綾は心の中で冷笑した。そして無表情で彼を見つめ、「褒めてほしいの?」と尋ねた。「いや。ただ、お前のためなら何でもできるってことを証明したかっただけだ」誠也は薄く唇を上げた。「そう。じゃあ、今海に飛び込んでって言ったら、できるの?」綾は冷たく笑った。誠也は一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに諦めたように低い声で笑った。「本気か?」「本気よ」綾は冷ややかな目で言った。「ここは公海よ。飛び降りたら許してあげる。死ぬかどうかは、あなたの運次第ってことね」「綾、俺は死ぬわけにはいかない」誠也は真剣な顔で彼女を見つめた。「俺を必要としている人がいるんだ」「そうよね。悠人があなたを父親として必要としているものね!」綾は足を引っ込め、冷淡な視線で彼を見た。「でも私はあなたに何度も死んでほしいと思った。なのに、悪い人こそなかなか死なないものね。あなたには敵わないって分かってる。だから、これで最後にしてほしい。この結婚式、私があなたに借りがあるって言うなら、嫌でも我慢して付き合ってあげる。その代わり終わったら、必ず私を自由にしてよね!」そう言う彼女の瞳には、激しい憎しみが宿っていた。誠也は喉仏を上下させ、立ち上がると、低い声で答えた。「ああ、分かった」......夜になった。甲板に結婚行進曲が響き渡った。司会者は司会台の前に立ち、芳子に支えられながら、綾が足を引きずってレッドカーペットを進んでいくのを見守っていた。司会者は、4年前、G国で彼らの離婚式を執り行ったのと同じ人物だった。4年前より少し老けていたが、同じ司会者の衣装を着ていた。綾は一瞬、ぼんやりとした。まるで、あの日に戻ったかのようだった。ただ、今日の結婚式には、参列者は一人もいなかった。イベント企画会社の人と、芳子だけだった。誠也は結婚指輪を取り出した。雲水舎で綾が拒否した、あの結婚指輪だった。それと、一緒にあの大きなダイヤモンドの指輪もそこにあった。誠也は結婚指輪を綾の薬指に、ダイヤモンドの指輪を人差し指にはめた。今度は綾が彼に指輪をはめる番になったが、わざと指輪を落とした。指輪は床に落ちて、遠くまで転がっていった。芳子はすぐに拾いに行った。そして、再び綾に手渡した。綾は無表情のまま、もう一度指
結婚式は延期になった。綾はずっと部屋にこもっていた。お昼頃、芳子が食事を運んできた。ベッドに座って目を閉じている綾を見て、芳子は唇を噛み締め、小さくため息をついた。結婚式だというのに、こんなにも美しい花嫁が、少しも嬉しそうに見えないなんて。この結婚式の不自然さと異様さは、誰もが気づいていた。しかし、誠也に雇われている以上、雇い主のすることに口出しできる立場ではなかった。ただ、誠也のような金と権力を持つ男でさえ、報われない恋をすることがあるのかと、少し感慨深いものがあった。やはり、恋愛だけは、この世で最も無理強いできないものなのだろう。芳子は綾の前に歩み寄り、優しい声で言った。「奥さん、お食事にしましょう。碓氷さんが、結婚式は夜に行うと言っていました。何か食べて、お腹に入れておいてください」綾は目を開け、芳子を見た。そして、テーブルに置かれた料理に視線を移した。「これは食べたくない」綾は冷淡な声で言った。「ステーキに変えてもらって」「え?」芳子は驚いた。「でも、あなたは体調を崩されているんです。ステーキは消化に良くないんです」「ステーキが食べたいの。それも、最高級のステーキを、レストランの基準で」綾は譲らなかった。芳子はそれ以上何も言えず、「では、少々お待ちください。碓氷さんに確認します」と言った。これは、避けて通れない手順だった。幸い、誠也は拒否しなかった。30分ほど後、芳子は焼きたてのステーキを部屋に運んできた。「奥さん、ステーキができました」綾は立ち上がり、重たいウェディングドレスの裾を引きずりながら歩いてきた。「出て行って」「はい」芳子が出て行くと、綾は席につき、皿の上のカットされたステーキを見て、眉をひそめた。ステーキはカットされているのに、箸が添えられている。それも、木の箸だ。これは、明らかに誠也の指示だ。さすが誠也だ。ここまで警戒しているとは。綾は箸で牛肉を一切れ口に入れ、無表情に噛んだ。諦めるつもりはない。......綾はステーキを数切れ食べただけで、残してしまった。そして、皿を持って部屋を出た。芳子はずっと扉の外で待機していて、綾が出てくると、急いで駆け寄った。「奥さん、私が持ちます」「大丈夫、少し歩きたいの」綾は芳子の
彼女は両手を握りしめ、歯を食いしばりながら言った。「わかった。私があなたに借りがあると思えばいい。この結婚式、あなたに付き合ってあげる」「それでいいんだ」誠也は彼女の首筋に手を回し、額に優しくキスをした。綾は目を閉じ、涙が頬を伝った。......誠也は全てを準備していた。芳子の他に、クルーザーにはウェディングプランナーたちが待機していた。そして、専属医、司会者、シェフもいた。このクルーザーは大規模な改装工事を終えており、特に綾がここ数日滞在していた客室は、南渓館の寝室を完全に再現したものだった。綾が誠也との結婚式を承諾してから、これらの人々は彼女の前に次々と姿を現した。二人の女性スタイリストが、綾のヘアメイクを担当した。クルーザーは公海上に停泊していた。今日は穏やかな日だった。青い空と海、クルーザーの上空をカモメが時折飛んでいる。甲板では、イベント企画会社のスタッフ全員が忙しく働いていた。花や風船、レッドカーペット、音響設備など、SNSで話題の素敵な結婚式にも全く遜色ないほどのセッティングだった。綾は二人の女性スタイリストの手を借りて、あの忌まわしいウェディングドレスに再び袖を通した。そのウェディングドレスには、真っ赤な血が付着していた。スタイリストはバラの花びらをその上に貼り付けることを提案した。斬新なアイデアだと言う。綾は気にせず、彼女たちに任せることにした。事情を知らない人は、鮮やかな赤いバラの花びらを見て、ロマンチックで斬新だと思うだろう。しかし、綾にとって、どれだけ隠そうとしても、血痕は血痕のままだ。このウェディングドレスは、もう二度と元の純粋で汚れのない状態には戻らない。それは、彼女と誠也の結婚生活と同じだ。息子の命を隔て、嘘まみれで、すでにズタボロなのだ。誠也に承諾した瞬間から、綾は異様なほど冷静だった。メイクがまだ終わらないうちに、誠也はタキシードに着替えていた。彼はドアを開けて入ってきた。スタイリストは彼を見ると、恭しく挨拶をした。「碓氷さん」「一度出て行ってくれ」誠也は静かに言った。二人のスタイリストは持っていた道具を置き、静かに部屋を出て行った。誠也は綾の前に歩み寄った。綾は無表情で、彼に目線を送ろうとすらしなかった。誠也
一方で、綾の困惑した視線の中、誠也はしゃがみ込んだ。上着の内ポケットから鍵を取り出し、綾の足枷を外した。鉄の鎖は脇に投げ捨てられた。綾は眉をひそめた。誠也は立ち上がり、優しい笑みを浮かべながら綾を見つめた。「さあ、もう出て行けるよ」綾は彼を見つめた。そして、少し戸惑った。誠也は特に何も言わなかった。その様子を見た綾は恐る恐る一歩前に出た。誠也も彼女を止めなかった。すると、綾は深く息を吸い込んで、走り出した。足首に突き刺さるような痛みを感じたが、構わずドアノブを回し、勢いよく外へ飛び出した――しかし、次の瞬間、綾は立ち尽くした。ここは南渓館ではなかった......長い廊下を見ながら、綾はすでに予想していた。しかし、信じたくない気持ちで、足を引きずりながら廊下を歩き続けた。廊下を抜けると、海風が吹きつけてきて、綾の心は沈んでいった。甲板に出て、広大な海面を目の当たりにすると、信じられない思いだった。彼らは南渓館にはいなかったのだ。そこはプライベートクルーザーの上だった。彼女が立ち尽くしていると背後から足音が聞こえた。綾は振り返った。すると、誠也が彼女に向かって歩いてくるのが見えた。「もう公海に出た。しばらくの間、誰もお前を見つけられない」綾は信じられないという目で彼を見つめた。今日まで、誠也がここまで狂気に走るとは、夢にも思わなかった。果てしなく広がる海面を眺めながら、彼女は無力感がこみ上げてきた。「誠也、あなたは本当に狂ってる......」そう言うと、彼女はもはや抵抗する気力もなく、その場にへたり込んだ。「どうすれば、私を解放してくれるの?」誠也は彼女の前に歩み寄り、ゆっくりとしゃがみ込んだ。ハンサムな顔立ちだが、唇は青白い。痩せたせいか、彫りの深い顔立ちがより一層際立ち、どこか陰険な雰囲気を漂わせていた。切れ長の瞳は黒く、綾の蒼白い顔を映し出していた。「綾、俺の言うことをいつになったら聞いてくれるんだ?」綾は目の前の男を見つめ、絶望に打ちひしがれた。21歳のあの夜、逆光の中に現れたのは、助けてくれる天使ではなく、自分を地獄へと引きずり込む悪魔だったのだ。自分が間違っていた。こんな男に惹かれるべきじゃなかった。綾は
すると、南渓館の警備員が状況を尋ねてきた。「警察の捜査です。これは捜索令状です」と担当刑事は伝えた。警備員は書類を確認すると、すぐに門を開けた。しかし、玄関のパスワードは分からなかった。警備員は言った。「パスワードは私も知りません」輝は何回もインターホンを押したが、誰も出てこなかった。「窓を割ってください!私が責任を取ります!」輝は焦燥していた。この状況では、窓ガラスを割る以外に方法がないようだ。窓ガラスを割って、警察は南渓館に入った。家中をくまなく捜索したが、綾はおろか、誰一人として見つからなかった。「そんなはずは......」がらんとした邸宅を見つめ、輝は再び焦燥感と戸惑いに襲われた。南渓館から出て、警察は引き上げた。輝は南渓館の正門前にしゃがみ込み、頭を抱えた。昨夜、綾に電話をかけたが、全く繋がらなかったのだ。何かがおかしいと感じた彼は、すぐに初に電話をかけた。初は綾が急遽出張に行ったと言った。そして、この数日間はラインで連絡を取り合っていたらしい。輝は綾のことをよく知っている。彼女は優希を何よりも大切に思っている。どんなに忙しくても、出張中は毎日優希と電話やビデオ通話をしていた。このように二日間も連絡がないのは、明らかに異常事態だ。綾に何かあったに違いない。そう直感した。彼はすぐに北城へ戻る飛行機を手配した。北城に着くとすぐに警察に通報し、綾の行動記録を調べてくれるように頼んだ。しかし、何も分からなかった。綾は行方不明になっていた。輝が最初に思い浮かべたのは誠也だった。法律事務所にも碓氷グループにも、誠也の姿はなかった。誠也が綾を連れ去ったに違いない。輝は確信した。彼は警察に南渓館に来てくれるよう強く要請した。北城で彼が思いつく場所は、ここしかなかった。しかし、ここにも手がかりは何もなかった。輝は苛立ち、髪をかきむしった。誠也は一体どこに綾を連れて行ったんだ?白いカイエンがレンジローバーの隣に停まった。丈が車から降りてきた。「岡崎先生」輝は顔を上げ、丈の姿を見ると、勢いよく立ち上がった。「佐藤先生、何か分かった?」「詳しい場所は不明だけど」丈は言った。「北城にはもういない。もしかしたら、海外にいる可能性もある」輝は驚愕した。
一方で、綾は丸一日意識を失っていた。目覚めた時、激しい頭痛と全身の痛みを感じた。部屋は薄暗かった。手を上げようとした瞬間、誰かに握られていることに気づいた。綾は驚き、隣を見た。隣にいた男は目を開け、黒い瞳で彼女を見つめていた。「起きたのか?」綾は息を呑み、手を引こうとしたが、男は離そうとしなかった。「誠也、あなた......ゴホッ!」喉の痛みと痒みに、綾は咳き込んでしまった。誠也はすぐにベッドから起き上がった。そして魔法瓶から温かい白湯を注いだ。「さあ、これを飲んで、喉を潤して」男は片手でカップを持ち、もう片方の手で綾を起こした。咳で顔が真っ赤になった綾は、誠也が差し出したカップを叩き落とした――カップは床に落ちて粉々に砕け散り、辺りは水浸しになった。綾は彼を突き飛ばし、両手でベッドを支えながら、怒りに満ちた目で睨みつけた。「結構よ、あなたに親切にしてもらう必要はない......ゴホッ......」誠也は、苦しみながらも意地を張る彼女を見て、唇を固く結んだ。しばらくして、彼は大きくため息をつき、部屋を出て行った。ほどなくして、再びドアが開いた。芳子がお椀を持って入ってきた。「奥さん、喉に炎症を起こしているようです。梨のコンポートを作ったので、少し食べて喉を潤してください」綾は芳子から渡されたコンポートを食べると、喉の痛みと痒みが少し和らいだ。芳子はお椀を脇に置き、心配そうに彼女を見つめた。「奥さん、碓氷さんと何かあったのかは分かりませんが、碓氷さんはあなたのことをとても大切に思っているのが分かります。熱で倒れて一日中眠っていた間、ずっと付き添っていました」綾は眉をひそめた。「そんなに長く寝てたの?」「ええ。医者も診てくれましたが、急に体調を崩されたせいで高い熱を引き起こしたのだと言っていました。でも点滴のおかげで少しは下がったようですね。夕方にまた、医者が来る予定です」綾は眉をひそめたまま、何も言わなかった。つまり、三日も外界との連絡が途絶えていることになる。輝たちは、何かおかしいと気づいているだろうか?もし警察に通報されたら、南渓館も捜査対象になるだろう。「奥さん、お腹は空いていませんか?何か食べたいものはありますか?」綾は食欲がなかったが、