん!」と、大きくうなずいて見せた。 と、言っても、中に何か特別なものがあるわけじゃない。 亡くなった父の画材と、落書きでしかないわたしの絵が、あの雨の夜の火事の直前のまま、残っているだけだ。「じゃ、あけるよ、アオ」 わたしはノブを押し下げる。 わたしが入るわけじゃないのに……やっぱり心臓が早鐘のように鳴りはじめた。 わずかに開いたドアの内を、アオが恐る恐るのぞきこんでいく。 引けた腰を廊下に残したまま、目だけがドアの向こうに伸びている。 そのさまは、背中から見ていても、さすがスライムといった感じだ。 アオは、目を、こっちに引っ込めた細長い体で振り向いて、「……ほんとに、このアトリエ、おばけでないんだよね?」 わたしに何度目かの確認をした。 アトリエの中央にあるイーゼルに掛かった〝それ〟の正体を、知りたい気持ちと、知りたくない気持ちがせめぎ合って、アオの体がドアの角で真っ二つになりそうだ。 わたしはうなずく。「うん。……でないよ。あそこにあるのは、わたしが昔描いた落書きの絵……」 そう。あの絵は、あくまでわたしにしか見えないオバケだ。「けしてアオには悪さをしないわ」 するとアオは、伸びきっていた体を、ぱちんと水風船に戻して、わたしを見上げ、力強くうなずいた。「──わかった。 …&hell
金曜夜の新宿は、ゴールデンウィーク前の賑わいだ。どこの通りもごった返している。 雑居ビルの居酒屋で、わたしたち三人は待ち合わせしていた。 狭く、古いエレベーターがゆっくりと昇っていく、 地元の高校の同級生、 そろって上京した三人組だ。 扉が開くなり、ふたりが手を振ってきた。 「ひさしぶり〜! 二年ぶりだね」「もうそんなになるんだね〜」 店内は賑やかだが、わたしたちも仕切り個室で再会の乾杯をした。 「るん、いまもギャラリーの仕事してるの?」 そう聞かれて、ちょっと気恥ずかしいのには理由がある。「まあね。社畜だけどね」「うちらの出世頭だね〜」「まあ、何をもって出世とするかだけどね……」 わたしはレモンサワーを一口飲んで、苦笑する。 アートディレクションという仕事は好きだ。クライアント相手に企画を通してデザインや展示をまとめていくのは、創作に似たやりがいがある。「ディレクターだって!」 「やっぱ凄そうじゃん!」「でも、まだサポートだから……要はただの画廊スタッフだよ」 わたしは苦笑する。要はまだ見習い。十年目の使いっぱしりだ。 家も帰れば寝るだけのワンルーム。 慢性的な睡眠不足と、目の奥にじわじわ来ている老眼の兆し。 そして、おなじ場所の空気を吸うだけで心を錆びつかせる上司の身勝手。「かっこいい〜」なんて、とてもとても…… そんな仕事はまだできてないし、三人で思い描いていた生活でもない。 それでもユッコとちーちゃんは、目を輝かせてくれる。「るんるんってさ、美大行ってたよね? てことは今も自分で描いてるの?」 「確かに! るんの絵、めっちゃ上手かったもんね!」「いやいや、もう描いてないよ。今は企画側の仕事だから」「企画側?」「うん。ギャラリーの展示のしかたを企画したり……」「え、なにそれ、やっぱかっこよ……! 展示ってどうやって決まるの?」 簡単に言うと、どのアーティストの作品を、どう見せるかを決める仕事だ。 例えば、この前の企画というかサポートした展示は、インド美術の企画展だったんだけど…… 「並べるだけじゃなくて、〝見え方〟を工夫するのね」 たとえば、柔和な微笑みにしなやかなポーズをしたおっとり系お姉さん女神パールヴァティ像を、現代の美少女アニメのフィギュア作品と並べて、腰のひねりや繊細
ぽんこつなエレベーターが開いて、ハルトが入ってきた。 十年ぶりに見る顔は、相変わらずの半端に長い髪。長旅によれたスーツ。 ふたりは手を挙げて招くけど、わたしは一瞥をくれるのが精一杯だった。 とは言え大人になっても幼なじみ同士、なぜか隣に座らせられ、いつのまにか同級生ふたりとは馴染んだような顔に戻っている。 ふとユッコがちーちゃんとだけにしか通じない部活の話を思い出した弾みに、ハルトがこっちを振り向いた。「るん……」 少し気まずそうにみている。「久しぶり」 「……久しぶり。」言葉を返しながら、わたしは僅かに目を逸らした。 たぶん、このやり取りに空気が殺伐としたのだろう。 ユッコがふと口を手で覆った。「あ…… でも、るんるんとハルトって、雪解けしたんじゃなかった?!」 とんでもない。まだ氷河期よ。 わたしは伝票を手に取る。 今夜は早めに帰れる。久しぶりに布団でちゃんと寝たい。「るんるん、帰るの!?」 「うん。明日も仕事なんだ」 そう言いながら、テーブルに少し多めに割り勘代を置いた。 ユッコにもちーちゃんにも罪はない。 でもハルトがここに来る無神経がわからない。 もう懐かしい時間は終わり。そう思っていたのに。「じゃ、送ってくよ」 ハルトが、当然のように言った。 「ていうか、勝手についてきただけじゃん」 山手線の車内で、わたしは小さくため息をつく。 隣に座っているハルトは、気まずそうに肩をすくめた。「なんか……久しぶりだから、話したくてさ」 ……こういうところだ。 昔から、わたしの意思よりも〝自分のしたいこと〟を優先する。 渋谷で田園都市線に乗り換え、三軒茶屋で降りる。 まっすぐ帰るつもりだったのに、わたしは遠回りをした。「すげー、おれ、三茶ってはじめて」「よかったね」「──ん? 東京にもコメダあるんだ! そうだ、るん、よかったらあそこで話していかないか?」「どうぞお一人で」「なんでだよ、ちょっとくらい。十年ぶりじゃないか」 十年がなんだってんだ。こっちは十週ぶりの定時あがりだぞ。 たばこ屋の前で、わたしは立ち止まる。「ここでいいから。ありがと。帰って」「でも、ここいらって…… マンションとか、ないじゃん」 わたしは、大きくため息をついた。「──いい? わかりや
わたしは、もともと根っからの文化系。いや、元ひきこもり。 突っ込んでくるトラックを、横に跳んで避けるようなタマじゃない。 だから、今も何が起きたのか分からないまま、反射的に身をこわばらせ、目をきつく閉じたまま、最期の時を待った。 ……が、いつまで経っても衝撃も痛みも訪れない。 不思議に思い、恐る恐る目を開けると—— そこは、見覚えのない石敷きの広間だった。 見回すと、天井は高く、壁際には松明がいくつか灯っている。ゆらめく橙色の光が、広々とした空間に陰影を落としている。 「……ここ、どこ?」 三茶のたばこ屋から、一体どうしてわたしは……こんな場所に? とにかく現状を把握しようとした、そのとき── 石敷きの間に、威厳のある声が響いた。 「——余はホーガン。この魔界を統べるもの」 反射的に、声の主へと視線を向ける。 そこには——山羊頭の巨人が、半裸で玉座に腰をかけていた。「またの名を、魔王。訳あってお前たちを召喚した」 魔王……?召喚……? わたしは戸惑いながら、まず自分の手足を確認した。どこにも傷はない。痛みもない。 ──クルマに突っ込まれたのに、だ。 ……でも、確実におかしい。 そうか、わたしは死んだんだ。 じゃあこの状況は。まさか地獄ってやつか。 広間を見回そうと左に向いた瞬間、わたしは、すぐ隣にある異様な物体と目が合った。 ——立ったままのミイラ。 干からびた肌、 萎びたまま半開きに固まっている口。 右手は少し前に差し出され、乾漆像のように固まっている。 ……眉毛を下げているせいで、どこか悲しげに見えるミイラは、 「……く、空也上人?」 思わず口をついて出た。 でも、服装が違う。よれたスーツに革靴だ。 そして—— どこかで見た、半端にちゃらいロングヘア。 わたしは、その顔の頬を両手で掴んだ。「は…… ? ハルト!?」 わたしは思わず叫んだ。 ——干からびて立っていたのは、元カレのハルトのミイラだった。 魔王の声が、広間に響く。「つがいで召喚をしたのだが、お前の拒絶心も強すぎたようだな……。伴侶のほうが生きながらミイラになってしまったようだ」 「は!?」 わたしは魔王に言った。 「いや待って……! そこ、わたしのせい!?」 魔王と煮干しみたい
魔王が言うには、この魔界にもその昔、魔族と共存する多くの人間が暮らしていたらしい。「じゃあ、どういうこと? あなたがその人類を滅ぼしてしまったって……」 見上げているわたしに、魔王は言った。「彼らは旺盛な繁殖力と競争心、そして創造力をもち、この魔界でも大いに繁栄していたのだ……」 しかし、彼らは魔界で無秩序に増えすぎた。 その結果、魔族との間で戦争が起きた。「そうか。つまり、あなたたち魔族が、その戦争に勝ったというわけね」 魔王はうなづく。「だが…… その後、人類なきこの魔界は文化的な発展を止めてしまってな。かろうじて維持はできているが、創造を欠いた世界は、いずれ破壊の力に押し潰されよう」 そう言いながら魔王は、目を、ゆっくりとこちらに向けた。「——そこで余は、お前たち、つがいを魔界に召喚した。人類の持つ創造性を再び導入するためにな」 彼は山羊の顔で、静かに迫る。「相川るん、かような訳だ。この魔界で、その岸部ハルトと繁殖しろ」 わたしはめまいがして、その場に膝をつきそうになった。「ちょ、っと待って……」 立っていられず、藁をも掴む思いでハルトミイラの肩に手を置いた。 どう言うこと……繁殖って…… 足に力が入らない。うつむいたまま言う。「じゃあ、魔王…… あなたはつまり、ハルトとわたしをさせるというか、結婚させようと思って、魔界に召喚したってわけ……」 この言葉に、魔王はうなずく。「左様。」 そこで、わたしが思いっきりハルトを指差しながら言うと、魔王は少し黙った。「いやでも!こいつ、死んじゃってますよね!?」「……そうだな」 いや、そこは反省しないでほしい……。「しかし魂は内側に残っておるようだ。早急に蘇生させよう。式までに間に合うようにな」 ……シキ? 式って、あの、結婚式か? わたしは、魔王を見上げなおした。「嫌か?」「──嫌です! わたし、コイツとだけは無理なんで!」 胸の前で両手をクロスし、るんは首をぶんぶん振った。「だって、ハルトにはもう――」 そう。もう別の婚約者がいる。わたしが横入りするわけにはいかない。「お断りします!……それにね、繁殖って言ったって、わたしぶっちゃけ尿酸値が高いし、血圧だって要注意って言われてるんですよ!」 それに貧血で、肩も腰も痛いし、便秘だし冷え性だし!
──翌日。 わたしは、十年ぶりに朝寝坊をした。 生家のベッドで起きると、スマホの画面には「10:00AM」の文字。 どうしてスマホが使えるのかはわからないけど、眠いわたしは、あくにをし、寝癖のついた頭を掻いた。 昨夜、魔王は言っていた。「子を産ませるためなら支援を惜しまない」……と。 見回しているこの生家の寝室も、電話も、そのうちの一つなのだろう。 とりあえず、わたしはこの魔界の〝国賓〟あるいは〝ふたりめのイブ〟らしい。「……フフん」 バックに世界の最高権力者である魔王がついているのだから、親方日の丸どころの話じゃない。 ……とはいえ、のんべんだらりとしてもいられないか。 わたしは魔王と、絵を描かない代わりに、婚活の契約を結んだ。 その期限は、三年。 ベッドを離れ、裏庭の縁側を兼ねた廊下に立つ。 サッシの向こうに、テラスの裏庭と広い湖が見えた。 この湖畔の生家は、魔王のちからで昨晩、地面から生えてきたものだ。 昨夜は馬車でこの地に着いて、降ろされて、呆然と夜の湖を眺めていたら、地面から音を立てて見慣れた実家が生えてきたんだから、シンプルにたまげた。 こうして朝の光のもとで眺めると、湖の浅瀬には、淡く睡蓮が広がっていて美しく、中ほどからは深いのか、ダークブルーの水面にさざなみが立っている。 対岸には、小さな森が見える。 さらに彼方には王都の尖塔が小さく霞んで見える。 湖のほとりに生えたおかげで、良い感じに借景を得たこの廊下からの景色が、何度見ても新鮮だ。 室内を振り返ると、祖母のいた床の間に、なぜだかわたしが三茶のマンションに置いてきたシングルベッドがある。 3LDKの平屋建は、二十年以上も前に火事で失
仰向けに、ベッドで横になる。 しかし、出社しなくて良いとなると…… シンプルに退屈だな。 十一時には来客の予定があるけれど、それまでこうしてベッドの上でゴロゴロしているのも、なんだかもったいない。 スマホを手にしても、地図以外のアプリがない。 仰向けになっていると、昨晩、魔王とした契約が思い浮かんでくる……。 『……よいか、相川るん。 余の魔力は、負のエネルギーを帯びながら死んだ魂を、他の世界からこの魔界へ引き込むことで召喚することができる。 そして逆もまた然り。〝正のエネルギー〟を蓄えれば、次に来る死の瞬間、お前たちを元の世界に押し上げてやることもできよう。 だが、〝正のエネルギー〟つまり、創造の喜びを貯めるのは容易ではない。 いずれ分かることだが、時間がかかるのだ。 その間も、お前の肉体は魔界で歳を重ねる。 だが心配は要らぬ。元の世界へ戻れば、見た目も年齢も、死ぬ前の姿へと戻っているはずだ。 よいか、相川るん。 お前は、お前の絵を描き、あるいは繁殖し、生み出し育むという創造の喜び、すなわち〝正のエネルギー〟を存分に集めよ。 そのこつは、楽しむことだ。 それが心臓に飽和した状態、すなわち、喜びに満たされた上で次の死を迎えた瞬間、お前たちの帰還は果たされる。 そして、その頃には、この魔界にも再び創造の力が満ち溢れるていることだろう……』 ──いつの間にか、眠っていた。 朝か。昼か。 ベッドサイドに身を起こし、明るい寝室で、ぼんやりとする。 手が、うっかり化粧ポーチを引き寄せていた。 いや違う。ここは三茶じゃない。 魔界だ。 もうしばらく出社する予定なんてないのに、手が勝手にポーチを探していたあたり、社畜の強い呪縛を感じる。 「やめた、やめたぁ」 放り出して、髪も二度寝の激しい寝癖のまま、台所で湯を沸かしはじめた。 ──にしても、うっかり明日のことを考えると、不安になるくらいヒマだ。 ほぼっていうか、状況的には完全無職のわたしは、この湖畔に蘇った生家で、いったい何をしたらいいのか。 腕を組んでわたしは考える。 なんでも出来るはずなのに、何をしたいのかが分からない。 じゃあまた横になるかって言うと、このまま寝たら、きっと夜通し起きてることになるんだろう
スマホを手に取る。 鳴動は、着信ではなく、アラームだった。 画面表示の時刻は「10:28」。「──そっか。お客さん、来るんだっけ」 ふと、そこで思い立って、わたしは賭けをする気持ちで、目を閉じた。 これでつぎに目を開けた時、三茶のマンションの天井が見えたらこれは、いわゆる夢オチだなと。 また急いで身支度をして、駅で並んで、身体が持ち上がるような田園都市線に身を押し込むんだ。 それで渋谷駅まで行く。 そして道玄坂を登って…… 忙しすぎて毎日走っていた元の世界と、 暇すぎて不安になる魔界という異世界。 元の世界と、あの魔界。 どっちに、わたしは居たいんだろう。 ──閉じていた目を、わたしは開けた。 けれど場所は変わらず、湖畔の裏庭。 と、言うことは、異世界転生は現実だったんだ。 スマホの時計も、「10:31」のまま。 わたしは、仕方なしに鼻をこする。「ハラ、くくるしかないか……」 気乗りしないけれど、生き返るための婚活を──。 そうなると……まもなく魔王が手配した〝マッチング業者〟とやらが来る、十一時じゃないか。「うわ、ヤッバ!」 急に、お仕事感がぶり返してきた。「マジか! なんもしてない……」 わたしは洗面所に走った。 鏡の前で髪をとめ、水道の蛇口をひねると、そこに前、鏡に映る自分の姿に…… わたしは、驚愕した。 ──若返っていた。 魔王は「いろいろと支度はしておく」と言っていた。 でも、それは化粧水だけじゃなかったようだ。 わたしの容姿というか、身体そのものが、女子高生のころに戻っている。 たしかに昨夜は「腰が痛い」だの「老眼」だの「高血圧」だの言ったけれど、だからと言って、ティーンに戻すのは、ちょっと年齢差別がひどくないかと、ちょっと魔王にムカついた。 すると気になって、わたしは、前髪の生え際にある傷を確かめた。 傷跡は、まだ新しい縫い跡として、残っていた。 水を止めるのも忘れて、わたしは視線を落とした。 もしかして、昨日、ふたりして事故に遭う直前、ハルトが言いかけたのは、この傷のことだったのかなと。 ──午前十一時。 玄関のチャイムが鳴った。 ひとり暮らしの心得で、チェーン錠をしたまま応対する。 ……が、訪問者の姿を見て、わたしはあまりのファンタジーさ加減に力が抜けた。 ─
アオは、洋間の前で、立ち止まり、息を吸いこんだ。 わたしもなんだか、緊張してくる。 ここを開ければ、父のアトリエがあるのだから──。 水風船ほどの小さなからだで、アオが、意を決したように真鍮のドアノブを見上げた。 「──いい? アオ、心の準備はできた?」 わたしが尋ねると、彼はドアの前で、「うん!」と、大きくうなずいて見せた。 と、言っても、中に何か特別なものがあるわけじゃない。 亡くなった父の画材と、落書きでしかないわたしの絵が、あの雨の夜の火事の直前のまま、残っているだけだ。「じゃ、あけるよ、アオ」 わたしはノブを押し下げる。 わたしが入るわけじゃないのに……やっぱり心臓が早鐘のように鳴りはじめた。 わずかに開いたドアの内を、アオが恐る恐るのぞきこんでいく。 引けた腰を廊下に残したまま、目だけがドアの向こうに伸びている。 そのさまは、背中から見ていても、さすがスライムといった感じだ。 アオは、目を、こっちに引っ込めた細長い体で振り向いて、「……ほんとに、このアトリエ、おばけでないんだよね?」 わたしに何度目かの確認をした。 アトリエの中央にあるイーゼルに掛かった〝それ〟の正体を、知りたい気持ちと、知りたくない気持ちがせめぎ合って、アオの体がドアの角で真っ二つになりそうだ。 わたしはうなずく。「うん。……でないよ。あそこにあるのは、わたしが昔描いた落書きの絵……」 そう。あの絵は、あくまでわたしにしか見えないオバケだ。「けしてアオには悪さをしないわ」 するとアオは、伸びきっていた体を、ぱちんと水風船に戻して、わたしを見上げ、力強くうなずいた。「──わかった。 …&hell
するとアオは、「どのくらいまで大きくなったら、結婚してくれるの?」 と真面目な顔で聞いてきた。「ぷっ……」 吹き出したわたしに、アオはまたむくれた。「るんちゃん! また笑ったなー!」 ひとしきり笑って、またちゃんと謝ってから、わたしは彼にひとつ、ちょっと真面目な質問をした。「──じゃ、念のために聞くけど、なんでアオは、わたしとは結婚したいって思うの?」 すると、アオは、いかにも子供と言った表情ではにかんだ。「だって結婚したら、ずっと一緒にいられるって、ウィスカーがいってたから」 そしたら、きっと寂しくなくなるかなって思ったの。 そう聞くと、胸がキュッと痛んだ。 ──すると、パーカーの前ポケットの中で、チャリンと小銭の音がした。「ん!?」 すかさずスマホでアプリを開き、正のエネルギーの残額をチェックすると、【 残高:‑500,029 ▶︎ ‑500,031 】 ……じゃっかん、増えてる。 わたしは、さっきの胸のちいさな締め付け感を思い起こそうとした。「そうか…… これが、胸きゅんというやつなのか」 無垢な目で、アオは見上げていた。 ということは、このアプリ、わたしが抱く恋愛感情についても計測しているのか。 しかし、スライムにわたし、そんな感情をもっちゃうのか。なんだかショックなんだけど、深呼吸して心を落ち着けた。ここでまた変なことぼやいたら、せっかくの+2ポイントを失いかねない…… でも、アオからそう聞いて、わたしも、ちょっと胸の別のところが痛んだ。
──とはいえ。 わたしは玄関脇で、届けられた大きな木箱に向き直り、腕を組む。 ここで開封するにしたって、バールと木槌がいる。 そして二つとも、父はアトリエの工具箱に保管していたはずだ。 だから、魔王からの贈り物の中身を確かめるには、アトリエに入るほかない。 わたしは、空を仰ぎ見る。 肩の上のアオが、心配そうに言った。「どうしたの、るん、気分よくないの……?」「うん。」 洋間と、その中のアトリエのことを考えるだけでもう、胸がざわついている。 でも、考えたってしかたがない。 とりあえず、木箱のことは忘れよう。お昼にしよう。 わたしは笑みを作る。「──でも、なんでもないのよ。ちょっとした考えごと」 アオとサンドイッチを作って、縁側で食べる。 クレソンのサラダを口に運ぶ。 でも、なんだか味がしないのは、やはり洋間のことで気が重いからだ。 あの魔王からのでっかい荷物、やっぱり気になるし、開封するには、どうしたって蓋から釘を抜くバールが必要だ。 アオが、ドレッシングまみれの口で言う。「るんの家には、そのバールっていうの、ないの?」「あるよ。残念ながらね……」 でもそれが、アトリエにある。 そうつぶやくと、アオが口を舌で拭いた。「あとりえって、ここから遠いの?」「ううん。そこの洋間の中よ」 わたしはテラスから振り返る。 アオも目を背中に動かして、「すぐそこじゃん」とつぶやいた。 そう。遠く離れているわけじゃなくて、単に、洋間の中に入るのが嫌なんだよね……。
わたしは腕組みしたまま考えた。 たしかに我が家には、コンクリートで床を強化した場所が、洋間のアトリエにある。 100キロある銅像の重さに耐える場所となると…… あそこしかない。 「でもなぁ……」 わたしは、冷や汗を感じ、思わず独りごちる。 受け取るとなると、やはり、あそこに置くしかないのか。 にしても、やっぱり洋間には、入りたくない…… わたしは苦笑して、配達員のオークさんを見上げた。「困ったな…… 置き場は、たしかにありはするんですけれど……」 配達員は微笑んだ。「よければ、私が屋内に運び入れますが?」 オークの配達員さんの腕を見ると、制服の袖がピタピタで隙間がないほど太いし、胸も厚い。木箱ごと抱えて持ち運ぶことはきっと不可能じゃない。 でも問題は、そっちじゃないんだよな……。 しかたなしに、わたしは嘘をついた。「──いえ、うちの中に、置ける場所がないんですよね」 オークの配達員さんも、そう聞くと、うなずいて言った。「たしかにこの重さじゃあ、お家の床が抜けちゃいますよね」 「ええ、そう、なんですよねぇ」 嘘をついているのは心苦しいけれど、目を合わせないまま、わたしは続けて言った。「……そんなわけで、やっぱり、この木箱は……ここに置いたままで良いです」 そうだな。いっそ、このまま外に置いておくのがいい。 このオークさんがいれば、こんなに重い荷物でもアトリエに運んでもらえるだろうけれども、引きこむ前に、ドアを開けた時点で、わたしがきっと倒れてしまう。そうなったら、また別の迷惑を配達員さんにはかけてしまうだろうと思った。「──なので、なんかごめんなさい」
肩に乗せているアオが、背伸びして我が家を眺めながら言った。 「あそこが、るんのお家?」 そう。湖畔に昨日建ったというか、生えたばかりのわたしの生家だ。 「うん。向こう側は湖なんだ」 しかし道路に面している玄関前の駐車スペースにも、荷車が停まっているのも見える。 わたしも背伸びした。 「なんだろ。よく見えないけど、郵便屋さんかな」 すると、わたしのパーカーの前ポケットで、着信が鳴った。 取り出すと、登録にない番号が表示されている。 つまり、ウィスカーのじゃないし魔王のものでもない。 しかもよく画面を見ると、電波状態がアンテナじゃなくて、雄山羊の角マークで表示されている。 ともかく、わたしはスマホを耳にあてた。 「──はい、もしもし。」 かけてきた相手の電話先の声は、女性っぽい。 『──あ、よかった。相川様ですか? わたくし郵便局の配達員のオークです。ご自宅にお届けにあがったのですが、お留守なようで』 荷車の荷台の向こうから、携帯を耳に当てている制服姿のイノシシ男の肩から先が覗いて見えた。 わたしはアオを肩に乗せたまま、手を挙げた。 「あ、見えました。こっちです、お地蔵さんのほうです」 すると配達員も、こちらを振り向いて、笑顔で手を上げた。 二本足で立って歩く大柄なイノシシの郵便配達員が、この魔界のオークなのだということは、駐車スペースに着くまでの道すがら、アオが
アオを肩に乗せて堤の上に出る。 川沿いの道はとてものどかだ。 小川の両岸を、菜の花が黄色と緑に埋め尽くしている。 「補色だなぁ」 目に鮮やかだ。 土手の桜並木からは、花びらが舞っていて、いかにも春って感じがする。 お日様の加減もほどよくて、なにより好ましいのは、スギの花粉がないこと。 胸いっぱいに息を吸い込んだって、気持ち良さしかない。 ここは魔界だって言う話だけど、これだけでも天国みたいに快適だ。 そう考えると、よっぽど元の世界の春のほうが、花粉症で地獄だったなと、そうぼやきかけて、またマイナスブザーがならないかと思い、やめた。 わたしは、多少の言い訳をこめて、アオに言った。 「でもなー。やっぱ、サラダくらいあったほうが良いよねぇ」 アオが肩の上で振り向く。 「サラダ?」 「うん。サンドイッチだけじゃ寂しいでしょ? あったらよかったなー、って」 昨夜、魔王の間を出るとき、「いろいろ準備しておく」ためにと魔王が、当座ほしい食品を聞いてきたが、さすがにどうも食欲がなくて、あのときは、牛乳とパン、そしてハムよ答えるしかなかった。 するとアオが、肩の上で、挙手するように背伸びした。 「よし。ちょっとまってて、ぼくそういうの得意なとこあるから!」 アオは、鼻をひろげて匂いをかく。 「へー、鼻の穴なんて、あったんだ」 「うん、こうすると雰囲気でるでしょ? 嗅いでますってかんじで」 そう言う理由か。ということは、なくても嗅げるんだろうなぁ。 でも、わたしも足を止め、菜の花の香りを吸い込む。 なんだか食卓のハチミツを思いだす香りだなぁ。 小川の堤は、蛇行しながら先に続いている。 その先を眺めるように、アオが目を開けた。 「ん、おいしい匂いを見つけたよ! ちょっといってくる、このまままっすぐ進んでてー」 ぴょこんと、彼は肩から飛び降りて、土手の草むらにとびこむ。そのまま草花を揺らして小川に向けて転がっていく彼を、思わず追いかけてしまった。 「って、待ってアオ、またはぐれたらどうすんのー?!」 だけどアオは返事もなく、小川の中へ飛び込んでいってから、顔を出した水面を滑らかに背泳ぎしだした。 そして、 「だいじょうぶー、るんは家に向かってて。すぐ追いつくから」 カメのように彼
公園を出て、アオと歩く。 跳ねて着いてくるアオを振り返った。「それって、もしかして走ってる感じ?」「うん! あるくとね、こんな感じ」 そう言って跳ねるのをやめたアオが、歩くスピードは、カタツムリよりちょっと速いくらい。 わたしはしゃがんで髪を右に寄せ、「乗って良いよ」と空けた肩をつついた。 アオは、丸い目をぱちくりさせた。「ホント?! ぼくが、そこに乗っていいの?」「うん。重くなさそうだし、遠慮なくどうぞ」 すると、アオは喜んで飛び乗ってきた。 軽さにしても、ひんやりとした感触も、お祭り屋台で釣る水風船ほどのものだ。 濡れているかと思ったら、案外と表面はさらっしていて弾力感がある。 アオがなにか言うたび耳元がこそばゆいけど、まあこういうのも良いな。 アオ自身も、わたしの肩からの見晴らしが気に入ったようだ。「すごいー。空を飛んでるみたい」 さすが五歳児だな。 なんでも楽しめるんだな。 しかし、ふと心配になったようで、「でも、るんは肩とか重くない……?」 と。聞いてきた。「全〜然!」 むしろ、いまはわたしの方が心配しなくちゃならない。 家に着いたところで、冷蔵庫にはパンとハムしかないからだ。 ランチに誘っておいてなんだけど、粗食すぎて、なんだか申し訳ない。 でもどうやらアオが、草っていうか野菜をいける口みたいだから、そのへんの農家さんでレタスかトマトでも売ってもらおうかなと考えたけど、そもそもわたしは無一文だった。「……だめじゃん」 思わずつぶやいたら、アオが不思議そうな顔をした。「どうしたの?」「いや、昨日の夜に魔王にレタスも頼んでおくんだったなー……って、思ってさ」 そ
発信者の通知には、[魔王]とある。 わたしは小さく息を吐いて、着信画面をスライドした。「もしもし……」 すると、ウィスカーの軽薄な声から転じて、やたらと荘厳な声がちっぽけな公園に響く。『どうだ、相川るん。スライムとはうまくいっているか』「ええ、おかげさまで」 びっくりさせられた怒り半分、そして皮肉半分でそう返すと、魔王は重々しく言葉を続けた。『いま送ったアプリは〝正のエネルギー〟の貯まり具合を数値で確認するアプリだ』「そうなんだ。」 なんかもう、あきらかにおかしなことを聞き慣れちゃってる自分の耳がこわい。「それでアイコンが魔王のツノなんだ。なんかびっくりして損しちゃった」 そう言うと、魔王はフフフと笑った。『お前が生を終えるまでに貯めておかねばならぬ正のエネルギーの量……そして、現時点での残高を確認できるようにしておいた』「……そうなんだ。待って、開いてみる」 わたしは通話をつなぎながら、そのアプリをタップした。 出てきた画面には、やたらと立派な金文字で、こう書かれていた。【 残高:‑500,000 】「……え」 目を疑った。二度見してから、袖でこすって三度見した。「いや、ちょっと魔王!? マイナスってどういうこと!? しかも五十万て……え、ケタ四つくらい間違ってない!?」 しかし、魔王の声は、まったく動じない。『当然であろう。忘れたか。お前がいかに元の世界で負のエネルギーを帯びていたのかを』「……!」 貯金もないが、欲しいものは貯めて買う。そえだけは祖母の言いつけを守って生きてきたつもりだ。 でも、言われてみれば、ネガティブ思考はダダ漏れにしてきたかもしれない。 なぜ
ひきつった笑顔のまま、冷や汗を浮かべ、空を見上げる。 どうかしてるよね、わたしったら、無一文でデートにきてた。 ふとハルトのことが頭にうかぶ。 そういえば、デート代、だしたことなかった。 アオがブランコを左右に揺らしながら、自作っぽい歌を歌い始めた。いよいよこれは……後にひけなくなってきた…… ふと、空にウィスカーの詐欺づらが浮かんで見えた。 不本意ながら、今は彼しか頼るすべがない……「……ごめん、まってて、ちょっと電話する」 わたしはアオに断って、パーカーの前ポケからスマホを出した。 『──はいもし! あなたの婚活、全面サポート、ウィスカー商会でございます!』 その声のデカさもあるが、わたしはウィスカーが居る場所の騒がしさに、通話口から耳を遠ざけた。『おお。相川さまですねー? アオさまはいかかですかー? こちらは順調ですよー、明日にもまた新しいお相手をご紹介できそうでございますーー』 お昼中だった様子だ。なんか申し訳ないけど、しかたない。「あのね、ちょっとだけいいかな……!」 アオが飽きたのか気を利かせたのか、ブランコから降りて、ぴょんぴょん跳ねて行き、砂場で遊び始める様子を目に、わたしは声をひそめて言った。「……まずは報告なんだけど、ウィスカーさん、ご紹介のスライム、ホントに五歳でした。本人が自供しました」 ウィスカーは、やや沈黙を置いた。『──申し訳ない』「……いいけどさ」 でも成人っていう点では、ウィスカーも間違っていない。「……でもね、今後わたしのマッチングではね、わたしの元いた世界の倫理観で候補者を