夜十時。黒塗りの車が、香川通り八番地で静かに停まった。運転手が下りて後部ドアを開け、反対側からは佳楠も降り立つ。舞は車を出て森川の店へ向かおうとしたが、視界の端に見慣れた人影が映った。——さきほどの宴で顔を合わせた、あの岸本社長だ。彼の車は道向かいに停まり、助手席には整った顔立ちの女。親しげではあるが、恋人同士ほど密着しているわけではない。何やら深刻な話をしている様子だ。舞の視線が、その女の顔を捉えた。——あの女は……ガラス戸が引かれ、森川の娘・森川清香(もりかわさやか)が出迎えた。「葉山社長、父がお待ちしております」この時間ならとっくに店は閉まっているはずだ。だが今夜は六着、総額四千万円超えの注文。森川にとっても大仕事であり、残業など造作もない。一行が中へ入ると、上等な玉露の香りが八十平米の店内に満ちる。「いい香り」舞が微笑む。やがて奥から、首に柔らかな巻尺をかけた森川が現れた。「周防社長は昔からのお得意様ですな」舞はただ静かに笑い、説明はしなかった。軽い世間話の後、京介は奥の採寸室へ。舞は中川に視線を向けた。「佳楠、あなたも採寸してもらって。森川さんのビーズ刺繍ドレスはとても仕立てがいいわ。二着作っておきなさい。普段の付き合いにも役立つから」中川は、立場にそぐわないと遠慮がちに言った。舞は彼女の腕を軽く叩き、笑みを浮かべる。「そぐうもそぐわないもないわ。手元の仕事が片付いたら、あなたを昇進させるつもりよ」中川は目を輝かせた。「ありがとうございます、葉山社長」「さあ、行って」寸法は清香が二人のために測った。森川も商売人であり、客との縁を大切にするため、そのまま舞と茶を飲みながら語らうことにした。森川は日頃から経済ニュースを欠かさず見ており、真剣な口調で切り出した。「葉山社長の会社が、家事全般をこなすAIロボットの開発を進めていると聞きましてね。ふと思ったんですよ。もし将来、このロボットが感情の寄り添いまでできるようになったら……例えば、亡くなった妻をもう一度そばに感じられたら、と」そう言って、ふっとため息をついた。「二十年になりますが……本当に、会いたいんです」森川の瞳が潤み、そっと目元をぬぐった。「お見苦しいところを……笑わ
舞はふっと微笑み、手にしたシャンパンを掲げた。「岸本社長」そして横を向き、京介に紹介する。「翔和産業の岸本社長は、立都市でも屈指の実力者よ」「葉山社長、買いかぶりですな」岸本は豪快に笑い、ちらりと京介を眺める。容姿は昔と変わらぬ端正さだが、気迫は薄れた。——牙を抜かれた虎など、恐れるに足らず。舞がこの男を権力の檜舞台に連れてきたのは、無謀としか思えなかった。内心で侮りながら、わざと京介の挨拶を無視し、皮肉を口にする。「周防アシスタントは今日就任されたばかりとか。今夜は正式な晩餐会ですから、男性にも服装規定がある。せめてスカーフぐらいは必須ですよ。その格好では、少々ラフすぎますな」舞が口を開く前に——「岸本社長の仰る通りです。私の配慮不足、お恥ずかしい」京介は春風のような笑みで応じた。その殊勝さに、岸本はわずかに得意げになる。——これがあの周防京介か?いつこんなに腰を低くした?だが、次の瞬間。京介はワイングラスを軽く揺らし、唇に笑みを浮かべたまま続けた。「新たに伴侶を亡くされた岸本社長ですから、私などよりも華やかに装って当然でしょう。まるで雄孔雀が、雌の気を引くために尻の羽根を広げるように……さて今夜は、目ぼしい相手は見つかりましたか?」その毒舌ぶり、健在。舞は別に気にも留めず、さっきまでの胸の痛みがふっと笑いに変わった。——何とか、こらえることができた。佳楠は声を押し殺しきれず、つい岸本に会釈した。「岸本社長、失礼しました」内心煮えくり返るも、岸本は笑みを崩さず返す。「記憶を失っても、舌は衰えていないようだ。では入札会で腕を拝見しよう。互いに実力勝負といきましょう」舞はシャンパンを軽く掲げ、上品に応じた。岸本が去ると、笑みを消し、何やら考え込む舞。佳楠が耳打ちする。「最近、岸本社長は栄光の幹部たちと頻繁に接触していて、特に開発部の技術者数名と水面下で会っているようです。手を打ちますか?」「まだ動かない」舞の涼やかな切れ長の目に、鋭い光が宿る。やがて、舞は横顔を向けて京介を見た。「岸本社長は今、波に乗っているの。気にしないで」ややして、京介が口を開く。「葉山社長、俺のこと……心配してくれてる?」会社に入れてからというもの、舞は
しばらくして、京介が姿を現した。オフィスの扉口に立ち、舞が自分のかつての執務机で仕事をしている様子を眺める。胸の奥に、懐かしさと同時に切なさが込み上げる。——たった一人で、総資産二兆円規模のグループと三人の子どもを抱えているのだ。想像するだけで、その重さがわかる。本気を出せば——つまり、記憶を取り戻したことを明かせば、状況は一変する。だが、以前に栄光が発表した広報文を考えれば、ここで正体を明かすのは軽率だ。株主の不安を煽り、舞の立場まで揺らぎかねない。ましてや、あのAIロボットの入札案件は、京介にとって絶対に落とせない仕事だ。翔和産業の岸本雅彦(かたぎりまさひこ)——あの男とは、一度腹を割って会ってみたい。「こっちに来ないの?」舞が目を向け、淡く笑う。「ソファに座って。あなたにいくつか仕事の話をしておきたいの」京介は立ち上がり、陽光差し込む大きな窓辺へ。六月の強い日差しが顔に陰影を与え、その姿は目に心地よいほど映える。——悪くない眺めだ、と舞は思う。「これからの——」「俺たち、いつ復縁する?」……開口一番、しっかりと栄華を守る男の一手。舞はあきれたように眉を寄せる。「仕事の話をするって言ってるの」彼が黙るのを待って、舞は淡々と続けた。「私はこれまで専属のアシスタントを置いたことがなかったけど、あなたのために仕事を組んでおいたわ。会社には基本的に打刻だけして、あとは自由。私が夜会や商談に出る時は、佳楠と一緒に同行して」京介は頷いて言った。「葉山社長のために、酒は全部引き受けるよ」舞は思わず吹き出した。「そんなに飲む場面はないわ。挨拶がてら、少しずつ人を紹介していくつもり。いつまでも私のアシスタントのままじゃ困るでしょ」返事をせず、ただ彼女を見つめ続ける京介。そこへ財務部の部長が業務報告に入ってきた。舞は佳楠に指示を飛ばした。「後方部に頼んで、私のオフィスにデスクを一つ用意してもらって、周防アシスタントの席にして」「葉山社長って、ほんとに甘やかしますね」軽口を返す佳楠に、舞は柔らかく笑みを見せ、そのまま財務部長と業務の話に戻った。京介はソファに腰かけたまま、雑誌をめくっている。時おり、舞のことをじっと見つめ、しばらく視線を外そうとし
栄光グループの中堅・上層部は、周防社長が大病を患い記憶を失ったことを皆知っていた。古参株主の中には、内心でこう毒づく者もいる。——京介は、もう役に立たん。だが当の本人は、春風のような笑みを浮かべた。「ずいぶん驚いた顔をしているな……ああ、葉山社長から聞いてないのか?俺はすでに、彼女の専属アシスタントに任命された。どこの部署にも属さず、直接葉山社長に報告する」そして中川へ視線を向ける。「佳楠、椅子を持ってきてくれ」佳楠は一瞬きょとんとしたが、すぐに目頭が熱くなった。——周防社長が自分を名前で呼んだ。それは、記憶が戻った証だ。心腹の部下として、彼の本当の状態を口に出すことはしない。椅子を運び、舞の隣へ置いた。高層や株主たちは一斉にざわめく。「葉山社長、そこは公私をお分けにならないと……」「今は栄光の正念場です。不穏な噂が立てば、株価にも響きます」「周防社長が記憶喪失なのは、誰でも知っています」「記憶を失った人間に、どうやって経営が務まるんですか」……京介は何も言わず、ただ舞を見つめた。彼女は一瞥をくれ、手にしていた書類を置くと、冷ややかに言い放った。「私には、アシスタント一人を決める権限もないの?アシスタント一人で株価が揺らぐなら、あなたたち全員が無能ということよ」室内が水を打ったように静まり返る。そんな中、石川が茶化すように口を開いた。「周防社長は本当に人材ですね。どこへ行っても大活躍じゃないですか。石川としても嬉しい限りで……いや、正しくは『周防アシスタント』でしたね」それをきっかけに、一同が手を叩き始める。「周防アシスタント、ようこそ!」京介は相変わらず春風の笑みを浮かべた。「これから、どうぞよろしく」佳楠は、心の中で名前リストに一つ印をつけた。会議後、人々が散っていく。黙って成り行きを見ていた輝が、ゆっくりと京介に近づき、世間話のように言う。「今朝な、母さんがクルミ汁を作って、お前の頭の回転が良くなるようにって持たせようとしたんだ。でも……いらないみたいだな。もう十分働いてるじゃないか」——ヒモ生活ってのは癖になるもんなんだな。京介は相変わらず上品ぶった口調で返す。「兄貴が頼りになるなら、俺が人に陰口叩かれながらヒモなんてやって、わ
シャワーを終えた京介は、真っ白な浴衣に袖を通した。右腕に視線を落とす。手術で損なわれたその腕は、今ではかなり動くようになり、署名もできるまでに回復していた。寝室へ戻る前に、まず願乃の様子を見に行く。淡いピンクのベビーベッドで、小さな娘は安らかに眠っていた。——自分の娘だ。そっと身をかがめて頬に口づけると、願乃はうっすらと笑みを浮かべた。父のぬくもりを感じ取ったのだろう。京介は思わず、軽く背を撫で、子守唄を二節ほど口ずさんだ。願乃はさらに深く眠りに落ちていった。——この子、パパが大好きね。舞は書類から目を離さず、ふっと言った。「この前、母が言ってたわ。家にいると退屈じゃないかって。でも……あなた、子どもと一緒に過ごすの、結構気に入ってるみたいね」朝はコーヒーを飲み、雑誌をめくり、願乃の相手をする。夕方になれば二人の子どもを迎えに行く。それが今の京介の充実した一日だった。彼は願乃をそっとベッドに戻し、舞の手元から書類を抜き取った。——英達商事による入札案件だった。英達は五千億円もの遊休資金を抱え、AIロボット開発のパートナーを探している。競合十二社の中で、有力なのは栄光グループと翔和産業。翔和産業の岸本社長とは過去に面識があるが、今では完全にライバル同士だ。舞が低く告げる。「最近、奥さまを亡くされたそうよ。前回の入札の時も、ずっと苛立っていて……」「……岸本夫人が?」「ええ。急に病気で亡くなったんだって。岸本さん、またお嫁さんをもらうつもりらしいよ。この人、風水を信じてて、奥さんが亡くなってから半年以内に新しい奥さんを見つけたいんだってさ。で、社交界の令嬢は一通り見たけど、ピンとくる人はいなかったみたい。でもね、岸本さんって条件は悪くないんだよね」京介の目が鋭くなった。「……お前、惹かれたのか?」「そうね。明日にでも結婚届を出そうかしら」冗談めかした言葉に、京介は笑みを零す。舞は、彼がどこかおかしいと感じた。以前とは何かが違う。けれど、はっきりとは言えない。京介は書類をぱらぱらとめくり、何度も言葉を選んだあと、ふと顔を上げた。「俺をお前のアシスタントに雇わないか?絶対に岸本健司(きしもとけんじ)開発部員あの犬野郎みたいに主人を裏切ったりしない。給料は…
意識がはっきりした時、京介はすでに病院のベッドに横たわっていた。玉置が彼の頭部の検査をしており、周防家の面々が揃って見守っている。寛の妻が両手で彼の頬を包み込み、心配そうに言った。「ほらね、京介は手術を終えたばかりで頭がまだ回らないのに……大木さんも不注意すぎるわ。揺れは大したことなかったでしょうね?」輝は皮肉を言いかけて飲み込み、礼夫妻もまた黙って息子を案じていた。その時、廊下から急ぐ足音が響き、勢いよくドアが開く。舞が駆け込んできたのだ。京介が顔を上げると、真っ直ぐに彼女の潤んだ瞳とぶつかった。ほんの一、二秒、京介の瞳に複雑な色がよぎるが、周囲が騒がしく、舞は気づかない。彼女は玉置に視線を向けて問い詰める。「大丈夫なんでしょうね?」玉置は淡く笑った。「軽い外傷だけです。他は問題ありません。今夜は念のため注意してください」舞は頷き、京介のもとへ歩み寄ると、仰ぎ見ながら頬に触れた。「大木さんから電話があった時、心臓が飛び出そうだったわ」京介は黙ってその顔を見つめ、深い色を宿す。人目があるため、舞は感情を押し殺した。彼にもしものことがあれば——そう思うと、恐ろしくてたまらなかった。輝が横から「……やれやれ、気持ち悪い」と毒づき、煙草を吸うために部屋を出る。煙を吐きながら、彼の目尻はわずかに湿っていた。子どもの頃から反りが合わず、互いに見下し合ってきたが、まさか本気で弟分の無事を願う日が来るとは思わなかった。彼がこうして無事で、屋敷で大切にされている姿を見ると——悪くない、そう思ってしまう。——もしかして、自分こそ病気かもしれない。……夜、二人は白金御邸に戻った。黒塗りの車が静かに停まる。京介は降りて、大きく枝を広げた木を仰ぎ見た。夜空に溶ける深い藍色、風に揺れる葉がさやさやと音を立てている。「何を見ているの?」と舞が柔らかく尋ねた。京介は首を傾け、しばし舞を静かに見つめた。そして、ぽつりと呟いた。「気づけば、もう六月なんだな。早いものだ」舞が意味を掴む前に、二人の子どもが玄関から飛び出してくる。「パパ!」京介は膝を折り、言葉もなくぎゅっと抱きしめた。屋内に入ると、柔らかな絨毯の上で願乃が遊んでいる。六月の天気に、淡い黄色の花柄