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第324話

Auteur: 風羽
夜十時。

黒塗りの車が、香川通り八番地で静かに停まった。

運転手が下りて後部ドアを開け、反対側からは佳楠も降り立つ。

舞は車を出て森川の店へ向かおうとしたが、視界の端に見慣れた人影が映った。

——さきほどの宴で顔を合わせた、あの岸本社長だ。

彼の車は道向かいに停まり、助手席には整った顔立ちの女。

親しげではあるが、恋人同士ほど密着しているわけではない。何やら深刻な話をしている様子だ。

舞の視線が、その女の顔を捉えた。

——あの女は……

ガラス戸が引かれ、森川の娘・森川清香(もりかわさやか)が出迎えた。

「葉山社長、父がお待ちしております」

この時間ならとっくに店は閉まっているはずだ。

だが今夜は六着、総額四千万円超えの注文。森川にとっても大仕事であり、残業など造作もない。

一行が中へ入ると、上等な玉露の香りが八十平米の店内に満ちる。

「いい香り」

舞が微笑む。

やがて奥から、首に柔らかな巻尺をかけた森川が現れた。

「周防社長は昔からのお得意様ですな」

舞はただ静かに笑い、説明はしなかった。

軽い世間話の後、京介は奥の採寸室へ。

舞は中川に視線を向けた。

「佳楠、あなたも採寸してもらって。森川さんのビーズ刺繍ドレスはとても仕立てがいいわ。二着作っておきなさい。普段の付き合いにも役立つから」

中川は、立場にそぐわないと遠慮がちに言った。

舞は彼女の腕を軽く叩き、笑みを浮かべる。

「そぐうもそぐわないもないわ。手元の仕事が片付いたら、あなたを昇進させるつもりよ」

中川は目を輝かせた。

「ありがとうございます、葉山社長」

「さあ、行って」

寸法は清香が二人のために測った。

森川も商売人であり、客との縁を大切にするため、そのまま舞と茶を飲みながら語らうことにした。

森川は日頃から経済ニュースを欠かさず見ており、真剣な口調で切り出した。

「葉山社長の会社が、家事全般をこなすAIロボットの開発を進めていると聞きましてね。ふと思ったんですよ。もし将来、このロボットが感情の寄り添いまでできるようになったら……例えば、亡くなった妻をもう一度そばに感じられたら、と」

そう言って、ふっとため息をついた。

「二十年になりますが……本当に、会いたいんです」

森川の瞳が潤み、そっと目元をぬぐった。

「お見苦しいところを……笑わ
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